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六章 互いの、ツミ

 

 総歴三〇四〇年一一月七日。五女謐納が生まれて竹神家は立派な大所帯となっていた。

 男性を嫌う夫のもとに男児が生まれないというのは意図的排除でもしないとなかなかないことだろうが、生まれた子が女児ばかりだった事実からララナは夫であるオトの感性との関係を疑いたくもなった。

 それとは別にして、子沢山を実現したオトの欲求は強い。それを特に感ずるのは当然のことであろうか夜であった。一緒に入浴するのが結婚してから常となり触れ合いが増え、布団に入ればさらに距離を詰めた。心の距離を測る絶好の機会を互いに拒むことはなく、ララナとしてはきめ細やかなオトとの営みが心地よかった。

 ララナには一つ思うことがあった。意識を飛ばす幅広い刺激を毎夜提供する彼がときたま幼児のように甘えること。営みとしては男女のそれであったがそこはかとなく違和感を覚えた。

 そこに何か意図があるなどとはララナも思わなかったが、記憶にもないような過去がひとに影響を及ぼしているように──、良心を育てた母親と同性であるララナに対して彼が母性を感じているのだとしたら辻褄が合う。彼を深く知るため、より深く支えるため、ララナはオト本人に答を求めることにした。

(口で話すことでもないね)

 ララナが言葉で問いかける前にオトは心を読んで、テーブル席についたまま伝心で応えた。机に向かって勉強したり庭で遊んでいたりする娘に聞かれたくない話だったのだろう。

(本当なら結婚する前にも伝えるべきやったんやろうけど、お前さんは格別に疎くて俺の性癖にも鈍かったから伝えられんかったと言訳を伝えておく)

(申し訳ございません)

(お前さんの遅さは今に始まったことじゃないし、これについては切り出せんかった俺にも問題があるからいいよ。さて、本題ね)

 予め述べれば、それは彼の秘密の一つと称していい話だった。加えて前置きをしよう。年を跨いで特に娘との接触において多くの暗示があったその内容は、相当に過激で異常だった。

(お前さんは俺の良心をお母さんが育てたと思っとるようやけど、それは一概にいえんよ。俺は一種の虐待を受けとったんやから)

 話の流れからして、

(その内容とは、やはり──)

 心の中といえども発することが難しいもの。それを、

(そう)

 と、オトが肯定した。

 悍ましい過去は深い傷になっている。それを伝えてくれていた言葉に、ララナは、愚かなほど遅い足取りで辿りついた。

()()……)

(俺の欲求について概ね考察できて、解ったやろ。俺は子の頃、我が身を捧げて、同等のものを母親からいただいていたわけだ)

(……左様な……、親子で、左様なことを)

(普通のことやと思っとった。感情やからね、法律や倫理で押し込めたところで過去を打ち消せるはずもないし、俺の体質的に相手が満たされて自分も満足したら最善。あれは異常なことじゃない、何一つ間違いはなかった、……そうやって一般的な思考やルールを否定する部分が未だにある。どうしようもない卑劣さで、悪質さで、(けが)れとる。身も、心も、貶めてまだ足りんくらい、汚れとる)

(……)

 死の意志を、打ち破れるわけがなかった。そこから生じたのが自己肯定感の低さであることに気づくこともできなかったララナでは、彼を内側から食い尽くす卑劣な思考や感情に気づけず、家族へのおもいに反して湧き上がる異常性によって起こるであろうことへの不安にも気づけなかった。何より大切な家族の和、伴侶に遺したかった子、それらを自らの手で汚し壊すことになる(おそれ)を常に、それこそ、ララナと出逢う前からいだいていたから、不甲斐ない伴侶候補のちょっとした自信のなさに包丁を向けたに違いなかった。

(幻滅しなさいよ。俺が化物になる要素はいくらでもあったわけやよ。子の頃は善的な行いがうまく回って周囲に持ち上げられたに過ぎん。テレビや携帯端末で一方向からの情報に満足するような一面を見て良し悪しを決める消極的思考回路や自分の認識に頼る悪癖が、幼い俺の周りには多すぎた。俺も俺でそれに吞まれて自己中心的やったんかもな)

 ララナは幻滅しないが驚きすぎて言葉を失ったことは否めなかった。今日も元気に遊んでいる音羅や鈴音、勉強熱心な納月や子欄、みんなの様子を眺めている生後間もない謐納──。長女音羅は生まれた直後に、オトの魂器過負荷症対策としてその身を捧げようとしたことがあった。オトは、それを完膚なきまでに拒絶した。

(オト様が音羅ちゃんを拒絶した理由を、深く、理解致しました)

(同じことを繰り返したら、音羅も同じことを繰り返すかも知れんからな)

 教育は連鎖する。よいものならば止めるべくもないが、悪いものであったなら気づいた誰かが断ち切らなければならない。そしてそれは、連鎖させ得る当事者が最善だ。

(子を育てるとき、『自分はこう育てられた』と振り返ることはままあることやろう)

(仰る通りです。私は、お義父様やお義母様から受けた教育を参考にして参りました。また、オト様が導いてくださった私の本当の両親の想いも大いに)

(俺は基本的に怠惰やから自ら考えたくないってのもあるが、自分の教育環境が常軌を逸したものということくらいは解る。やからお前さんに委ねすぎとるね)

(正しい選択と存じます。私達は、悪魔を育てたいのではございません)

 音羅達は善良にして人間的、一般的な人間の中に調和できる人格である。家族間での非倫理的行為が当り前の悪魔のような教育は不要だ。

(ですが、心配もございます)

 と、ララナはオトの頭頂部を見つめる。テーブルに突っ伏したまま、動かない彼。()()()()()

 あれだけ欲求の強い彼が、鈴音が生まれた頃から消極的になり極端に動かなくなった。動くのは布団から起きるときと布団に寝転がるとき。ずっと一緒だった入浴も断るようになってまるで営みの機会から遠ざかろうとしているようだった。また、同時期からプウ以外の分祀精霊が忙しいとしてめったに姿を現さなくなって今も静か。その原因は──。

(オト様、魂器過負荷症の兆候をお隠しですね)

(隠しとるよ)

 認めるときはあっさり認める。彼は何年経っても変わらない。分祀精霊を家に入れないようにしたのは、

(明るみに出たところで誰もいい思いはせんやろ)

(当然です。オト様のお命が──)

(そういうのが嫌やから言わんかったんよ)

 オトは相変らず自分の命が重いとは思っていない。失われるならそれがいいと考え、誰も悲しまないとも考え、恐らくは実害がないとまで考えている。創造神アースの創造物に関する遠大な事業は口に出すことを許されないから、オトのこれまでの行動に対する観察と感情論でララナは挑むほかない。

(モカ村を選ばれたのは最悪の想定をしてのことではござりませんか)

 創造神アースの創造物に対処するには時間が掛かる。魂器拡張の手段とそれを行えるルールが必要だ。強いていえば、娘の意識を誘導する環境も必要だった。それら条件に適っていたのが辺境中の辺境、モカ村だった。

(最悪の想定であって最善は違う。意識の誘導なんてのは(もっ)ての(ほか)。あの村を選んだのは、未遂・完遂を問わずもしも行為に及んだ娘が現れたときにその選択を否定されん逃げ場が必要になる。そこに、俺の逃げ場というのを含めてもいい。最低やな……)

 非倫理的行為をオトが率先することはあり得ず、娘に求められないなら生存不可能。そこにはララナの認めも必要だ。オトのいうところの最悪の彼は、ララナにも娘にも求められて初めて存在する。

(魂器過負荷症の主な症状は魔力漏出による発熱・熱傷、それから、精神力消耗だ。そこで俺に致命的な隙が生じかねんことが解るやろう)

(精神力の枯渇によって、反射発動型覚醒魔法が機能しない危険性……)

(正解)

 オトには睡眠発作がある。その病に意志決定を妨げられないようにしているのが反射発動型覚醒魔法。眠りに落ちる前に自動で意識を覚醒させる魔法で、オトの精神力を消費して発動する。つまり、精神力が足りなければ発動せずオトは眠りに落ちてしまう。それは魂器過負荷症の症状の一つである精神力消耗によって触発され、選りに選って娘の行為に無抵抗にならざるを得ない。最悪の想定とは、その隙を生んでしまい無抵抗になってしまった上で最悪の運命を辿ることだったのである。

(生は終りに向かう。解るよね。これが、至極当然の摂理やってこと)

(……)

 うまい反論が浮かばない。

 残るは、感情論しかない。

(私は、悲しみますよ)

(お前さんの悲しみなんぞ知ったこっちゃないよ。俺はあのことを根に持っとる)

 あのこと、とは、ララナの独断。彼が大切にしている恋人の名前を四女に与えたことだ。

 死してなお、彼に「今も好き」と言わしめた女性。ララナは想像するほかないが、彼が想いを寄せた彼女は母性に富み、禁断の香りに満ちていたのかも知れない。同じ魂器過負荷症を抱えていたこともそうだが、それにとどまらず、虐待の事実を知ってなお彼を受け入れていたのではないか。創造神アースとの意識共有も妨げにならなかった二人の気持の深さは、ララナが思うより遥かに深かったということだ。

 その深さに比例して、四女の名づけを行ったララナに対するオトの嫌悪感は膨らんだことだろう。

 嫌悪感を煽った者として、禁じ手を講ずる。

(音羅ちゃん達の悲しみはいかがされますか。看過なさりますか)

(……)

 オトが答えられなかった。当然だ。子どもを本当に大切にしている。最悪の想定においても逃げ場を用意するほどに。

(お隠しになったことを暴き立ては致しません。しかしながら、私は、オト様のお考えを看過できません)

(悪魔の教育を持ち出すん)

(いいえ。ほかの道筋はまことに絶たれたのですか)

 切り取った創造神アースの魂の一部を核とした子を作ることで、創造神アースが持っていたであろう魂器過負荷症対策の魔法をオトは探り当てようとしていた。確率はざっと二〇分の一とのことだったが。

(求めた能力が謐納にもない。魂器拡張なり魔力の分散なりができるかと思ったが、……足搔くはここまでやよ)

 諦めた。オトはそう言ったのだ。半世紀も生きていない彼が一〇〇年時代といわれる人生の途絶をあっさり受け入れようとしている。その闇を、ララナは出逢った当時に感じている。

(本当にどうにもなりませんか。私の持つ力を含めても、あるいは、この世界のどこかにある力でも、どうにもなりませんか)

(いくつかある)

(でしたらなぜそちらに懸けないのですか)

 ララナはオトの受動的体質を理解して受け入れているが、生存に関わることまでそうしていては怠惰が過ぎる。

(私がその力を探して参ります)

(必要ない。一部は悪魔の手段に類するもんで現状存在せん理論上の方法やし、ほかの一部は気づいとらん時点でお前さんには得られん)

(後者は私の知合いですか)

(違うよ)

(では、積極的に探して参ります)

(力を目当に)

(……斯様な人材勧誘をお好みでないことは存じております。ですが、)

 これはララナの人生である。(オト様が諦めていらっしゃっても、私には目の前の命に変りないのです。オト様が何を仰っても私は救いの手を差し伸べます)

(救いの手を差し伸べるべきは力を持つ本人。力の持主がお前さんの要請に応えんければ意味がないわけやよ)

(交渉致します。その方の居場所をお教えください)

(二度は言わん)

 居場所に気づいていない時点でララナはその者の協力を得られないと。

(この世はね、辛うじて破滅を免れた瓦礫のような世界なんよ。埋もれたものを見つけ出す力がなければ、また、それを手繰り寄せる幸運がなければ、あるいは自ら幸を生み出すことができんければ、もしくは悪運にでも縋らんければ、呼吸さえ許されん過酷な世界なんよ)

(幸運も悪運も私がオト様へお届けします、なんとしても)

(ひとは摂理を侵すべきじゃない)

(新しい魂を奪ったことを摂理を侵していないと仰る)

(それは今さして重要じゃない)

 彼がはぐらかした。あの出来事には、彼の生への執着が確実にあったからだ。が、彼は、

(早く死にたい)

 と、はっきりと言った。終末の咆哮の熱源体を前にしたあの日のような言葉を、ここに来てまた。

 彼の体質は、不憫かつ不自由で、それでいて傲慢で、貪欲なのだ。だから、皆の想いがあるなら是が非でも生きてくれる。ただし、「皆」の範囲は離散した家族を含めても足りないのだろう。無論、多様な意志を持つ全てのひとに求められることなどあり得ないと彼も理解しているだろうが、それでは満足できないのが彼ではないか。そう、彼は、たった一人に拒絶されるだけでも、死へ向かうに事足りる摂理と位置づけている。世界のどこかで常に拒絶されている自分には生存の道など最初から存在しなかったとでもいうように。

 彼も言ったように死は摂理だ。それは間違いない。だから、手放すタイミングが早くてもいい、とか、諦めてもいい、とは、ララナは思えない。どんなに優れたひとでも誰からも好かれ愛され受け入れられるわけではないからだ。その一人一人が摂理と称して自死しようものならこの世は怨みや憎しみや拒絶の坩堝と化してしまう。それこそ不自然で非摂理的ではないか。

 しかしながら、彼の答に限れば拒絶に押し込められたものでもないだろう。

 ……私はなんのために、抱き締めたのでしょう──。

 数少ない拒絶にさえ打ち勝てない存在では、彼の意志を変えられない。ララナがオトのために行ったことは延命でしかなく、彼の意識や価値観を変えられず、ララナや新たな家族への執着に目を向けさせることもできなかった。「家族以外はどうでもいい」と思ってもらえなかったことが最たる怠慢だった、と、ララナはおよそ一七年間の夫婦生活を振り返りもし、その結果が彼の答なのだと思いもした。彼に惹かれた理由の一つが世界規模での相対的少数の正否を捉えた価値観であって、それを失った彼を竹神音と認めることは難しく、そうであるなら彼が消極的消去法によって受動的に手にした答であっても否定することは決してできなかった。

(俺はね、)

 突っ伏したオトがわずか振り向いて右眼でララナを視た。(聞こえとるよ。みんなの声が)

(……みんなの、声)

(虫を捕まえたり駆け回ったりする愉快さ。新しいことに挑む目差や議論、乾いた頁、崩れゆく芯。床をなぞる関心)

 子の飾らない日常を捉える耳には、当然のようにもう一つの存在が捉えられている。

(見守る息も心も、存る。存ってしかるべきものだ。もとから動かん一つの空席を埋めるには充分な日常が、ここには存る)

 オトの静かな語りを、ララナは深く、吸い込んだ。

(……。私は、そうしたオト様の感覚を、心を、失いたくないのですよ。オト様が自己肯定感をお持ちでないことも存じております。ですが、左様なオト様を認める者も存ることを、オト様は感じていらっしゃるはずです。私も子達もそうであるのだと、感じていらっしゃるはず、いいえ、感じていないはずが、ござりません)

 彼は誰より、家族を見つめている。このダイニングテーブルから動くことなく、ずっと、ずっと家族を見つめ、感じてきたのだから。

 オトの目差が瞼に潜む。

(初等部の天白先生の内心を俺は知っとる)

(……なぜ今、彼女のお話を)

(彼女は、俺の悪質性をうまく捕捉しとる。俺は、他者の本心をそうと思わせず操る。言い換えれば、誘導することに長けとる、とね。受動性というのは受身に感ずるが、相手の積極性と攻めの姿勢を完璧に利用しカウンタへ繫げるための究極的・積極的反撃姿勢でもあることに、彼女は気づいとったんよ)

(意図して生存の道を狭めたとでも。そうして私達、家族全員を誘導したとでも。悪魔の手段しかないと思い込ませようと、ゆえに、モカ村を選んだとでも仰るのですか)

(客観視したらそうなんよ。俺は、お前さん達を利用しとる愚か者だ。手段がほかにあると捉えながら示さずにおったこともそうやろう。このまま死を受け入れるべきだ。それは、俺に残された人間性でもある)

 魂器過負荷症によって絶える命を、寿命として受け入れることが人間性だと。

(佐崎文也のエーテルリカバリ不良と同じような病死だ。あのケースと異なるのは、非倫理を除いて対策がない。従って根治はできん。そうと判っとって受け入れんのは、楽観視で、遁走で、自分は死なんと信じきっとる脇役の妄想でしかないよ)

(楽観視でも遁走でも妄想でもなく、私には受け入れがたいことです。オト様は私の中心で、脇役ではござりません。みんなも、おもいは同じでしょう)

(花さんや雛菊鷹押を助けたことで帳消しになるようには育てとらんのやから、少なくとも音羅・納月・子欄(上の三人)は俺に何かしらの蟠りがあるやろう)

(!)

 人間的な心を育てるため憎まれることを前提とした教育プログラム。その中に組み込まれた佐崎文也の話を直前に出したのは、そういうことか。

(狭めた可能性を、さらに潰すための教育だったのですか!)

(怨みや憎しみ、負の感情は簡単に消えん。お前さんも教えたそれが正しい。親しい間柄であればなお増幅することをみんな肌で感じたやろう。悪魔の手段を潰す必要があったんやから、あんくらいはせんとね)

(……)

 オトがここまで考えて音羅達の教育に臨んでいたことを、ララナは気づいていなかった。彼の考えに同意して悪魔の手段を切り捨てたからその観点が抜け落ちていたと言えばそれまでだが、彼の考え方を後押ししてしまうとは思いもしなかった。

(これは改めていうが、諦めろ。足搔くはここまでやよ)

 魂器過負荷症に手を打てる能力者をララナが見つけられないことも込みで、オトは言ったのだ。尽くせる手はあった。今は、もうない。

 時間の使い方を誤った両手が自然とテーブルにつき、取り零した機微の重さに押し潰されてララナは項垂れた。

(私は、仕事を、ひとびとの教育をしている場合ではございませんでした)

(アホか)

 オトが一喝した。(家族への貢献を全否定すな。お前さんの給金がなかったら学費が滞って音羅達の卒業すら危うかったわ。これからは鈴音や謐納もお金が掛かる)

(お金なら階級手当でどうにでもなることをオト様ならご存じです)

(断言か)

(オト様が魔術師資格を持っていることを存ぜぬとでもお思いですか)

(三〇一四年四月に上級魔術師の資格はなくなっとる。そもそもそのお金をお前さん達に分けた憶えがない)

(どこへ振り込まれているのですか)

(俺の通帳に預金がある。判子を置いとくから自由にして)

 意図されたか、話が逸れた。戻さなくては。

(お金の問題ではございませんよ。私が意識を傾けるべきは、オト様のほうだったというお話です)

(それこそ。お前さんの授業でどれだけの教え子が道を切り拓いた。俺一人のために教え子の努力と未来を無駄とする物言いこそ看過できん。いい加減にしなさいよ……)

 オトが諭す。(教え子が憂うことのないよう驕らず選択を誇りなさい、羅欄納)

 ……斯様なときだけ──、ずるいです。

 自然にララナを諭す。それが誘導というなら確かにそうなのかも知れない。そんなオトを失いたくないとララナは思ってしまっている。彼を知り、彼の優しさを感ずれば、どうあっても彼の死を望みはしない。

(なぜ、……)

(……)

(なぜ、斯様なときだけ、甘えてくださらないのですか。寄りかかってください。私にできることはなんでも致します)

(……)

 娘の声や物音が時折聞こえる。あたかもずっと遠くであるかのように、耳から遠ざかる。

(赤ちゃんのようなあなた様でいてください。私は、あなた様を失うわけには参りません)

(未来改変がどうのこうの、って、話じゃないことくらい判っとるよ。でもね、無理なんよ)

(生存の道筋、その手段、あるいは術式をご存じなのにですか)

(それを俺が持っとったとしても、俺は俺自身の生を本望と思ってないもん。それを思えん理由はお前さんなら解ってくれるやろ)

 いかに他者を救い、いかに国に寄与しても、手を汚したことを忘れない。その重みから逃げることも、できない。

(そも、俺に手段はないわけやけどね。命の平等。多くのひとが魔法を使う上でそんな制限はないが、その心は持つべきと思う。やから、延命の手段を持ち得る相手が俺の生を望む以前に俺を知りもせん現状、俺は俺を救う術がないし、お前さんの立場でも同じ。そうやろ)

(……詰み、なのですか)

(ん。詰みだ。逃げ道なく、幕が降りた)

 彼は引き籠もることで魔力の成長を抑えた。ララナと出逢ってからだけでも一七年も逃げてきた。それが唯一生き残る道であったからそうしてきた。魂器過負荷症という摂理に到頭追い込まれて退くことができなくなった。命に関わる魔法が本望を土台としてのみ講ぜられる制約〈命の平等〉によって前に進むことは不可能。彼の人生の詰み。それをララナが回避させることができたかも知れなかったが、できなかった。ゆえにララナに取っても詰み。それは夫婦の人生、同時に夫婦を中心とした家の終りでもあった。

(神界移住計画……、完遂できませんでしたね) 

 納月が生まれた翌日からオトが本格始動を話した計画は、数年間の出来事を経てわずかずつ修正されて現在に至った。移住先の絞り込みを終え交渉も進んでいるが、ララナは、オトがいなくなっては無意味のように思えてしまった。

(無意味なんかじゃないよ。お前さんが中心になって進めて。聖水確保の件もあるし、人間の短命社会は暮らすにも不便がある)

 ララナも、娘も、〈不老(ふろう)生者(しょうじゃ)〉。害されなければ老いることなく生き存える。人間の寿命と比べればそれは異常にして異質である。オトが進めた逃げ場の確保は、魂器拡張後のみを想定したものではなかった。

(死後のことまでお考えだったのですね)

(むしろ考えんことがなかった。おかしいこと)

(いいえ……。私達は、幸せなのだと、存じたのです)

(そういってもらえるなら、俺は、少しは人間に添えたってことやね)

 オトが、微笑んだ。(ありがとう)

(私こそ、感謝の言葉しか、ございません……!)

 オトへの冷えきった感情を隠さなかったオトの母親銓音。母親に感謝しながら接触を控えていたオト。娘以外の近親者、血縁がある母親ならオトを救えたが、互いにその意志がないのではどうすることもできない。互いへ、強要はできない。

 生まれ育った環境を異質と俯瞰して自分の正常性を押し殺してまで、彼が傾けてくれた心と感謝の気持。自分の正常性より、存在より、大切であると彼が伝え、遺してくれようとしている日常。どちらも何にも替えがたくて、ララナは手放せない。

 だから、諦めなくてはならない。

 諦めなくては──。

 両手で支えた上体が崩れて、テーブルに額がついた途端、感情の堰が切れた。口を必死に閉じ、息も止めて、なんとか怺えようとするも瞼を押し退ける悲嘆。瓦礫と同化してゆく命を見つめた戦場で一度たりともこれは零れなかった。なんて薄情なんだ。過去をそう咎めるほどに止め処ない嘆きが乗り移って、合わせた両手が震えた。

「……母上」

 ……!

 足音もなく歩み寄っていた謐納が、抓んだ袖を差し出していた。

「大丈夫ですか、母上……」

 ……私は──。

 ララナは顔を振り上げて瞼を閉じ、大きく息を吸うと、ぱちっと目を開けて天井を見た。

 ……私は、妻であり、母なのですから。

 激流のような感情を、吞み込んだ。一番つらいのは気が狂いそうなほどの葛藤を噯にも出さぬまま娘と別れなくてはならないオトだ。そのオトが優しく見つめているのに泣いていては、妻として、母として、力不足。父を失う娘を支えなくてはならない。包丁を向けられるような中途半端さでは駄目だ。葛藤の彼に、報いたいのだから。

 謐納の声に気づいた納月と子欄が駆けつけて、部屋の様子に気づいた音羅と鈴音も駆けつける。そのときララナはあえて謐納の袖を借りて笑っていた。

「ママ、どうかしたの」

「母上、泣いておりました」

 音羅の問に謐納が答えたので、ララナはごまかしておく。

「傑作ネタが頭を過って、思い出し笑いを怺えておりましたら涙が出てしまいました」

「えっ、何それ、どんなの!」

 と、お笑い番組好きの音羅が反応したので、納月と子欄が拍子抜けしたように勉強机に戻った。鈴音も傑作ネタに食いついたので、ララナは音羅が録画したお笑い番組を鑑賞することにした。

 みんな、みんな、趣味嗜好が違う。それでも竹神一家は、今日も笑みで満ちていた。

 ……私が、みんなの家で存らねば(あ   )

 オトがそうしてくれたようにみんなの家たり得るよう、ララナは己を奮い立たせた。

 

 けれども翌日の()()は否応なく訪れた。不可避であった。いかに優れた魔法技術を有するオトでも()()だけは隠し通すことができなかった。

 皆が眠りに落ちていた未明のこと。

 彼の異常な発熱を感じ取り、ララナは瞬時に察した。

 ……魔力の漏出による、発熱!

 離れさえすれば自己治癒ですぐに治ったが、ララナの肌が火傷を負うほどの熱。それは熱した鉄の塊が横たわっているような状態であった。

「悪いね、起こして、火傷まで」

「私のことより……」

 オトのそれは魂器過負荷症の症状だが、いつそこまで進行していたのか。悪化の段階はもはや、()()だ。ここに至るまで、彼はそれを隠すことができてしまったのである。

「抑えるのがせいぜいで魔力放出も不足しとったか」

 彼の呟きに、ララナは目を見張った。

「魔力放出……、いったい、なんのことです」

「こうならんように、個体魔力をちょくちょく切り崩しとったんよ」

「左様なことを──」

 症状が顕になっている。魂器過負荷症をみんなに悟らせないように魔力放出を施していたものの、限度があったのだ。

 オトの意図か接した布団や周囲のものが発火することはないが高熱の彼がここにいては娘が蒸し焼きだ。

「話す間もないな……」

 オトがゆっくりと立ち上がり、傍目には異常がないようなそぶりで大窓を開け、庭へ出た。その瞬間、オトの体が発火して、部屋にドッと爆風が流れ込む。ララナはとっさに障壁を張って屋内への延焼を防いだが爆音に気づいた謐納が目を覚まして異常を察知、隣の音羅を揺り起こす。

 ……みんなに気づかれるのはよろしくないです。それ以上によろしくないのは。

 発火して庭に倒れ込んだオト。仰向けになって言葉を紡ぐ。

「これはこれでいいかもね。火葬だ。場所が悪いが自然発火やし違法にはなるまい」

「オト様──!」

「来んな」

 部屋を飛び出そうとしたララナを、オトが睨むようにして制した。

「まあ、察しとるやろうけどね、これ、かなり危ないわ」

「魔力の漏出が、異常な値です」

 魔力漏出は代謝の一環で普通にも生じているが極めて少量で目に見える異常を来すようなものではない。オトの身に起きていることはまさしく病。自然現象に喩えるなら噴火だろうか、マグマを噴き上げた火山のようにオトの体が激しい魔力波を発生させている。彼の魔力が宇宙に匹敵することを思えば放出するエネルギは噴火と表しても足りないものである。

「体を構築しとる魔力と霊素が漏れ出た魔力と摩擦し合って起きとる現象やな。小さい堰から泥流が溢れ出しとるような、魔力総量に比例した反動がある、と、いったところか。こう体感してみれば理屈はより鮮明やけどどうしようもないな。近づくだけで巻き込まれる」

「ダメージの緩和を試みませんか」

 極力冷静に、声を小さくして提案したララナに、オトが首を横に振って答える。

「聞こえとらんかったん。巻き込まれる」

「……、聞こえております」

 肺に息が入らないのだろう。オトの声は小さく、ララナは読話を頼っていた。「もし、このまま、オト様が亡くなられるとしても、左様な苦しみに満ちた最期だなんて、」

「言ったかな、これ。ひとを苦しめたんやから楽して死ねるわけがない。ただそれだけのことやよ」

 オトが左手を握って自分の胸に置く。「それでも、俺は、お前さん達に逢うことができて、死ぬまでに幸福感を、人間然とした悦びを、分けてもらえた。楽して死ねん。いいやん、全部が不幸やったわけやない。幸せの時間が確かにあるんやから」

 謐納に激しく揺らされて目覚めた音羅が、我が父の異常事態に目を見張った。

「パパ、な、何、なんなの、これ……!」

「騒がせたね──」

 オトが謐納を横に見る。と、ほぼ同時に、

「『!』」

 その感覚はいつかの異質感に酷似していた。雲もないのに落ちた真青な雷のようだったが魔力反応はなく、轟音もなく、まるでオトの魔法である。それが衝いたのは、ほかならぬオトの胸だった。

「オト様──!」

「さすがに油断したな……。どこぞの怨みやろう。お前さんが気にするこっちゃない」

 その口振りが、幾度となくあった襲撃であることを感ぜさせた。

 息が絶えそうだというのに、雷を左手で打ち消したオトは転がった勢いで起き上がり、南へ歩き出した。

「ここじゃ、ゆっくり寝とれんな……」

「ぱ、っパパ、待って!みんな起きてッ!大変だっ……ぱぱっ、パパがぁっ!」

 涙を溜めた音羅が納月達を起こしに掛かる。

 ララナはオトを追おうと南を振り向いたがいない。

 ……あちらですね。

 彼が姿を消すとしたら、行先は一つ。

 ララナはその場所へ空間転移。案の定、橋台に横たわった彼を見つけた。五四川を見下ろす橋台は触れ合った思い出もある彼の根城。そこが死地に選ばれたように思えて、ララナは気が気でなかった。

「オト様……」

「来たら駄目でしょう。巻き込まんようにしとんのに、あかんわ、──っ」

「っ!」

 いつもと変わらない無表情が、崩れつつあった。口から溢れ出して蒸気と化した血液は、成分の一部が火の粉となって辺りを舞い、含有された魔力が飛び散って草木を跡形もなく──。

「血中の無属性魔力やな。触れたら死ぬ、とまではいかんかな、お前さんなら。でもまあ、怪我はするやろうから離れて」

 そう言いながら、オトが口許を抑えて立ち上がり、南へ歩いてゆく。その背を、黙って見送らなくてはならない。

 ……。

「……」

 オトが堤防を上がってゆく。万全の彼ならあり得ないことだろう、草に足を取られて滑りかけた。体の自由も利かなくなっている。それなのに、離れようとする。

 ……、……。

 入浴などの機会が減ったこの一〇年。もしかするとそれ以前から、オトは密かに魔力を放出していた。そうでなければ、気兼ねなく体を見せてくれただろう。

「……っ」

 堤防を上がったところで、オトが再び血を吐いた。

 ララナは、その傍らに寄り添っていた。

「……駄目だと(やって)言っているのに(言っとんげ)

「ともに、血を吐きましょう」

「……」

「肺穿孔でしょうか。ともかく、私は、背を眺めていることができませんでした」

「大馬鹿まじめ……」

 オトの熱でララナの肌に火傷が広がる。

 ララナは、突き放そうとする彼の腰をくすぐってやった。

「オト様の弱点を、私が存じないとでも」

「まだひとを傷つけろと」

「〈ひと〉とは、『他者』を充てるのですか、それとも、『他人』ですか。そこに、『妻』を充ててくださっても私はよいかと存じます。血の繫がりのない他者で他人なのですから」

「化物崩れから化物へ、か。最悪の最期やな」

 オトの足が堤防に沿って南へ向かっている。火傷を広げて、ララナは歩みを支えた。

「その理屈なのですが、おやめになりませんか。ひとはひとを頼りもすれば傷つけもします。頼って英雄になるわけでもなければ傷つけて化物になるわけでもございません」

「対比が変な気がするが。不要な傷をつけることは十分に化物のそれ。理不尽やからね」

「理不尽ではございません」

 ララナは決然と、「私が望んで得た傷です」

「──どんだけ献身的なん。アホやんか、それ」

 ララナは、オトの表情を見逃さない。

「左様なる笑顔を拝見できれば苦になりません」

 聞いた途端、オトが顔を伏せた。

「苦笑やろ」

「いいえ。今の笑みは誰の目にも明らかに純たるものでした」

「侮っとったかもね」

「なんのことでしょう」

「お前さんのこと」

 魔力波が激しさを増して耳を劈くような火炎に吞み込まれていたララナだが、全ての雑音が遠退いて彼の声が妙にはっきりと聞こえた。

「お前さんは、夜を照らす月のようなもんやと思っとったがそれは俺の願望であって、本当は太陽なんよ。圧倒的な光でみんなを見守り、温めることができる」

「柔らかな月の光もよいかと存じますが、侮ることになりますか」

「『誤認』が正確やったかな。月は一面しか見せず裏を見せん、……いや、違う、頭がなんか働かんな。いわんとしたことはこうだ。お前さんが俺に合わせて自分の光度を弱めてくれとったことに慣れきって、いつしか忘れ去っとった、と。そのせいで苦めたこともあった」

「私は問題ございませんでした。オト様が事実誤認してしまうほど私に理想を求めてくださったと悦びこそすれ、苦しいとは。オト様と家族で暮らすことは、私の夢です」

 どんなことがあろうとも夢に存れば進んでゆける。

「光度の調整に演技は。つらくなかったん」

「幸せの気持に演ずる余地などございません」

「……そう」

()からオト様が欠けることが、何よりつらく、悔しいです」

「不在もじきに慣れる。場合によっちゃ、俺が記憶を弄ってもいい」

「左様なことをオト様はお好みではござりません」

「相変らずやな」

「私がそういう質の生き物とは」

「無論やろ……」

 沸き立つ足跡から点点と湯気を立てて、オトが脚を止めた。ゆっくりと辿ったS字のような堤防。森林とS字()堤防を挟んで五四川と橋を後方にすると、オトが正面のやや下方を視た。もう顔を上げることもできないほど衰弱しているのだろうか、目線が上がらない。

 ララナは彼の目線を追った。五四川が合流する高川上流の岸か。いや、その手前、堤防と川の中間くらいだろう。特別何があるわけでもなく、草が生い茂っている高水敷(こうすいじき)

「オト様……」

「……」

 不意に、オトがララナをトンッと押した。脚で持ちこたえたララナの眼前で、押した右手が()()()。強大な魔力もともに溢れ出し、ララナに襲いかかるも、見えざる障壁が遮った。

「……」

 無意識か。オトの左手が胸の前で握られていた。転倒してその手が地につくと、障壁が消えた。オトの右腕が、完全に失われている。

「持ったほうかもな……」

「不完全再生だったのです」

「もう治す必要もないな」

 横向きになって高水敷を見つめる彼から溢れる飛沫は結晶化し、渦巻き、美しくもあった。生命の灯火。輝くルビィ。

 見蕩れている余裕はない。魔力還元の法則に従って彼の体内へ魔力が戻ってゆく。高熱を生ぜさせる一要因たるその現象を、ララナは橋の下でも観ていた。

 彼が、眉間に皺を寄せている。

「痛いと、仰ってください」

「必要ないことやろ、痛み止めなんて」

 ララナの意図するところをオトはやはり察している。「魔法の無駄遣いやから」

「斯様なときに、無理を仰らないでください」

「……()()()()

 オトの目がララナを射た。ほんの一瞬のことなのにララナは何も言えなくなってしまった。オトが折れることはない。どんなときでもそうだった。ララナが自分の認識に頼って、自分の夢の中にしか生きられないことと同じように、彼は彼の信念と制約の中でしか生きられない。

「っ」

「オト様っ……!」

 絶え間なく溢れるルビィ。失われる血液量は減ることがなく、一帯の気温が上昇してしまうほどに発熱も止まらない。

 オトがおもむろに左手を伸ばして、譫言(うわごと)のように、呟いた。

「ヤ──、ごメ──ね、せっかくサ──、──ね……と、ゆるさ……、まっ…………」

 指先から力が失われて、朧げなオトの唇が動きを止めた。

 ララナの目は、嵐のようなルビィを捉え続ける。

「……私は──」

 どうするのか。どうしたいのか。考えることもなかった。彼が誘導したのか。そうであったなら彼は己の死すら相手を操る手札にした最高のペテン師だが、眼に死の望みが光っている。

 魔法の無駄遣いを嫌う彼が密かに魔力放出してまで生き存えようとしていたのはなぜだ。

 ……もし、私と同じ気持でないとしても──。

 見過ごせない。

 失いたくない。

 死なせない。

 ……家には、オト様がいらっしゃらなければ!

 止血の魔法を施すとともに、オトの体内にララナの魔力を流し込むことで荒れ狂う魔力の激流を相殺し、発熱を抑え込んでゆく。そのためには彼を触れる必要があり、両掌が一瞬にして炎に包まれたが意志の前に痛覚が黙った。曰く太陽。発熱や炎などに屈してなるものか。

 ……私達家族には、あなた様が、必要なのです。

 失われた右腕を、ララナの知る限りの治癒魔法技術を用いて再生する。外形だけが立派な、神経の再生はほとんどできていない不細工であったが、出血とそれに伴う魔力漏出を抑えることはできた。

 ……どうか、私達のもとに──!

 右腕を内側から破壊せんとする体内魔力の激流を全魔力でもって抑え込むこと数分、炎が消え、オトの体温が微熱程度になった。魔力漏出が過剰には起きていない。本来魔力を収めておけるのは魂器。今のオトは魂器から暴力的に溢れ出した魔力を体内で緩衝してとどめているに過ぎず、魂器過負荷症を根本的に治せたのではない。ララナが離れたら間もなく症状がぶり返すだろう。引き延ばせるわずかな時間を活かすしかない。

 ……道を見出さなくては。

 オトの母親、それが駄目なら姉に協力を仰ぐ。それがどういう意味かを解っていても動く。

 抑え込んだオトの魔力が何分何秒大人しくしてくれるか判らない。危険はあるが、納月や子欄にオトの魔力の観察を頼むため、ララナは一旦サンプルテに戻った。オトを横にすると、待機していたみんなに経過と状況を搔い摘まんで伝えた。

「──。息がか細い」

 安堵するも音羅が心配した。「寝る前に見たときより、痩せている気もする……」

 文字通り燃えていたので見えない部分が失われていたとしても不思議ではない。ともかく、

「長話はできません、私は急ぎます」

「解った、急いで。なんとしても助けないと!」

「では行ってきます」

「『いってらっしゃい』」

 娘の声を聞いて、ララナは空間転移した。

 転移先はレフュラル表大国の一魔導研究所。一七年前の一二月一三日、清掃員として働いていた竹神銓音とここで出あった。

 受付で聞いたところ竹神銓音は今もここで働いている。日が沈んだ今、清掃員は帰宅したようだった。

 ララナは竹神銓音の暮らす寮を訪ねた。小綺麗な三階建てアパート、二階の角部屋。玄関扉を開いた顔は半世紀を刻んでいるが間違いない、竹神銓音その人である。

「あなた、……」

「こんばんは、聖羅欄納改め竹神羅欄納と申します」

「っ……」

 彼女の驚きの理由は、姓。

「夜分押しかけて申し訳ございません。お義母様、お願い事があってお邪魔しました」

 竹神銓音が瞼を下ろして、首を振った。

「義理の娘にならわたしが話をするとでも」

 オトの要望で、彼の親類縁者には誰一人として結婚報告をしていない。ララナとの結婚を知っているオトの関係者は、定期的にサンプルテを訪れている相末学など一部のみだ。じつの母親である銓音に報告をしなかったのは、存在を軽視していたのではない。

「不躾は承知しております。ですが、私は退きません。一刻を争うのです」

「あん子になんかあったん」

「魔力漏出症による高熱で、今にもお亡くなりになりそうです」

「そう」

 開いた瞼の奥には、彼の母とは思えぬほどの()()が満ちていた。

「……無理は承知でお願い致します。助けていただきたいのです」

「悪魔の手段やね」

 不治の病といってもそれほど知られた病でもない魔力漏出症について、オトが発症することを予測していた様子だ。対策を知っていることも予想内のことである。

「やはりご存じでしたか」

「どこまで聞いたん」

 母子の関係は、玄関で話すようなことではない。ララナは配慮して答えた。

「一種の悖徳(はいとく)があったと伺いました」

「勘違いせんといてね。一線は越えてない」

 ララナは極端な関係を連想していたが、振り返ると、オトは明言していなかった。

「確かに、そういうことしとったよ」

「なぜですか」

「なぜ。理由なんて息子やからとしかね」

「……」

 表向きにも、裏向きにも、その一言は意味を持ち得る。息子であるからそうした行為をされるべき、と、いうなら、竹神銓音も同じようなことをされていたと考えられる。一方、オトが娘に施した教育とは真逆の誘導を考えていたとも考えられる。悪魔の手段を用いて、命を救う行為を受け入れさせるための段階を踏んでいた、と。

「あん子はおかしくなって、別人になった。それからは、そういうこともしてなかったんよ」

 ……なので、一線を越えることがなかったのでしょう。

 彼が事件を起こしたのは肉体が未成熟な一〇歳のとき。悖徳の関係が最終段階に至るはずもない。

 竹神銓音が溜息混りに言う。

「帰って。前みたいに何日も押しかけんなら、団、呼ぶわ」

 世界魔術師団に通報し、逮捕させるということだ。

 一七年前、ララナは竹神銓音のもとに押しかけてオトの話を執拗に聞き出した。そうしなければオトを救うことができないと考えていたから。

 状況でいえば今のほうが切迫している。

「お勤めの魔導研究所、派遣元である清掃会社、いずれも私の義父(ちち)の傘下です」

「……脅すん」

 育ての父に無理を強いてでも得たいものが、ララナにはできたのである。

「どんな手段を使っても、彼をお助け致す覚悟でおります」

「……そう」

 パタン。

 竹神銓音が扉を閉めた。

「帰りぃ。わたしはあん子と関わり合いになるのは嫌なんよ」

「……なぜです」

 頑なすぎはしないか。ララナは、竹神銓音に母親としての情が欠如しているように思えてならない。一七年前もそうであったように、彼女はオトを棄てたかのようで。

「オト様が罪を犯したからですか。彼がその後どれほどのひとびとを救ったかご存じですか」

「人助けで過去の罪がなくなるわけじゃないやろ。ましてや、あん子の罪は裁かれてないどころか決まってすらないんやからね」

 オトの放つ正論にも似ているがどこか穴があるようにララナは感じた。

 玄関扉の向こう側の竹神銓音を見つめるように、ララナは語りかける。

「ご報告が遅れました。五人、娘が生まれました」

「……」

「元気な子、少し捻くれた子、まじめな子、達観した子、静かな子……、みんな、可愛い子です。たとい道を踏み外しても歩みを見届け、ときに手を取りその子に合った道を示してあげたい──。そのような優しさをお持ちであることに、お義母様ならば、気づいているはずです」

 オトが娘を見守っているように、親は子を、竹神銓音はオトを、見守っていた。

「一〇年くらい前、あん子がダゼダダを守ったって聞いて、少し見直そうとも思った。でも無理やった。『本当にそうなんですか』って、疑いはどこからともなく湧いて、罪もないのに色眼鏡で見られるんよ……」

 竹神銓音の感情は、複雑だろう。

「お義母様が、裁かれたのですね」

「……」

「社会は、罪を犯した本人のみならず、罪人の家族を、あるいは友人や知人までも同じように観ます。もともと関わりがない場合はその認識を正すこともできません。敬遠され、距離を詰められず、事実を知らせるにも聞き手の積極性が不足しているためです。お義母様は左様な目に遭った。だから、本人が裁かれなかったことを許せないでいる」

「……」

 子に注いだ愛情。竹神銓音のそれは歪んでいた。虐待に及んでしまったことがそう。ここであえてオトの言葉に乗れば、竹神銓音は誘導されていたのではないか。最初は幼いオトが母性を求めた。後に応えられなくなった竹神銓音は替りの何かを与えたかった。そこで、行為が掏り替わった。肉体的なものであり無償で与えられるもの、虐待へと。なんでもよかったのだ。竹神銓音の中で理屈が通りオトが認めさえすればなんでも。オトは拒否せず受け入れた──。

 オトは詳細を語っていなかったが、彼の話を振り返るとそのように推測することができた。勿論オトが虐待を求めて誘導したということではない。オトは、良くも悪くも周りのひとを動かしてしまう。今のララナがいい例だ。オトが求めていなくても、周りのひとからオトに尽くしたくなってしまう。全てのひとがそうではないがララナのように深入りするひとが確実に存在するのである。そしてその一人が、誰より最初に彼と接した母親竹神銓音。

 この推測が正しいなら、竹神銓音は間違いなくオトを愛している。あのオトの母親だ──、母親としての情が欠如して観えるのは他者からそう観えるように徹底的に演技しているのではないか。といえどもオトの死期を予感して非情を演じきれそうにないから扉を閉めたのでは。表情を隠して耳と口に神経を尖らせることで守っているのは、なんだ。それは、誰にも悟られたくなかった愛情ではないか。

「ときに、」

 竹神銓音の想いを知るため、ララナは話を変える。

「この一七年間、お義母様は緑茶荘に帰省しましたか」

「してない。それがどうしたん」

 反応があったということは、ララナの話から興味が逸れていない。オトの現状を引き出そうとしている可能性がある。

「帰省しないあいだ、家賃や光熱水費など諸費をどのように工面されましたか」

「考えたこともなかった。督促状、来てないし、あん子がどうにかしたんやないの」

「魔術師の階級手当でですよね」

「国の手当もあったやろ。あなた達、今、どこに住んどるん」

「一六年ほど前、緑茶荘から別のところへ移住しました。督促状が届いていないということはそういうことなのです」

「あん子、お金のこと子どもんときから細かったから」

 ララナは尋ねたことがなかったがオトは緑茶荘の維持に掛かる諸費を自分の通帳から引き落とされるようにしてサンプルテへ移住しただろう。母が帰省することはないと悟りながらも、母の帰る場所を守るためにそうしていた。

「オト様は、お義母様、あなたのことを今も、──想っていると思います」

 言いながらララナは、はっとした。受動的体質でも彼は殊に罪に関する常識を弁えている。あとあと竹神銓音が社会的に不利となる行為を拒否もしなかったという推測は、通常なら当て嵌まらない。虐待を受け入れたオトの心理は、()()ではなかったのだ。

 ララナは、オトの心の深淵に辿りついたような気がした。

 ……オト様が死を望まれたのは。

 多くのひとを傷つけてきたから、一番大切な恋人橘鈴音を死に至らしめてしまったから、そうして独りになってしまったあと得た大切な家族を苦しめることを望まなかったから、だ。それらは全て本音だろう。が、これまでに解り得た本音には欠けているものがあったのだ。本音の裏に巧妙に隠した最大の理由は、オトの恋愛感情が親である竹神銓音にも働いていたこと。

 ……飽くまで推測に過ぎません。ですが、それならあの教育方針も納得できます──。

 オトは竹神銓音に恋をしていた。ゆえに虐待を認識しながら受け入れることができ、今も感謝している。そんなオトが親になって最初に考えたことが恋愛感情の向きだった。ララナの記憶をも有する音羅達は生まれつきオトへの愛情が深かった。それが恋愛感情にならないとは、自身の体験からオトは断定できなかった。だから、生まれたときから魂器拡張の術を知っていた音羅や音羅に近い姉妹に対してオトは負の感情への理解を徹底的に促し反感をも植えつけたのだ。

「……お義母様。助けてください」

 ララナは頭を下げた。「私の願いとしては勿論のこと。ですが、その願いが私だけのものとは、考えておりません」

「……」

「お義母様。お義母様も、同じなのではございませんか。本当は助けたいと、お思いなのではございませんか」

「……」

「お義母様!」

「…………」

 ……、どうか…………。

 カタッ──、沈黙を続けた扉が、開いた。

 ……お義母様。

 ララナに向かうその眼は、

「帰りなさい」

 冷たいままだった。

「あなた、あん子のこと、なんも解ってないんやね。わたしのこともなんも解ってない。母親なら、無償で子どもを愛せって。そんな普通の家庭じゃないんやから無理なんよ。いい加減、解りなさい」

「さ、左様な……」

 まさか、本心。愛情の欠如が、演技ではない(?)

 ……これは、現実なのですか。

 打ちのめされそうになるも、ララナは退くわけにはゆかない。

「息子だから。そういいましたね。その思いが、今は、微塵もないというのですか」

「……あなた、あん子にこういわれたことない。『好意的に観すぎ』」

「……」

「あん子が可愛かったのなんて生まれたときくらいやよ。大人の顔色窺うみたいに夜泣きもせんくて不気味やったわ」

「っ」

「あなたに解る」

 底知れない嫌悪感が、冷眼に宿っていた。

「幼い子が、我が子が、ハイハイもできんのに魔法を使い始めた。制御不能になるんやないかって監視された家族の気持が解る!そんな子を生んで咎められたわたしの気持が解る!」

 夜風を震わせる静かな叫び。

「わたしはそういうの必死にごまかして、あん子が世の役に立つってことをなんとか証明しようと魔術師試験を受けさせた、マスコミにも取り上げさせた、公的にその力を認めさせて制御不能なんてことはないって証明した、なのに、あん子はその努力を否定した」

 一〇歳のときの、罪で。

「最上の魔術師、ね」

 ……オト様の、夢。

「実際のあん子は何度やり直そうと災いにしかならんわ」

「そのようなことは──」

「じゃああん子が誰にも、親のわたしにも黙っとった秘密をあなたは知っとるん」

 なんのことだ。竹神銓音はよもや息子オトが向けていた感情に気づいていたのか。それとも別の何かか。そうだとして、それが今、何に関係しているというのか。

「生きていれば、誰しも秘密がございます。オト様も同じです」

「そのせいであん子が潜在的に孤独になって、誰も信じられへんくなっとるとしても」

「──」

「その顔、やっぱ知らんようやね」

 竹神銓音は、何を知っている。「教える義理もない。訊いたところであん子も言わん、ううん、言えん。そんで、その秘密を万一知れば、あん子を大切にしたもんやからこそ、あん子を心の底から憎むことになる。それを、ほかでもなくそうなったわたしが保証するわ」

「……」

 凄まじい憎悪が潜んだ言葉に、ララナは息ができないほど固まっていた。なんのことを言っているのかは見当がつかなくても、オトの秘密を知ったことで実母たる竹神銓音が彼を許せなくなったことだけは理解できたのである。

「いい加減、理解しなさい。憎くて憎くて仕方がないの、殺したいから、殺さんだけやよ」

「──」

 オトは、家族をよく観ている。よく聞いてもいる。観察は心の声に及ぶ。オトは、じつの母の、あるいは愛する女性の、本音に、気づいている。

 ……ああ……!だからこそ、死を望まれた──!

 彼の闇の深さに、孤独の深さに、思いが全く及んでいなかった。

「化物を、形もない災いを、いつまで檻に閉じ込めとけるんやろうね」

「……」

「さようなら」

 扉が、閉まった。

 足音が遠退いた。

 テレビの音が大きくなった。

 お笑い番組。

 時折、スピーカを通さぬ笑い声が混じった。

 ララナは、太股を両手で押さえて、零れる感情を睨みつけていた。行動しなければ何も変えられないと解っているのに、脚が動かない。全耐障壁が夜風を通さないのに体が凍りついたように動き出さない。

 害されることがないように、と、オトが子達に施した成長促進の魔法。子を愛し、その成長を愉しんでやまない彼が、成長著しい幼少期を魔法で短縮させたのはなぜだ。それを、ララナは考えるべきだったのだ。その答をララナはここに来て悟った。母親の苦悩を知っており、化物扱いされる子の気持も酌んでいたのだと。害されることがないように、と、いう言葉はその通りだが、その裏には、母親であるララナに対する配慮も大いにあったと解る。なぜなら、生まれて間もない頃の音羅が緑茶荘を全焼させかねなかった。あのときララナが音羅の魔法から緑茶荘を守れたのは、音羅が意味の通る言葉を発していて、魔法の挙動を摑めたからだ。それだって家具一式を焼失させてしまうような間一髪の対応だった。もしも音羅が幼いままで言葉をまともに発しなかったとしたら、して、魔法の挙動を見逃していたら、ララナは、竹神銓音と同じ苦悩を味わっていた。また、同じような恐怖感すら持っていたかも知れない。この子は危険である──、と。こんな簡単なことに、なぜ、今の今まで想像が及ばなかったのか。妻なのに。母親なのに。なぜ。

 

 

「──銓音様……」

 ……静かにしぃ。

 竹神銓音は、口許に人差指を立てて、和装の植物少女を制した。

 お笑い番組が全てを丸く治めてくれる。

 生まれつきだったか、経験のせいか、竹神銓音は演技が得意だ。結婚して、別れて、再会して──、心が磨かれたことで演技の幅が広がったことを自覚している。笑うことなど容易い。苦しくても、悲しくても、笑える。自分の望むもののためには笑わなければならないと解っているから、笑う。

 

 ある年の一月一日。訪れた息子オトと話す機会を得た。

「──、この子を、育ててくれへんかな」

 小さな綿毛が、竹神銓音に手渡された。「あの子はきっと苦しむけど、でも、何があってもこの国から出んといてね」

 

 子は成長が早い。広く聞くその体感をオトに覚えていた竹神銓音は預かった綿毛を毎日撫でて、過去を想い、未来を見据えた。が、オトの言葉が延命治療の拒絶と同義だったことにはララナが訪れたとき気づかされた。なんと遅い気づきであったか。子は、先にゆいてしまうものなのだろう。竹神銓音は自分の運命を変えられないまま、ここにいる。笑いは演技。けれども自分への嘲りとしては本心であった。何も変えられない自分は、子の思うままに、秘密を守るために、ただ笑うほかなかった。

 ……海音(わたね)──。

 かつての綿毛が、愛らしい花を咲かせた少女の姿で寄り添ってくれている。

 ……ごめんね。あたしは、つくづく、馬鹿な母親やわ。

 子が孤独の闇に落ちても、自分が既にそこに落ちているなら、救われる気がした。それでもやはり、崖を振り返りたくなるのは、素直に笑えた日日を思い出してしまうからだろう。

 ……さようなら、音。さようなら。──。

 

 

 追いつきたいのに、彼には、絶対に追いつけない。彼は、永遠に孤独だ。

 ……私は、オト様を……。

 生かしていいのか。

 生かそうとして、いいのか。

 家族のためと言いながら、彼も本当は自分達と一緒にいたいはずだと言いながら、彼の孤独を知りながら、彼に生を強いるのか。

 ……斯様な世界に、オト様をお引き止めして、私は、本当に、幸せなのですか。

 彼が幸せなら、ララナはどんなにつらくても平気だ。けれど、彼の心の深淵に触れたからには──。ララナや娘の存在がオトの幸せであったとしても、不足ないとはいいきれない。じつの母親の殺意などララナには経験がない。どうやってもオトの心を推し量ることができない。竹神銓音のいう秘密を打ち明けてもらえないことも踏まえて、ララナは自分の存在価値の希薄さが浮彫になったような気がした。

 ……どうしたら、よいのですか。

 いま注視すべきはオトの生存方法。血の繫がったじつの母親があんな感情でいて姉が生存を望むとは考えにくい。ましてや対策を講ずることなどあり得ない。

 苦しみを受け止め生きてゆく自信がなかった。橘鈴音を救えなかった理由をオトがそう話したことがあった。

 状況は違う。が、ララナは気づいた。大切なひとの苦しみを受け止める自信がなく、救う術もなく、見殺しにするほかない、いつかのオトと似たような立場になっていることに。

 秘密。潜在的孤独。災い。

 ……私は──。

 この一七年間、ララナはオトを幸せにした反面、孤独をより覚えさせ、苦しめ続けていた。死に向かう心を見届けるという形で彼を介錯するほかないのではないか。追いつけるとしたら脚を止める最期だけ。彼に残された幸せは、そこにしかないのではないか。

 胸が、疼く。

(孤独は絶望)

 ……!

(どんな幸福も、孤独を癒やすことはできない)

 ……あ……!

 ララナは、胸を押さえて、慄える手で、ネックレスを触れた。

(抗うの)

(メリアさん──、なぜ、また!)

(孤独に染まっているから)

 オトの孤独を感じて、自分の与える幸福感の限界をララナは悟ってしまった。オトの代りは何者にもできない。心の準備ができるわけもなく、メリアの浮上は不可避だった。

(わたしはあなたを感じている。だから解る)

(メリアさんが感じているのは、孤独や絶望、負の感情のみです。私の得た幸福感まで──)

(知っている。重い星は黒い穴を残していく)

(天体は関係が、)

(手にした星が失われたあとに生まれるのが、孤独と絶望なのに)

(っ!)

 メリアの意志の許に、魂器から魔力が溢れてゆく。

 暴走してしまう。

 ララナはとっさに空間転移した。誰もいない場所。誰も来ない場所。とっさに思いついた場所はオトが気を失った堤防であった。

(あなたは、彼の愛を渇望している)

(……紛れもございません)

(委ねなさい。わたしは、黒い穴を希望の星へ変える力を持っている)

(どういうことです。──!)

 ララナは、オトの言葉を思い出す。(まさか、オト様が仰った生存の道筋は、メリアさんの力なのですか!)

(さあ、委ねて。あなたの望む星を、わたしが与えましょう)

 魂器から溢れ出す魔力を押し込めようと抗っていたが、ララナは、その抵抗を、やめた。

 ……オト様を、失いたくないのです──!

 強く願う。願うしか、できない。そんな自分が何を望むことも許されないとしても、オトが生きる道を、オトが望まぬ選択肢以外で切り拓くことができるなら迷うことはなかった。

 そんなララナを、背中から抱き竦めるぬくもりが現れた。

「いい加減にしぃよ、ひとに意志を吞まれんな」

「……!」

「とかく俺を(かん)ぜんか」

「オト様……」

 ララナの頭に顎を載せてやっと立っている様子の彼が、自重でもってララナを跪かせて抱き締め直す。

 ……こんなときですのに、どうして、こんなに、心地よいのでしょう……。

 彼の声とメリアの声。信ずるべき言葉を発したのはどちらか。いつも心を傾けてくれている彼以外にありはしないから、不安と絶望を抱えながらもその声を聞けば心穏やかになれた。

(邪魔立てを──)

 感情の揺らぎが治まったことで、動きを取れなくなったメリアの意志が急激に押し込められた。

(……メリアさん)

「もう聞こえとらんよ」

「……私は、また、暴走を……」

「そんときは俺がどうにかしてくれるはず。そう思ったんやろ」

「……」

 ネックレスを未だ触れているララナである。彼は、きっとそれを感じて駆けつけてくれた。ストーカはララナの専売特許ではなかった。彼も、十分ストーカだ。

「オト様……、私は、どうすればよいのですか」

 ララナの問は、虚空へ消えた。オトの体が急に軽くなって、姿が消えていた。暴走を防ぐために放った分身だったのだろう。自分の命が尽きようというときまで、彼は家族をよく観て、聞いて、なおかつ、多くのひとが平穏に生きられるように考えている。

 ……、……。

 ひとを信ぜられないほどの秘密。それがあるから実母にも憎まれ、許されなくなった。だから彼は孤独──。

 確かに彼は、そうなのかも知れない。ひとを信ぜられなくもなっているのかも知れない。その結果が先程のストーカ行為であったといわれれば、確かに、と、解釈できてしまう。

 だから、なんだというのだろう。

 ……飽くまで、解釈です。

 彼の本質を、本当にそう解釈していいのか。一片の疑いもなくそうといいきっていいのか。

 違う。

 ララナは、そう思った。

 疑心や不信や負の感情だけならララナが暴走するのを止めない。ひとを信ぜず、疑い、憎んだ者の末路は、ひとの不幸を願い、招き、悦ぶ魔道だ。オトは、決してそうではない。化物のような力を有し、形のない災いとまで喩えられる存在だとしても、

 ……彼は、人間です──。

 悲しんで、苦しんで、ときに怒って、そして、自身の善性から過去に追いつめられて死を選ぶことまでして、必死に踠いて、懸命に生きてきた人間だ。

 ……そんなオト様にできる、数少ないことを私は、やらねば──。

 覚束ない脚。重心を確かめて立ち上がり、ララナは、サンプルテの一〇三号室へ空間転移した。

 ……──。

 

 

 

──六章 終──

 

 

 

 

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