現実以上のイメージ ーー阪神タイガースの思い出からーー
私は緩い阪神ファンなのだが、阪神タイガースを応援していて一番記憶に残っているのは、新庄剛志が敬遠球を打ったシーンだ。その試合は新庄がそのヒットで、サヨナラ勝ちした。阪神暗黒時代で異様に弱かった時期なので、勝ったのが特に嬉しかったように思う。
ところでその時、私は、ラジオを聴いていた。本当はテレビで見たかったのだが、テレビは父が占領しており、父は子供の言い分など聞かないタイプの人間なので、私は「チャンネル変えて欲しいんだけど」という一言が言い出せなかった。その時の私は小学生だった。
なので、私は新庄のヒットをリアルタイムでは見ていない。ただ音だけを聴いて、実際の場面を想像していた。ヒットを打った瞬間にはよっぽど父にチャンネル変えてもらうように言おうかと思ったが、やっぱり言えなかった。私は、その映像を後から、スポーツ番組で見た。
私が一番印象に残っている阪神タイガースの記憶はそのヒットなのだが、今から振り返ると、『実際にその映像を直接的には見ていなかった』という事が大きく作用しているように思う。私はラジオを聴きながら、懸命に実際の映像を頭の中でイメージしていた。後から見た実際の映像は、その時、私が自らの脳内という暗闇の中でイメージした現実の補強でしかなかった。
こういう体験は、私の文学観とも繋がっているし、また、色々、大きな問題についての認識とも繋がっている。というのは、人にとって大切なのは現実よりも、現実であると想起されたイメージの方である、という事だ。
私にとって、新庄が敬遠球を打ったシーンは強烈に印象に残っているが、それは現実の映像ではなく、私が生み出したイメージだ。私はそのイメージを、現実に体験したあれこれよりも強く感覚した。それはどういう事かと言えば、私にとっては、私の作り出したイメージの方が現実よりもより一層、現実だったという事だ。
例えば文学というのは所詮はフィクションであり、嘘であると言われる。しかし、作家が強烈に体得したイメージが暗中に照らし出される時、また、それを人が文章を辿って目撃する時、そのイメージはある種の人には現実以上に強烈なイメージとして印象付けられる。こうしたイメージとしての強さこそが『文学は事実を越えた真実を映し出す』というように言われる所以ではないか。
現代の人にとって、神話というのはただの古代人がついた嘘だとしか思われないだろう。現代の我々にとっては歴史という実証主義の洗礼を受けたきちんとした現実の集積がある。だから、歴史があれば神話は不必要だ。あるいは必要があるにせよ、それはただ面白おかしい話を提供するだけだーー現代の世界観ではこんな風になっているだろう。
しかし、実証的に証明された現実の集積よりも、人類の記憶に残っている強烈なイメージとしての神話の方が、歴史よりも長い生命を持つ事はあるのではないか?と私などは考えている。…いや、そうではない。正確に言えば、卓越した歴史書というのも、それ自体、神話と同じような強烈なイメージを蔵している。
「地中海」という有名な歴史書がある。歴史学に新しい一頁を開いた書物だが、その根底にあるのは著者ブローデルの地中海への強烈な憧れだろう。ヨーロッパというのは緯度が高く寒いので、ヨーロッパ人は、温かい南の方に憧れがある。ブローデルも地中海に対する憧れを抱いていた。
ブローデルは、「地中海」の初稿を捕虜収容所で書いている。ろくに資料もないところで原稿を書いたらしいが、収容所という限界的な場所で、彼の脳内は強烈に地中海の美しさをイメージしただろう。「地中海」という歴史書はもちろん神話ではなく、れっきとした歴史書だが、その根底にあるのは著者の中にある強烈なイメージであったと私は思う。
そのイメージ、収容所という未来がない場所においても人は、自分の中に蔵してあったイメージを頼りに生きていく事ができるのではいかと思う。いや、そもそも文学と呼ばれるものは全て、この現実世界という狭い空間の中で、その外側に広がる深く広い別の世界を想起した美しく儚いイメージに過ぎないのではないか。しかしそれは"現実以上に現実"だからこそ、彼の生きる糧となるのである。
人は現実とフィクションを区別して利口ぶって見せるが、そう言っている人間があっさり陰謀論にはまったりする。自分は「理系」で「論理的」だと自惚れている人間が、たやすく、『これこそが現実だ!』という嘘に騙されたりする。
現実と嘘とは切り離せないものであるが、人は現実を越えたイメージを自らの中に持つからこそ、現実を乗り越えて生きられるのではないかと思う。文学作品を作るのに大切なのは強烈なイメージの集積だ、とドストエフスキーも語っていた。
強烈なイメージとは、自らの中にある現実以上の現実であり、他人から見てどれほどくだらないものでも、彼にとっては実際の現実よりも大切なものとして密かに存在する。そして偉大な文学作品とは、その人の中にあるそうしたイメージ、イメージとしての魂という琴線に密かに触れていくものなのだろう。文学はおそらく、そういうものとしてある。もちろん、これは自らの中に深いイメージを持たない人にはほとんど作用する事のない代物ではあるだろうが。