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第二章:霧の国境にて

ガタン、ゴトン――電車の軋む音がリズムのように流れる。


揺れる車内の隅、背の高い男が一人、

くたびれたスーツのポケットから煙草箱を弄びながら、

何かを思案するでもなく、ただ目の前の新聞をぼんやり眺めていた。


「また負けてんのかよ」

紙面の片隅。“マッスルズ”、怒涛の27連敗。


その見出しの下で、スコアを見つめる男の顔は、いつものように無表情だった。

そこに――


「あっ、先輩!」

明るい声が響いた。


駆け寄ってきたのは、小柄な体にエネルギーを詰めこんだような少女

犬飼 いぬかい・みお


勢いよく背伸びするようにして新聞をのぞきこむと、

彼女の目がぱっと輝いた。

「いや〜マリア様、凄かったですよね!」


新聞の社会面には大きな見出しが踊っていた


鏡災きょうさい事件、ついに終息へ】、

天宮清明を操って天宮マリアから天宮を簒奪すると企てた水鏡綾臣――

その陰謀が露見し、マリア本人の手によって成敗された。

清明、および協力者・水鏡京香は反逆罪で拘束。

その一人娘である紗那は特例措置により、天宮に庇護されることとなった。


「生まれた赤子に罪はない。天宮として受け入れましょう」

――マリアの声明に、世論も大絶賛


「いやぁ……あのコメント、完璧スよね! 天宮マリア、やっぱ次元違うッス!」

少年のような瞳で語る澪に、

男――狭間 はざま・けいは淡々と答えた。


「あっそ」

それだけ。


煙草箱を指でコツコツと叩き、コートの襟を引き直す。

感情の読めないその横顔に、車内アナウンスが重なった。


「この列車は静原行きです。停車までにパスポートをご用意ください」


澪はしばし新聞を眺めたまま、思わず小声でつぶやいた。

「……あの事件、まだ終わってない気がするんスよね」


それを聞いても、彗は何も言わなかった。


ガタン、ゴトン――列車が速度を緩めるごとに、

車窓の外はじわじわと白くにじみ始めていた。


霧。静原特有の、音もなく忍び寄る霧が窓をすり抜けるように這い寄ってくる。

澪がちらりと横目で車窓を見て、眉を上げた。


「……霧が多くなってきたス。もうすぐ静原、

先輩、パスポートちゃんとありますよね?」


座席に深く沈みこんでいた彗が、無言のままポケットを探る。

少しだけ乱暴に、身分証を出して、目の前に突き出した。


「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」

その言葉に反して、不機嫌そうな表情は隠そうともせず、

タバコも咥えていないのに指先で空箱をコツコツいじっている。


霧の向こうに、かすかな駅灯がぼんやりと滲み始めていた。


窓の外はもう、ほとんど白灰色の帳――

ここが、さざなみエリア。7大貴族霧島家が代々治める、霧と影が交わる土地。


「……静原か……」

狭間 彗は、曇りガラスの向こうに視線をやったまま、低く呟いた。


過去に何度か足を踏み入れたはずだが、この場所は――

いつ来ても胸のどこかがざらつく。


一方で、隣に座る澪のテンションは右肩上がりだった。


「静原にはスイーツがあるんスよ!“霧団子”って知ってます?

あと“霞まんじゅう”!やばくないスか?!」

少女の顔は窓の外を見ながらきらきらと輝いていた。


差し込む光が無ければ、視界に映るのはぼやけた霧の輪郭と、

漠然と広がる曇天だけ。


だが、澪の明るさは――そんな景色すら照らしていた。


「……騒がしいな」

彗は不機嫌そうに目を逸らしながらも、どこか口の端が緩んでいた。


「だって、美味しいのに理由なんていらないっスから」

楽しげなその言葉が、霧の奥に静かにほどけてゆく。


ガタン。

列車が速度を落としはじめた。


「……まもなく、静原。パスポートをご用意ください――」


車内アナウンスがそう告げる頃には、

車窓の外、深く深く霧が満ちていた。


まるでふたりの到着を、沈黙のなかで待ち構えていたかのように。


漣と秩泉――北と南、ふたつの文化が複雑に絡み合うこの地は、

国境を繋ぐ最重要の交通都市であり、

同時に“霧島家”が管理する極めて敏感な政治圏でもある。


街は石造の厳格さと流麗な装飾が交錯し、わずかな風すら迷子になるような微細な靄が、

常に地を這い、空を曇らせていた。


「うわっ、本当に霧すごいッスねー!」

駅舎の階段を駆け上がった澪の声が、乾いた空気に弾けた。


だが、その空気はすぐ――“重たく”なる

目の前に佇む、静原パスポートセンター。


列を処理する審査官の瞳に、光はない。

その声には感情ではなく、“圧”だけが宿っていた。

「……つぎ」


澪が笑顔でパスポートを差し出した、その瞬間――

「待て。身体検査を行う」


「えっ……?」

眉をひそめた澪に、さらに不自然な指示が重ねられる。


「魔力反応が曖昧だ。補助検査を――センターの奥へ」

あきらかに、“そうすること”が前提のような声だった。


そして、

「――その必要はない」

それまで揺れなかった空気が、鋭く震えた。


彗が、澪の肩をそっと引いた。

「彼女は正規通過許可を持ってる。

魔力に異常があるなら――俺が立ち会う。今ここでな」


いつもの気怠さは霧の中に消え、

その眼差しには明確な“拒絶”と“通告”が浮かんでいた。


審査官の手が止まり、わずかな沈黙。


その間に澪がふと見上げる。

「……先輩……」

感情を絞るような声に、照れ隠し気味な笑いが滲む。


「……っス。頼もしいじゃないっスか、たまには」


彗は煙草も咥えていないのに、空箱だけを指先で叩いた。

「……ったく、面倒くさい街に来ちまったな」


構内の風が抜ける中――

彼は静かにパスポートと、もう一枚の封筒を差し出した。


天宮の特任許可証。


その封印を見た瞬間、審査官の顔色が変わる。

「こ、これは……っ。天宮の発行印……っ。失礼しました!」

声が二段上がり、背筋が伸びる。


澪は「え、なに!? えっ、何かすごいの?」と、

横でこそこそ聞いていたが、彗はただ書類を仕舞い込んだ。


改札が開く。

外へ出たとたん、冷たい霧がふたりの頬を撫でた。


その霧の中に、いつからいたのかもわからぬまま、

漆黒のハイヤーが音もなく待機していた。


白手袋の執事がドアを開けて頭を下げる。

「狭間様、犬飼様。お迎えにあがりました。どうぞ、こちらへ」


「……ほんとにお迎えあったっス……!」

目を丸くする澪に、彗は短く言った。


「そういう段取りになってる。上の差し金さ」

「ふぇ~……じゃあ、おやつ代、たかれそうスね!」

呑気に笑うその横顔の頬に、ほんのわずかに赤みが差していた。


後部座席に滑り込むその前に――

彼女はふと、彗の方へ視線を戻す。


「……あの、さっきの……ありがと」

照れ隠すように視線を外し、窓の霧をなぞった。


彗は何も言わず、扉を閉じた。


その静けさの中で――ただひとこと。

「……胡太郎が治めるエリア、怖いねぇ」


ハイヤーが霧の海へと溶けるように走り出した。

その向こうで、街の輪郭が、ゆっくりと影を伸ばし始めていた。

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