五章 巫女の意志
自然を形作るものの数だけ答があり、その一つ一つを可憐な花と見留めようにも一つの花が多くの毒を生んでいることもあって、闇夜の砂漠を歩むが如く求める答に辿りつくことが容易でなく、小さな蕾に出逢うことさえ長い時を有した、そこは、少女には大きすぎる大地であった。
少女が出逢ったのは闇夜を照らせるであろう蕾であった。魔力を持ちながら魔法に頼るそぶりがなく無魔力個体に対する蔑視もなく、学園では格闘技術を学んで多くの仲間を得ている。名は、竹神音羅。
苗字への印象は、多くが憎悪と憧れに分れる。その苗字を持った一人の男が世に知れ渡っているためだ。
その男こと竹神音羅の父竹神音は旧姓言葉真。五大旧家に連なる者として知る者は多いが、三大国戦争の立役者に連なる者という事実はかなりの勉強家が推測して調査を敢行しなければ知ることもない。余談のようでいてこれは余談ではない。三大国戦争の立役者すなわち言葉真鷹音を少女大川雛子は大層尊敬しているのである。その武勇伝もさることながら気性の激しさに相反する優しさを知っていた──。縁は繫がるもので、言葉真鷹音の孫に当たる言葉真音もまた大川雛子の尊敬の的であった。魔物との戦いに魔法を役立て手柄を挙げようと考える術者は腐るほどいたが、彼はそうではなかった。他者のために才能を役立てるのが普通のことであり、そうでなければ魔術師として失格であると言って退けた。それは言葉真鷹音の精神そのものであるといえよう。
大川雛子が労働に勤しむようになってしばらくしたとき竹神音羅と出逢い、二人で話す機会が巡ってきた。彼女はダゼダダに巣食う毒花の葉に触れて義憤が募っていた。何もできず苦悩してもいるようだった。それは親しい友人の苦悩を酌んだ、とても純粋な優しさであった。就労の時間帯は違ったが大川雛子は彼女を気に懸けた。
三〇二六年四月に入ってすぐのこと。ファミリーレストランのアルバイトを精力的にこなしていた竹神音羅がまさかの欠勤をした。母親から休職の連絡はあったようだが大川雛子は(何かあったのか)と気にした。竹神音羅の身についてもそうであったが竹神音の身についてもそうであった。しかし、たかがバイト先の先輩として家を訪ねるのはどうなのか。大川雛子が訪ねられる側なら不審に思う。
訪ねるには口実が必要だった。竹神音羅が休んだ理由は体調不良だと聞いたので、大川雛子は店長に掛け合って花束を買い、見舞をすることにした。
して、日曜の昼下り、大川雛子は安アパート〈simple le thé〉の一〇三号室・竹神邸を訪ねた。呼鈴を押すと間もなく扉が開いた。
「どちらさまでしょうか」
と、丁寧な会釈で出迎えたのは、大地と空気と水を纏めて浄化してしまいそうな可憐な少女だった。
大川雛子は自己紹介すると、花束を掲げて用件を伝えた。
「お見舞に来ました」
「音羅ちゃんなら横になっています。どうぞ上がってください」
「失礼します。(横になっている、か)」
病床に伏せる姿が普段の様子からは想像できなかったが、大川雛子の案内された寝室に竹神音羅はまこと横になっていた。見舞と聞き上体を起こして元気を装ったものの表情に拭いきれない陰があった。
出迎えてくれた少女がお茶を出してキッチンに引っ込むと、竹神音羅が口を開いた。
「雛子さんが訪ねてきてくれるとは思いませんでした。ありがとうございます」
「sugars代表ね。今日あたしは夜からバイトだし、音羅サンと話したことをテンチョー達に伝えられるってこともあって決まったの」
みんなをそう誘導したことは竹神音羅には伝えない。
大川雛子には見舞以外の目的があった。目的に邁進しては怪しまれる。大川雛子は慎重である。当り障りないことから入る。
「みんなのお金で買った花を妹サンに預けたから、あとでゆっくり鑑賞してね」
「ありがとうございます。お金、使わせてしまってごめんなさい……」
観たところ体調不良は事実。だというのに、他者への心配りが自然と口から出る竹神音羅。
「親切と心配は遠慮なく受け取っていいのよ。あなたが休んだことにびっくりしてたから、早くよくなってほしいってみんな心から思ってるわ。なんの薬が効くとか部外者じゃ判らないから、せめて心配はさせて」
竹神音羅が納得した顔で小さくうなづくと、
「話が少し戻りますが、花を預かったのは妹ではないと思います。そこに二人ともいたので」
竹神音羅に示された妹二人は、訪れた大川雛子に挨拶してからずっと机に齧りついてノートに何やら書き込んでいる。
……魔法の創作か。面白いことをしているわね。
幼い頃の父親のように、勉強熱心なのだろう。
「じゃあ、さっきの子って、お姉サンかな」
「あはは……、母です」
「えっ」
まさか(!)大川雛子は思わずキッチンのほうを振り向いて確認してしまった。壁があるので姿が見えないがあの少女が竹神音羅の母。それはつまり竹神音の妻ということでもある。大川雛子は自分の容姿などそっちのけでショックを受けてしまった。そのショックをどう受け取ったか、竹神音羅が微苦笑である。
「母、わたしよりも小さいのでよく妹に間違われるんです。やっぱり勘違いしますよね」
「そりゃあ、いろいろ、ね」
きめの細かい肌、艶のある髪、長く整った睫毛に大きな瞳が魅力的。土台の美しさゆえに飾り気のないただのワンピースが可憐さを引き立てていた。
……しかし、なんて母親。
嫉妬するほど可愛い。幼さを秘めた外見に庇護欲さえ搔き立てられる。大川雛子が彼女の娘だったら、女として対抗意識が燃え上がってしまいそうだ。大人っぽい美人でも対抗してしまうだろうけれども。
……いけない。話が脱線しそうだ。
大川雛子の目的は、竹神音の現状を知ること。巷でも話をよく聞くが多くが噂の域だ。
「音羅サンがよく話しているお父サン、今日はいないみたいだね」
「はい、ちょっと不在にしています」
「そうなんだ。どこか仕事で出ていたりするの」
「たぶん、はい」
回答が曖昧だ。が、そうだろう。彼女は竹神音の所在を知らない。出ていった理由も知らない──。観て解ることまで傷を抉るようにして穿鑿しない。それが大川雛子である。
「体調がよくないってことだからあまり動いたりはしないんだろうけれど、休んでるときは何をしてるの。アナタのことだからじっとしてるのはえらいんじゃない」
えらいという言葉をダゼダダでは「疲れる」の意味合で使うことがある。接客中などはあまり使わない国言葉も従業員同士は気楽に使う。
「あはは……、じつは、はい、かなり疲れています。早く体を動かしたいんですが脚に力が入らないみたいで、立ち上がれないんです」
「(自ら土を肥やす努力をしなくては……。)早くよくなるといいね。sugarsで待っているから、ゆっくりしっかり治していらっしゃい」
「改めて、シフトに穴を空けてごめんなさい。店長達にもお詫びを伝えてください」
「OK。じゃあ、そろそろ行くわね」
「はい、ありがとうございます。気をつけて」
竹神音羅が小さくうなづくと、大川雛子は竹神邸をあとにした。
送り出してくれた竹神音羅の母に大川雛子は少し緊張した。あの少女が竹神音の妻だと一見して判断できなかったのは不覚であった。
……あたしもまだまだだな。
sugarsへ向かうには早い時間だが商店街方面へ向かう。鈍重でもなければ焦燥もしない、普段通りの足取りだった。
……あなたは、今、何をしていらっしゃる。
竹神音。その姿を間接的に捉えていても両眼で捉えていないから体感できるはずもなく、今日もアルバイタの大川雛子は、自分の日常に魔法や国のゆく末など関わりがないようにも思えてくる。
ベッドを離れられない母が瞼を下ろして思うはダゼダダのゆく末。
「この国には信仰も魔法も科学もある。いつか魔導が入ってきても受け入れた、本当に懐の深い土地だわ。砂漠は暑く、山は寒く、森は蒼く、ひとと空と海は広がるばかりだわ」
「お母さん、どういう意味」
幼き時分。経験も理解力もなく訊いた。
「そのままの意味よ」
「お母さんみたいに、わたしにも『見える』ようになる」
「そうね。いつかあなたにも見えるようになるわ」
母が笑った。「母は、疲れました。少し休むわね」
「じゃあわたしも休みますっ」
「ふふふ、どうぞ」
三〇一二年一二月中旬、母の温かい胸に縋って眠った。その温もりを最後に、母を失った。目覚めたとき、亡くなっていた。侍従が遽しくなって半ば強引に廊下に出され、絨緞をなぞる爪先を見下ろしていた。母が亡くなったことをそのときはまだ理解できていなかった。
およそ半年が過ぎ、気が滅入る一方だった真夏、ノック音が聞こえた。安アパートに住む幼い大川雛子はいつものように情報屋を招き入れるため玄関の扉を開けた。そこに立っていたのが言葉真鷹音であることにどうしようもなく動揺した。
情報屋によれば言葉真鷹音は病床についており動ける体ではないはずだった。情報屋が噓をついたのか。大川雛子が一瞬疑うほどの笑顔を言葉真鷹音がニカッと。胸許を押さえて何も言わず家に上がったから、普通ではないと察せられた。
「お、お体は大丈夫なんですか」
「平気さ、情報屋が痛み止めをくれたからね。だがまあ、長話できるほど塩梅はよくない。だから簡潔に話すよ」
玄関扉を閉めた大川雛子を振り向いて、言葉真鷹音が宣言通りに述べた。
「全てを預ける。四の五のいわんと受け取りぃ」
それから一〇年余の出来事を簡単に振り返ってみよう。言葉真鷹音の死。言葉真音幼少期の凶行。日を追うごとに緊張感が増すダゼダダとテラノア。ミサイルが飛んできて、それを撃ち落とすための開発が進むと同時に保守政権が転覆、過激派思想の火箸凌一が警備府を我が物顔で仕切り、侵略戦争一歩手前まで突き進んだ。火箸凌一の毒が知れ渡り貧民一揆が起きると保守派が息を吹き返し、専守防衛体制へ立ち返り、貧民対策が強化された。テラノアが竹神音に暗殺者を差し向けたこともあれば、ステルス潜水艦による近距離ミサイル攻撃などという奇策を講じてきたこともあった。あの竹神音が謎の結界に閉じ込められるという出来事もあったがなんとか無事に解除できたようで幸いであった。終末の咆哮による攻撃が二度あったことも忘れてはなるまい。そうした強制外交を続けてきたゾーティカ゠イルが遂に没した三〇二七年三月一四日、国王が代わったテラノアは国策転換して国外には目もくれず国内自給率向上に動いた。同時期、レフュラルも魔導電力発電所の反対運動が勃発、果ては廃止論が噴出、王子・王女が率先して自然エネルギへの転換を標榜して民意を束ねると信仰解禁にまで言及した。数箇月後、レフュラル王城議会は世論を無視できなくなり自然エネルギ供給事業を承認・促進し、信仰の解禁を公布した。
それら出来事の途中──、テラノアとレフュラルが大きな転機を迎えるとまだ知らなかった三〇二五年一二月一五日。sugarsの帰途、大川雛子は思わぬ人物を前にした。血筋なのだろうか。言葉真鷹音が現れたときのように唐突で驚くほかなかった。
「この顔を観て驚くということは少なくとも『間接的に』知っとるってことやね」
「娘さん、とても見込みのある子ですね」
「〈遠見〉やね」
「存じていらっしゃる。余計なお世話をしてしまいました」
「有難う」
竹神音。悪心に染まった、と、一度は見限り、葬るか否か迷った時期もあった人物──。
夜道を歩む大川雛子の隣を竹神音が歩いた。
「私はただ、知っていてほしかったのです。あなたの娘に、この国の、岩盤を。それで、照らしてほしいと思ったのです」
「観測者らしい意見やね。直接介入はせんの」
「それこそメンドーでしょう」
「おや、お株を奪われた。俺にはストーカがどれだけついとるんやろうね」
「男性も含めれば一〇人はいるのでは」
「引籠り相手に多すぎ」
危険視されているから。
大川雛子は、大川雛子としての質問をしたい。
「小さいときに出逢ったこと、憶えていらっしゃいますか」
「いつやったか詳しくは」
「私が八歳のときです。魔力の潜め方を教えてくださいました」
「ああ、だから預かったそれを隠せた」
横目が見抜いていた。
大川雛子は、突然訪ねてきた言葉真鷹音から強大な魔力を継承した。それは、テラノア国王が代代行ってきた死による継承とは違うが結果は同様だ。膨大な魔力は、何十もの時代に亘って守り培われた肥沃な大地のよう。
「苦労しました。受け取った瞬間から全てを潜めるのは。──葛藤が、あります。未熟な私が預かってよかったものなのか。そうして私が次代に渡してもよいものなのか。強大な力は抑止力であると同時に凶器であり脅威です。そしてまた、心を押し潰すのが外圧とは限りません」
「マグマの噴出」
「私自身がそうです」
この力があればなんでも思い通りになると思ってしまう。ときに世界は革命で転回するが、社会のルールに副って革命が起こるかといえば否だ、などと、反論が生じて理性を退けてしまう。そんな傲慢が人間社会で罷り通るはずがない。マグマが噴き出して成長するのは山であり大地。植物や生物の無事は保証できない。それも一時のことだろう、などと鼬ごっこの思考。
竹神音が掌を大川雛子に見せて、
「大丈夫。お前さんがそうなったら俺が止めてあげるよ」
他者を試すようなやり口が好きではないが、慎重さもまた大川雛子らしさである。
「私のエウラスはなんでしょう」
彼が答えられたら先の言葉に頼ってもいいと断ぜられる──。そんな大川雛子に即答があった。
「二〇九やろ」
「──」
知る者にしか通じない暗号のような言葉に竹神音が容易く答えた。そこに、彼の持つ知識や憶測力が加わっていたとしても信頼に値する解答であった。
「試すような真似をして申し訳ございませんでした」
「国を思えばこそ。俺も一つ任せたい」
「音さんから」
「ああ。──」
ダゼダダは国内の安定に努めることができた。見込んだ通り、竹神音羅はダゼダダの経済を豊かにし、下流階級に資してくれた。彼女の、あるいは星川英の薫陶を受けて野原花が武芸の道を拓いたことで、ダゼダダの民はより広い大地を知った。
いろいろあった。これからも、ある。
……私にできることは、いかほどのものか。
安アパートのテーブルに合掌を添え、瞼を下ろすと、母が言っていた通り、情報屋からもらわずともダゼダダに蔓延した憂いを見ることができた。
三〇二九年の誕生日を迎えた大川雛子は、いつかの母を思い出してやまない。瞼。こんなに軽いものを力を入れて持ち上げなくてはならなかった。これが、母の消耗の理由だ。
「大神様。準備が整いました」
玄関の扉が開いた。いつもの情報屋だ。彼がじつの兄であるとは最初から知っていた。そういう家系に生まれたからには侍従のように扱うのが大川雛子、否、大神凰慈だ。
「参りましょう。止めなくてはなりません」
「お伴し、状況を伺います」
「ええ」
大神家。五大旧家より遥か昔から存在する由緒正しきダゼダダの旧家であり、時代を見つめていた家系であり、その起りは八百万神社を司る巫女であった。男性が巫女たる女性に仕えることを定められた家系で女性に生まれた大神凰慈は、母が亡くなった直後から大神家当主としてこのダゼダダを見つめていた。
大神家は調停者でも監視者でもなく観測者である。ただし、ダゼダダの在り方に歪みが生じ得るとなれば警備府にも有効な発言権を使う。幸いか、大神凰慈の代になってダゼダダはそのような事象に見舞われずに済んできた。竹神音の暗躍があったからであろう。あろう、と、曖昧に表したのは優秀な兄をもってしてもかの天才を捉え尽くすことができなかった。彼が関与していなければあり得ないことがいくつも起きていたがゆえに、あろう、だ。
大神凰慈と兄、そして大神家の侍従三名が夜陰を斬るように駆ける。大神凰慈の示す方角へ進む兄と侍従が、大神凰慈の話を聞いて動ずることなくうなづいた。
「──、国王エント゠ウヴ゠エリーが熱源体を放とうとしています」
「レフュラルの国王自ら、こちらを狙っていると仰る」
と、兄が尋ねなければならなかったのは捉えていない情報が今回の行動の根本にあった。兄と侍従は大神凰慈の召集で急遽集まったに過ぎず、今の今までこの事態を知らなかった。
「大神様の仰る熱源体とは、テラノアの弄した兵器が発するものと同じですか」
「そう。国王エント゠ウヴ゠エリーが密かにテラノアに渡っていたことはあなた達も知っての通りです。そのとき、テラノアのいう灰燼兵器、レフュラルの文献によるところの終末の咆哮を観察したのです」
「遠見ですね」
「ええ」
瞼を下ろせば、見たいものが見える。それが、大神家の巫女の持つ特異能力〈遠見〉。巫女としての能力が高ければ国外に及ぶとされた視野。大神凰慈は歴代最上の能力者である。それが証拠に海を隔てた遠くテラノアやレフュラルで起きたことも見える。
「国王エント゠ウヴ゠エリーは研究のために終末の咆哮をスケッチしました。それが三年前、三〇二六年八月二七日のこと。魔導に通ずる彼がスケッチから形を再現することはそう難しいことではありませんでした。時間が掛かったのは彼のみでの製作となったためです」
「今回の動きを大神様は作動試験とのご高察ですが、かの国王が単純な試験をするとは思えません。恐らく相応の確信があるのでしょう」
「私は魔導に暗い。あれが本当に作動するのか、熱源体を生ずるか、判断できかねます」
終末の咆哮のような熱源体を発するなら対応する。その対応に特化した侍従を兄に集めてもらった。
……今回は、私の出番。そうでしょう、音さん。
彼に取りて保険的な要請だった。
──凰慈さん。有事あらば、あなたが動いてください。
彼はそう簡単に弱体化するような低能ではない。彼自身もそう思っていただろうし、周囲の者もそうと疑わなかった。
しかし、だ。謎の結界と星川英に纏わる一件で竹神音は満身創痍。右手神経不完全再生は魔法どころか物を扱うにも致命的。精神力・体力の極限消耗も深刻。彼はまともに戦えない。
保険。否。大神凰慈が、この国を守りたい。保険などでなく率先して、観測者などと偉そうに不干渉を決め込んで鳥瞰するのはまっぴらだ。
……己の手で作り出さずして、何が国か。
九条・鮎墨両町の境界を抜けた遥か北西部。砂漠化した土地を前に、大神凰慈と同志が脚を止めた。レフュラル表大国から纏まった魔力が解き放たれたことは、大神凰慈のみが察した。落下予定地点の直上で熱源体を発生させる終末の咆哮と違って、砲弾のような軌道である。魔力の強さは終末の咆哮に劣らない。軌道の先は田創町。着弾すればそこに住まう者が消し炭になるほどの威力を有する。
狙いは、弱っている竹神音の殺害だ。彼の暗躍で王子らが動き、エント゠ウヴ゠エリーは国策転換を余儀なくされてしまった。言うなれば意趣返しである。最前線で荒波と暗闇を搔き分けて進んできた者にしか解らない怒りがある。大神凰慈は、その気が少しは解る。それゆえに決してその怒りを田創町に着弾させるわけにはゆかない。
「来ます。〈平面隔絶〉を」
「『はい!』」
兄と侍従、四名が魔力を束ねて巨大な壁を作り上げる。ダゼダダを覆うほどの壁は向こう側の景色を視認できなくする役割だ。防御性能がゼロということはないが熱源体を防ぐ耐久性はない。大神凰慈が侍従を連れ立ったのはエント゠ウヴ゠エリーの怒りをなかったことにする。また、レフュラル王族ひいてはレフュラル国民への反感をダゼダダ国民に持たせることなく、七〇年もの昔に交わされた欺瞞だらけの同盟関係を現実のものに進化させる。それらのために、エント゠ウヴ゠エリーの放った凶弾がダゼダダ国民から見えないようにした。
「大神様、隔絶が完了しました」
「(あとは、私が。)予定通りに参ります」
「『はい!』」
大神凰慈は、ダゼダダ側の壁に演出を施すよう侍従へ指示を出していた。像も音も全て侍従の魔法だが演出されたそれをダゼダダ国民は間違いなく花火と認識する。その裏で花火ならざるものが爆ぜようともそれを認識することはできない。
壁に意図的に空けられた小さな穴を抜けて、大神凰慈は独り、さらに北西へと進んだ。凍える砂漠の夜風。
……あなたはずっとこのような風を切り続けていたの。
成せる者は己のみ。その現実は思うよりずっと寒く、双肩に重く伸しかかる。けれども、竹神音はその身に幾度となく現実を背負った。旧家から追い出され、悪党の烙印を捺され、引籠りとなっているにも拘らず、己の為すべきことを躊躇しない。
──大昔から続いている、記憶のない隔たりを乗り越える日を待っているわ。
幼い時分、母から聞いた三大国の隔たりがある。その隔たりを当時こそ理解していなかった大神凰慈だが、人と人の繫がりの中に身を置き学んだ。苦しみ、笑い、悩み、悦ぶひとびとの尊さを知り、自身の記憶にもない大昔からの隔たりの正体に迫れた。それが仮に間違いであっても、真摯に受け止め、隔たりの正体を再び探り当て、向き合う勇気と自信を培った。
……来た。
砂漠を突き進む大神凰慈の両眼が捉えたのはあたかも巨大な流星、エント゠ウヴ゠エリーの怒りたる凶弾だ。
……これもきっと乗り越えるべき隔たりだ。
エント゠ウヴ゠エリーや亡きゾーティカ゠イルが隔たりの正体を知っているかは定かでないが、知る由もない隔たりを苗床に育ったのだとしたら、怨念ともいえようそれを、ともに乗り越えなければならない。その想いをいだいたのが自分や母だけではないことを、大神凰慈は責の重みや化物と称せられた彼の行いを通じて悟った。
砂漠に脚を突き立てて止まった大神凰慈は、両腕を広げて砂を巻き上げるとともに、潜めた魔力を利用し、景色の一点から色を奪う「無」を成して凶弾を受け止めた。
……知れ。私達の想いを。
螺旋状に巻き上がった砂をも吞み込みつつ、凶弾をも吞み込んでゆく、無。それはこの場に向けられたあらゆる視線をも無へと帰する魔法であった。威力がぶつかれば必ず生ずる余波すら吞み込み、凄まじい圧力に曝されるはずだった壁にさえ傷をつけさせず、最後、星の終りのように弾けた無を意に介さず、大神凰慈は遠くの彼を見た。
……皆を守るために、あなたをも守りましょう。エント゠ウヴ゠エリー。
海・空・木・毒・光・闇・ひと──、全てを包み込む大地のように存らねば、ここには立てない。
大型魔導機構が煙を上げて崖に融け魔力を失って罅割れた崖ごと海へと崩落した。
……所詮は異なるものの劣化品。
車椅子の自動操縦で後退したエント゠ウヴ゠エリーは、解き放たれた熱源体が強力な魔法に遮られて消え失せたことを魔力反応で察した。光属性魔法による高度な遠見が、ダゼダダ大陸の消滅ないし半壊を映像で届けてくれるはずであったが映像はなかった。それで判った。あの大神家が動いたことを。
……ダゼダダの魔法には驚かされる。
伝え聞く言葉真鷹音の大魔法に始まり、エント゠ウヴ゠エリーはダゼダダに魅力的な魔法がいくつも眠っていることに興味をそそられて仕方がなかった。それは同時に、国王となったエント゠ウヴ゠エリーの脅威でもあった。魔法の力は経済力に密接し、ひとびとの生活を、国を、潤す力である。ときの精鋭を祭り上げること、保護すること、神を利用することさえ、その力を得るためならどんなことでもした。指針は違えど、子達とエント゠ウヴ゠エリーの志すものは同じだった。それゆえ依然としてダゼダダの魔法は脅威なのだ。
……竹神音。そちは、厄病神であるな。
魅力的だ。どんな力も使い方次第。厄病神の力も国の繁栄に繫げられる。
……大神の当主はよくやってのけた。
厄病神を味方につけた。そうでなければエント゠ウヴ゠エリーは不動の地位にあった。国内での支持は子達に流れた。
車椅子を反転させて平原を行く。
「っふふはは、(蛍火が如き感はいつぶりか。闇の中は判らぬものであるな)」
趨勢を読み違えたなどとは言うまい。負け惜しみと言われれば甘んじて認める。
……これより若き時代なのだろう。
先に逝ったゾーティカ゠イルのこともある。体の不自由なエント゠ウヴ゠エリーにはそう遠いことでもないかも知れない。立ち塞がるように現れた魔獣を物ともせず光の魔法が消滅させるが命は等しく有限。エント゠ウヴ゠エリーは己が永遠とは思っていない。進む光は先細り。照らせぬ光に代わって新たな光が先を照らせばよい。そのタイミングが思うより早かった。国王の肩書が残っているのは予想外。子達はテラノアの次代と同じく柔らか。それが趨勢、今の世を照らす光なのだ。
……大神。そちも柔しことである。
ダゼダダ警備国家の在り方そのもの、それが大神家。その逆鱗に触れたときどのような手を打ってくるか。
守護の大神。
破壊の言葉真。
旧家の強靭さを二大国敗北の歴史が証明している。
現代においては、言葉真の破壊力を大神の当主が得ているのではないかとエント゠ウヴ゠エリーは推測している。死の直前の言葉真鷹音の個体魔力が減衰していたという報告が上がっており、失われた個体魔力は行方知れずである。言葉真鷹音が生前懇意にしていたのは大神前当主であったが、言葉真鷹音より先に亡くなっていたため現大神当主が個体魔力を継承した可能性がある。無論、あの竹神音が継承した可能性もあるだろうが、力を持つ者は力を持つ者を畏れるもの。竹神音と大神凰慈、片方が失われても片方が国力維持に貢献できるという合理性もあり一極集中より分散のほうが利が多く、時代に適っているとも見込んで、言葉真鷹音が力の分散を図った可能性が高いのである。
「両家失われぬ限り、余の分が悪いのであるな……」
絶え間なく襲い来る魔獣を駆逐してエント゠ウヴ゠エリーは力不足の溜息。
「余も、多分に細った」
ついてくる者が一人もいない。王城裏口へこっそりと戻った国王を迎えたのは、血の繫がらぬ青年であった。
「陛下。またお一人ですか」
「仕事をしろとゆう。余の心配は無用なり」
「団長という立場上、国王陛下の御身をお守りせねばなりません」
「ついて参れば。気づいておらなかったとゆうのであるなら致し方なきと諦める」
「国王の摘発は避けたくも」
「適正である」
青年田創紡。幼い少年のようだが歴とした成人で、レフュラル表大国の警察組織〈世界魔術師団〉を若くして率いる団長。ダゼダダにこのひとありと言われたのが言葉真鷹音や竹神音であるなら、レフュラルの代表的人物はこの田創紡であろう。
バリアフリーの城内。エント゠ウヴ゠エリーは自動操縦で自室へ向かう。その斜め前で警護する田創紡。
「夜遊び、感心しませんよ」
「小童にゆわれたものである。おまえも覚えるとよい。遊びは業務能率を向上させる」
「お相手は竹神君ですか」
「選択を無意味とする穿鑿が本望か」
「いいえ。竹神君と会われたのならぼくも同伴すればよかったと思ったものですから」
二人は旧知らしいが竹神音は親しくしておらず、田創紡が思いをいだいている。
「招こう。今の余は寛大である」
「ふふふっ、ご冗談を。陛下の輝きに闇を招くような寛容さもしく粗雑さがおありならぼくが積極的に彼に会いに行きます」
「ゆうたであろう。今の余はと」
田創紡が少し振り向いて、意外そうにした。
「本気だったのですか。てっきり冗談かと」
「余はな、田創紡、何も優れたる術者全てを影と思っておらぬ。ともに輝けるならばそれが一番と思うてもおる」
「陛下が左様なことを仰るとは、面妖なことですね」
「不遜なり」
「失敬しましたがしかし本当に思うのですよ。どうかされたんですか」
どうしたのだろうか。気が弱っているのだろうか。もしかすると、田創紡がいう通り面妖な心境かも知れず、後に振り返ったとて俯瞰できないかも知れず、今はまさに理解すらできないことをエント゠ウヴ゠エリーは口走っている。
「一ついえようことは、余は、長年の覇道に必要なものまで捨ててきた。しからば遡るとはいかぬまでも、照らせるものを照らそうとは思うのであろうよ」
「やはり面妖ですね。陛下が左様な言葉を発するとは」
「同感である」
自室に着くと、部屋の扉を開けた田創紡が中の安全を確認した。
「平常。陛下、どうぞ」
「うむ──」
物語であるならこの辺りで田創紡が裏切るか招き入れた暗殺者が扉の裏に待伏せしており、脈絡もなく理由もひとまず判らず王が絶命する場面であった。
「レフュラルも、大層に柔しものよな」
「はい。なんのことでしょう」
「セオリに沿わぬ、──物語ではない、とな」
田創紡が裏切ることも、扉の裏に暗殺者が待伏せしていることも、なかった。
「読物に感化されたご想像が現実なら不穏の極みですね」
「あるいは横になったのち余はこの世界から消えておるのやも知れぬ」
「国王陛下。恐れながら、また不遜ながら申し上げたく」
田創紡が扉を閉めると、そう切り出した。
「改まるか。申してみよ」
「……本当に、どうされたのです」
田創紡が心配そうにエント゠ウヴ゠エリーの顔を覗き込んだ。「ぼくは、陛下のそんなお顔を拝見したことがありません。大変、お色が悪いです」
「若かりし頃は定常と乗りきれしことを。細ったものである」
ベッドに魔法で飛び載ると、エント゠ウヴ゠エリーは息をついた。寝心地のよさに疲労感が融け出てゆくようだ。
「……ご自愛を。ぼくは陛下を好ましく思いませんが亡くなることを望んではおりません」
「ふっ。まこと不遜なり。擦り寄る輩など信用ならぬがおまえの言葉は小気味よい」
「マゾヒストでいらっしゃった。全開で参りましょうか」
「ホタルのようである」
「意外にも趣向に合致があるのかと」
「おまえも今日は面妖である」
「失礼しました」
車椅子をベッド脇に移した田創紡が微笑で、「燈、消しますか」
「夢路を辿る」
「おやすみなさいませ、陛下」
何年か前まで魔導灯であった部屋の燈は、机上の蠟燭に替えた。部屋を出る前に点けておいたもので、もうじき自然に消えたか。
田創紡が燭台に蓋をして、燈が消えた。
退室した田創紡が持つ鍵で施錠されると、エント゠ウヴ゠エリーは瞼を下ろした。
……さて、ゆうたからには、竹神音、呼んでみよう。
約束したのでもないが有言不実行は好かない。
……これまでのように、何変らず、光が生きるのである。
万一の賊を警戒するため扉脇の近衛兵に注意を促して田創紡は廊下を引き返した。エント゠ウヴ゠エリーの不可解な言動をいくつも受けて突然に老け込んでしまったのかと田創紡は思ったが、一時的だろう、と、思い直した。
……明日も早いが寝るには早い。
独り圏外へ出向いたエント゠ウヴ゠エリーに気づいた賊がいたとしたら、恰好のチャンスと追いかけてくる危険性がある。
……周囲を警戒しておこう。
エント゠ウヴ゠エリーが通った裏口に田創紡が着いた矢先、遠くでガラスの割れた音。直後には、
ドッーーーーンッ!
何かが崩れる音と地響きが立て続けに。田創紡は揺れに足を即応させて全速力でエント゠ウヴ゠エリーの自室へ。扉とともに近衛兵が壁に吹き飛ばされて気を失っていた。室内を窺うと壁や天井が一部崩れ、砂埃が舞う中エント゠ウヴ゠エリーが光を纏って浮遊、前方の影と対峙していた。
……賊。
一秒に満たず判断。エント゠ウヴ゠エリーが身に纏う光で牽制した間に田創紡は影にダイブして首を締め上げ、気絶させた。
「可である」
「穏便に済ませていただきたい。陛下の不用意が招いた事態です」
「賊の侵入を許した身で非難するか」
エント゠ウヴ゠エリーが身に纏った光を消す間際、田創紡は気づいた。
「陛下、お怪我が」
「うむ。腹の刺傷。問題あるまい」
腹部に手を翳して光を放つと、間もなく癒えていた。「まこと細ったものである」
エント゠ウヴ゠エリーが動くことのない両脚で立っており、バランスが前に傾くと簡単に倒れそうになった。田創紡は賊を縄で縛り上げると同時にエント゠ウヴ゠エリーの体を支えた。
「ご自愛をと申しました」
「確と警戒するが職務。おまえはまだまだ未熟である。竹神音に笑われよう」
「……会うには早い。そういうことですね」
「そうとはいわぬが」
エント゠ウヴ゠エリーがベッドの砂埃を光の魔法で打ち払った。掛布団の生地に穴が空いて羽毛が舞い散るもこの国王は構わず飛び載って横になった。
「夢路を辿らねば。次こそ警戒せよ」
「(勝手な方だ。)陛下にも笑われぬよう致しましょう」
後の調べで賊は独りだった。エント゠ウヴ゠エリーのお忍びを捉えて国庫から大枚を奪おうと考えたようだが猛反撃に遭って腰が引けてしまったところを田創紡に取り押さえられた。
王城ともあって次の日には全てが元通りに復旧しており、賊の侵入もなかったことのようになっていた。エント゠ウヴ゠エリーも賊を気に留めておらず公務に勤しんでいた。
田創紡も気にせず身を粉にして仕事をした。
多くの物事や多くのひとびとが動いて世界が変化・進化しても、三大国は変わらない日常を送ってゆく。世界はなかなか頑丈にできていて変わらないものなのかも知れない。
……そうしてぼくも、変わらない。
成長はしても、退化したとしても、己のできることを考えて生きる。それが、人間である。
耐久性は本物に及ばなかったようで熱源体を放った擬似終末の咆哮が大破して海に沈んだ。エント゠ウヴ゠エリーの手許に同じ装置がないことから警戒を解いても問題がない。
舞い上がる砂が風に流れて霧の如く漂っている。それを一周見渡した大神凰慈は、ふと、足下の違和感を捉えた。
……何かある。
砂、砂、砂の完全なる乾荒原。砂を挟んで何かを踏みつけている感触。岩、いや、小石か。
踏んでいた砂を軽く払うと、
「これは」
砂礫とは違うように感ずる小さな粒。個体魔力を探知・分析してみると、
「これは……」
種だ。木属性魔力が豊富に含まれているので間違いない。「なんで砂漠に」
スイカやサボテンの種には見えないものの、訪れたことが少なく砂漠の植生に詳しいわけでもない。狭い見聞で確かなことは言えないが、改めて見渡してみても枯れ草ひとつ見当たらないのに、植物の種があった。風に運ばれてきたと考えるのが無難か。
……もしや。
瞼を下ろしても見えはしなかったが──、大神凰慈は勘が働いて砂を掘り起こしていった。何十分も続けていると壁を消した兄と侍従が駆けつけた。
「大神様、レフュラルの攻撃は」
「対応が済みました。あなた達もお疲れさまでした。次弾はないので警戒を解きます」
指示にうなづいた四人、うち侍従一人が代表して疑問を口にした。
「大神様はいったい何を……」
「枯れ木の真似なら誰にでもできます」
大神凰慈は穴となった場所をひたすら掘って行動を促した。
何か意味がある。兄と侍従が勇んで手伝いを始めた。
して、最も冷え込む朝方まで指が血塗れになっても掘り起こし、大神凰慈一行は到頭、掘り当てた。五人で見下ろしたのは、
「植物群の、残骸か」
「泥のようだな。こう見ても広い、層のようになっている。砂漠の下にこんな地層があるだなんて聞いたことが……。砂漠化以前にこの土地に広がっていたものなんだろうが……大神様はこれを探知されていたのですか」
大神凰慈はうなづいた。ただし、大神凰慈の強大な魔力を持ってしても地層を探知できていなかった。植物などが朽ちて堆積したであろう地層を視認して、その魔力を遅蒔きに探知したくらいだ。
「この砂漠は、魔法学の常識を逸しているように感じます」
「と、仰ると」
「まるで魔力探知妨害装置です」
「確かに。砂の層に魔力探知を妨害されているように感じますね。見えている地層以外の探知が、できない……。大神様はどのように地層の存在をお察しになったのですか」
「この種から推測しました」
「どちらでそれを」
「砂漠の浅いところです。偶然踏みつけていて気づきましたが……」
それ自体がかなり不自然だ。風に運ばれてきたものなら植物堆積層の発見は偶然になる。それでも不自然なのは、種には木属性魔力と別に水属性魔力が十分に宿っており、その魔力の配分が堆積層の植物と似通っている。これはつい最近まで種が植物堆積層にあったことを示しているが、オアシスが見当たらず掘り進めた砂の層に水気がないので水で浅い層まで運ばれた線は薄く、大神凰慈の魔法で運ばれたのだとしても乾ききった砂に接して水属性魔力が抜けてしまうのでやはり不自然である。
……まるで何者かが発見を促したかのような。
普段ならやってのけそうな竹神音でも絶不調では難しい。では誰が、と、いう疑問は消えないが見つけたものをなかったことにはできない。
「大神様。ご帰還されますか」
「風が吹いていますね」
この辺りは流動砂丘といわれる砂が多く流れている地帯で、穴の底から見上げた空は薄黄色になっている。砂漠緑化の作業で草方格を講じて植物の生育環境を整えるように風で流れる砂を止める手段がいるがそれには手が足りない。携帯端末の電波が届かないので人手を寄越すにも脚が必要だ。大神凰慈一行がここを去っては地層が砂で埋没してしまう。植物堆積層が砂漠県全体に広がっている保証がないのだから次に探し当てることは難しくなる。
「あなた達にここの保全を任せます。私が全土の関係者を召集し、地層の発掘を開始します」
「それは、なんのためでしょう」
「植物の再生です」
大神凰慈は、最初に発見した種に加えて、植物堆積層から抓み出した泥塗れの種を、侍従にとくと見せた。
「先程ちらと推測が出ましたが、この植物群は砂漠になる前のこの土地に根づいていたと考えられます。『抗う緑』となれば、不屈の魂──、ダゼダダらしいと思いませんか」
「『……』」
侍従が、驚きとともに顔を見合わせる。
兄が口を開く。
「埋土種子というものを聞いたことがあります。春の気候に触れることで発芽することもあるという、土に埋もれている種です。大神様はそれを狙っていらっしゃる」
「ええ。そもそもちゃんと発芽するか判りません。砂漠に根づくかも判りません。砂漠に敗北した劣等種である可能性も大いにあり、品種改良の必要もあるでしょう」
不確かなことばかり。
兄と侍従は壁などの魔法発動や地層発掘作業で疲労が嵩んでおり、保全作業に割く体力がほとんどない。が、そこまでできた彼らの心を買って、大神凰慈は問う。
「私も、あなた達も、成すべきことに邁進する。そうですね」
「『はい!』」
個体魔力の強い者は身体能力でほかを圧倒する。保全ならまだなんとかなるが全土への伝達をかねるとなると兄と侍従には荷が重すぎた。
「保全を任せます。──返事は結構。……持ちこたえてくださいね」
「『……』」
輝きに満ちた八つの瞳に応え、大神凰慈は砂漠県を引き返す。目印替りに魔法の柱を等間隔に立てて横断、応援部隊が地層へ辿りつけるように手を打った。中央県に入ると八百万神社を最短距離で駆け回って電波を用いた通信を促しもした。大神家当主の号令とあらば、いかなるときも八百万神社は協力する。
そうして砂漠県の一郭で掘り当てた植物堆積層へと数万人の関係者が集い、保全に努めて干上がりかけていた兄と侍従を救助、地層発掘範囲を拡大し、採掘作業を継続した。
採取された植物の種は何種類もあり、学者らの協力により多くが発芽に成功した。生長すると、それは草花であったり、木であったりした。それらが順順に砂漠県に植えられた。特別な変化がないまま植物は枯れる一方であったが十数年のときを経て砂漠県の砂に変化が現れるようになった。砂漠の砂の下に長年眠っていた泥のように、朽ちた植物が砂を覆って微生物が生息、それら有機物を餌にミミズが現れ、微生物とともにミミズに食われた砂が水を溜める土となって排泄され、堆積していった。巨大なミミズ型魔物までが朽ちた植物や生物を狙って現れ、なんの因果か、圧倒的効率で砂を土へ変えて肥やしてくれた。
植物堆積層発見から二〇年余り、継続した緑化活動により歴史上初めて、大神家並びに八百万神社関係者はダゼダダ砂漠県に緑を再生させることに成功したのだった。砂漠県の分母からすれば一%に満たない小規模緑化であったが、その成功はダゼダダ国民の目を引き、協力者が自然と集まって活動が捗った。それぞれ人生の途上にあるひとびとであるから数に頭打ちはあった。それでも、長年ダゼダダ国民を苦しめた砂嵐や気温差の原因となっていた砂漠を確実に抑えられると判っている。ひとびとの関心が薄れることはなく、活動に積極的な人材が一定数存在することは地道な緑化活動において非常に大きな支えとなったのだった。
大神凰慈は、瞼を下ろせば憂いが見える。
これは簡単に消えるようなものでなくダゼダダの大地に常に存り続ける。なぜならひとびとには感情が存在する。消えることは、決してない。
憂いばかりが見えていた瞼の裏は、時を経て少しずつ確実に、ひとびとの悦びや愉しみを捉えるようになっていった。
……これが、私の観たかったひとびとの姿。
苦難が消えることはない。大神凰慈自身、慣習として大神家の財に頼らず貧民として生きた半生、愉しみは限りなく少なかった。手が凍え、膝を折るような苦難が幾度となく襲いかかってきた。苦難に遭うひとびととの関わりによって混沌としてしまうことも。でも、良心に生きる輝かしい蕾や香り高い花との出逢いが、苦難から救い出してくれる。これが存りさえすれば何があっても噴火しない。
……どうか、皆が良心のまま生きられますよう。
その想いを植物に託して、今日もこの大地を見つめてゆく。
──五章 終──