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七章 連鎖したもの

 

 学園に通い始めた頃のこと。見慣れない風景、見慣れない生き物、なのにどこか見覚えを感ずるモノを横目に、鈴音は家に着いた。生まれて一年に満たず過ごした時間も相応に短いサンプルテの一室をとても居心地がいいと感じた。その理由は、なんだったのだろう。

 

「ただいま」

 と、玄関扉を開けると、

「おかえり〜」

 と、父のだらけた声。ダイニングに入るとテーブルの姿に鈴音は苦笑しかけた。苦笑せず詰りもしなかったのは、父の姿があまりに似合っていた。期待していなかった、とも、いえるだろうか。

「……」

 ダイニングに踏み込んだ片足を下げないまま、鈴音は口を開いた。「お父さん、──」

「なんかな」

「ううん、なんでもない」

 話したいことはあったが父の姿を見たらなんとなくどうでもよくなって、「お父さんはいつも通りだな」

「自慢じゃないが動かんことにおいて俺の右に出るもんはおらん」

「本当に自慢じゃないなぁ」

「んなことより、勉強は捗っとる」

「登園三日目だよ、本格的な授業、って、感じは、まだまだないなぁ」

「物足りんか」

「つまらない、とは、感じてる。ずっとこうじゃダメなんだろうけど」

 父や母の記憶を持っている時間は短いだろうとのこと。今は授業を重要でないと感じていても、父母の記憶が失われたあとまでそんな調子でいてはいつの間にか取り残されて誰にも追いつけなくなっていると見通せる。

 しばらくすると、

「ただいま帰りました」

 と、母が帰宅した。姉が言うには()()するほど仲のいい両親であるが、父が母に対して冷たいときがあるように感ずるのは鈴音の思い過しだろうか。

「帰ったらすぐうがい・手洗いを済ませぇよ」

 と、いう父の文句がその一端であるが、

「心得ております」

 母は聞き流しているのか全く動じた様子がなく怠惰な父に献身しているので、父が何かしらの自罰感情を文句の形で母にぶつけているように思えもすれば、そんな父を母が遠回しに罰しているようにも思えた。文句が娘の鈴音達にほとんど飛んでこないのは母が最たる理解者であり父が信頼している証なのだろう、とも、鈴音は捉えている。

「鈴音もうがい・手洗いね」

「うん、流行病予防だからしっかりやらないとね」

 それを先に帰ってきた鈴音に言わなかったのは娘いびりが虚しいからか。自罰感情を悟られたくないからか。ばれているから失策だが。

 夕方に帰宅した次女納月と三女子欄は治癒魔法研究所に勤めていることもあって感染予防対策をしっかりこなしてからダイニングに入り、鈴音達への帰宅の挨拶をして、いつものように治癒魔法研究のノートに向かった。

「お姉さん達の、どのくらい面白いことになってるの」

「ネタ帳といえばそうですから面白みをもたせたいんですけど、進捗具合のことなら……」

 と、納月がノートを指差して、「なんも形になってませんねぇ」

「なんも」

「ええ。どっから手をつけていいもんか見定まってないんですよ〜……」

「症状が多岐に渡っているんです」

 とは、子欄が教えてくれた。「症例の少ない不治の病で参考にできるデータが少ないですし判っている症状のみを観ても個別対処か連鎖術式による大掛りな治癒魔法の創作が求められます。術式は逆算のようなものですからきっちりと人員選出や施術方法、手順を見定めておかないといけませんがデータ不足の懸念があるので魔法創作方針や手順の見極めも──」

 ……難解だ。たぶん簡単に説明してくれてるんだろうけど。

 治癒魔法の細かいところは使う本人達が理解していればいいことなので、鈴音はざっくりと纏める。

「お姉さん達は難しい魔法を創ってるんだな」

「何事も動き出さんと影響が出んからね。結果を出したいなら日日精進しぃよ」

 と、父がエールを贈った。

 ……お父さんって、基本的にわたし達には優しいんだよな。

 母にもそうしてあげればいいものを、と、注意したところで父に催促の効果が期待できないので鈴音は動き出さなかった。

 納月や子欄より少し前に帰ってきた長女音羅から順に年功序列というのでもなく自然に入浴して夜食の時間になると、テーブルを囲んだみんなが静かになる。ほんの少しの沈黙に居たたまれなくなって口を開くことはない。父が上体を起こして、両手を合わせたからだ。

「いただきます」

 と、いう父の音頭に合わせて、

「『いただきます』」

 鈴音を含めた四姉妹と母が手を合わせた。

 食事を摂ることがほとんどない父の前には今夜もがらんとしたテーブルがあって、そこはすぐ突っ伏す父の姿で埋まる。一緒に食べないなら同席する必要もないのに、と、反抗期的に追い出そうとすれば追い出せそうなのにそうしないのは、鈴音に取っても母や姉に取ってもその姿がなければ箸が進まないことを知っているかのようで──、「ごちそうさまでした」や、寝床に入って「おやすみなさい」の挨拶まで、父の音頭があってみんなの声が揃う。鈴音も自然とみんなと声を揃えていて、それ以前に、父の音頭を待っていた。

 ……ああ、そうか、だからなんだな。

 父はテーブルからめったに動かないが声を発することで家族に影響を与えている。一声を発することで一瞬にして和やかな雰囲気を作り出すことができる。母や姉は挨拶が馴染んでいるだろうからいまや誰が第一声でも構わないはずなのに、誰も父の第一声を奪わない。それは父の第一声を求めているから。そのことを聞いたでもないのに鈴音も父の第一声を待っていた。みんなの、父の声を待つ気配を察していた。だから、継いだ記憶に惑わされることなく自我でもって明言できる。

 ……ここは、わたし達の家なんだ──。

 家族のみんなが支えられていて、求めていて、手放せない存在。そんな父を中心に成り立つ空間や時間に身を置けることは、当り前で、じつはとても尊いから、ほかにはない居心地のよさを感じてやまないのだ。

 

 

 当り前の家が崩壊しようとしている。

 首を絞められているひとを傍観しているかのようで音羅は目を背けていた。動揺が蔓延した室内で否応にも耳は働いて、いまにも止まりそうな弱弱しい息遣いを捉えてしまう。それが、家族の中心の、あの父のものだとは信じたくない。信じた瞬間、地の底に引き摺り込まれそうで、得体の知れない恐ろしさを刻み込まれそうで。

「音羅お姉様、お父様が……」

 子欄が音羅に縋りついて、同じものに堪え、怺えている。

「どうしたらいいの、」

 鈴音が父を覗き込んで。「お父さん、このままじゃ、本当に……!」

 鈴音の切迫した声は、五姉妹共通の認識であった。

 納月が、父の横に座って口を開いた。

「……創作魔法を試します。理論は不完全ですけど、魂器拡張のためです」

 納月が父に翳した両手を音羅は急いで止めた。

「待って。わたし達はパパの様子を観察しておいてっていわれたんだ。何が起こるか判らないから手を出したらいけないって意味だよ」

「黙って見ていろと」

 落ちついていて、それでいて恐がりな納月が、音羅に摑みかかる勢いで迫った。「カカシですか、わたし達は。それで作物が一〇〇%(ひゃくパー)守られるなら苦労しませんて……」

 おどけたりツッコミを入れたりする普段の姿勢を崩すまいと気丈に振る舞っているが、納月もぎりぎりの精神状態だ。

「理論が不完全って言ったよね。そんな魔法を、集中もおろそかにして使えるの」

「やらずに後悔するよりずっとマシですよ!」

 叫んだ納月が父に向き直って両手に魔力を集中させる。音羅は、その手を摑みあげた。

「やめて。せめて、ママの意見を聞こう」

「そのお母様が手段を持たないのに、わたしの持つ可能性をどう検証するってゆうんです」

 片腕を吊られたような恰好になった納月が、魔力の集中を解いて涙した。

「わたしは自分の持つ可能性を試したいんです!お姉様のように何もしてこなかったわけじゃないんですから……」

「っ!」

 音羅は、納月の手を、そっと放した。

 ……わたしは……。

 父に拒絶されて、魂器拡張の手段を手放さざるを得なかった。手段がなくなったと吞み込まざるを得なかった。そうして何もできず、納月の言う通り、何もしてこなかった。

「……」

 肩からプウが見つめている。

 ……わたしだって、できることがあるならしたいよ。

 だが、できない。父が嫌がっている手段を、どうやって実行せよというのか。

「わたしは、ううん、子欄さんだってずっと研究してきたんですよ、知ってるでしょう」

 納月が俯いて言う。「お父様の魂器拡張、もしくは魂器過負荷症を寛解する手段を、なんとか編み出そうって、毎日、毎日、研究した。そのために、世界が碌に研究しない病のことも調べて、治癒魔法の可能性をとことん突きつめてきたんです」

 その成果が、不完全ながら編み出した魂器拡張の魔法。

「それを『使うな』だなんて、棒立ちのカカシには言われたくありません……」

「……音羅お姉様」

 子欄が頭を下げた。「納月お姉様の気持、どうか察してください。わたしも本当は試したいんです。むちゃは承知してます。この魔法は暴発する危険性が高いから……。でも、」

 父の苦しげな息遣いが、妹を動揺させ、奮起させている。

「助けたいんです……。こんなお父様を見ているのは、もう、限界です……!」

「しーちゃん……」

 動揺している。音羅は、それだけだ。いつここまで進行したのか、父の容態に気づけなかった。納月達もきっと気づいていなかった。恐らく、母ですらも。

 テーブルから動かない、平穏な日常の景色にして、家族の中心。それが父。家族を心配させまいとしていたのだろう、体調についてこれまで一度も気取らせなかった。健康だ、と、音羅は寝る前まで信じきっていた。魂器過負荷症は父には無縁だったのかも、とさえ。疑うことを知らなかった幼い頃とは違うが、音羅の楽観は願望だった。日常は緩やかに崩れていた。崖は緩やかに迫っていた。

 鈴音が音羅を向く。

「試そうよ」

「……」

「納月お姉さん達の研究が無駄になるとか、そういうことじゃない。音羅お姉さんが常日頃いってることだよ」

 鈴音が、音羅の消極性を指摘した。「やる前から諦めたらいけない。そうでしょ」

「……、……うん」

 音羅は普段の自分を裏切れなかった。それに、納月や子欄の研究が無駄とも思わないのである。音羅よりずっと頭のいい二人が長年懸けて研究してきた魔法を使わせないということは、音羅が知り得なかった可能性を切り捨てるということだ。

 ……それに、もう、パパの魔力も、限界だ。

 父の体内の魔力。母が寝かせたときは落ちついていたそれが、時間が経つにつれて激しく渦巻いていたのだろう、魔力漏出が加速している。母の治癒魔法で再生したという右腕が不完全さゆえか魔力を最も漏出させている箇所だ。そこが発熱によって破壊されれば、堰を切ったように魔力が体外へ溢れ出し、父は再び炎に包まれてしまう。

 次にそうなったら近づけなくなってしまうことを、燃え盛る父と対面した音羅は肌で知っている。納月が父の近くで魔法を使おうとしていたことを考えると、炎に包まれたあと試すのは難しい。意見を仰ぐため母の帰宅を待つ場合、父はおろか納月達のリスクも高まる。

 父の容態に変化を感じたら母に一報を入れる手筈だったが最早その時間すら惜しい。

「姉上……」

 謐納が、音羅の手を握る。「父上は……亡くなってしまうのですか」

 ……。

 音羅は、答えられなかった。

 幼い謐納も、音羅達のように父や母の記憶をわずかに継承して、ある程度のことを理解できている。死ねばいなくなる。その事実を理解し状況を吞み込んでいて、ひとを失う痛みを父親の死でもって知ることになる。

 血の繫がりのないひとの死ですら音羅は思い悩み苦しんできた。父親の死をどのように乗り越えてゆけばいいかなど教えようがない。

 ……掏り替えだ。

 謐納のためではない。音羅自身が、乗り越えられそうにない。

 失いたくない。

 限界だ。

「なっちゃん」

 音羅は納月に歩み寄り、横に座って父を見た。

「さっきはごめんね。痛かったよね……」

「幸い骨は折れてませんし、平気です。お姉様の、変に慎重なところも知ってますし」

 微苦笑の納月に、音羅は、

「お願いしていい」

 と、尋ねた。

 納月が目を丸くして、次には、決意の目で答えた。

「子欄さんにも協力をお願いします。いいですよね」

「うん。しーちゃん、いいかな」

「無論です。速やかに取りかかりましょう!」

「ええ!」

 納月と子欄が父の両脇に座り、両手を翳した。両手に集中させた魔力を、父の魂に落とし込むようにゆっくりと下ろす。

 どんな魔法か想像もつかない音羅は、鈴音と謐納を伴って魔力のゆく末を見つめた。

 普段なら潜められていて探知できない父の魔力を、感じ取ることができる。魂がどこにあるのか目視することはできないが右腕を除けば胸の中央辺りから最も魔力が溢れており、魂がその辺りにあると推測はできる。陰った滝壺に零れて爆ぜた墨のような父の魔力に抗いながら、納月と子欄の魔力が身を削るように青白い火花を散らして突き進んでゆく。

「っやはり……こうなっても強いっ!こっちはとっくに全力なのに……!」

「押し返されてます……。お父様の魔力は、いったいどれだけ……!」

 予想だにしなかった強烈な反動に、納月と子欄の両手ががたがたと震えている。

 ……魔法が失敗したら、どうなる。ママ──。

 父の症状に合ってたまたま治療できた高等部時代とは違い、いま音羅ができることはない。が、二人の魔法に全てを預けるのでは息苦しく、考えるより先に震える手を支えていた。

「お姉様……」

「音羅お姉様、ありがとうございます。魔力に、集中します!」

「うん。お願い。手は、わたしが!」

 反動はあまりに強く音羅の腕力でも一〇分と持ちそうにない。魔法本体に協力できないなら支えるくらいは限界を超えてもやり遂げてみせる。

 そんな気持でいたから音羅は驚いた。鈴音と謐納の手が重なったのだ。

「わたしも支える」

「頑張りまする」

 ……二人とも、ありがとうね。

 上の三姉妹が、下の二姉妹にうなづき返すと、想いを束ねるように散った光を集めて何時間にも感ずる数分あるいは数秒後、創作魔法が進捗した。

「ここ、ですね……お父様の魂の壁!」

「はい、たぶんっ、これを拡張できればきっと、魔力が魂器に収まってくれます!」

 滝壺の飛沫を超えて時化のようになっていた父の魔力の中で、納月と子欄の魔力が一点に集中、父の胸許で強く輝いた。

「行きますよ、子欄さん!」

「はいっ、タイミングお願いします!」

「じゃっ一発勝負で!三、二、一、はいッ!」

「ッ!」

 万華鏡に飛び込んだように青白い光が乱反射した。目を開けていられない。

 ……すごい圧だ!これが、二人の魔法!

 二人の魔力の集束が時化を押し退けたのを感じた。入れ替わるように、体を包み込むような温かい空気を感ずる。

 ……終わった……成功したんだ……!

 浮遊感を覚えるほどに穏やかだ。総身を押し退けるように暴れていた父の魔力がぱたっとやんでいる。

 光が治まり、全ての解決を確かめようとした音羅達の目に、

「『っ!』」

 真朱(しんしゅ)の光が飛び込んだ。それは、納月と子欄の魔法の余光などではなく、父の胸許に突き刺さるように直立する火柱であった。息を吞む間もなく、父の右腕が肩口まで弾けて炎が噴き出した。創作魔法の結果は、言うまでもない。

「や、やぁ……!」

「お父様っ……!」

「──!」

 父へ手を伸ばそうとした納月と子欄の肩を、音羅は押して退けた。その瞬間、わずか触れた炎で音羅の腕が火傷を負ったが、納月と子欄は無事だ。

「二人ともっ……冷静に、なって」

「『!』」

 音羅の指示を聞いて、納月と子欄がじりじりと後退りした。

「お姉様……すみません、わたしのせいで、こんな……!」

 涙ながらに謝る納月に、音羅は微笑みかけた。

「何もしなかったら助けられない。可能性を摑もうと頑張ったことまで後悔しないで。このチャレンジは、別の形で必ず活きるよ」

 どこで活きるか。父のための魔法が誰の役に。そんなことは判りっこない。納月や子欄が苦しまないようにしたかった。それだけだった。

「音羅お姉様、火傷、治します」

「うん、お願い」

 骨まで焼けてしまったかのようで感覚がなく、気持が悪い。子欄に次いで納月も音羅の治療を手伝い、火傷はすぐに治ったが、父から立ち上る炎は消えることがない。

「……ダメ、なのかな」

 鈴音が膝を抱えてうずくまった。「お父さん……!」

「父上も、傷ついておられまする……」

 謐納が炎を見て、呆然としている。上の三姉妹も、同じだった。

 傷だらけだ。父も、妹も、音羅自身も、体と心が、慄えて、擦り切れそうだ。

 母への連絡を優先し、母の帰りを待つべきだった。

 ……わたしが、間違ったんだ。

 だが、……わたしは、何をした。

 何もしていない。行動していない。それで、何を後悔している。

 ……後悔するだけなんて。

 納月と子欄の挑戦を失敗に終わらせて、それに乗っかろうとしているようで、音羅は自分に冷たい怒りが湧き上がった。

 ……わたしは何もしていない。それなのに、何かをしたみたいな気になっている。

 これでは、文也失踪のときと同じではないか。

 ……学んだはずだ。自分が動かないと駄目なんだって。

 手段は、ずっと手の中にあった。

 ……拒絶されても、いい。

 父を助ける。

 生きる意味を失う。

 背反した気持が渦巻いて、どんどん冷たくなってゆく。

 ……パパ……。

 癒えたばかりの手を、音羅は炎へ差し向けた。

 納月と子欄が止めようとしたが、炎が音羅の手に触れるや凍りつき、弾けて消えた。

「なっ……何が起きたんです」

「音羅お姉様の魔法、ですか。炎が……なぜか、消えましたね」

 納月と子欄が観察するが、音羅自身がよく解らない現象なので説明できない。それに、説明より先にやることがある。火柱が消えている。今が、チャンスだ。

 ……絶対に助けるんだ。わたしが、家を、家族を──!

「お姉様……」

 納月が呼びかけたのは音羅が父に跨っていた。

 ……こんなこと初めてなのにな。

 体が自然に動いた音羅は、閉めきった瞑想部屋のように心が落ちついていた。

「なっちゃん、しーちゃん。すーちゃんとひーちゃんを外に出してママに連絡してきて」

「……確認ですが」

「しーちゃん、それは要らないよ」

「っ、はい……」

 音羅の声に、皆が気圧されたようだった。

 納月が鈴音を、子欄が謐納を部屋から出そうとしたところで、

「っ……」

 父が眉間に皺を寄せ、瞼を開けたかと思うと、視点の定まらない目差を南へ向けてゆく。目の前の音羅に気づいていない(?)

「パパっ!」

「お父様、目が覚めたんですか!」

 みんなが詰めかけたが、父は焦点が合わないのかひたすら南を見つめていた。それも一〇秒に満たず、瞼がすっと落ちて、意識もなくなったようだった。

「お父さん……やだよ、もう……!」

 鈴音が父の胸に縋りついた。「誰か助けて!助けてよ……!」

 納月と子欄も、鈴音のように首を垂れた。

「お父様……わたし達のせいでもっと苦しめて……。どうしたら……!」

「わたし達じゃ、全然……。どうか、許してください……!」

 謐納が音羅の腕にしがみついて、父を見つめる。

「……父上、つらそうです」

「うん……、判っているよ、ひーちゃん」

 音羅は、謐納の腕をそっとほどいた。

 ボッと火の粉を散らせて現れたプウが小さく鳴いた。

 ……そうだね。

 澄まし顔のプウと目を交わすと、音羅は改めてみんなに呼びかける。

「わたしが助ける。そうしようって、ずっと前から決めていたんだ。だからみんなは、家を出ていて。無事に終わったら呼ぶから」

 氷のように落ちついていた心が、みんなの泣顔で少しだけ、いい意味で焦った。先程まで音羅は自分の意識とは違う、使命感のようなものに突き動かされていた。今は自分の意識で、父の魂器拡張を成そうと冷静に思い直している。

「わたし、熱滅治癒しかできないでしょう。だから、治癒魔法とかはなっちゃんやしーちゃんに絶対勝てない、って、ある意味最初から諦めていたし今もそうだ。魂器拡張だって、わたしじゃなくてもパパの娘なら誰でもできる。でも、これは、わたしがやりたい……」

 

 ──音羅。

 ふわりと抱き締めてくれた父の、

 ……いいにおい。

 ずっとくっついていたくなる。何よりも穏やかで、落ちつけるにおい。温かいにおい。

 

 いつからかは憶えていない。気づいたら、そのにおいが、大好きだった。その熱が大好きだった。失いたくなかった。いつも、頭を離れなかった。学園へ通っているあいだも、仕事に出ているときも、ずっと離れなかった。ずっと、父のもとへ帰りたかった。ずっと一緒にいて、離れたくない。

 守りたい。父を愛しているから、音羅は率先したい。

「一石二鳥っていったら不謹慎だろうね……。でも、わたしに取ってはそうだから」

「待ってください。確認します」

 子欄が、改めて問う。「本当にいいんですか」

「……後悔しないかなんて判らないよ、未来のことだから」

 先のことを考えるのが得意ではない。目の前のことを解決するのが精一杯だから、最初から諦めないようにして、多くのことを乗り越えてきた。中には、やった気になって失敗していたことも、乗り越えた気になっていて後悔したことも、ある。

 ……始めてもいないことを、後悔できない。しちゃ、いけない。

 音羅は、父の胸を触れた。

「そういえば、パパに触れたのは何年ぶりだろう。……抱き締めてもらって、あれから何年もしないうちに、頭を撫でてもらうくらいしかなかったな。わたしから触れたことって、何回もないんじゃないかな」

 苦しげな息が、音羅の耳に届く。応答は、ない。

 閉口重奏。音羅は父の体温を強く感じた。火柱を消した直後は治まっていたようなのに、今はもう炎のように熱くて、きっと、音羅でなければ触れることもできないその体。

 ……ずっと、見守っていてほしいんだ。

 底知れず憎んだ。許せないまま蟠った気持もある。それでもいいと音羅は思っている。テーブルからでいい。見守ってほしい。ずっと、ずっと、傍にいてほしい。深呼吸の後、

 ……、パパ──。

「何をしているのですか」

 音羅はもとより、妹も、びくりとした。ダイニングのほうから響いた、母の声。

 妹が母を振り向いたのは気配で判った。音羅は、父を見つめていた。

 歩み寄った母が、今一度、問う。

「何をしているのですか」

「……。助けるんだ」

「……」

 自分に顔を向けさせた母が呟くように、「ひどい顔です」

「そりゃあそうだよ。こんなパパの姿、怪我のとき以来だ、ううん、あのときよりたぶん絶対ひどい……。けれど、助けようと思えば助けられる」

 呆れたのか、それともショックを受けたのか。母が短い息をついて、しばらく黙っていた。

「音羅ちゃん。確認しておきます」

「しーちゃんに二回されたよ」

「そうでしょう。恐らくその要素も含む確認です」

 母が、眼を視て話した。「覚悟があるのですね」

「生まれたときから、とは、いわないけれど、どこかにずっとあったよ。パパのことを助けられるのはわたし。そう思っていたんだ」

「望まれないとしてもですか」

「……自己満足なんだ。自分の考えを押しつけて、甘えちゃうんだ」

 花は、そんな音羅を受け入れてくれた。

「オト様には拒絶されます。甘えさせてはもらえません。心構え、できているのですね」

 心構えができていないんじゃないか。と、頭から言われていたら、音羅は反発しただろう。母も父と同じく優しいひと。どんな方向性であれ、子の可能性を信じている。

「拒絶は嫌だよ。でも、嫌われてもいい。パパが生きていてくれるなら、きっといつか解り合えるって思うから」

「確証はございませんね」

「気持の問題だよ。確証も、正しい答も、ないんじゃないかな」

 音羅は、そう思っている。「わたしは、可能性を手放すのは嫌だし、棄てさせるのも嫌だ。これから、たくさん時間があるはずなんだ、愉しい時間も、嫌な時間も、いっぱい、あるはずなんだ……、それを、棄てさせたくない」

 母が膝に両掌を置いて、小さくうなづいた。

「……もう一つです」

「うん。何かな」

「瞼を閉じて、思い浮かべてください。好きなひとのことを」

 音羅は、

 ……──。

 いわれた通りにし、途中で瞼を開けた。「恥ずかしいね、こんなときに……」

「──、オト様を、お助けするのですね」

「うん」

 音羅は母をまっすぐに視て答えた。

 母が、父の額に触れて、火傷を負いながらも気にせず触れ続けて、やがて、口を開いた。

「音羅ちゃん。憶えておいてください」

「……うん。何」

「押し寄せる風雨に吞まれぬことです。必ず、あなたは後悔します」

 未来は未知数であり、決めつけるべきではない。そんな考えを持つ母の、断言であった。

 音羅は、母の推察を否定せず、反発しない。

「ママも、家を出ていて」

「……やり方は、解るのですか」

「わたしが持ち得た唯一の手段だから」

 社会に出て意図せず耳に入ってくるようなこともあったが流れを独学していた。

 母が、わずか瞼を落とし、父の額から頰へ掌を滑らせ、唇を触れ、そして、口づけをした。触れ合うたび交わった夫婦の血が舞い上がる宝石のように煌めいて──。

 父から離れると火傷が完治した母だが痛みはあっただろう。それを厭わず父に触れられた。

 ……わたしは、やっぱり自惚れているのかな。

 こんな父に触れられるのは自分だけだと思っていた。

「音羅ちゃん」

「……うん」

「私から、お願いがございます」

 黙ってうなづいた音羅に、

「これから音羅ちゃんが行うことは、飽くまで私の提案です」

「え……」

「私が代われるなら代わりたいことです。が、できません。そんな私の、オト様をお助け致す唯一の手段は、音羅ちゃんに頼むことです」

「だから、ママの提案ってことにするの。そんなことしたら、ママまで拒絶されるんじゃないかな」

「ええ、だからこそです」

「……昔のパパとママ、だね」

 同じ立場なら支え合うことができる。こんなことでもなければ心から悦べただろう。救える悦びはあれども振り払えない苦しみがきっと襲ってくる。

「この選択は間違っています。でも、肩を並べたいのです」

 …………。

 母の微笑みは、自分の手で父を救えないことの憂いに満ちていた。そんな母の願いを振り払うことはできず、前向きに受け入れたい気持も音羅にはあった。

 プウを預けて、みんなを外に出すと、音羅は父と向かい合った。

 この先、何が待っているか。拒絶か。それ以上の何かか。都合よく何事もなかったかのように全てがうまくゆくか。音羅ができる未来の想定はたかが知れている。納月や子欄、まして母になんて敵いっこない、行き当りばったりだ。それだから本気・本音でしか動かない。父の生存。それが確定するならどんな未来でも受けて立つ。その覚悟は、生まれてから少しずつ、父への好意と憎悪のあいだで、葛藤して、培われてきた。好意だけでは決して手放せなかったその命。憎悪しても求めたその命。ゆえに絶対、

 ……助けるんだ!

 

 

 いかなる理由があっても人柱を立てるべきではない。それが娘の決意に甘える形であるならなおのこと。親たり得る姿に背いて、娘の未来を顧みない判断を下した。

 伴侶の命と娘の未来が天秤に載っていた。彼なら、娘を重く観たに違いない。誤りと解っていてララナは決意し、選び取った。これまで積み重ねてきたものを自らの手で破壊した以上、いかな未来も受け入れ、あらゆる誹りから音羅を守り、全ての非難を受け入れる。それが、最愛の彼からの言行であったとしても。

 ……。

 魔力の激流が治まり、魔力漏出が停止、急激な室温・気温上昇もなくなり、環境が落ちつきを取り戻しつつある。それらの情報から、オトの魂器拡張が完了したことをララナは察した。

 どんな様子か判らないので、まずはララナが一人で、家の中を確認した。

 安定した呼吸のオトは、左頰が腫れている。音羅は、死んだように眠っていた。ララナは二人に魔法で服を着せて、傍らに膝をついた。

「音羅ちゃん、よく、頑張ってくれました。……、オト様……、後程お話を致します」

「……」

 音羅をそっと抱き寄せて、オトが顔を伏せた。表情を窺い知ることはできない。が、伏せる前、ララナを瞥た眼が何を宿していたかは言うまでもない。

 ……、……。

 こうなると判っていて、音羅に重い荷を背負わせた。これからが、大変になる──。

 ララナは息を整えた。もうじき夜が明ける。

「寝直しましょう。みんなを、戻しますね」

「……」

 答えないオトにお辞儀して、ララナは焼け落ちた布団を片づけ、新しい布団を敷き直して娘を呼び戻し、就寝を促した。

 オトの腕には音羅が収まっている。ララナは納月達の横に並んで、瞼を閉じた。

 眠ることもなく朝を迎えて、キッチンに向かう。朝食の支度。冷蔵庫に手を掛けると感覚的に察して後ろを振り向いた。

「オト様、おはようございます」

「おはよう」

 挨拶をして壁に凭れたその姿は、以前と変りなく、無事のよう。「魂器拡張が成されたみたいやな。あと、いやにむかむかするのは、魂器に変なアクセスがあった」

「……納月ちゃんと子欄ちゃんの創作魔法。魂器に影響を及ぼすほどに研究が進んでいたのでしょうか。……体調が優れませんか」

「体調とゆうより、精神かもな。苛苛して止まらん。理性が利きにくい……」

「覚悟を持って決断し、委ねました。お怒りは全て私へ向けてくださりませ」

「……」

 催促など不要だった、と、目線で応えたオトが、思わぬことを口にする。「魂器(こんき)外殻(がいかく)は人格に関わる器官やから、下手な干渉で傷ついて、自然魔力に汚染されたのに近い状態になっとるんやろう。生前善良やった人間が悪霊になって出るようなもんで、早い話、理性が欠けとる」

 納月と子欄の魔法で魂器外殻が傷ついたオトは、理性の働きが鈍っているということ。

「(左様な状態に陥っておられるなんて──。)私の責任です」

「擁護はできん」

 オトが瞼を閉じて嘯く。「なんていいつつ、お前さんの責任に誘導しとるんやけど」

「オト様に過失がござりましたか」

「この顔」

 腫れ上がった頰に早くも痣。一発や二発では説明がつかない。

「音羅ちゃんに……、何回、打ち据えられたのですか……」

 音羅の拳は怪力も相俟って危険だ。鍛え上げた人間でも一発堪えれば上出来、三発も受ければ、命を落としかねない。

「何発かは避けれたけど、六、七発目で起き上がれんくなった。途中から意識が朦朧として、殴られとるのか撫でられとるのか曖昧やった。今も頭ががんがんする……」

「全力で抵抗なさったのでしょう。オト様には、過失はござりません」

「……衰弱しとったとはいえ娘の拳で気を失って、魂器外殻の損傷で理性が働きにくいといえども娘に──。仕掛けといた反射発動型覚醒魔法もやっぱり機能しとらんかった。音羅には俺を殺す権利がある」

 意識がないうちのことだがオトは自身の不埒を断罪したがっている。

「形はどうであれ生かすためでした。音羅ちゃんはオト様を手に掛けません」

「関係ないよ。そんで、俺は俺が死ぬべきとしながらお前さんの責任を問うとるわけ。いったい何様なんや」

「生きてくださるならば問題ございません。以後も妻として仕えます」

「夫婦は同等の立場やと俺は思っとるんやけどね」

「私はオト様を仰いでおります。立場と気持とは別の問題です」

「じゃあ、俺は遠慮なく出てゆける」

「……!」

 オトが玄関へ向かう。

 ララナは追った。靴を履く背中に、呼びかける。

「なぜ。オト様は、音羅ちゃん達と暮らしたくはござらないのですか」

「せっかく生き存えたのに、って。立場と気持は別問題といったのはお前さんやろ。この立場では一緒に暮らせんわ」

「それは……」

「気持としても無理やろ」

「え……」

「驚くことか」

 オトが右眼で睨んだ。「消えん傷をつけたんやぞ!」

「っ!……、……」

 戦時に数多聞き取った断末魔のような、しかし聞いたことのないような静かな怒声が、玄関扉に手を掛けて項垂れたオトから続く。

「解っとったはずやよ。『大変な状況になる』、『後悔する』」

「……」

「推測したことだらけやろ。誰も得なんかせんのやから、その通りになるのは当然やわ」

「生存することが──」

「要らん」

 扉を開けて出ていったオトが、景色に融けるようにして消え去った。凍えるような霧へ一歩踏み出していたララナは裸足で立ち尽くした。

 ……──私達の利なのです。

 彼はそうとは考えていない。

 彼は、こう考えただろう。一度あったことは二度ある、二度あることは三度ある、と。魂器過負荷症の壁が迫ったとき、彼が拒否しても音羅が再び踏みきるかも知れない。また、別の娘が音羅のように手を挙げる可能性も。済し崩しとはいえ一度受け入れてしまっている彼では説得力のある拒否ができない。理性の欠如も手伝って今度は彼が積極する危険性すらある。娘と距離を置くしかない。

 そんな彼の思考を予想することができていなかった。幸せだけを感じてくれるとはララナだって考えていなかったが、理性の欠如という大きな変化に気づけておらず、彼がこのような行動に出ることも考えていなかった。

 ……魂器外殻の治療は、オト様にも不可能なのでしょう。

 魂への干渉は世界でも創造神アースに連なる一部の存在にしかできない。魂を傷つけることができた納月や子欄はその力を持っているといえるかも知れないが、自然魔力が作用して魂を傷つけることもあるので干渉力としては手軽で微弱といえよう。一方で、魂器拡張のような魂に細工を施す行為は非常に困難で、納月や子欄のように傷つけて予想外の後遺症を招くことが実証されてしまったのが現状だ。彼がどのような形で魂に干渉可能かララナは具体的に聞いたことがないものの、生存の道筋をつける魂器拡張のような干渉行為が可能ならとっくにやっているであろうことを考えれば、彼は魂器拡張を自力ではできない。さらに、理性を取り戻すことが困難とも家を出たことから明白だ。

 理性の欠如を治せず魂器拡張の手段がないのでは、娘の安全を保証できない。

 ……それでも、連れ戻すか否か。

 昨夜に続き、娘の身を危険に曝す選択をするというなら、自称する彼ではなくララナが化物である。

 ならば、彼を放置するのか。覚悟を決めて、音羅の積極性を止めなかったのに。

 考えるまでもない。答は事前に出した。

 彼の行先には察しがつく。ララナは、ひとまず家に戻り、朝食の準備を始めた。ララナもそうであるように、上の三姉妹は仕事がある。

 朝食の準備が済んだ頃に子欄が起き、遽しい足取りでキッチンのララナを訪ねた。

「お母様、おはようございます。お父様はどこへ」

「おはようございます。先頃、家を出られました」

「なぜ。……」

 賢い子欄であるから、疑問符を口にしてすぐ、考えが及んだ。

「……責任を感じたんでしょうか」

「それもござります。一番大きいのは、──」

 理性欠如を伝えるべきか、ララナは一瞬迷った。子欄や納月がこれまで続けてきた研究を否定することになり、オトが家を出たことに責任を感ずるだろう、と。だが、事実は事実として伝えた。子欄達が同じことを繰り返さないよう失敗から学ばせる必要があった。

 話を聞いた子欄が、しばし言葉を失った。

「──なんてこと。ただお父様が生きていてくれればいいと思ってやったことが……そんな!」

「私がいえた立場ではございませんが、娘の安全が保証できないのは無責任です。その上、理由がご自身の理性欠如では家を出る選択肢しかござらなかったのだと想像致します」

 自分に害されることがないように、と、いう気持を成長促進の魔法に込めていたのなら、手を尽くしたオト自身の行為や意志すら裏切ったことになる。予期していた悪しき未来を回避できなかった。そんな現実を受け入れることなど彼でなくても難しい。

「……。お父様の居場所は不明なんですよね。お母様、いやに冷静です」

「行先には想像がついております」

 子欄が密かに両手を合わせて、怪訝そうだ。

「……、なぜ迎えに行かないんです」

 なぜ。朝食の準備は、正当な理由か。

 ララナは、彼の目差に怖じていた。口実を見つけて、逃げている。

 ……私は、見殺しにしようとしていたというのに──。

 彼の気持と思考を最重要と捉えて死の意志を受け入れようとしていた。が、彼を救おうとする音羅達を見て、土壇場で考えを変更した。多数の意見が正義であるとはいわないが、家族の死を目前にして何もできない無力感や何もせず失ってしまうことの絶望感を娘がいだくことになってしまうとしたら、彼の意志を受け入れていいのか、迷いが生じてしまった。音羅が考えてきたことは彼に接したあの姿で否応なく解った。納月や子欄の失敗を帳消しにしたいという気持が妙な気迫を発せさせていたことも、今だから解る。ララナ自身、彼の生存を望んでいたのが本音だ。彼の望み通りにするという決断は重心の定まらない体と同じように外力がほんの少し働けば倒れるほどに脆弱だったのである。

 ……いいえ、全部、全部……言訳です。

 ララナは結局、ただただ、オトに生きていてほしかったのだ。失いたくなかったのだ。

「お母様……」

 答を催促する子欄に、ララナは身につけていたエプロンを差し出した。

「朝食、あとは任せてもよろしいですか」

「……迎えに」

「はい」

 彼を連れ帰ることで娘の行動に報いて、己の責任と気持に決着をつけなくてはならない。

 

 

 サンプルテを去ったオトは一つ跳躍。魂器内に閉じ込めた創造神アースに呼びかけた。

(失望)

(まともな会話だな、オトよ)

(失望)

(わたしへの呪詛と理解した)

(失望)

(……貴様自身へのものともな)

(失望)

 ずっと、生への未練も、性への未練も、あった。

 事ここに至れば、断行しておくべきだった、と、己の判断と理性の欠陥を感じ入った。納月と子欄の魔法が失敗して理性に問題が生じたのはそんな気持が作用したか、と、オトは思わないでもなかった。理性的でない、都合のいい、愚かな理屈だった。

(貴様がわたしを邪険にしていることはとうに知っておるが、かといって切り捨てるような男でもないと我は評価している)

(思いきって切り捨てておくべきだったとは思っとる)

(強情さと頑固さを乗算したような男、それが貴様だ。切り捨てぬよ)

 だから失望している。強情さと頑固さが娘をあのような行動に導いてしまった。どうしようもなく次を予想できてしまい、その次も同様だ。そういった()()を拒絶したところで受け入れてしまう危険性を看過できるはずもない。それなのに、──片隅に、それを求めている孤独な自分も存在している。悍ましい。汚らわしい。汚らわしい。汚らわしい。

 音羅に殴られた記憶がある。意識が朦朧としていたが何発かまともに受けたことは間違いない。ノックダウンしかけたときの感覚は、鮮明に憶えている。魔法の無駄遣いなどと言える状況ではなくなって、音羅を突き飛ばして空間転移で離脱しようとした。そのとき、創造神アースの意識が浮上した。

 

(約束を違える積りか)

 約束。創造神アースとのそれは取留めのないものを含めても多くない。

(解放されるんやから違えとらん。わたしを表に戻しなさい)

(わたしなどと偉ぶるか。『解放される』ではなく『解放する』と貴様は言った。受動で済ますな。足搔け。我の器は貴様以外にない)

(……)

(見守ることに悦びがあろうに本気で死にたいのか)

 死にたいわけがあるか。生きたいに決まっている。しかし死を選ばなければ──。

(……退()きなさい)

(見守りで足りぬなら大地が如く鳴動せよ。せぬ・できぬというなら次元の管理を遂行せよ)

(聞くと思うん)

(だから言っている。約束を違えるな。──赤黒い饅頭を寄越すことすら今の貴様はすまい)

(……)

 意識が遠退く。創造神アースの意志に押し込められて、オトは体を動かせなかった。

(貴様は眠っているがいい)

 

 闇の中に、意識が引き摺り込まれた。創造神アースに制されたのだ。意識共有を絶ったとは言っても、魂器から魔力が溢れ出していたあのとき、創造神アースの意識がオトの体を乗っ取るチャンスがいくらでもあった。が、創造神アースは強制的に体を乗っ取ったのではない。オトの意識を自分が閉じ込められた魂器の中に引き摺り込んで眠らせたに過ぎない。それは創造神アースの悪意と──。

 地上に降り立ったオトはどこからともなく出現させた太刀を逆手に握った。間もなく、口を閉じ、

 

 呪わしい()()を斬り落とした。

 

 痛みなどない。これからの家族の痛みを思えば、自身の痛みなど何も感じない。

 必要のないものに気を向けるのは、無駄だ。続けざまに己の総身を無数斬り裂く。どうやったら(みじ)めに死ねる。どうやったら家族の痛みに報いることができる──。

 消えることのない孤独。その弱さを、創造神アースが衝く。

(貴様は生きたいのだ。手段を選ぶな。命を奪うわけではない。互いが罪に思うか否かの問題であろう)

(俺がやらんと決めとった理由をいうまでもないやろう)

(貴様は我を見捨てると。ましてやあの娘達を見捨てると。誰の目にも明らかに貴様らしくない。なぜ生きぬ、なぜ死へ向かう、素直に想いを受け取り生き延びぬか、愚か者が!)

 流れる水道水を切ったよう。首を刎ねても死ねない。

「アース──、お前さんは、どこまで、無理解だ」

 雑草が野放図に茂った高水敷に、底から声が響く。

「子を守って初めて、親は親たり得るとなぜ解らない」

 親は血を分けるから親になれるのではない。()()()()子の成長を見守って初めて親になれる。血に胡座を搔いて努力を怠っては決して親にはなれない。

「『愚か者』。それはお前さんだよ、創造神アース」

 頭の血管が切れる寸前まで眉間に力を込めて最大級の理性を働かせても、土より苦いものが口の中に広がった。

(我が愚か者との意見、甘んじて肯んじよう。がしかし貴様は生きるべきだとわたしは思っている。過去も罪も変らず消えぬ、そして消さぬ。これが、貴様の信念であろう)

(……)

(わたしの言ったこと、忘れたわけではあるまいな)

 背を押してやろう、と、言ったこと。

(必要とあらば、と、俺は返した。こんなことで……)

 背を押されたくはなかった。

(謝らぬぞ。わたしにはわたしの利がある)

(「死ね」といっとくれよ)

(高慢なのでな。──貴様をこそ殺さぬ)

 要らぬ節介だ。

 太刀でさらなる傷を負い致死の出血量に至ったのに、オトは苦みを捉えている。

(死ねぬさ。貴様は我とともにこの世界で誰より仰がれ・忌まれた)

 究極的な受動的体質。それのせいだというなら生きる道すらないようにオトは感じた。

(知っておるだろう。そうして顕現するのが、〈(しん)なる(かみ)〉だ)

 創造神アースが示したのは種族的概念から逸した存在だ。ひとびとが発する正負両面の意志を集め、神格化され、摂理によって手厚く保護される存在。それこそが真なる神。ひとびとの祈念や呪詛が支え、物理的な縛りに関係なく存在し続ける──。

(俺はそれを〈破界神(ハカイシン)〉と称しとる)

(奇跡と畏れられた幼き時分。して貴様は、出し抜いたあの日からわたしにも魅入られた)

(……)

 死の超越は循環からの逸脱であり生命ではないと認めることと同じだ。

 どうやったら、死ねる。

 どうやったら、生きられる。

 死ぬことも生きることももうできないのに、どちらにも縋りつく意識を、棄てられない。

「羅欄納、テラス、鈴音、──」

 

 

 サンプルテから空間転移したララナは、五四橋の下に訪れた。ここは彼の根城。行先はほかにないが、未明のこともあり警戒されたか、オトの姿を見つけられなかった。

「……どちらへ──」

 橋の下、影の中で南北を交互に見る。北には小さな閘門がありそちらのほうが景色の変化と情緒に富んでいるが、初めて橋台で話したとき彼は話題にあった五四川ではなく堤防がある南のほうを視て話していたようだった。生死の境にあった未明も南のほうへ向かっていた。もしかすると、オトが隠れる分には橋台が吉という意味で、本当の根城はここではないのか。

 ……南。

 未明に辿った道を、ララナは独りで進む。五四川の右岸堤防を上り、道なりに南へ。胸騒ぎがして、途中、早足になった。

 魂器過負荷症の影響でオトが気を失った場所に何もないことを確認すると安堵しかけた。視界の隅に捉えた色を、ララナは見逃さなかった。戦場で幾度となく目にした色は草陰に紛れても見落とせなかった。目にした途端ララナは堤防を滑り降り、心の内壁に爪を立てるようなその鈍い色にびしゃっと踏み込んだ。裸足の感触がぬかるみの正体を物語る。

 足を取られながら進んだララナの眼下に、オトが横になっていた。黒衣から覗く肌は、土や草陰に紛れたものよりずっと鮮やかだった。

「環境保全はしとる。草木を傷つけるようなことでもない」

「……」

 空気を細く吸って、限界になったところで止まって、ララナは、息を吐くことができないまま、内側から弾け飛びそうな錯覚を催した全身が総毛立ったまま、固まっていた。

 オトが右手に握っているのは、己の腹に突き立てた刃物の柄。

 ララナは、両眼を閉じ、吸ったときのように細く長く息を吐き、順に膝をついて彼の右肩に触れた。

「何故、斯様なことを」

「考えが及ばんならとっとと去れ」

 娘に傷をつけた。一生消えない傷を。

 しかしその傷が、消えない憎悪が妨げにならないほどの娘の感情を証明している。

「……それでも、生きる価値がないと仰る」

()()()()()()()。〈マモリイチカ〉」

 オトの声に呼応して動いた刃物は彼の右脇腹を裂いて刀身を顕にした。彼の魔法で操られているのか、太刀マモリイチカは陽光を浴びて八〇センチメートル超の刀身を異様に輝かせている。彼の体から溢れ出し、刀身から滴るものは破壊的な魔力現象を起こさないもののぬかるみを深め、脇に落ちている鞘をも濡らしている。

 ……──!

 紅掛花色(べにかけはないろ)の鞘もろとも白抜きの主線が赤く染まってゆく。主線が象っているのは、滅亡などの花言葉を持つスイレンの花だ。親子の関係を表すように、白が、消えてゆく──。

 これまでオトが施した教育の失敗を、音羅の行動が示している。傷とぬかるみと染まった花が想われてしまったことの絶望。

「必要のない化物が延延生き存えとる。家族の重荷にとどまらず数多の人間の生活や精神に悪影響を及ぼしてまで生き存えて。何か、できるかも知れん、と、希望を持つも結果は失敗。仮に俺が優れた力を持っていようと、化物の生産機になるなら廃棄すべきだ」

 公のために〈己〉を捨て去る。その気持があるなら人間たり得る、と、ララナが思ったところで彼は受け入れない。

「理由は吞み込めたやろう。どうやれば死ねるか試験中やから、どっか行って」

 マモリイチカが無造作に両脚を斬る。右脇腹がそうであったように寸時(あけ)を噴き出すにとどまって切断されることなく再生した。

 声にならないオトの呟きが聞こえる。

 大動脈切断程度では無理か。あの子達の失敗を活かすか。魂器を破壊すれば確実に死ねる。平穏なら全てよし。いざ。

 マモリイチカを地に突き立てるや、オトが自身の心臓を右手で抉った。

 ……!

 ララナはオトの手を強引に引き抜いてその指先が灯す光を鎮静魔法で打ち消した。

「納月ちゃんや子欄ちゃんの研究内容を、全てご存じだったのですか!」

「『誘導』とはそれを含むもんやろう。くだらんことで邪魔すんな」

「んっ!」

 ララナを軽く投げ飛ばして、オトが再び右手を胸に突き立てた。痛みなど感じていないかのように、表情一つ変えない彼に、ララナは食ってかかる。

「娘に父を殺させようなどと、本気で!」

「希望がない、最初から──」

「いけません!」

 彼の右手が頑として動かない。ララナは彼の右手ごと鎮静魔法に掛けて恐らく魂器を狙っているであろう魔法を打ち消し、隙あらば発せられる魔法を都度打ち消して、問い質す。

「いつから……斯様な考えを!」

()ぅたげ」

「最初から。いつからですか。音羅ちゃん達が就職した頃、納月ちゃん達が研究を始めた頃、あるいは音羅ちゃん達が生まれた頃。いつからなのですか……」

「方法はなんでもいい。死ねへんって知ったそんときから」

 それは、いったいいつなのだ。

「私と出逢ったときから、」

 いいや、出逢ったときから彼は死にたがっていた。「それより前、から、……ま、さか、」

「想像が及んだか」

 ……鈴音さんが、亡くなったあと──!

 オトは橘鈴音を追うことを考え、実行した。死ねなかった。理由は定かでないが自死できなかったという事実が、一つの絶望に追いやった。

「死は、一つの救い。数知れん憂いや苦しみを断ち切る、確実で安易な手段だ」

「ご存じの上で、軽はずみな死を選ぶと仰る」

「軽はずみか。語弊があったなら訂正しよう。安易とは、飽くまで易い手段って意味やぞ」

 オトが、これまで閉じていた瞼を開いて、同じく瞼を開いたララナを見つめた。

「俺は失うことを堪えられん。やというのに独占欲が強く、己の考えのままにならんければ絶望してこのざまの、女女しい奴やよ。その末、禁忌を犯して生き存えようなんて。どんだけ化物に成りゃ気が済むん。どんな術を使っても廃棄が賢明やん」

 苦しみに堪えられぬ価値なき化物。だから廃棄するのか。

「なぜそう仰らなかったのです。私が、弱いからですか。遅いから、ですか」

「方法はなんでもいいといった」

 なんでも、では、きっとないだろう。ララナや娘に自殺を幇助させるつもりがオトにはなく自死方法の模索の手を増やしたかった。して、オトは納月と子欄の研究に自死の方法を見出したのである。納月と子欄の失敗が実験程度のことで死に至らないと判っていたオトは、ここが本番と見据えていたのである。

「音羅ちゃん達を生んだのは、生存の道でなく、死の道を探るためだったと仰る」

「かねがねいっとる。俺は噓をついとる、と。生存の道を探ることと死の道を探ることを、併行した。どちらか一方では効率が悪く柔軟性に欠ける」

 娘を利用したことを否定はしない。

 利用しただけでも、ない。

「あえてお尋ねします。……苦しみに、堪えられるのでしょうか」

「……五分五分」

 誰のことといわなくても答は適切だ。ララナは、娘のことを指して言った。オトも、娘のことを指して答えた。五分五分。苦しみに堪えられないと言明したオトの子であり、苦しみに立ち向かうべきとしているララナの子でもある娘は、この世の苦しみに堪えられる可能性がその程度という単純計算だ。

「オト様は、お間違えです」

「……」

「お気づきなのでしょう」

「……計算は苦手なんよ」

 オトが目を逸らした。「余計な数字が増えた。それが、俺の計算ミス」

 娘の思いの深さ。よもや娘が身を捧げてまで救うとは考えていなかった。彼はずっと見捨てられることを計画していたのだから。

「この理性欠如はどうしようもない」

 瞼の裏を見たオトが言った。「謂わば、メリアみたいな狂気が俺にもある。その重荷を押しつけるわけにはいかん」

「……そのお気持は、痛いほど解ります。ですが、私と娘は、家族です」

 ララナだって、メリアの狂気を他者に押しつけることを避けている。が、それを言っては家族が成り立たなくなってしまう。ララナは、メリアの暴走抑止をオトに押しつけた。それを、オトはなんと言った。迷惑だなどと言ったか。

「オト様と同じなのですよ。大切な家族の重荷を、ともに背負いたいと」

「そうとは意識しとらん」

「……なればこそ」

 ララナは地に突き立てられたマモリイチカを手に取り、オトの腹に突き立てた。

「っ……、──」

「痛いですか。目の前で斯様なことをされれば──。お気づきでしょう。ご自分以外もそうであるのだと、いつ、仰りますか」

 次には、ララナは己の腹にマモリイチカを突き立てんとした。その手をオトが弾いてララナを押し倒していた。

「何しているんだ(しちょん)……」

 オトがララナの頰を抓った。

「痛いのです……」

「我慢しぃ。何したいんか答えぇよ」

「痛いのはお嫌いなのでしょう。私も嫌いなのです」

「俺に生きろと」

 ララナは、彼の心の間隙を衝く。

「私が伺うまでに、納月ちゃん達の創作魔法を実行するに十分な時間がござりました。なぜ、断行されなかったのですか」

「……」

「独りで亡くなるのは、恐ろしくて、寂しかったのでは、ござりませんか」

「……やとして、なんなん」

 オトが、内心を認めた。「状況は変わらへんよ」

「少なくとも私に取っては、変わりました」

 ララナは、畳みかけた。「化物の生産機。それがご自分のように子を傷つける存在という意味であるなら、音羅ちゃんも含まれてしかるべきです。オト様は音羅ちゃんを廃棄しないどころか、温かく抱擁していらっしゃった。音羅ちゃんが多くのひとに求められていることを、私達家族に求められていることを、ご存じだから廃棄できないのでしょう。ならばなぜご自分を廃棄できますか。お独りで亡くなられるのが恐ろしいのは、単にご自分が寂しいからではなく遺される私達の気持をご想像なさったからでしょう。ならばなぜご自分を廃棄できますか。私が抱擁してもなお、ご自分を、無価値などと断ぜられますか。遠退いたとて失われたわけではございません──」

 物理的・生理的・有機的な意味ではなく、死ねないことは生きられないことと同義で、およそ多くの生命体とは異なる性質だ。それ一つで自分は無価値と彼は断じていたのだろう。その上で罪深い現実に直面して頑なになったことは疑いようもないが、彼のその考えをララナは断じて否定する。

 オトは、死に向かいたがっている。けれども、心のどこか一部であっても、前向きに生を手放したいわけでもないのだ。その心の間隙は決してなくならない。

 ララナは、オトの言葉を促すことにした。

「──。演技なさっては」

「……」

 オトが溜息をついた。「演技することで理性を保てと。この自傷だって、理性欠如の影響が多分にあるのに、演技で補えるとでも」

「己の感情が入り込んで失敗する危険性が高まることを恐れて、理詰めになれます」

「むちゃくちゃやな。それだけで安心はできん」

 娘を傷つける危険性。己の感情が死を選び取らない危険性。己を死に導けても家族がどうなるか。虞の数数がオトを不安にさせる。

「私達も同じように感じている不安。これを、分ち合うべきだと申し上げております」

「俺の痛みより、その痛みを背負う家族六人を考えろと」

「算数の成績が壊滅的だったオト様だからこそ簡単な計算です。注釈致しますがこれは決して等分にはなりません」

「……」

 みんなが抱えている不安を、みんなで分け合う。彼が消えることを上回る不安があるはずもなく、等分も等分ではない。心の持ち方で決まる痛みだからだ。

 オトが、突き立てたマモリイチカを支えに立ち上がった。

「俺は、死ぬべきとも考えとる」

 ララナは横につき、オトを見上げた。

「もはやその理由はないと考えております」

「なくはないよ。魔法を使えたからな」

「……」

 思えばおかしなことだった。オトは対象の命に関わる魔法を己の意志のみで使うことができない。ララナが鎮静したので事なきを得たが、先程オトは魂器を破壊せんとする魔法を使うことができた。オトの死を望む者が、いる。

「オト様がこれまでに関わったひとの中に」

「そんな広い範囲じゃなくてもおるよ、確実に一人」

「え」

「音羅」

「そんな……」

 それはオトの癖、ネガティブな考え方ではないか。

「今朝、あの子の寝姿、観んかったん」

 音羅はうずくまるようにして眠っていた。いつものことのようにララナは思ったがオトの着眼点は異なった。

「爪先」

「爪先ですか」

「そこに力を込めて眠るのは安らいでない証拠やよ」

「っ……」

「知っとるやろ、あの子には好きなひとがおる」

 観ていれば判った。音羅はオトに向けていた気持をいつからか別のひとにも向けていた。

「理屈じゃどうにもならん嘆きが湧く。憎悪が俺に向かうのは至極自然だ」

「……」

 彼は父親を憎悪する気持を知っている。死を望まれることに元来後ろ向きであるべきなのに却って前向きだ。

「あの子があんな寝姿になっとったのは苦しくて、痛くて、仕方がないからやよ……」

「使命感では退けがたいものでしょうね……」

「全力で止めんかったお前さんには失望するばかりだ」

「……後悔しかございません。それでも、覚悟していたことです」

「……、なら、演技はできるかもな」

 オトがララナを見返す。「俺は一切感情を棄てればいい。お前さんへの失望もそうだが、音羅の憎悪に反応せんためにも」

「……、お助け致します」

「音羅の憎悪が膨らんだらそれはそれで俺の感情が爆発しそうやから、お前さんに皮肉をぶつけることになる。それでもいいん」

「はい」

「そこだけ即答とは。そういう意志の固さは見習いたいとこやな。……その意志で、音羅を止めてほしかった」

 感情を揺さぶるような弁明をしない。

「申し訳ございません」

「……それでいい」

 オトがマモリイチカをどこへともなく消して、隣空間から一枚の紙を取り出した。「離婚届を書いといた」

「演出ですか」

「死ぬ直前そこら辺に置いとくつもりやった。書いたのは結婚してすぐやけどね」

 両者同意の許での話だが結婚時に離婚届を書いておくのはレフュラルの慣習だ。ただし、レフュラル領育ちのララナに合わせて、と、いうことでもないだろう。また、彼が離婚したがっていたわけでもなければ、離婚という選択肢を握っていたわけでもない。飽くまで止むを得ない状況を想定し、家族の利を重視するためである。

「いくつもの保険を用意していらっしゃったのですね」

 ララナは離婚届を受け取った。無傷では済まないものの、最小限の傷で済ませられる。これが止むを得ないことだ。彼が家族の和を外れることは計画上の必然。娘、特に音羅の行動の結果、夫婦関係が破綻したと示すことで音羅のような行動に出る者を制する意図がある。

「自分でいうのは気持が悪いけど、俺はあの子達に必要以上に求められとる」

 得難いその状況を、オトはどうやっても崩す必要がある。

「と、いうことで、俺のことは行方不明ってことにして。橋の下で暮らすのが似合だ」

「時を待ってお迎えに上がります」

「再婚は、正直、乗り気じゃないと伝えとく」

「オト様は、我が家の柱です」

「人柱ってことなら受け入れやすいな」

「無論喩えです」

「解っとる……」

「私が、屋根・壁・床・窓・貯金箱など諸諸を担いましょう」

「貯金箱は外そうね」

「事実ですのに」

「まあ、そうね……」

「お金は大切ですが、貯金箱で家を支えることは不可能です」

 どんな形であっても助ける。その気持を託して彼の左手を握った。

「おんぶに抱っこで悪いけど……、……ん、お願いするわ」

 手を弱く握り返すや彼が前のめりに倒れたので、ララナは彼の手を引いて抱き留めた。

「オト様っ、ご無事ですか」

「……柱はお前さんのほうやったりして。気を張るのは、つらいかもな……。正直、ほんと、おかしい、理性が働かん……」

 弱気なような言葉と同時に、彼がギューッと抱き締める。

「オト様、もしかして……」

「刺されて、嬉しかった」

 涙を怺えて振り翳した刃に、彼は気づいていた。

「俺は気持に応える方法を、快楽しか知らんからな」

 言いながらララナの内腿に手を滑り込ませた彼が、その手をおもむろに下ろして、呟く。

「意識があったとして、殴られず気を失わんかっとして、俺は、何もせず済んだか」

「それは、今となっては……」

「それを考えんのはあかんやろ。音羅が、少なくともそのときは俺を求めとった。気持に応えて俺から、って、危険性がある以上は」

 彼が悩む一方で、ララナは短絡的か、演技でもないのに理詰めで考えてしまう。

「応えてもよかったかと」

「それはダブルアウトやろ」

「どういった意味でしょう」

「妻も親も失格」

「助ける手段があったのなら、私は両親を助けました」

「選べる選択肢を潰したくなかった、と。綺麗事に聞こえる」

「本人の意志次第だと考えております。それが周りの雰囲気や後押しに流されたものでなく以前から決めていたことであるのならなおのことです。苦しみが生じたのなら行動した本人が責任を持って処理すべきです」

 ララナは音羅から確かに聞いた。以前から彼の魂器拡張を成そうと考えていた、と。生まれた直後、継承記憶に引き摺られて述べていたであろう気持が音羅の意志として根づいていたことを、ララナは思い知った。

「音羅ちゃんは後悔してもいいといいました。それほどの覚悟を誰が止められましょう。もし止めてオト様がお亡くなりになっていたら、音羅ちゃんは誰より苦しんだでしょう。今後も、そうではないでしょうか」

「意志あらば受け入れてもいいと」

「見極める必要はあるでしょう。覚悟を持って臨んだ音羅ちゃんですら苦しんでいます。覚悟のみならず、オト様のためだけに動ける心が伴っていなければならないと考えます」

「それをわざわざ教育するような真似はするなよ」

「致しません。が、予測もできない発生は防ぎようもございません。オト様のご計画になかった出来事が起こったのと同じです」

「気が重い話やな……」

「私も同じです。魔力放出の件もしかり、よもや自傷など。縛ってでも監視したくなります」

「そっちの話じゃないって」

「ひとの命の話。同じことです」

「……大雑把に括んな」

 彼が体重を預けてくる。

「魔力放出の限界。致死量を超えた極限の出血は応えるようですね」

「物理法則には化物も逆らえんと。くだらんことは縛られる……」

 そこから逸脱できれば。そう思っているのだろう。

「人間も魔物も同じ命。オト様が仰ったのですよ。常人も天才も、化物だって、同じです」

「俺を除く、と、条件をつけておくべきだった」

「どう足搔いてもオト様はひとの子なのです。あらゆる法則を逃れる術はござりません」

 創造の力を使わないならデタラメな力を振るう化物に成りきれないし、成り得ない。

「敬称で仰いどっても目線を合わせてくれる羅欄納がおって、俺は、幸いやな……」

「オト様……」

「しばらくそちらは任せるよ」

「離婚届を提出して参ります。共に歩むために」

「ん、お願い。音羅のことも、悪いけど……」

「それこそ私の責任です。オト様は思いつめられぬよう、お気をつけください」

 彼がうなづくと、ララナはそっと離れた。彼の両腕が欲求を示していた。ララナが拒絶しなければ、ずるずると離れられない。

 ……心を鬼にして。

「ありがとうね」

「……はい」

 彼の前では感情的になってしまう。感謝の言葉に心が揺らぎそうになる。

 ララナは彼を背にした。ぬかるみを越え、堤防へ上がっても振り返らず、役所に離婚届を提出し、サンプルテへと走った。彼に強いた演技を、自らも、貫かねばならない。

 

 

 

──七章 終──

 

 

 

 

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