魔法士エルの告白日和
それは、物語の続き。
魔王を倒し世界に平和が訪れた。その勝利に貢献したのは辺境城主タリオン。
非日常は終わりを告げ、人々は日常の暮らしをはじめていた。タリオンもまた、城主としての任に戻っていた。
部屋で一人執務を行っていたとき、窓に何かがぶつかる音がした。振り向きそこにいたのは、空中に浮かび、ひらひらと手を降る栗毛色のミディアムカットの女性。
魔王へと続く過酷な旅の中で背中を預け合った、魔法士エルだった。
エルはタリオンより年少ながら、相当の実力派であった。大陸に敵なしと言われる魔法士であり、〈輪廻の砂時計〉の力で何度も死の淵から蘇った不老不死の人物。噂は御大層なものであったが、本人はトラブルに愛された、気まぐれな猫のような女の子だった。
魔王討伐後、行方の知れなかった旧友の姿に驚きつつも窓を開けたタリオンに、エルは気軽に声をかける。
「二週間ぶりですね、タリオン様。相変わらず凛々しくてかっこいいですね。好きです」
タリオンは呆気にとられた。普段凛々しい顔つきのタリオンの間抜けな表情にエルは満足そうに笑ったのだった。
部下であり、妹のような存在であったエルからの告白はタリオンに衝撃と困惑をもたらした。
返事を考える間もなく、怒涛の求愛の日々が始まる。
「おはようございます!私の好きな人はいつ見ても男前ですね」
「からかってる?そんな訳ないですよ。私は惚れてるんです、貴方に。真心を信じてもらえないんですか?……軽いですか?いつだって本気の本心ですよ」
「あ!タリオン様。お邪魔してます〜〜今日は紫紺の衣装をお召しになってるんですね。赤い御髪が映えてて好きです」
「眉間のシワ、濃くなってますよ。ちゃんと眠れてますか?“スリープ・スリープ”……な、なんて強靭な精神力。欲求のままに眠ってもらわないと…!ーーふう、やっと落ち着きましたね。いつまでも健康でいてくださいね、愛しい城主様」
「昨日無理やり寝かしつけたこと、怒ってるんですか?でもああでもしなきゃ無理し続けたでしょう。城の皆さんも心配されてたんですよ。……私だってそうです。あなたは一人で無理しすぎる。周囲を頼ってください。私の力も利用してください。好きな人の役にたてるなら、こんなに嬉しいことはないんです。あなたに先に死なれたらたまりません」
「やっと素直に休息を取ってくださるようになったんですね!……お茶菓子ですか?お気遣いありがとうございます。この城のクッキー世界で一番大好きです!……?あ、勿論貴方のことは人類の中で一番愛してますよ!よっ、人類最愛!……ごめんなさい、流石にからかいすぎました」
エルはそれから何度もタリオンの前に現れた。そのたび挨拶のように自然に「好き」だと伝える。
「また来たのか」
「もうここは私の庭みたいなものですから」
「ここは私の領地だが?」
「みたいなもの、ですよ。それにしても今日も執務に熱心に励んでいらっしゃるようですね」
「魔王の脅威が取り除かれても問題は山積みだからな」
「真剣に書類と向き合う姿勢は流石ですね。す、」
「待て。その先は」
流石に何度も告白攻撃を受けたタリオンはその言葉を予想し先制して止めようとした。が。
「素敵です」
「…………」
肩透かしを食らい、告白が来ると当たり前に疑わなかったタリオンは羞恥心を覚えた。
エルを放置して今度こそ署名のためにペンをとる。
心中穏やかではなかったタリオンは、エルの接近に気が付かなかった。
「そして、大好きです」
そっと耳元で愛の言葉が囁かれる。
「……聞き飽きた」
そうぶっきらぼうに答えるが耳が紅い。
紙にはボタボタとインクが漏れ落ちていた。
動揺と安堵、2つの相反する感情の波がタリオンを襲う。
「また明日も来ます。窓開けててくださいね」
「来るなら窓からは止めろ!正面玄関から来い!」
タリオンはエルの告白を完全に拒絶することはない。その態度はどちらかと言えばデレ隠しのようなものだと周囲は認識していた。
城の人間はみなその光景に見慣れ、いつか二人が隣り合っていることになんの疑問も持たなくなった。
それは城主自身でさえも、であった。
「エル・ヘルエスタ。私の生涯の専属魔法士なってほしい」
「ごめんなさい、了承できません」
城主の誕生祭前夜の夜会パーティにて、城主タリオンからの正式な専属魔法士としての申し出。
魔法士エルはそれを実にあっさりと断った。普段通りと変わらない態度でタリオンからの贈り物を断り、「今日はこれで失礼します」と頭を下げて会場をさっと出て行ってしまった。
その間実に一分にも満たない出来事だった。
タリオンは彼女が自分の申し出を断ったことを信じられず贈り物を持った手を突き出した状態のまま呆然とその場に立ち尽くしていた。
弦楽器の音色は既に止み、演奏家は困ったように仲間を見回した。会場の誰もが、今目の前で起こった緊急事態を飲み込めず困惑した空気が広がっていた。それもそのはず、先程申し出を断った彼女ーー魔法士エルがタリオンを一途に想い、好意を積極的に伝えていたことは公然の事実であり、みなは至極当然のこととして、この契約が成立するものだと思いこんでいたからだ。
それは“生涯の専属魔法師に”これは正式に城に仕える魔法士にという申し出だけでなく、一生側にいてほしいというーーーー「求婚」であった。
素直でない城主の考えた、苦肉の策であったのだ。それを、エルもまた分かっていたはずだった。
祝福しようと構えていた手は中途半端に、会場は魔法がかけられたように静まり返っていた。
誕生祭当日。
城下の街道には露店が立ち並び、いたるところにタリオンの象徴である朱龍の飾りが飾られていた。朱と白。めでたい色であるそれらも、今のタリオンの目には重苦しく映った。執務室にいたタリオンの機嫌は最悪で周囲にまでその負の空気が伝播していくようだった。今日何回目か分からない溜息をつく。
「『あれ』はどうした」
「流石に昨日の今日で顔を出せないのでは?」
侍従の言葉にそれもそうか、とタリオンは息を吐いた。
「……正直私も断るとは思っていませんでした」
(………それは俺もだ)
これまでは魔王討伐という目的のもと編成された軍内の上司と部下という関係だった。その軍は魔王の討伐が果たされたことを機に解体されている。そのためエルとタリオンをつなぐものはエルの訪問だけであった。
気まぐれなエルはそのうちこの城からいなくなってしまうかもしれない。
だがしだいにエルを手放したくないと思ったタリオンは今回、城の魔法士としての登用と婚姻という正式な契約を結ぶことを城の人間の前で宣言するつもりだった。
普段からタリオンと共にあり、好意を伝えているエルはそれを喜んで受け取ると思っていたのだが。
タリオンには祭りを執り行う気力が残っていなかった。
本日の誕生祭には王室に連なる外部の人間も招待している。いくら振られて傷心だからといえ、おいそれと中止するわけにはいかなかった。タリオンはため息をつき、気分転換に外の空気を吸うため腰をあげたのだった。
厨房のそばを通りかかったとき、中の会話が聞こえてきた。
「魔法士様どうしたのかねえ」
「そういえば最近、エルさん全然クッキー召し上がらなかったんですよ」
「ええ、あの食いしん坊がかい?」
「そうなんです。あんまりお腹空いてないので~って、言ってて」
「いつもなら人の何倍も食べる人なのにねえ」
「けど、僕の作った雑炊は食べてくれてたよ!」
「お前の雑炊を?あんなでろでろ人に出すものじゃないのに」
「酷いや!エルさんは褒めてくれてたよ」
「ええ?エルさんて味音痴だったっけ」
「風邪でもひいてたんじゃないのかい」
「じゃあ昨日も調子が悪かったんですかね」
「言われてみれば青い顔してた気もするねぇ」
(あいつがクッキーを拒否した?)
それは異常事態であった。
エルが軍に所属していたころ、普通の食事にも事欠く状況でさえクッキー熱は高く、どこからか持ち込んだ材料で自作し常に携帯していた。
執務室に潜り込んでから一週間ほどしたとき、エルはタリオンが仕事をしている横で、何故か運ばれてきた大量のクッキーをペロリとたいらげていたこともある。
チョコチップクッキーが大のお気に入りで、至極真剣な顔で『これは神が作りし至高の作品だと思います』と言ったときには少し引いた。
そういえばここ二週間はあまり食べているところを見かけなかった、とタリオンは思う。
次に行ったのは練武場だった。
何人かの兵士たちが当日警備の確認を行っている。
「それにしてもなんでうちの主は振られたんですかね?俺億が一にもないと思ってました」
「ただのミーハーで、城主の奥方になるのは違うとでも思ったんじゃないですか?」
「はぁ?ミーハー?そんなのあり得ない」
話を傍で聞いていた警備担当の青年が口を挟んだ。
「お前たちはここにいる二人しか知らないだろうが、俺はあの人達と旅をして、あの二人の深まっていく絆を傍で見てきた。エル様の想いがそんな軽いものだった筈がない」
「でも実際あっさり断ってるじゃあないですか」
「いくら戦時中にどれほどの信頼を築けていても、男女の恋愛に関しては別でしょう」
この中で唯一の妻帯者が見知ったことのように言う。
「ううん……」
納得感のある言い分に警備担当の青年は言葉を詰まらせる。
「でも多分……何か理由があるんだ、きっと!そうじゃなきゃ断るなんてこと有り得ない」
「理由?」
「例えば……不治の病に罹っているとか」
「あの人が?不死者でしょ?」
「戦時中何度も生き返ったと聞いたよね?」
双子の兵士が顔を見合わせた。
「言っておくが!死にかけてたことは何度もあるが死んでない!その度寸止のところで助かってるだけだ!あの人だって俺等と変わらない人間なんだよッ」
言いたい放題の双子に警備担当の青年は大声で反抗する。肩で息をしている警備担当の青年を双子は引いたように見ていた。
「そんなに熱くならないでくださいよ」
「もしかして…」
「「惚れてたんですか?」」
双子の追求に警備担当の青年は顔を真っ赤にした。
「違うッ!!そんなんじゃない」
双子はさもおかしげに図星だ、と顔を見合わせて笑った。
どこへ行っても中心的な話題はタリオンとエルの ことについてだった。
魔王討伐後、エルはこの城に滞在し、城の者と交友を深めていた。タリオンが思っていた以上にエルはこの城に馴染んでいたらしい。
噂の的になっているのは良い気はしなかったが、それ以上にエルの姿が見えないことが気にかかった。
昨夜以降、誰もエルを見かけていないという。それに、エルの断った理由に彼女の健康状態が関係しているのではという噂が。
以前エルが言っていた言葉が頭に浮かぶ。
『猫は死ぬとき飼い主の側を離れて見えないところで一人死ぬって知ってました?』
なんてことない会話の中の一つ。
エルは雑学に富んでおり、時々タリオンに聞かせていた。その時はいつものこととして半分聞き流していたが、今の状況と照らし合わせると嫌な予感しかしない。
(考えすぎかもしれない。だが、もしも、もしも本当に自分の死を予感していて姿を見せないのだとしたら……?)
不安が胸をすくい、タリオンはいてもたってもいられなくなった。
タリオンはエルの行きそうな場所を探すためにマントを翻した。
◇◇◇
城中で噂の張本人は、城地下の暗い回廊に座り込んでいた。
魔法を使うことも、指を動かすことも億劫なほど憔悴し、エルは目を瞑りながら夢を見ていた。
両親に捨てられ、一人ゴミ捨て場のような場所を彷徨っていた幼い日々。路地裏の隙間から見える仲の良い家族を羨ましそうに見ていた。腹の虫が鳴ったが、食事を手にいれる手段も、気力も残ってはいなかった。少し眠っていたらしい。
気がつくと、目の前に一人の少年が立っていた。いくらか年上に見える身なりの良い少年は、何も言わずエルをじっと見つめていた。
青く澄んだ空のような瞳。
屋根の隙間から見える本物の空よりもずっと美しいものに見えた。
少年は外套を脱ぎエルに掛けた。かじかんでいた身体の震えが少しだけおさまる。少年はポケットを指すと「それを使え」と短く言い残しその場を去っていった。
エルはその後も暫くうつらうつらとしていたが、少年の先程の言葉を思い出し外套の右ポケットに手を突っ込んだ。
食べ物でも、と期待していたがあったのは一枚のハンカチ。
エルは落胆した。なにか他にもないかと左のポケットに手をいれる。小ぶりの紙袋のような感触。それを開くと中にチョコチップクッキーが入っていた。甘くて、美味しい。エルはお腹が満たされるとともに、心がぽかぼかと温かくなるような感覚を覚えた。
少し元気が湧いてきたところで、エルはハンカチに書かれていた紋章が近くにある建物にもあったと思いいたった。貰った外套を被りながらその場所へ向かった。
そこはとある辺境貴族が出資している孤児院であった。紙を見せるとエルは中に通され保護された。
その夜、エルは不思議な夢を見た。真っ白な空間の中、一人立っている夢。上下や横という概念はなく、ただただ白い清浄な空間がずっと広がっていた。エルが不安な気持ちに駆られていたとき上方から声が聞こえた。その声の主の姿はどこにも見えず、エルはきょろきょろと周りを見た。
『これからおぬしは厳しい道を行き、悪を打ち倒す光の支えとなる。只人の身では容易ではないその道のりに僅かばかりの奇跡を与えよう』
エルが目覚めたとき、その首には黄金の砂が光る砂時計のネックレスがかかっていたのだった。
それから魔法の才があることが判明したエルは魔法士の老師につき学ぶこととなった。エルは師匠に夢の話をした。師匠は「きっとお前が使命を遂行するために与えられたものなのだろう」と言う。砂時計の砂はただひっくり返すだけでは動かず、硝子の中の砂は不思議の力で統制されているようだった。
金の砂時計の秘密が分かったのは、エルが魔法の爆発事故に巻き込まれたときであった。
最早手の施しようがないと思われた身体の欠損が、金の光に包まれたかと思うと元通りに戻っていたのである。その胸元では砂時計がひとりでに浮かび、中の砂が下から上へと逆流していた。師匠はそれを〈輪廻の砂時計〉と呼称し、エルは魔法の修行を続けながら己の使命について考えるようになった。
エルは15歳で、史上最年少の魔法士となった。
そして、エルはかつて己に手を差し伸べてくれた少年と再会した。
辺境を守る城主の、厳しく無愛想な一人息子タリオン。
その当時22歳となっていたタリオンはエルのことを覚えてはいなかった。だがエルはほんの少し運命じみたものを感じひそかに喜んだ。魔王に対する対抗策として結成された軍隊の中で、タリオンは旗印として先陣をきっていた。
魔法士として奮戦し2年ほどたった時、エルは気がつけばタリオンの右腕のような存在になっていた。
いつでも遠くを見据える、強い意志の宿る青い瞳。その横でエルは敵を魔法で薙ぎ払う。
何度も、何度も死にかけながらその度互いを助け合ううち、単なる上司と部下におさまらない強い絆が二人の間に生まれたのだった。
そして軍結成から4年後、国はついに魔王を打ち倒した。
何度もエルの命を救っていた〈輪廻の砂時計〉。
だが、死に際の魔王の呪いによってその硝子にごく小さな亀裂が走り、そこから砂がほんの少しずつ零れ落ちていったのであった。
残り時間は半年あるかないか。
その頃にはエルは自分のタリオンへの想いに気がついていた。元々釣り合う立場ではない。非常事態下ではなければ背を預け合うようなことなどなかった。だから平和が取り戻されればもう関わることなどなくなってしまうだろう。
だがエルはこれでタリオンとのつながりが切れてしまうのは嫌だった。どうせもう死ぬのならば、最後に想いを伝えにいこう。そしてタリオンの城に押しかけて言った。
「タリオン様好きです」と。
最初に好きだと告げたときのぽかんとした反応が面白くて、エルの口からまた好きだと素直な気持ちが零れ落ちた。そしてタリオンの城にとどまり、エルの告白習慣がついたのだった。それはエルの楽しみの一つとなった。
そのうちタリオンが「また来たのか」と呆れを見せても、完全に拒絶しないのを良いことに挨拶のように告白しつづけた。
許されている、という幸福な感覚がエルの中で広がっていた。
後悔しないため。満足して死を迎えるため。
そのためにはじめた告白。エルは想いを返してもらえることなど欠片も期待してはいなかった。
前夜祭でタリオンからの求婚を受けて、初めてエルは自分のしていたことの卑怯さに気がついた。
(……遺していく人に一方的に想いを告げるだけ告げて、告白されたら逃げるだなんて)
一瞬跳ねた心を抑えて断りの文句を口にして、エルはその場を離れた。もう、命が残り少ないことは気がついていた。きっと明日のタリオンの誕生日まで持たないかもしれないと。
エルは来た時と同じくそっと姿を消すことにした。タリオンはエルがいなくなったことに気が付いて探すかもしれないが……元々猫のように気まぐれに動いていたエルだ。どこか旅に出たのだと勝手に解釈していてほしい。
本当は城から出て終わりを迎えるつもりだったが、思った以上に体力が持たず、城の外へ繋がる地下坑道の中で、エルは動けずにしゃがみこんでいた。
エルはぼんやりと目を開いた。
やけに冗長な走馬灯だった、とエルはおかしくて小さく笑った。
それからどれくらい経っただろう。近づいてくる足音。目線を上に上げると、あの日の路地裏と同じような光景が目の前にはあった。
タリオンであった。
タリオンは駆け寄るとエルの状態を確認し、その土気色の顔と冷たい身体に、表情をさっと曇らせた。
「何故俺に言わなかった!……早く医者に」
「無駄ですよ」
エルはぴしゃりと言った。
「私死ぬんです」
タリオンは信じられないものを見るような目を向けた。エルは、笑っているわけでも泣いているわけでもなくただ真顔だった。
タリオンはエルが死を受け入れていることに反発心を覚えた。その小さな身体を抱き抱え医師のもとに向かおうと小走りする。
刹那。ふっ、と腕にかかる重さがかき消えた。
そこにエルは居らず、ただぽっかりとした空間だけが残っていた。
「こんな時にッ……」
エルの得意な魔法の一つである瞬間移動を使ったのだと直ぐに思い至る。ボロボロの身体で瞬間移動など使えばどうなるか。
そう遠くには行っていないはずだと判断してタリオンは周囲を必死に見回した。
エルは地上につながる階段の壁に寄り掛かっていた。タリオンの読み通り、エルの魔力は遠くまで彼女を運ぶほど残ってはいなかった。
先程いた回廊からおよそ十数メートルばかり。
普段ならば十数キロ離れた場所にも行ける能力があった。それでも今のエルは体が負荷に耐えきれず、喉に血がせり上がるような熱さを感じていた。
目の端にタリオンを捉えたとき、エルは逃げようとはしなかった。もう、動けなかったのである。
「エルッ!!」
切羽詰まったような声がエルを呼ぶ。エルは焦点の定まらない目をタリオンに向けた。タリオンがエルを名前で呼ぶのは数少ない。珍しいこともある、とどこかぼんやりと思った。
「何が可笑しい」
エルは彼女自身も気づかぬうちに笑みを浮かべていた。ほとんど回らぬ頭でエルは自分の思いをそのまま答えた。
「私が追いかけてばかりだと思ってたけど考えてみれば……タリオン様はいつも私を見つけてくれてたんだなあと」
幼き日、生きる場所を与えてくれた。
魔法士として、右腕として認めてくれた。
遭難したとき本気で心配して叱ってくれた。
大怪我を負ったとき何時でも最初に駈け寄ってくれた。
エルは、自分がタリオンのことを本気で好きになるのは当たり前だったのだ、と噛みしめるように思っていた。
「お前……」
タリオンはどこかぼんやりとしているエルに聞いた。悪い冗談であってほしいと心から願いながら。
「本当に死ぬのか?」
「ええ」
間髪入れずに、残酷な答えが返ってくる。
「何故だ?今までお前は何度も死にかけた。だがそのたびにしぶとく生き残ってきただろ」
タリオンのあけすけもない言い方にエルは笑った。口の端からこぽりと血が溢れる。
「奇跡には、限りがある、んです」
エルの首にかけられているネックレスのチャーム。親指ほどの砂時計。硝子には、蜘蛛の糸のようなヒビが入り、さらさらと金色の砂がきらり、きらりと零れ落ちている。
時計の中の砂はほとんど残ってはいなかった。
〈輪廻の砂時計〉。
エルの命を何度も救う奇跡をタリオンは何度も目にしていた。
「だがお前は命にかかわる怪我なんて……」
「砂時計は、私の命、そのもの、でした。……砂がなくなれば当然っ……今までの奇跡の分はちゃらなんですよ」
「いつからだ?いつからこんな…」
「魔王の最後の足掻きです」
タリオンは愕然とした。
半年以上前から、エルはこうなることが分かっていたのか。
タリオンは自分が何も知らされていなったことに憤りと胸が引き裂かれるような悲しみを覚えた。
「怒らないで、下さいね……響くので」
もしタリオンが明日でいい、とエルを探さずにいたなら彼女は本当に一人でひっそりと逝くつもりだったのだ。襲い来る感情に打ち震えているタリオンにエルはか細い声をかけた。
「大丈夫、ですよ。タリオン様には頼りになる味方が大勢いますから。私がいなくても……」
「だが、俺はお前を知ってしまった!お前が、笑いかけるから、好きだと何度も伝えるから。気づいてしまった。この感情はただの仲間に対するものじゃない」
苦しげな顔でタリオンは吐き出す。
「知らなかった頃には戻れない」
タリオンの声は震えていた。常に自信を顕示する強肩は小さく縮こまっている。
エルはその弱りきった姿に、愛しさと罪悪感を感じた。だがもうその頭を撫でることも、声を発することもできはしなかった。
「一人だけ満足して逝くなんて許さない、俺は……命令だ…エル、逝くな。エル?…………おい、逝くなッ‼エルッッ」
反応を示さなくなったエルにタリオンは必死で呼び掛け続けた。
エルはだんだんと四肢の感覚が鈍り、視界がぼやけていくのを他人事のように感じていた。最早もうタリオンの声は霞のようにしか聞こえておらず、現実世界から切り離されていった。
清浄な白の世界。
エルは以前もそこに来たことがあった。
『我が愛し子よ』
どこからか声が響いた。
白ばかりの世界では方向感覚はまるでなく、エルは取り敢えず天井を向いた。
初めてこの空間に招かれた幼き日と同じ声だ。
下界で猛威を振るっていた魔王。それに立ち向かう光のような存在として生まれた男がいた。だが、彼には魔法の才がなかった。エルは、彼の力を補う存在として、並外れた魔法の才を与えられた。だが、魔王という天災に立ち向かうには、人間の少女はあまりにも脆弱であった。
それこそ奇跡を何度も起こさねばいけないほどに。そして〈輪廻の砂時計〉はエルの手に渡された。
「奇跡の終わりをお告げになられにきたのですか?」
『本当に、それでいいのか。エル・ヘルエスタ』
「もう満足も満足です。私は後悔してない。彼を愛し、愛を伝えられた。それで充分。ほんとは少し…悪いことをしたなぁとは思いましたけど」
エルの顔に少しだけ寂しげな色が滲んだ。だがそれはすぐに見えなくなり、エルは微笑む。
「私は十二分に助けられて来ました。人は誰しもいつか死ぬ。それが自然界の摂理です。私は今だっただけのこと。魔王の脅威という異常事態は収まり平和な時代が訪れた。これ以上は私には過ぎるというものです」
エルは、概ね満足していた。
好きと伝えられた。最後には泣かせることだってできた。これ以上何を望むのか。
悟ったように落ち着き払うエルに、天の声がまた降ってくる。
『そうか。だが我は満足していない』
決心を否定するような言葉、だが温かく親切な色を帯びた声に、エルは訝しげに眉をあげた。
『物語はまだ終わっていない、これからも続いていく』
頭にもやがかかるような感覚。
エルは眠気に耐えきれず目をつむった。これが終わりなのか、あっけないな……と少し感傷的になりながらも、天の声が最後に言った言葉が妙に引っ掛かっていた。
目を開ける。柔らかな毛布に包まれている。エルにとって見覚えのある天井。
(あれ。地獄でも、天国でもない……?)
左手が温かい。首だけ横に向けると、エルの手に重ねるように両手を置きベットの端に突っ伏して寝ている人の姿。紫紺のマントは椅子にかけられ、シャツ姿で疲れたようにタリオンは眠っていた。
「……何で?」
エルは咄嗟に首元を見た。銀のチェーンの先に親指ほどの大きさの砂時計。表面にあったはずの傷は消え、中で命の砂がきらきらと煌めいていた。
エルの奇跡は確かに潰えたはずだった。奇跡を与えた砂は全て零れ落ち、今まで先送りにされていた死は回避できない筈だった。
だがしかし何故かエルは生きている。
命が助かった、という安堵ではなく混乱のほうがエルを支配していた。
「……ん…!!目覚めたのか!?」
「あの…私なんで」
「奇跡はお前を見捨てていなかったんだ」
タリオンはエルが倒れた後のことを語った。
少しずつ身体が冷たくなり、城の医師にも首を振られ絶望しかけていた時、砂時計がひかりはじめどこからかサラサラと砂が逆流するように舞い戻り、光がエルを包みこんだかと思うと、砂時計は元の形を取り戻し、エルの身体に体温が戻って来たこと。命に別状はないと言われつつも一向に目覚めないエルを傍で見ていたこと。
エルは神の最後の台詞を思い出した。
『物語はまだ終わっていない』と。
それはつまり、また神の手によって砂時計が修復され、エルの命が永らえさせたということに他ならない。神が何を思っていたのかは分からないが、また生かされたのだ。
もう覚悟を決めて全てに折り合いをつけていたエルは、思わぬ奇跡に困惑した。
「エル。俺と共に生きてくれ」
エルはその言葉に顔をあげた。
タリオンと目が合う。眼差しに宿る真剣な色に心がどくりと音をたてた。
喉を嚥下させ、動揺を隠すように息を吸う。
エルには終わりが見えていた。だからこそエルは前夜祭でタリオンの想いを受け入れるわけにはいかなった。まともに二人の未来を思い描いたことはなかったのだ。だが、生きながらえた今は?
手をそっと添えられる。その手の熱さにエルはたじろいた。
「……私、城主の妻とか無理ですよ。社交とか」
「構わん。別に妻が欲しいわけじゃない。どんな形式であれお前がいてくれさえすればいい」
「直ぐに飽きてしまうかも」
「飽きるとは無縁の愉快な人間だろ」
「そんな面白いですかね、私」
「生きてるだけで面白い」
「全肯定ですね」
想像以上に真っ直ぐな想い。
エルは胸がいっぱいになる。自分からアプローチするのは恥ずかしくなかったが、他ならぬ大好きな人に「これから」の話を当たり前のようにされて歓喜と困惑と羞恥がないまぜになった感情が押し寄せる。
だが目の端にきらりと光る砂をとらえたとき、エルの頭は少し冷えた。
「私、やっぱり奥さんにはなれません」
「何故だ」
「私は輪廻の砂時計を賜り、その恩恵で生き永らえている身です。何故かまた生き返ったけど、それは対価なしには成立しないものだと思うんです。私はいつ本来の命運通りに死を迎えるか分からないし、今は明かされていない次の使命に向かわないといけないかもしれない。一所に落ち着くなんてできないかもしれない。だから……」
「なんだ、そんなことか」
その懸念は取るに足りないこととでもいうようにタリオンは言った。
「今、二人とも生きてここにいる。明日のことは明日考えればいい。俺は言ったはずだ。お前がいればいい、と」
それに使命についてだが、と付け加える。
「別にこの城に住めと言っているわけではない。帰る場所でさえあればいい。いざとなれば旅に着いていく」
「それは駄目ですよ。」
折角長い旅を終えて領地に帰ってきたところなのに、城主が頻繁に城を空けていたら領民も城の使用人も困惑するはずだ。だがタリオンは何が悪いのか、といった様子で至極真面目な顔をしていた。
エルは自身の動揺も懸念も難なく受け止めるタリオンに、強張っていた心が解けていくのを感じた。
「タリオン様、」
「まだ納得いかないのか?」
「好きです」
何度も何度も言ってきた言葉だった。
だが、それはいつもの明るさと軽快を含んだものとは違う。
エルはタリオンの目を真っすぐに見つめた。それは、別れの呼び水ではく、未来を約束するための言葉。タリオンは、魂を震わすような情動に駆られ、目元を細めた。
「ああ、俺もだ」
毎日山あり谷ありで騒がしい毎日。結局エルはタリオンの妻になったものの、旅に出てふらりと城に戻ってくるという生活を繰り返した。タリオンは城主でありながらも時々エルと共に旅に連れ立ち、その度溜まっていく仕事に侍従は嘆いた。
だが概ね城の人々はエルとタリオンの様子を温かい目で見ていた。
二人の間には約束事が一つだけあった。それは、毎日好きと伝えること。タリオンと離れて旅に出ているときにも、エルは魔法を駆使して、愛のメッセージを届けた。この告白習慣は子どもが生まれても、老夫婦になっても続いた。
「今日も変わらず愛していますよ、私の旦那様!」