終焉の核
輪廻西区――災厄は、まるで都そのものが喰われていくようだった。
地響きとともに広がるレイヴィオグの波は、建物も人も飲み込む。
悲鳴と霧が混ざり合い、“地獄絵図”とはこのことだった。
その最中、あの災厄をかき分けて進む部隊がひとつ。
灰色の戦闘服に身を包んだ特殊部隊――灰色部隊。
彼らは事切に忠誠を誓い、災厄の核を探る者たち。
最前線で、探査専門のレギス能力者が手を翳すと、端末に光が走る。
「事切様、あちらに核反応……確認しました」
すると、波の向こうに歩み出た事切は――
まるで波にも霧にも意識すら割かず、軽い調子で手を振る。
「ご苦労~。じゃ、行こっか♪」
灰色事切――年齢は60代後半から70代ほど。
艶のある黒髪をふんわりと巻き、
淡いピンクのリップとチークで彩られた顔立ちは、
どこか少女の面影すら残している。
服装は、漣の伝統をベースにしながらも、
軽やかな色使いと細やかな装飾が施されており、
まるで“若者向けに再構築された礼装”のよう。
ヒール付きの靴を履き、歩くたびに香水がふわりと香る。
その姿は、通りすがりの人が
「ちょっと派手なおばあちゃん」と微笑むような、
親しみと華やかさを併せ持っていた。
笑みを絶やさず、誰にでも気さくに話しかけそうな雰囲気――
けれど、瞳の奥には、鋭く冷たい光が宿っている。
言葉遣いは丁寧語と砕けた口調が混ざり合い、
軽快な調子で語られる一言一言が、なぜか“命令”として空気に染み込んでいく。
その場にいる者は、気づかぬうちに彼女のペースに巻き込まれてしまうのだ。
可愛らしい“おばあちゃん”のようでいて、どこか違和感が離れない。
まるで、“この世の構造そのものを知っている者”が、
遊び心で人間を演じているかのような――そんな存在。
周囲では、レイヴィオグが街路に染み出し、
サイダーゼリーのような“模写体”があちこちで蠢いている。
だが事切は、それを見ても眉ひとつ動かさず――
「みーつけた☆」
レイヴィオグの渦をかき分け、灰色事切は悠然と“釣り竿型装置”を構え――
簀巻きにされた久遠優を、文字通り前方へ遠投する。
「オワタァァァ!」
叫びを飲み込みながら、優は空を舞った。巻かれた布の隙間から漏れる絶望顔。
その真下にあるのは、レイヴィオグの核反応点――波打つ災厄の心臓部。
霧音が青ざめながら叫ぶ。
「優様ッ!」
助けようと踏み出した瞬間――
「邪魔よ♡」
事切の掌が、霧音の肩にふわりと触れた。
次の瞬間、霧音の体は弾かれるように後方へ吹き飛び、背中から壁にぶつかる。
「なんてこと……私は……っ」
壁にもたれながら、頭を押さえてふらつく霧音。
セレスティア級ヴァッサルによる“軽い一撃”――
それだけで、彼女の動きは完全に止められた。
事切の魔力が満ち始める。
「さあ……終わらせましょうか」
そして――久遠優の記憶は、一瞬、過去に引き戻される。
あの日、42歳の誕生日。
「はぁ、今年は厄年か……まあ、俺には関係ないけどな」
そう言って笑った自分を、今でも覚えている。
優は、いつだって“その場限り”で生きてきた。
生活できればそれでよし。未来のことは、明日の自分に任せる主義。
楽天家で、ちょっと無責任。でも、妙に憎めない。
体は中年らしく、腹まわりに余裕がある。
痩せればそこそこイケメン風――と、本人は信じている。
身長は166センチ。だが、本人は「170ある」と言い張って譲らない。
馴染みの居酒屋『元さん』ののれんをくぐった優は、
どかりとカウンター席に座る。
「ばんは~元さん!」
その声は、馴染みの店主を元気に呼び出すためのもの。
どこか気の抜けた笑顔――それが彼の“通常”だ。
大将がにこりと迎える。
「優さん、お久しぶりです」
「今日は金が入ったから、酔うまで飲むぞー!
元さんのおすすめ、全部いったれ~!」
刺身、だし巻き卵、干物の盛り合わせ――
摘みが並び、優は上機嫌に杯を重ねる。
「うぃ~~……これが俺の月一の楽しみなんだ~」
この言葉だけは、毎回変わらなかった。
それが、久遠優という男の“変わらなさ”でもあり、“支え”でもあった
帰り際、酔いを漂わせながら扉の前で手をひらひら。
「そろそろ帰るわ~。また金が入ったら来るぞ~」
「お気をつけて。お待ちしてますよ」
外に出た優は、夜空を見上げながらつぶやく。
「……なんだかんだ……幸せ、なのか?」
そんな風に生きていた。
ただ“その日を越えていく”だけ。
そして今――ぐるぐるの簀巻きにされ、災厄の核へ向けて遠投される優。
「オワタァァァ!」と叫びながらレイヴィオグの波に触れようとしたその刹那――
優の身体が、突如“白く発光”し始める。
「うぎおkjsljj!!」
声にならない悲鳴は、レイヴィオグ自身のものだった。
災厄の核が震え、模写体たちが揺れ、都市構造が一瞬たじろぐ。
優の意識は、核へ触れた刹那――“世界の外側”へと跳んでいた。
荒れ果てた星。
全てが崩壊し、秩序すら壊れているような空間。
そこに、近い距離で、会話する二人の男女。
男が手をかざし、何かを呟いた瞬間――
星そのものが作り変えられる。
色も世界も、時間の感覚すら歪み、新しい構造が浮かび上がる。
そしてその女が、突然優の存在を捉え、
不機嫌そうな顔で言い放った。
「――貴方、嫌い。嫌い、嫌い」
その目に、理由も説明もなかった。
ただ、“拒絶された”と理解するだけで――優の意識は現実へと引き戻された。
レイヴィオグに飲み込まれたはずの久遠優が、ゆっくり目を開く。
「あれ……俺、生きてんの?っていうか体、発光してるんですけど!?」
青い液体の中で、優の身体が眩しく、白い光を放っていた。
それはレイヴィオグの核すら圧倒する干渉。
優は周囲の“うねるゼリー”を見て、ぽつり。
「どいつもこいつも……うぜぇ」
その瞬間――感情が魔力に乗った。
ふつふつと沸き上がる感情が、増幅する。
白光はさらに強くなり――遂には、“安寧”の奔流が空間を包んだ。
その力により、レイヴィオグの本体が蒸発し始める。
「な、な……馬鹿な。なんて力……」
事切が愕然と、握る手を止める。
輪廻全体に、優の光が拡散する。
災厄の波は沈黙を始め、街の空気が安らぎへと還っていった。
優の身体がふわりと地面に倒れ込む。
静寂の空気の中、唯一動いていたのは――
宙に浮かぶレイヴィオグの魔石。
青白く脈打つそれは、街を焼いた災厄の“核そのもの”。
空間がその鼓動に引き寄せられるように、事切が歩み寄る。
「ふふふ、なんか色々あったけど……終わりよ♡」
手を伸ばす――
だが、その瞬間。
まだ、辛うじて“生きていた”レイヴィオグが魔石の力を奪還すべく、事切を襲う。
液がぶつかり、空間が揺れる。
「っぐ――馬鹿な……! まさか、胡太郎……!?」
事切の瞳に走る動揺。
彼女の手に集めていたセレスティア級の魔力が、霧のように散っていく。
契約者――胡太郎が限界を越え、繋ぎが失われていた。
ヴァッサルは、契約者を失えば魔力を喪失する。
事切の身体が波に呑まれ――
事切の体が、溶けるようにレイヴィオグへ吸収されていく。
「っ……ひど……いわね……そんなの……」
浮いていた魔石が、ゆっくりとレイヴィオグの“中心”へ戻る。
全てを蒸発させられた波は、今度こそ形を持ち始める。
復活しようと、液体がうねる。
そしてその時――響き渡る声
《無垢なる書:ゼロ・コーデックス》




