白き詩篇、揺れる魂
「……ひどい顔ね、綾臣」
その声は、風に乗る祈りのように静かだった。
裂けた空間からゆっくりと現れたのは、まるで神聖なる巫女を思わせる佇まい。
白を基調とした衣に、銀糸で織り込まれた精緻な紋様がやわらかく光を反射する。
肩を包むヴェールは風に揺れ、
腰の金のバインダーには一冊の書物が携えられていた。
右手に掲げられた真白の本こそが、《無垢なる書》。
その顔を見た瞬間、ネフガルの中央面――綾臣が咆哮を上げた。
「天宮マリアあああああああああ!!」
吹き上がる魔力。空間が震え、周囲を巻き込む衝撃波が拡がる。
咄嗟に飛び退く舞。その目に驚きと安堵が混じる。
「舞、あとは私がやります」
マリアの声はやわらかく、それでいて誰も抗えない“絶対”だった。
「……マリア様……」
舞が一歩下がり、静かに槍を降ろす。
ネフガル――いや、綾臣の表情が歪む。怨嗟、恐怖、狂喜。
すべてを混ぜた嗤いと悲鳴の中、再び魔力が暴れ始める。
だがマリアは一歩も動かない。
ゼロ・コーデックスの頁が風に翻り、空間に微細な理の振動を走らせる。
「今から、“詩篇”をひとつ。あなたの虚構が崩れ、世界が再び理を知る物語を」
その言葉に応じるように、ネフガルの姿が変貌を遂げた。
背から広がる六枚の翼が十字に交差し、巨大な審律環が浮かび上がる。
頭上には神託を降ろす魔法陣――光柱が大地を穿つ。
「――《聖審刻唱・イノセントリア》」
絶対的な破壊の光が、マリアに降り注ぐ。
「……なんて魔力……!」
舞が思わず息を呑み、後退する。
それは、抗えぬほどの絶対の破壊の渦。
しかしその渦中に、マリアの瞳が静かに開かれた。
緋色の双眸の奥、無数の魔法陣が同心円状に展開されていく。
ページがめくれるたび、風も理も、書に従った。
そして、彼女は囁くように詠った。
天より降るは断罪の雨
されどここに書は在り
白き理よ、我が頁に集え――
主なき神々の咆哮を、いま鎮めなさい
「《律典封断詩篇》――」
ゼロ・コーデックスが輝き、空に“詩”が刻まれる。
聖罰と理。
光と光がぶつかるその瞬間――
ネフガルの空間は、まるで時間が止まったような静寂に包まれていた。
壁も床も存在せず、ただ灰色の霧が漂うだけの、無機質な牢獄。
9号は膝を抱えて座っていた。
両手首には黒鉄の鎖が巻かれている。
それは何かに繋がっているわけではなく、
彼自身の“枷”であり、“罪”であり、“罰”だった。
動けば軋む。
息をすれば締まる。
その鎖は、彼の存在そのものを否定するように、静かに、確実に彼を縛っていた。
「……僕は、ここから出ちゃいけないんだ……」
その声は誰にも届かない。
9号は、記憶と意識の底に沈む、閉ざされた領域だった。
だが――その沈黙を破るように、光が差し込む。
優が、そこにいた。
夢か現かもわからない空間の中で、彼はまっすぐに9号へと歩み寄る。
「……なんで、そんなとこで縮こまってんだよ」
優の手が、9号の腕に巻かれた鎖へと伸びる。
その指先が冷たい鉄に触れた瞬間――
音もなく、鎖が砕けた。
まるで、存在の根を断ち切るように。
まるで、誰かが“許した”かのように。
9号は目を見開いた。
その瞳に映った優は、笑っていた。
そして――
9号の意識は、まったく別の風景を映し出していた。
柔らかな陽だまり。誰かの笑い声。
暖かな部屋の中、霧音が穏やかに笑い、
マリアがティーカップを傾けるその隣で、
優の明るい声が響いていた。
「……こんな、人生……送れたら……」
その言葉は、涙とともにこぼれた。
だが次の瞬間、その幻を裂くような声が響く。
「ざけんな9号ッ!!」
幼い少女とは思えない、ひたすら真っ直ぐな声。
その声が、幻想を切り裂く刃となった。
「そんなクソみたいな牢屋で腐ってんじゃねーよ」
夢のなか、優が立っていた。
小さな手を差し出して。
「こっちに来いよ、バカ」
「僕は……ひどいやつなんだ……ッ」
嗚咽まじりの9号に向け、優は肩をすくめた。
「……かーっ、めんどくせぇ。
四の五の言ってねぇで、とっとと――握れよ」
その手が重なった瞬間――
――ガキン。
ネフガルの右側、9号の面にヒビが走った。
それは、長く閉ざされていた意識の殻が、ついに砕け始めた音だった。
「ば、馬鹿な……何をした、マリア!!」
綾臣の叫びにも、マリアは微笑を浮かべて書を見つめ続けていた。
「――知らないわ。
その“理”をめくったのは、9号自身でしょう?」
《イノセントリア》と《律典封断詩篇》。
拮抗していた光が、明確に傾きはじめる――ネフガルの崩壊へ。
「ふざけるな……!
私は王になるのだああああ――!!」
綾臣の面が、もはや咆哮を超えた音を叫ぶ。
だがその体を、理の光が飲み込む。
「王にな……」
その言葉は、完結することなく。
――閃光が、すべてを呑み込んだ。
爆裂する音と世界の断層が空間を噛み砕き、
ネフガルの巨体は光の渦のなかで、音もなく、砕けた。
静寂のなか、マリアはゼロ・コーデックスを閉じながら呟いた。
「――さよなら。9号じゃない、“君”へ」
崩壊した中心に、ひとつだけ残る――魂の灯。
揺らめく光粒。消えかけの蝋燭のように。
「おいマリア、見て! あれだよ、あれ!!」
ゼロ・コーデックスから飛び出してきたのは、優だった。
指さす先に、9号の魂が――ふわりと揺れていた。
「……俺、チートなんだから、助けてやろうぜ!」
その声に、マリアはそっと優の頭へと手を置いた。
「……死んでしまったら、助からないわ」
「はぁ!? チートだろ!?」
必死に手を振る優。その声は、まっすぐだった。
だがそのとき。
風にまぎれ、微かに響いた――声。
「ありがとう……」
9号の魂が、穏やかに笑みをたたえて光に溶けてゆく。
マリアの瞳がかすかに揺れる。
「……聞こえたよな、今……」
優がぽつりと呟く。
マリアは、ただ黙ってうなずいた。
風が吹いた。
静かで、やさしく、別れの音を運ぶ風だった。
それは、誰かの旅立ちを見送るような、静かな祝福だった。




