外伝・曖昧地帯の残響
天華・繁華街、ネオンと性の影が交錯するその路地裏で、
重い空気が静かに落ちていた――
血だまりに倒れ込む中年の男。
その目はうつろで、震える手で胸ポケットをまさぐる。
あたりにはゴミと静寂、ただ闇が遠くでうねっていた。
「犬飼隊長……!」
若い青年――狭間彗が慌てて駆け寄る。
顔には焦りがにじみ、手は震えていた。
「傷が……深すぎる……っ!
今、端末から緊急呼びます……必ず……!」
端末を開く手がかすかに光を帯びるその瞬間、犬飼が弱々しい声で。
「それより……彗、煙草くれないか……
胸ポケットの“いつものやつ”、無くてな……」
彗は一瞬迷うが、ポケットから自分の煙草を取り出し、
震える指で火をつけ、それを犬飼に差し出した。
火が灯る。煙が上がる。
ふっと犬飼の口元が緩む。
「……はは……落ち着く……な……」
その煙が彗の頬にかかる――
そして、犬飼の手から煙草が落ち、身体がガクリと傾いだ。
「犬飼隊長ッ、しっかりッ!!」
彗の叫びが路地に響くも――返事はない。
そして――意識が戻った時には、そこは病室だった。
静原医療棟、静かな白い部屋。
彗は全身ギプス、包帯だらけの重症。
「……くそ……嫌なもん見ちまった……。
生き……ながらえたか……」
ギプスに覆われた腕も、痛む肋も、どうしようもなかった。
唯一欲しいのは、煙草。それだけだった。
(くそ……一服したい……)
「彗先輩、目が覚めたんですね!よかった……!」
隣から明るい声――
首も回せず顔も見えないが、その声を聞いた瞬間、
彗は安堵する。
夕刻の静原――高級ハイヤーが滑るように止まる。
秩泉大使館静原、秩泉風の荘厳な建築と霧蒼の装飾が立ち昇る玄関前。
白手袋の執事が深く頭を下げながらドアを開け、律儀に一言。
「どうぞ、あちらへ」
だるそうに出てきたのは、背の高い男――狭間彗。
ワイシャツの首元を緩めつつ、気怠げに歩き出すその横で、
背筋を伸ばした緊張の塊が並ぶ。
「もっと真面目に背筋伸ばしてください」
犬飼澪、意気込みが前のめりする。
すると、扉が開いたタイミングで、出川春子が走ってくる。
「あっ、彗ちゃんっ!」
勢いよく抱きつく姿はもう大人なのに、変わらぬ無邪気さ。
彗は頭をぽんと撫でながら、
「おっ、でかくなったな。もう子ども扱いはダメか?」
「当然ですっ、もう大人ですから!」
そこへ澪が慌てて横入り。
「な、その女だれスか!?その……距離……!」
「彗ちゃんのお嫁さんよ」
春子の爆弾発言に、澪の目がカッと見開く。
(……こいつ……ライバルか)
心の中で火花が散り、春子が澪をじっと観察。
「はぁー 出川局長の娘さんだ」
彗は騒がしい空気を流すように、春子をゆるっと引き離して歩き出す。
春子は何も言わず、ただ彗の背を見つめていた。
廊下に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
外の喧騒とは打って変わって、静謐で重厚な空間。
壁面には秩泉様式の霧彩文様が浮かび、織装飾が光の角度で柔らかく揺れる。
まるで空間そのものが“秩泉の呼吸”で満ちているようだった。
彗はちらりと天井を見上げ、鼻で笑う。
「……相変わらず、格式だけは一級品だな」
ふたりは会議室で、礼節を持って挨拶。
「第三特捜部隊長・狭間彗、副部隊長・犬飼澪。ただいま着任しました」
迎えたのは、厳格な目を持つ雪永秩泉代表。
資料を手渡しながら、重い口を開く。
「ご苦労様。早速だが、これが天御門が関与したとされる資料だ」
地図には、国境沿いの曖昧地帯が赤く囲まれていた。
「漣の玖珂斎卿から、捜査員を“是非に”と……。
実質の監視か、それとも……危険な任務になるかもしれん。十分、注意しろ」
「はつ!」
慣例の返事が響く。
澪は退出した途端、表情を切り替えて軽く言った。
「お腹すいた~。これ討滅庁が出してくれるんスよね?
高級レストラン、行きたいス~!」
彗はすぐさま脱力した顔に戻り、
「おい、禁煙じゃない場所だぞ……」
「今どき、喫煙できる場所なんて無いスよ」
その話に反応した春子が、前からぴょこんと現れる。
「彗ちゃんっ!喫煙できて美味しい店知ってるよ。ふたりで食べに行こうよ!」
左腕に寄りかかる春子。
「私も行くス」
右から澪が同じようにのしかかる。
彗は挟まれながら、目線を遠くへ投げる。
国境の曖昧地帯――
霧と風の間に潜む施設は、
まるで世界地図から意図的に切り取られたような異質な空気を漂わせていた。
その扉を前に、派遣された捜査員のひとりが指差した。
「あそこが天御門の施設だ」
そして現れた、玖珂斎卿からの“派遣者”――吉田、霜、木村。
無表情。無言。目も合わせず、彗への態度はほぼ“無視”。
だが、彗は気にも留めず、煙草の箱を指で弾きながら笑う。
「確か、もう制圧は終わってるんだろ?見たことにして帰るか?」
「ダメス!私たちは選ばれたから!早く終わらせて帰るス!」
澪はやる気満々。
その声だけがこの奇妙な空気に響いた。
施設の内部は――まさに《暴力の痕》
ガラスの破片が床に散乱
壁は赤黒く染まり、過去の惨劇が律痕として残る
資料は破かれ、燃えかけのものも混じる
玖珂斎卿の私兵による強襲の跡が、至る所に刻まれていた
彗はふぅっと煙草に火をつけ、乱れた空気の中で静かに吸い込む。
「もう玖珂卿に直接聞いた方が早くないか?」
煽るように呟く彗の一言に、吉田たちの目つきが刺さる。
「お前ごときが玖珂卿と面会なぞ……」
緊張が走る。空気が一瞬、硬質化する。
「冗談だって。なぁ、仲良くしようぜ?」
煙草の煙と笑みを巻き添えに、彗は軽くかわす。
そして、彼らは施設の最深部にたどり着いた。
そこにあったのは――見覚えのある装置。
だが、すでに破壊されていた。
「うわ、あの施設とそっくり……」
澪がぽつりと漏らす。
それは“ネフガル生成装置”――
水鏡事件の核心に触れた者ならば、記憶に刻まれる名だ。
「ここも“神印結晶・ヴァル=エシェル”の製造施設か……」
沈黙の中、彗は吸い終えた煙草を無造作に床へ。
「ポイ捨てダメっス!」
澪が慌てて携帯灰皿で受け止める。
「全く……吸わない私が、なんで……」
澪がぼやいたその瞬間、施設の奥に沈んでいた“静けさ”が、
ふと軋んだように感じられた。
壁面の魔力管が微かに脈動し、破壊された装置の残骸が、
まるで“息を吹き返す”かのように震える。
空気が変わった。
温度ではない。圧でもない。
――構造そのものが、何かに“侵食されている”ような感覚。
そのときだった。施設全体の空気が震え、
空間が“ねじれ”始める。
異質な魔力――それは、周囲の構造すら塗り替えんとする障壁。
彗と澪は反射的に身を引こうとするが、間に合わなかった。
空間が反転し始める
赤黒い壁が歪み、音のない叫びが響く
時間軸が乱れるような錯覚を伴い、視界が灰白に塗り潰される
そして、6人の身体が――光のない空間に吸い込まれる。




