ネフガル
かつての水鏡 綾臣は、よく笑う子供だった。
ただし、それは他者の苦悶に対してだけ。
「努力しても報われない顔が好きなんだ。あの絶望の目が、最高に綺麗だろう?」
それが、彼の“原点”。
弱き者を踏みつけ、偉そうな大人を引きずり下ろすこと。
それこそが幼い彼にとって、最も鮮やかで、確かな“快楽”だった。
だが、綾臣は凡庸な悪意で終わるほど、凡人ではなかった。
それは雨音混じる、ある忘れられた夜だった。
地方の研究施設。レギス学に没頭していた綾臣の前に、“それ”は現れた。
黒き外套をまとった女。蒼紫にゆらめく神文の外衣。銀の鎖。鋼の爪。
だが、何より異様だったのはその“顔”。
見えないわけではない――記憶に、残らない。
目をそらした瞬間に、存在そのものが霞んでしまうような奇妙な錯覚。
ただひとつ、彼女の唇の輪郭だけは、焼き付くように鮮明だった。
「あなた……王になりなさい」
それは“語られた”言葉ではなかった。
彼の脳髄に“植えつけられた”命令。
「……は?」思わず綾臣は返した。
だが、女は滑るように近づき、囁く。
「アル=ミラヴァス。そこには、まだ椅子があるのよ。
誰も座れなかった、深き座……“あなた”を、待っている」
空気がひずみ、圧縮されるような耳鳴りとともに、
綾臣の胸の内に何かが喰い込んだ。
世界の摂理が反転するような、甘やかな腐蝕感。
その瞬間、綾臣は理解してしまった。
王になるとは、支配でも統治でもない。
すべてを裂き、自らが“唯一”になること。
「……なるほど。つまり俺は、選ばれたわけだ」
綾臣は初めて、心から笑った。
それは他者の絶望による笑みではない。
運命に与えられた宿命の快感――純粋な愉悦だった。
その日から、綾臣は“邪教団”ヴァルファナの審戒儀式を受け、
“審戒執行者”としてその名を刻む。
そして数年後、新たなる武装教団《墜王環》を創設する。
ただ一つの目的のために――
“アル=ミラヴァス”。
誰も座れなかった空席。その玉座に、自らが至るために。
秩泉南東域山岳群。転移ポイント。
夜空に黒き雷光が走り、水鏡 綾臣が姿を現す。
その手には、複雑な魔法陣が刻まれた魔石。
ただの触媒ではない。それは神核結晶《ヴァル=エシェル》。
「……私が――王になるのだ」
呪詛のように震えるその言葉に、隣にいた9号の瞳が揺れた。
「マスター……やめてください!」
その魔石から放たれる“融合”に似た気配。
そこにあるのは、破滅の予感だった。
だが、綾臣は振り返らない。
ただ一言、命令するように低く。
「黙れ」
次の瞬間――
《血統刻印》
9号の肉体が、血のような赤に染まる。
全身の構造が一気に変質し、魔力がねじ切られるように歪む。
「ぐ、ううあああああッ!!」
押し殺した叫び。それは痛みではなく、
自分という存在が“否定”される恐怖に似たものだった。
「初めから、こうすればよかったのだ」
綾臣の瞳は、既に人の理を超えていた。
魔石が掲げられ、9号の魔力と共鳴する。
赤黒く脈動する魔法陣が広がり、空間そのものが飽和していく。
「――《血統刻印・第二展開》」
光が爆ぜ、二人の体が紅と黒に包まれた瞬間――
融合が、始まった。
空間が悲鳴を上げるように裂け、施設の壁が崩落していく。
山岳全域に轟音が走り、警報が一斉に鳴り響く。
「エリア14から爆心反応発生!」「魔力が異常暴走しています!」
捜査員たちが集結するより早く、
巨大な“存在”が、空間を突き破って現出した。
《ネフガル》――禁忌の三面獣。
- 分類:人造アブレーション(融合体)
- 全長:約15メートル
- 背には、白銀の“天使の翼”が四枚。
- 黒き肉体に、三つの顔。中央に綾臣、右に9号、左は未知のアブレーション面。
その姿は、かつて蒼穹の空を焼いた“死神の化身”そのものだった。
「――ははははは……私が《ネフガル》になるのだ……!」
綾臣の笑いが響いた瞬間、空気が凍りついた。
捜査員たちは慌てて武器を構えたが、
中央の顔が嗤いながら告げる。
「貴様ら……生きて帰れると思うなよ?」
《深紅の神印結晶・ヴァル=エシェル》
《墜王環》の核心研究成果。
異常体の核意識(コード本能)をこの魔石に封じ、
特殊アブレーションを創造可能にする。
そして、それを**ヴァッサルと融合させる(同化)**ことで、
圧倒的な出力を誇る“人造アブレーション”へと変貌させる――
ただし、同調率(シンクロ率)が一定値を下回ると、
アブレーション側に精神を“喰われ”、ヴァッサルが崩壊死する




