崩れゆく者
「――僕は、“試験官”の中で生まれたんだよ」
それは、命のぬくもりも記憶も知らぬ場所。
名も母も知らぬ9号は、管に満ちる律液の中で目を開けた。
感情も与えられず、存在意義は一つ――《血統刻印》のための器。
彼は“計画最適体”として、ただ造られた。
前に八人。すべて刻印の力に肉体が耐えきれず死んだ。
それでも彼だけは壊れなかった。
それが生存理由であり、唯一の存在価値だった。
しかし、計画はすでに音もなく崩壊を始めていた。
「貴様……本当に仕込んだのかッ!!」
ソファが軋み、壁に拳が打ち付けられる。
綾臣の怒声が、部屋の天井を震わせる。
床に膝をついた9号は、血に染まった礼服のままうつむいていた。
額から流れる血が視界を滲ませる。
「ま、マスター……まちがいありません……完璧に仕込みました……っ」
「ならばなぜ《ネフガル》は現れないッ!!」
怒声とともに拳が振り下ろされ、肉体は床へと叩きつけられる。
赤黒く滲む血潮。
綾臣の声には、怒りとともに恐れが混ざっていた。
期待が裏切られ、計画が崩れ、歯車が逆回転する音に気づかぬまま、
彼は暴力に身を任せた。
「……マスター……」
9号の囁きは呪詛にも似て、ただ、静かに部屋に響いた。
月光が白いヴェールとなって天の庭園に降り注ぐ。
律樹の枝が風もないのに揺れる夜。
傷を負った9号は、なぜかあの騒がしい少女の声を思い出していた。
「……なんて、空は……美しいんだ」
焼けるような胸の熱と、切れる皮膚の痛みの中。
彼は初めて見上げた空に、確かに“憧れ”を覚えた。
そのとき。
――タタタタタ。
「ぐへへへっへっ!」
茂みから飛び出してきたのは、
場違いなほど陽気なエネルギー体——久遠 優だった。
収納魔法を無造作に放ち、七輪、スルメ、酒瓶を並べ始める。
「星がきれいじゃん? こんなトコで晩酌とか、粋だねぇ〜」
突然の登場と、謎のテンション。
すっかり自分の空間として宴を始めようとしたそのとき。
「……やぁ」
「ギャアアアアアアアーーーーーッ!!!」
背をのけぞらせた優は炭袋を空に放り投げた。
「出た!! 幽霊ぅ!? 無表情でスッて現れて幽体離脱してくる系ッ!?
ギャーッ!!」
その騒ぎを、9号はしばらく無言で見つめたあと——
ふっと、唇の端をほんの少しだけ、上げた。
「……やっぱり、騒がしいな。君は」
その笑みに、痛みはなかった。
「よう、食べるかい?」
七輪の炎の前で、優が渾身の一枚スルメを差し出す。
無表情のまま受け取る9号。
ぐしゃ、と音を立てて噛みしめる。
「マジかよ……俺が食う予定だったやつ……」
優のつぶやきは哀愁を帯びていた。
そして無意識のうちに、9号の肩に手を添えた。
ぬくもりがあった。
思ったよりも、柔らかくて、確かだった。
「……あれ? 幽霊じゃないじゃん、人間か」
そう言った優に、再び9号が小さく、笑ったように見えた。
そしてその時。
「うっしゃー、飲むでぇぇ!!」
満面の笑みで酒瓶を持ち上げる優。
焚き火、スルメ、星明かり——これ以上ない晩酌の舞台。
だが、
「――優様」
背後から降ってきた涼やかな声に、優の身体が跳ねた。
振り向けば、無音で現れた霧音が微笑んで立っていた。
「な、ななな……呼吸音ゼロやめろおおぉ!!」
「静かに現れるのが、私の美学ですので」
さりげなく周囲を見渡す霧音。そして、ふっと視線を炎の向こう側へ。
もう——9号の姿はなかった。
「さすがに足が速い。あの子らしいですね」
その言葉に、優が訝しむ。
「……知ってんの?」
「さて、何のことでしょう」
微笑んだ霧音が、一歩前へ。
「……って、酒瓶返せぇぇぇっ!!」
「これは没収です。“深夜の無許可飲酒と七輪設置による文化的乱行”につき、
衛生規定第7条により処理いたします」
あっさり酒瓶を奪われ、しょんぼり肩を落とす優。
「ま、まって……まだ……飲んでもないのに……」
「一滴も飲んでいない今のうちに、回収できて本当に良かったです」
瓶を軽やかにくるりと回す霧音。
夜の庭園には、スルメの香りだけが名残を残していた。




