霧都の楔
マリアとの会談を終えた
玖珂邸宅の静寂な執務室――
時の流れすら止まっているかのような空間の中、玖珂斎は記憶の奥底で、
かつて自分のすべてを揺らがせた“一瞬”へ、思考を沈めていた。
「機械になれ」
「自分を隠せなければ、この国では生き残れない」
それは幼少期に刻まれた親の格言。
玖珂斎はこの言葉を、教訓と同じく忠実に守ってきた。
眉ひとつ動かさず、声を揺らさず――完璧な“機械の人間”として生きてきた。
だが、あの女を見た時。
世界が“揺れた”。
黒き外套、蒼紫にゆらめく神文の外衣。
銀鎖はジャラジャラと音を立て、鋼の爪が空気を裂く。
しかし、もっとも異様だったのは――その顔。
見えないわけではない。だが、記憶に残らない。
目をそらした瞬間、存在そのものが霞んでしまうような錯覚。
理性が抗うが、感覚がそれを凌駕する。
「何者だ、貴様……」
思わずそう言った時の斎の声は、“機械”のそれだった。
冷静に、《レギス能力ステータス》を起動する。
対象のステータスを見通し、詳細を明らかにする――はずだった。
表示されたのは――
アル・カーラ
名前以外全てが黒塗り。
斎のレギス能力が、初めて“情報拒絶”に遭遇した。
「ば、ばかな……私の能力でも……」
動揺――それは、初めて感じる“自分の外”からの力。
そして、次の瞬間――カーラが銀鎖を揺らしながら囁く。
「――王を、補佐しなさい」
その声は蠱惑的であり、脳の奥に直接触れてくるような響き。
瞬間、玖珂斎の脳髄の奥に、人物のような映像が広がる。
そこには、微かに見える名――水鏡綾臣。
「な……」
漠然とした高揚、意味の分からない震え。
それは、忠実な機械として生きてきた玖珂斎の中に、
“揺らぎ”という名の外反応を芽生えさせた。
「そうだあれを破棄しなければ」
玖珂斎が密かに破棄しようとしていた“天御門派外交記録”の端末が、
突然の声に遮られた。
「なにこれ、面白」
いつからそこにいたのかも分からない。
女は、ただ静かに立っていた。
見ようとすれば、“若作りした老婆”にしか見えない――
艶やかな黒髪、ピンクのグロス、長いまつげ。
だが、その装いはどこか無理があり、目を逸らしたくなる違和感を伴っていた。
香水の香りがふわりと漂い、ヒールの音が床を鳴らす。
漣の伝統衣装に若者向けのアレンジを加えたその姿は、
年齢を覆い隠すというより、老いを塗り潰そうとする執念のようだった。
玖珂斎は確信を持って呟いた。
「――事切様……なぜここに……」
彼が生まれて初めて見せた“動揺”。
その瞳の奥で、鉄の秩序が揺れた。
事切の笑顔は若々しい。
けれど、瞳の奥には還暦を越えた者だけが持つ“見抜く目”が宿っていた。
その言葉は鋭く、容赦がない。
「刺さっちゃったね♡」
その一言は、まるで冗談のように軽い。
けれど斎の頭に響いたのは、刃のような“宣告”だった。
「なっ……!」
頭を押さえる斎。血が流れるではない、脳の奥に“刺さる”声の鋭さ。
「これ……説明してくれるの……?」
「あ~……」
斎はまるで機械のように、口を滑らせる。感情は置き去りに、言葉だけが溢れた。
「胡ちゃん……どうすんの……? 好きにしていいの……?」
そして事切は容赦なく告げる。
「売国奴は、死刑だよ」
「ま、待ってください……っ!」
玖珂斎がこれまで見せたことのない“焦燥と恐怖”の表情を浮かべる。
「はぁ……私しぃ~スライム退治で忙しいからさぁ~」
事切が端末を片手に背中を向けると、部屋の空気が引き裂かれるように揺れる。
玖珂邸の奥が、静かに――血に染まりはじめる
胡太郎のヴァッサル《灰色事切》 セレスティア級(神域級ヴァッサル)
「胡ちゃん、あの子たち使って、楽したい☆」
事切の指が画面をなぞる。
そこには――まだ識別不能な“胡太郎候補者たちの名簿”が、静かに点滅していた。
そして彼女は、にこりと笑って消えた。
音もなく。
《輪廻》駅の到着音が響いた瞬間、優は目を輝かせて駅舎から外へ駆け出す。
「ここ、天華より都会じゃん!!」
広がっていたのは――霧が空へ昇る都市《輪廻》
巨大な建築群が霧の中から次々と浮かび上がり、
反律ガラスに包まれた高塔、光に包まれた歩行路、
そして空中を舞う端末信号の粒。
優は腕を広げながら街を見回す。
「ひゃ~! なんかSF系!!」
イリスがすかさず眉をしかめて一言。
「……一緒ぐらいよ。天華も負けてませんからね」
やれやれと肩を落とす優は、両腕をぶらぶらさせながら反論。
「地元愛もいいけどさ~、冷静に見ようぜ~」
するとマリアがふと笑う。
「ふふ……その通りね。冷静に見て、感じることも大事」
そのやり取りにイリスが小さくため息。
「マリア様……優にだけは甘いんですから……天華だって負けてません……!」
そして、静原と同じくメディアが待ち受ける。
波をかき分けながら――目的地-霧幻宮殿
外壁淡い銀灰色の石で構築されているが、常に濃霧が揺れており、
宮殿全体が蜃気楼のようにゆらめいて見える。
まるで“夢の中の建物”。目を凝らしても形は明瞭にならず、
でも確かにそこにある――霧の影に佇む幻影の宮殿。
優は口をぽかんと開けて見上げる。
「なんかビールみたい」




