都市は今、幼子を追う
床に転がる二人――
イリスは荒い息で拳を握り、梢は視線を逸らすようにうつ伏せに沈んでいた。
その空間を静かに歩む一人の女。
黒メイド服に揺れるスカート、ぐるぐる眼鏡。
閑条 桜
彼女の気配が空間に落ちた瞬間――
場が、凍った。
そして、柔らかくも絶対的な声が場を裂く。
「梢、あなた――小さい子供を攫ったりはしてないでしょうね?」
その一言で、空気の重さが倍になった。
圧倒的な上位者の気配が、構成員たちの肌にまとわりつく。
梢はその声に、肩がビクリと跳ねた。
普段あれほど、豪快な性格
その女が――師匠の前では、縮こまるように答える。
「師匠……そんなこと、悪鬼組に……いませんよ……」
その声に嘘はなかった。
だが、恐れが滲んでいた。
桜は、それ以上何も言わない。
ただ、その気配を淡く練るだけで――瓦礫の音すら沈黙した。
そして、梢の胸を突くように、記憶が開く。
十年前。
薄汚れた室内。壁は染み、天井は剥がれかけていた。
仲間を守るために、梢はある反社会組織と対峙していた。
勝ち気で、誰よりも体格に恵まれていた梢は、
いつの間にかその路地裏チームの総長となっていた。
拳で道を切り、仲間を守る。それがあの日々だった。
だが――その日は違った。
「よう、梢。いくらイキってても膳兄には勝てねえだろ」
卑しく笑いながら、その男は蹴りを放つ。
梢は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
痛みが走る。血の味がした。
それでも――彼女の目は折れていなかった。
それが、膳兄の癇に障った。
「へぇー……気に入らねえな、その目」
男の声は笑っていたが、瞳の奥に獣のような苛立ちがあった。
そして、音を立てるように梢の足を踏み砕いた。
「ッ……!」
痛みに顔が歪み、呼吸が詰まる。
けれど、梢の目だけは――決して折れなかった。
空気は濁り、誰もが勝ち誇った顔をしていた。
膳兄が高笑いする。
「所詮、無能能力者が俺様に逆らうとはな。
俺はヴァッサル、お前みてえな無能力者が、俺に逆らうな」
その背後で、膳兄の取り巻きが頭を下げる。
「流石兄さん……ありがてぇ」
「おう、後で金と女用意しとけよ。手間かかった」
「わかってます、兄さん!」
膳の取り巻きが応じた瞬間――部屋の壁に突如として裂け目が走る。
爆音とともに瓦礫が崩れ落ち、そこに現れる二つの小さな影。
「おほほほほほ。あら、酷いことするわね、あなた達」
紅薔薇ドレスに身を包んだ少女は、高笑いを浮かべながら堂々とその場に立つ。
もう一人、質素ながらも洗練された服に、瞳の奥で光る警戒と自信――
それは桜だった。
「んだ、てめぇら……」
男が吼えた瞬間――
桜が一歩踏み出す。
その動作は疾風にも似て。
取り巻きの一人が吹き飛び、壁にめり込み、そのまま昏倒する。
「舞ちゃん、もう飽きたでしょ?この遊び」
「あら桜さん、それは修行ですわ。お父様のお言葉ですもの」
場違いなドレスと華やかさに、場は急転する。
だがその中にも、確かな戦闘力と遊びが潜んでいた。
膳が怒りに任せて殴りかかる――!
だが、桜の視線はわずかに膳の肩の動きを捉え、刹那に回避。
その技は、まるで舞。
流れるような体術、音すら置き去りにする返し打ち――
膳の身体が床を転がり、壁へと吹き飛ぶ!
その瞬間、床に這いつくばっていた梢の瞳が、それを見逃さない。
小さな、しかし洗練されたその動きが、まるで剣舞のように脳裏に焼き付いた。
膳が沈み、取り巻き達が一斉に逃げ出す。
残されたのは失神した男たちと――梢。
「おほほほほほほ」
舞が高らかに笑う中で、桜はその笑みに眉をひそめる。
「舞ちゃん、そのアリーヌ叔母様の真似はやめたら」
しかし舞は一向に気にせず、倒れている梢へと歩み寄る。
「あら、この方……魔力がありますわね」
それが、梢と桜が初めて出会った瞬間だった
蛇アジトの大広間。
桜が一歩踏み込んだだけで、空気が変わる。
風も音も消えた。
その沈黙の中、何か巨大な存在が“ここにいる”と全員が悟る。
構成員のひとりが、一歩後ずさった。
その瞬間、桜はわずかに首を傾けただけだったが――
背筋に、氷の刃を突きつけられたような感覚が走る。
手を振るうでもなく、声を荒らげるでもなく、ただ“動いた”。
それだけで、構成員たちが次々と地に伏した。
「梢……あなた、討滅庁をやめたと聞いてたけど、
まさか無頼に落ちるとはね」
静かな声。その場の誰よりも厳しく、優しく刺さる声。
梢は頭を掻きながら、真っ直ぐ師を見返す。
「すみません。これが、アタシの性分なんで」
桜はその目を一瞥し、口元をわずかに緩めた。
「なるほど。目は腐ってないわね」
その隣で、小柄な鈴がぼそりと呟く。
「あそこ」
鈴が指差した先――如何にも怪しい鉄扉。
イリスは一歩前に出ると、ちらりと梢を見た。
「……あんた、先輩に頭下げるのは後でいいから。今は、こっち優先ね」
梢は苦笑しながら肩をすくめる。
「了解。蹴っ飛ばしてどうぞ」
イリスは躊躇なく、力任せに扉を蹴り飛ばす。
鈍い音とともに、鉄扉が軋みながら開いた。
扉の向こうには……暗く、湿った汚水の空間。
「くっ……不味い。海条の下水道は再開発で入り組みすぎてる。まるで迷宮よ……」
桜の表情に、焦りが走る。
「それでも行きます!」
イリスの拳がぶるりと震え、心が燃える。
「待ちなさい。さすがにこの場所では――
鈴の探索能力じゃ、時間がかかりすぎて追えないわ」
桜はすぐに端末を取り出す。
指先が滑るように命令を打ち込みながら、静かに指示する。
「討滅庁の下水構造専門班に連絡。立体地図を送信させて。
あと――この下水道は海につながる可能性が高い。
港湾管理にも連絡、検問網を準備させましょう」
海条都市全域が、今、ひとつの幼女?のために動き始める。




