鈴木くんの憂鬱
橘さん視点です。
秋も更に深まり、風が冷たく感じるようになってきたこの頃。
「ーーーーあ、なるほど。よくわかりました。ありがとうございました」
「うん、頑張れよ。体調に気をつけてな」
「ははっ、ありがとうございます」
「研究の道も、頭の片隅にいれておいてくれよ?」
そう言って朗らかに笑う教授に会釈し、俺は研究室を後にした。今日も今日とて勉学に励んでいたのだが疑問点が出てきたので、先生に聞きにきたのだった。
さぁ図書館へ戻るか、と思っていたところ、
「お。よぉ」
向こうから歩いてくる人物に軽く手をあげて挨拶した。夕方の人気のない廊下。夕日に照らされたそいつは、少しやつれてみえた。
「…………………………」
挨拶した人物ーー聡子の元カレ・鈴木絢斗くん(ぼっちゃん)は、こちらをちらっと見ただけで、挨拶も返さずすれ違おうとした。相変わらずだ。
「へいへいへい、ちょっと待てって。俺もうすぐ卒業だからさ、仲良くしよーぜ」
少しばかりの本心を混ぜ、おどけながらぼっちゃんの手首を握る。
「……!痛ぇ!!」
思ってもいなかった叫びに驚いて、手をはなした。
「え?あ、わり、ひねった?か??」
そんな動きはしていないはず、と甚だ疑問に思ったが、シャツの間から見えた手首に、思わず「あ」と声が出てしまった。
ぼっちゃんの手首には、輪っかのような跡が残っていた。
「ーーーーっ」
手首を隠し、気まずそうに視線を逸らした。
「……えっと」
「…………………………」
「今はふわふわのやつとかあるからさ、そういうの使ったらいいんじゃね?」
「……………………!!」
ぼっちゃんが俺を見る。
「俺もドSの女と付き合ってたことあるから、わかるわー」
あれ痛ぇよな〜あはは〜と呑気に笑う。
「…………………………」
「ま、ほどほどにな。化膿に気をつけろよ」
肩をぽんと叩き、さて帰るか、と思っていたとき、
「…………ねえ!」
と呼び止められた。
「?」
「……その女とは、どうやって……」
「??」
「……別れたの」
ぼっちゃんが目を伏せて、唇を震わせた。
よく見ると、目の下にはうっすらとクマができている。あまり眠れていないのかもしれない。
「別れたっつーか、振られた?俺の反応が面白くねーって言われて」
「……ははっ、なんだよそれ」
「誤解されること多いけど、俺結構振られてるからな?」
ウィンクすると、ぼっちゃんが力なく笑った。悲しげな笑みだった。
かつては聡子を巡って争った敵だったが、今はそれも終わりノーサイドだ。俺の少しばかりのスポーツマンシップがうずいた。
「ぼっちゃん、今日時間あるか?」
「?あるけど……」
「じゃあ飯でも食いに行こうぜ。あ、俺が奢るし送ってやるから酒も思う存分飲んでいいからさ」
「は?嫌だ……」
「んなこと言わずに、行こうぜ。俺と2人が嫌だったら吉田も呼べばいいじゃん。あいつだったら手首見られても別にいいだろ」
「…………………………」
ぼっちゃんの反応は鈍い。ここはもう一つの餌で釣るか。
「俺の車も、運転していいからさ」
「!」
はい、落ちた。
聡子から『鈴木くんは車好き』の情報を得ていてよかった。
ぼっちゃんがニヤつきそうになっている顔を手でおさえながら、俺を見た。
「いいの?」
「勿論」
「あんた、勉強は?」
あんた、て。
「日頃から真面目にやってるから、今日1日くらい遊んでも大丈夫だろ。てかそんなに気になるんなら、お前が食ってる横で勉強しとくわ」
「はは、そうしてもらえたら」
そう言ってぼっちゃんが笑った。さきほどよりはすっきりした表情になっていた。
「オッケー、決まりな。じゃ、行こーぜ」
ぼっちゃんと肩を組むように腕をまわすと、嫌そうに払いのけられた。
俺の車を心ゆくまで運転し(高速まで走ったのは想定外だった)、大学近くの居酒屋で2人で飲み食いした。最初は車の話が大半だったが(俺は宣言通り勉強しながら聞いていた)徐々に彼女の山中千春の話へと変わっていった。いい感じに酔っているようで、いつもより饒舌だ。
「……千春のことは、好きなんだけど……」
「うん」
空いたコップに好きだと言っていた焼酎を作ってやる。若いのに焼酎っておっさんかよ、と少し笑ってしまった。
「……最近……セックスのときの……度が過ぎているというか……」
「…………………………」
「あれさえやめてくれればな……いいんだけど……」
グラスを見つめるぼっちゃんの目はうつろだ。
「………………寝れてる?」
俺の素朴な質問に、力なく笑った。
「いや、あまり……。最近ずっとぼーっとしてる……」
「…………………………」
「あんたは……いいよな……」
ぼっちゃんのつぶやきに、俺は返事をすることができない。
「…………最初は普通にヤってたんだろ?何か、そうなったきっかけみたいなのはねーのかよ?」
無理矢理話題の方向を変えた。言ってから、『あ、本性が出ただけか』と思った。
が、そんな俺の問いかけにぼっちゃんが思いの外びくっとした。
「……?何かあったのか?」
「……別に……」
戸惑うようにぼっちゃんの瞳が揺らぎ、やがて伏せられた。
「ーーーーーー寝やがった」
机につっぷしてぐぅぐぅ眠るぼっちゃん。寝れてない、ときいてしまったので起こすのはかわいそうだ。
「…………………………」
眠りに落ちる瞬間のあの瞳の揺らぎは気になったが、今はとりあえず、この成人男性を自分の家までどう抱えていくかの方が問題だった。
結局、おんぶして車まで向かった。かなり恥ずかしかった。
ーーー翌日ーーー
「え……ここどこ……」
ベランダでの一服を終え部屋に入ると、ぼっちゃんがベッドで半身を起こし、辺りをきょろきょろ見回していた。
俺はソファで寝た。おかげでちょっと体が痛い。
「俺んち。お前が寝てるのは俺のベッド」
「げっ…………」
眉をしかめるぼっちゃん。昨日あれだけ苦労して運んできたのに、失礼だろ。
「…………世話になりました。すんません」
そんな俺の心中が伝わったのか、ぼっちゃんがしゅんとして謝ってきた。
「家まで送ってやるから。準備しな。歩けるか?」
「あぁ、うん……」
そう言ってベッドから足を踏み出した瞬間だった。
「……?なんか……気持ち悪っ…………」
「え!?わっ、吐くならトイレあっち!!早く行け!!」
「ーーーーーーーーーー!!」
慌ててトイレに駆け込み、げぼーーっと吐く音がした。……間に合ってよかった。
開いているドアからのぞいてみる。ぼっちゃんは便器に顔を突っ伏していた。
「大丈夫か?すっきりするまで吐けよ?」
「気持ち悪いけど……吐けない……」
「あらら……」
さぞつらいだろう。
俺はぼっちゃんのそばに行ってひざまずき、上を向かせた。
「口開けて。はい」
ぼっちゃんの口に俺の指を突っ込む。
「ーーーーうぇっーーーー」
すぐに吐き気をもよおしたようで、またげぼっと吐いた。
「大丈夫かー?ほら、全部吐いちまえ」
「ーーーーーーーーーー」
何回か吐いてだいぶすっきりしたようだ。ぼっちゃんの髪が吐瀉物で汚れていたので、風呂に入るように言った。
「……んなことまで迷惑かけられねぇよ……」
「いや、もうかかってるから。心配すんな。乗り掛かった船だ」
「……んだよそれ……」
「いいから。落ち着いたら、入ってこい。あそこだから」
かなり気が進まない様子だったが、あんなやぶれかぶれの姿で帰宅させるのはかわいそうだったので、半ば無理やりシャワーを浴びさせた。
あがってきたぼっちゃんは、聡子用シャンプーの香りがした。
ぼっちゃんは車の中でもぐったりしており、運転に気を使った。
そうしてナビに従って着いたのはーーーー門。
「……ぼっちゃん、ここからどうすんの?守衛がいるの?」
冗談半分できくと、ぼっちゃんが緩慢な動作でポケットに手を入れた。すると、門が内側へ開いた。
「おぉ」
そのまま車を乗り入れ、古き良きお屋敷みたいな家に着いた。なんとか伯爵邸みたいな家だった。
よろよろしているぼっちゃんに肩を貸す。
まだ少し顔色も青白く、すさまじい二日酔いに苦しんでいるのは明白だった。
(責任感じるわ〜。途中で止めりゃあよかったな)
自分がそんなに酔わない体質なので、加減がよくわからなかったのだ。
あまり振動を与えないように気をつけながら、誰かいますように、と祈りながら玄関の呼び鈴を鳴らした。
『はい』
男の声で返事があった。
「あ、こんにちは。私橘と申します。絢斗くんを送ってきたのですが……」
『あーー、オッケ、すぐ開けるから』
そう返事があった数秒後に、玄関が開いた。
出てきたのは、ーーーー男の俺でも見惚れてしまうような、ものすごい色気のある男性だった。
無造作に羽織ったシャツ。そこからのぞく、鍛えられている肉体。ウェーブがかかった黒髪は少し濡れていて、もしかしたらシャワーの後なのかもしれない。
「絢斗、ほら、しっかりしろ」
「……うん……」
「すみません、昨日飲み過ぎて潰れてしまって……。俺んちに泊めたんですけど、連絡もせず申し訳ありませんでした」
「はは、いいって。22にもなってんだから無断外泊の1つや2つ、問題ないだろ」
いたずらっぽく笑う姿を見て、わーこの人モテるだろうなーと思った。
「あ、ごめんだけど、もう少し手貸してくれない?俺1人じゃ運べないことに気付いた」
ぼっちゃんが自分の家に帰ってきた安心感からか、だらーっと兄さん(だろう、多分)に寄りかかっていた。
「はは、いいですよ。ぼっちゃ……絢斗くん、甘えてますねー」
「図体だけはでかくなりやがって。中身はまだまだガキだわ」
「ははは」
「2階は……無理だから、リビングに寝せるか。そこまで頼む。ほら絢斗、しっかり歩け」
「うん……」
兄さんと2人がかりでぼっちゃんをリビングへ運び、ソファへ寝かせた。ほら、水飲めと世話している様子を見ながら、兄弟がいるっていいなぁと思った。
「あ、俺炭酸買ってきてるんで持ってきます。車に置いてるんで」
「マジ?助かるー」
車へ取りに行き、兄さんへ渡した。ぼっちゃんはソファの上でまたすぅすぅと眠っていた。
「それじゃあ、俺はこれで」
「あ、待って。橘くん……だっけ?ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「はい」
そう言われて、どきっとした。……聡子のことだろうか。それを言われたら辛いので、できたら違う話題がよかった。
「絢斗さ、……どんな女と付き合ってる?」
「え?」
「いや、最近会うたびに暗い顔してるから……。それに……手首のとこ……気になって……」
「…………………………」
リストバンドをしてやっていたのだが、かえって不自然だったみたいだ。家族には知られたくなかっただろうに、かわいそうなことをした。
「すみません、俺もよくわからないんです。俺も偶然、その、手首のとこ見て、気晴らしになればと思って飲みに誘ったという経緯で……」
「そっか……」
兄さんがあごに手をやり、何かを考えている風だった。
「わり、手間とらせたな。後はこっちで面倒みるから」
「お願いします。じゃあ俺はこれで」
「うん、本当にごめんな。絢斗にも考えて飲めって言っとくわ。ああ、それと」
「?」
「手首、俺以外の家族には見せないようにするから。安心して。リストバンドありがとな」
「!」
洞察力のあるお兄様だ。
セクシーで、こんなに気が回って、さぞかし女性にモテることだろう。
「失礼します」
ぺこっと頭を下げて、俺は鈴木邸を後にした。
ーーーーその日対応してくれたのは、ぼっちゃんの2番目の兄さんだった。そのほとばしる色気で病院スタッフはおろか、患者さんたちもメロメロにしているそうだ。『あいつと目が合ったら妊娠する』と言われているということを、聡子からきいたーーーー