影の名
《蒼穹殿》宮殿内の廊下――
そこにだけ、妙に場違いな可愛らしい声が響いた。
「お姉ちゃん、抱っこしゅて〜♡」
つかつかと小走りに近づいてきたのは、白金の髪を揺らす幼い少女――
久遠 優である。
優のこの日の装い
髪型白金のサラサラヘアを左サイドでお団子ツイン。小さな宝珠飾りが揺れている
ミルクティーカラーのフリルワンピに、胸元はレースの重ね仕立て
肩に羽のようなパールホワイトの薄ケープリボン付きのハーフブーツ、ヒール高はゼロだが心意気は盛っている。
その姿に足を止めたのは、お勤めしたばかりの新人メイド。
年若く清楚な顔立ち、髪も整えられ、しかしどこか“メイドにしては気品がある”。
「え、あの……これは……っ!」
たじろぐ彼女に、優はにへらりと無垢な笑みを浮かべた。
けれどその目は――
メイド服の下に隠しきれない双丘を“精査”するおっさんの目だった。
「むっふふ……なるほど、君、なかなか良いもの」
「きゃっ!? こ、これはどうされましたか優さま……!?」
メイドが背筋を凍らせたその瞬間、
優の身体がぴょん、と宙に浮いて――
「……だから、だ~っこ♡」
ストレートに新人メイドの懐にダイブ。
慌てて両腕で抱き止めるその様は、もう完全に抱っこ成功
腕の中の優は、顔だけは“あざとく天使”の笑顔。
ふわりと香る花のような気配。
新人メイド――リカが困り果てているその瞬間、
背後からやさしい声が降ってきた。
「優様、駄目ですよ〜。またそんなことを」
霧音。蒼穹殿の総責任メイド長。
慈愛と厳格を併せ持つ“影の守衛”。
抱え直された優、急にジタバタモードへ移行。
「霧音、離してっ! 今は“癒しの収穫中”なんだってばァ!」
「“収穫”は禁止されてます。明確に。第十三補足条。
“目視および接触による精神的自給”は違反です」
霧音スマイル、強い。
どんなジタバタも無効化される鉄の抱っこ力。
「リカさん、こちらは大丈夫です。搬出報告の処理をお願いできますか?」
「はっ、はいっ、メイド長! 失礼いたします!」
リカ、救われし者の顔で脱出。
「…………ああぁ〜〜〜っ、リカちゃぁああん……」
肩越しに幽霊のように手を伸ばしながら、運ばれてゆく優。
「はいはい、優様。マリア様がお呼びです。いきますよ」
そう言われるがまま、マリアの部屋へと抱えられていく優。
その心には、どこか哀愁漂う中年の魂が揺れていた。
朝の光が斜めに差し込む政務室。
石壁には波紋を刻んだ魔導装飾と、淡い水鏡の帳が揺らいでいる。
天華の中枢――蒼穹殿・政務室は、まさにこの国の静脈にして、神域の重心。
そして今、その場を統べるのは――天宮マリア、18歳。
若き支配者。
整った顔立ちに、冷徹と知性の色をまとう麗人。
腰まで流れる水色の髪が、光に透けてほんのり帯びるように揺れていた。
彼女の制服は、白と銀を基調にした秩泉正装。
襟元から袖先まで一分の乱れもなく、
まるで制服のほうが“彼女に着せられている”ようだった。
そのマリアが、政務机から顔を上げる。
「おはよう、優」
優は、開かれた扉の前で足を止めたまま、
ぽりぽりと何かを口に入れながら手を振る。
「おはよー、マリア。今日の顔、ちょっとマシじゃん?」
「最近ようやく、心が整ってきたのかもしれません」
言いながら微かに笑うマリアの顔色は、確かに以前よりもやわらかく見えた。
あの《鏡災》の混乱と重圧のなかで、幾度となく精神を裂き、選択してきた少女。
ほんの少しの余裕と安堵が、その横顔ににじみ始めている。
優はそんな彼女をじいっと見つめてから、ふっと肩の力を抜いた。
「じゃ、今日も神眼の手伝いか。
任せときな、最強エクソジェンの手腕、見せるぜ」
「……あなたが“最強”かは疑問ですが」
「うるせーっ」
優は両手をぶんぶん振り回しながら、むきになって叫んだ。
その顔は真剣そのものだが、どこか演技じみていて、
マリアの目にはただの子供のじゃれ合いにしか映らなかった。
マリアがふっと目を細める。
「一週間後に外遊に行きます。あなたも、
もちろん連れて行きますので、今のうちに最低限の作法を覚えなさい」
きっぱりとそう告げた天宮マリアの声は、今日も一切の隙がなかった。
「やだーー……」
マリアの前で、優は不貞腐れた顔をした。
「駄目よ。霧音、頼みましたよ」
「はいは〜い、がんばりましょうね優様♪」
朗らかに返事しながら、すでに逃げかけた優の襟ぐりを霧音がしれっと確保。
するりと抱き上げて――振り返った優の瞳には、
揺るぎない意思が宿っていた。
「……作法なんて知るか。おれは自由人だっつーの……!」
「知ってるから“矯正”なんですよ〜。ほら、背筋っ」
「ぐえええぇぇぇ」
そのとき。マリアがふと目線を落とし、霧音へと目だけで問いを投げかけた。
「……外遊先は“霧島”です。国交記念式典、関税調整、そして――」
(霧島は旧天御門とつながりが深い)
一拍。
「……胡太郎」
その名を口にした瞬間、霧音の手が、ほんのわずかに止まった。
笑顔のまま、その指先に微かな“揺れ”が走ったのを、マリアは見逃さなかった。
「さ、作法のお時間です、優様」
「あっちょっと待て! 今の“胡太郎”って誰だよ!?
なぁってば、教えろってば……」
どたばたという小さな足音だけを残して、
政務室の扉が“コトリ”と閉まった。




