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一八章 プッルティオの沼地

 

 時を大きく遡る。場は、魔竜討伐の動きが収束して間もない辺境神界フリアーテノア──。

 辺境中の辺境たるその地を一言で表すならば「おり」である。細かく述べるなら、(よど)であり、(かん)であり、ある者に取って(きっかけ)でもある。あらゆるものが停滞し、足の踏場もなく毒が広がり、常人が息を吸えば冒される。

「シェルェリィ、今日は元気」

「そう観えたなら眼を潰してこい」

 沼に胡座を搔いて浮かぶ少女シェルェリィはこの沼の象徴にして(ぬし)である。良くも悪くも沼地はシェルェリィなくして保たれることがない。役目は延延、終わることがなく、沼の主をこの地に縛りつける。わずかばかりの自由を感情の発散に費やして、この地の毒性を増させるくらいしかやることがない。

 沼にはよくもう一人の少女がいる。剽軽とも軽薄とも取れる言動が目立つ少女だ。沼の主たるシェルェリィのもとにやってくるのは、浮ついたふうのこの少女のみである。

「貴様、またふらついていたのか」

「いやぁ、例の衰退でハイナやナゴエドの魔物が弱体化したから、その分、ほかを回ってるのね、遊んでるわけじゃ、まあ、ないよ」

「自由に動き回れる時点で遊んでいると我が認めてやる、腐り果てろ」

「そんなこといって寂しかったクセに〜」

「……独りだからな」

 ひとが簡単に入り込めるような場所ではない。

「たまにはあたしについてくる」

「やめておく。我は魔物のことなどどうでもいい」

「あたしに取っては親戚みたいな存在だからぞんざいにされるのもなぁ」

「悪かった。前言撤回はしない」

「頑固だ」

「冒すぞ」

「おお恐ぁい」

 少女が両手を挙げて、「ま、あたしもそっち側なんだけどね」

「脅し甲斐のないヤツ。帰れ」

「じゃあばいば〜い」

「本当に帰るな……」

「面倒なひと〜」

「エクセザ」

「はい、はい」

 少女エクセザがシェルェリィに背を合わせて毒沼に座る。「ま、しばらくあたしもこうしてるわ、暇だし」

「……寝てけ」

「寝なくても平気よ」

 自然の化身。二人の少女はそういう存在。生理現象を催す生き物とは異なり、日差の下でも月明りの下でも生きられ、そうした自由と引換えに不自由の時を過ごしている。

「ぐぅ……」

「本当に寝るなよ……」

「寝てないよ」

「ぶん殴るぞ」

「物理攻撃っ」

「たまにはそういうのもいいかと思う」

「びっくりしたぁ。いい不意打ちだなぁ」

「いや、気分は本物だ」

「冗談にして。寝ないから」

「では、とくと耳を欹てろ」

 シェルェリィは、毒霧に霞む月を仰ぎ、「やつを始末する」

「……」

「……無視ではないだろうな」

「……」

 冗談でもボケでもなく、エクセザが沈黙していることをシェルェリィは感じていた。

 幾つかの夜を跨いだ先日のこと、魔物化した()がその呪縛を解かれた、いや、脱したというべきか。魔物化した身がもとに戻ることはないものの、魔物たる者の意識に身を委ねることなく、元来の衝動に支配されたといえばそうであり、本来の姿勢に戻ったともいえる。

「もう一度、冒すの」

 と、エクセザが尋ねた。

 シェルェリィは首を横に振った。

「同じ手を使うつもりはない。それに、恐らく結果は同じだ」

「また呪縛を解かれる、か」

「今度は自力で脱するかも知れない。今のやつは昔以上にやつらしい。何を押しても自分の衝動を守り、従い、ほかを受けつけず、無視できる──」

「それで、シェルェリィは本当に何もしなくていいの。始末するっていうけど、それ、命を絶つって意味には聞こえないなぁ」

「……考えを巡らせている」

 穢れに冒され、魔物化した敵。その敵に植えつけられた穢れを増幅し、悪性思考に導いたのがシェルェリィであった。穢れに冒された者はたださえ害意に駆られ、自身の理性が利かなくなる。力ある者がその状態に陥れば星一つをまるまる滅ぼしかねないほどに危険な因子と成り得、事実、シェルェリィの敵はフリアーテノアの脅威として長年敵視されていた。それが、あろうことか元主神と打ち解け、穢れによる悪性思考から脱し、もとの、化身としての心を取り戻した。穢れを持ちながら善性を取り戻すなど通常ではあり得ない現象で、シェルェリィには想定外の出来事だった。

「テラスリプル・リア・フリアーテノア。あいつの出現であたし達は察するべきだったね」

「遠回しに我を嘲っているか」

「遠回しだった」

「貴様というヤツは……」

 シェルェリィは咳払いして、「侮っていたことは認める。テラスリプル……、いずれ魔物に堕ちると重要視もしていなかった。坑道に及んでも魔竜に食われて終わる、とな」

「小さな塵を秘め、恐ろしいほどの透明さを保ってた」

「雪は、ここには無縁だな」

「あなたの熱で溶けちゃうもんね」

「我に熱はない。貴様ほど外に期待していないからな」

「あたしほど熱がない生き物もいないんだけどねえ」

 エクセザが求めるものは彼女の持たないもの。それを求める彼女の熱量は高く、一方で己に向かう熱は一切ない。

「考えを纏めて行動するのはいつ頃になりそう」

「さあな」

「バカだ」

「む……」

「はははっ、なんにも考えてないんだね」

「煩い……、こんな事態になるとは想定していなかったとはもう伝えたはずだ」

「完璧な作戦が崩れたあとだもんねぇ、そりゃ思考停止もするかあ。時間だけはたっぷりあるし、外から発想のきっかけが来ることもあるだろうから待つってのもありかも」

「外から、とは」

「そのままの意味だよ。あたし達だけじゃ考えつかない方法、その着想をくれる何かが外から来るかもってこと」

「……こんな、ひとも来ない場所で」

 見渡す限りの毒霧。汚れたものを好むシェルェリィだが、陰気に沈むこの沼地は、嫌いだ。

 エクセザがにっこりと笑った。

「あたしが来てる」

「……貴様は特殊だろう。我の毒を物ともしない」

 だから、彼女は同類だ。同じものを司っているのではないが、シェルェリィの力はエクセザには通用しない。脅し甲斐がなく、虚勢も全くの無意味だ。

「ひとが来たときのための訓練をしてみるとか、どう」

「ん。どういうことだ」

「一人称を変えることから始める、とか」

「……どういうことだ」

「人間や天使や、あるいは悪魔でもいいけど、あんた、見た目は普通の女の子じゃん。そんな子が初対面で『我』なんて、仰仰しいって思うでしょ」

「そういうものか」

「そういうものよ。あたしはびっくりした」

「びっくりしていたのか」

「してたよ」

 剽軽なポーカーフェイスが言う。「でさ、例えば『あたしぃ』とか、『シェルェリん』とか、ちょっとブリっちゃえばいいじゃん、可愛げ出るよ、腹立つけど」

「腹が立つなら逆効果であろうが。と、いうより、我自身が凄まじい違和感を覚える……。貴様なら似合いそうだがな」

「そんなあ、エクりん困っちゃうぅ」

「似合うぞ。殴りたい」

「あいたっ。もうやらないから痛いのなしでっ」

 軽い肘打ちを腰に受けたエクセザが苦笑で立ち上がる。「と、冗談はさておきさ、ちょっとは社会性身につけたほうがいいかもってのはマジレスね」

「まじれす……、まじめなレッスン、本気の忠告ということか」

「微妙に合ってる。なんとなく予感なんだけどね、あいつはいつか来るよ」

「……」

 シェルェリィが知る固有名詞は多くない。その中の誰が、とは、訊くまでもなかった。

「でね、」

 エクセザが遠くを視て溜息のように、「あたしは見てみたい気もする」

「何を」

「あんたの、変わるところ」

「……我は、我だ。何にも染められることはない……。それが、我だからな」

「寂しいね。そういう思い込みならいいな、って、思うよ、あたしは」

「……」

 切なそうに。

「あたしなら、あんたを甘美な毒で冒せるのにね」

「貴様の毒にはもうあてられている。……帰れ」

「寂しくない」

「……帰ってくれ」

「じゃ、また遊びに来る」

「…………」

 見送ることをしない。その気配が遠ざかり、再び訪れることを求めている。

 ……猶予はある、か。

 考えよう。何をし、何をされたいか。何を求め、何を得て、どうなりたいか。いつどこでそれを思い、いつどこでその思いを結びたいか。考えよう。計画性のなさは、失敗を招く。

 計画しても失敗したが、それでも計画が必要だ。奇跡のような和解など二度は起こらない。

 大地のような受容精神はない。()を通し、我を毒する。それが、シェルェリィだ。

 それから何千、何万回だろうか、太陽を見上げ月に塞ぎ雨に打たれ毒霧を吸っては瞼を閉じた。宣言通り何度も訪れたエクセザと会話を交わすも纏まらない計画は吸い上げることもできない地下水のように頭の片隅に埋もれかけていた。始末する。その宣言をしながら諦めている側面をシェルェリィは否定できない。魔物の意識から脱することのできた強靭な敵に、どんな行為が通ずるというのか。それこそ、命を害するくらいでなければ通じないのではないか。

 ……この憎しみを、どう、伝えたらいい。

 敵はシェルェリィを生んだ存在、すなわち、母なのだ。

 ……どうしたら、伝えられる。

 殺めるのではぬるい。そう考えてその手段を選ばなかったことが、逆に生ぬるいのか。自分の心が、解らない。

 我が子にすら口を利いてもらえないこの沼に置き去りにした母が、ただただ憎い。

 沼地には、気配・目差・思考が数多ある。エクセザが訪れずとも、ほかの土地から誰が来ずとも、もとからたくさんの生き物が存在している。子や兄弟姉妹たる彼らは、毒そのものであるシェルェリィに冒されることを恐れて、目を合わせもせず、話しかけもせず、近場に生まれても息を殺して離れてゆき、意識を向けることもせず、恐れを片隅に置くのみだ。

 人間の尺度に置き換えるなら、計画失敗から一万年以上が経っていた。シェルェリィは独りのままだった。エクセザ以外は、誰も来なかった。ひょっとすると、一条の光に懸けるような期待を、世界に対して発していたのか。()()なら来てくれるかも知れない、と。

 無数の気配・目差・思考が交わり、停滞する沼地。月明りにわずか照らされたエクセザに、シェルェリィは切り出す。

「一人称を変える、と、いう貴様の案。それを、少し考えてみた」

「はははっ、長考しすぎっ」

「……聞かぬなら帰れ」

「……真剣そうだね」

「案をそのまま受け入れるつもりはない。我は、名を変えようと思う」

「シェルェリィスクウェを」

 シェルェリィとは、飽くまで略称だ。

「我は、これよりプッルティオと名乗ることにする。待つのはやめだ……」

 エクセザが振り向き、

「あたしにできることは」

「我一人でやる。そうでなくては、意味がない気がする」

「勝手に協力したら」

「……貴様の衝動を我は止められない」

「じゃあ勝手にする」

 エクセザが微笑し、「で、何をするつもり。教えてよ」

「大地を冒すことはできなかったが、その残滓ならば過去に実証済みだ」

「魔竜ね」

 母に傷をつけ、穢れを植えつけた魔竜。その魔竜を嗾けたのがプッルティオ、かつてのシェルェリィである。その経験を、今回に活かす。

「宣戦布告し、我の毒で神界を冒す──」

 停滞の沼地を機として、我が身の澱をかの者の檻としよう。傍らでエクセザが笑むと、長らく折っていた脚を立てたプッルティオは沼地を飛び発った。

 

 

 現代へ寄せつつ時を遡ろう。惑星アースはダゼダダ警備国家における三〇〇九年七月一七日火曜日の夕方、エクセザはとある境内で一人の幼児と出逢った。

 ありきたりな表現をするなら太陽のようだった。そんな幼児が、光そのもののような笑顔で手を差し伸べてきた。

「一緒に遊びませんか」

 小洒落たスーツを着込んだ大人の男だったら断るのが大変だ。それとは別の意味で断るのが難しい相手だった。

「あたしはここでじっとしてる。あんた一人で遊べば」

 手水舎からも遠い境内の隅。落ち葉しかやってこないような場所で、非業の死を遂げて土地に縛られた幽霊のようにうずくまっていたエクセザである。

「綺麗な花がございました。一緒にお話をしてあげたら明日はもっと綺麗に咲いてお姉さんを元気づけてくれます」

「それ、今のあたしが元気そうじゃないってことにならない」

「元気なのですか」

「……元気だよ」

「勘違いして、申し訳ございません」

「別に謝んなくてもいいよ」

「ぼくの早とちりならよかったです」

「そう……」

 年上の女の突っ慳貪な態度を笑顔で受け入れる子は希しい。子は、構われたがろうとするくせに相手をきちんと選んで構われようとする。子は、愉しいことが好きなはずでエクセザのような存在から殊に遠い。それなのにこの幼児は、明らかに噓をついているエクセザに手を差し伸べ続けている。

「引っ込めたら」

「花を観ましょう。ぐっすり眠れます」

「平気だからいいよ」

「あの花は確か、絆、縁、優しい愛情です。お姉さんにぴったりな可愛い花です」

「(情事、依存、そして、儚い夢でもある。可愛くはないけど、)ぴったりかもね──」

 境内の緑の一部に、幼児の見せたがった花がある。思わず取った手に引かれた先で見たそれは、

「窄んでるじゃん」

「日中に咲いています」

「とっくに知ってる。(自分じゃ種子も遺せない、()に依存するしかない、あたしみたいな花だ)」

「太陽が大好きな花なのです」

「生きるために縋りついてるんじゃない」

「素的な花ですね」

「哀れだよ、情けなくて、泥臭い」

「土や泥の匂い、ぼくは大好きですよ。稲もきっと好きですね」

「稲作かあ。まあ、ああいう植物は土がないと育たないしね」

「共存できることはとっても尊いことですね」

 ……哀れでもなくて、情けなくもない。そういいたいのか。

 エクセザはその花を情けないと思う。日中しか咲かず、夜闇に怯えて、他に依存しなければ子も遺せない。哀れで、嫌いだ。

「好き、嫌い、得意、苦手、みんなどれも持っています。どれがあっても可愛くて尊いです」

「──放棄してないから」

「誰が嫌いでも、ぼくは好きです」

「……」

 太陽を求めるように咲く花が満開になった錯覚を催したのは、エクセザの目の前で太陽が微笑んでいたからだった。横目の花より確かに咲いたのは、エクセザ自身だった。

 ……こんなあたしが、あたしは大嫌いだな。……大好きだな。

 認められることが嬉しいとは、誰に教えられることもなく皆が知っていることで、エクセザも当然そのことを知っていて、しかし、一〇年も生きていない幼児にそれを体感させられることなど想像もしていなかった。認められないことがいかにつらく悲しいことかはそうなってみるまで体感できないことなのに、一〇年も生きていない幼児がその辛苦を味わってきたかのような優しさで寄り添ってくれたことに、動揺もすれば惹かれもしたことをエクセザは隠せなかった。

 しばらく幼児と眺めた花は、幼児がいうように素的で、独りで観るのと反対に元気をもらえて、夕闇の鳥居をくぐる幼児を誇らしげな笑みで見送るほどにエクセザはしゃんとした。

「また来てよ。あんたなら歓迎するわ」

「はい。今度はすずらんとも一緒に遊びましょう」

「誰それ」

「あの花のように元気をくれるひとです」

「そう。あんたがいうならそうなのかもね。待ってるわ」

「はい。またお会いしましょう」

 現れたときから去るときまで、幼児はずっと太陽だった。

 ……あんな子もいるんだな。

 あまりに自然すぎて問い忘れていた疑問点を無視してしまえるくらいに、幼児とのひとときが心地よかった。

 それからエクセザは何度か幼児と遊び、出逢いから数年して、別れた。理由は単純だった。

 ……どこへ行ったんだろう。あたしの太陽は──。

 きらきらとして、眩しくて、星の裏側にいたって見つけられるような太陽。それが突然に光を失って、エクセザの前から消え失せた。

 

 

 日時の概念が薄い神界であえて時を示すならダゼダダ警備国家における三〇二七年五月二日金曜日のこと、場を神界フリアーテノアに移す──。

 竹神音の身許確認を済ませたカインは村に戻る前に、神界宮殿へ寄った。主神テラスプルと議長フルヤモントの様子を観ることと、神界宮殿が摑んでいるフリアーテノア内の状況を仕入れるのが目的である。二者は仕事をそつなくこなしているものの困り事は尽きないようで、私室にいたフルヤモントから直近の心配事を聞くことができた。

「──カオセリア高原で魔物の襲撃が激化していると」

「パランドで防衛に当たり穢れを受けた者もいるそうだ」

「……」

 穢れと聞くとリセイの存在を振り返らざるを得ない。テラスが生来持っていた穢れを基に育った別人格のようなリセイは、普段はテラスの体を借りる必要がなくカイン達の前には出てこないが、テラスによれば穢れに支配されることなく共存できており、体を動かす摘師の仕事で協力してくれている。

 カインや同僚たるカクミのこれまでの観察で魔物的凶悪性を有さないとも判断できたからリセイの存在を受け入れることができたが、そのように穢れと共存できるケースは稀だ。穢れを植えつけられた一般神が正常を保つ可能性は低い。神界宮殿があるここ首都テラウスからほぼ南西の方角にあるカオセリア高原、その高原の中央に陣取る工場地帯パランドのひとびとは魔物を排除できても植えつけられた穢れをどうにかする手段を持っておらず、魔物化してしまう危険性がある。

 デスク上の書類整理をしてフルヤモントが遽しく言う。

「神界宮殿でも手を打つ予定でいた。これはそのための法整備に向けた諸事項。これから議会で詰める予定だ」

「煮詰めるため、より細かな情報が要るのだな」

「早いと助かる。やってくれるか」

 竹神音の身許・実力・性格などなどを別神界の主神ラセラユナらが保証してくれたので、テラスへの報告が遅れても問題がない。危険の観点でカオセリア高原やパランドのひとびとのほうが心配である。

「探るべきは魔物の出処と、」

「対処法を。さらに可能なら、」

「殲滅だな」

「引き受けてくれるだろうか」

「村の外に出られぬテラス様の代りにわたくしが引き受けよう」

「こちらも部隊編制など準備を急ごう」

「うむ」

 フルヤモントの私室を出たカインは、働き者のテラスプルに声を掛けず、神界宮殿の外で待たせていた竹神音を伴って仕事に取りかかった。

 ハイナ盆地に位置する神界宮殿から南西に移動、トメリア霊峰とネオギス山脈の境目を貫く防壁をくぐって南下すると魔物が蔓延っているというカオセリア高原である。盆地・高原ともに自然豊かな土地であるがパランドの管理する防壁を隔てて環境を二分している。防壁は不正な物資輸送などを監視するためパランドが建設したもので、増殖・凶暴化した魔物が北上することを阻止する役目も今は担っている。お蔭で、盆地が擁する首都テラウスやテラウス・ニーズなどは平穏無事であった。とは、カオセリア高原に足を踏み入れて判った。

 ……なんだ、これは。

 カインはぞっとした。防壁を南下してすぐ魔物の群れを目にすることができた。それだけなら魔竜騒動解決以前はよくあったので驚かなかった。

「神界でこういうことはよくあるん」

 とは、同じ光景を目にした竹神音が訊いた。

 カインは、首を振った。

「あまり経験がないことだな」

 移動が遅い大型輸送馬車を襲うのは魔物のよくある行動でも、

 ……誰かが操っておるのか。

 と、推測できる状況の一端として、複数種の魔物が一群となって動いている。その上さらに生態が著しく異なる陸・空の魔物が、獲物を取り合っているふうでもなく、しっかり連携している。こんなことは自然にはまずあり得ないことだった。

 ……何が起こっておる。

 大型輸送馬車を救助してパランドへ急いだカインは、さらなる惨状を知ることとなった。工場と人材を寄せ集め、独創的な部品・製品を製造することでフリアーテノアでも類を見ない発展を遂げた繁盛の町。それがパランドであるはずだったが、魔物の度重なる襲撃を受けたために門が崩され、自警団に疲弊の色が滲み、町民に不安が広がっていた。遠退いた活気に苦境を察した矢先、朝の曇天を悍ましいほどの絶叫が貫いた。断末魔であった。町の中で殺し合いでも起きているのか。声のもとに駆けつけると自警団員が自警団員を槍で突いていた。話を聞くには、魔物に襲われて寝込んでいた団員が突然に暴れ出したため、工場地帯の長たるバルハムの命令のもと制圧したとのことだった。

 町の中心部、バルハムの働く五階建ての工場へ足を運んだ。竹神音はフリアーテノアの施設に進んで入ろうとはせず、神界宮殿でもそうしていたように外で待つと言うのでカインが五階の総統室へ出向き、迫る眉とソファで面した。

「──理性的だ」

 とは、暴れた自警団員を制圧したことに対するバルハムの意見である。

「殺害することが、か。テラス様がご覧になったら卒倒されるぞ……」

「魔物化した団員を野放しにせよと。魔物に倫理は通らない。神界の法律に則っても『魔物は討伐せよ』だ。魔物化した団員は別って考えでどうやって町民を守る」

「……いいたいことは解るが」

「貴様のいいたいことも解る」

 眉間の皺を深める一方のバルハムである。「綺麗事じゃ守れない。ここまで五感を塞いで来たんじゃねえならそれぐらい解るだろう、元世話役さんよ」

「……」

 状況は、嫌というほどに理解できていた。テラスの信念は、ここでは通用しそうにない。

「宮殿の使いなら、一つやってくれ」

 と、バルハムが立ち上がり、窓の外を指す。

「魔物の討伐か。宮殿でも部隊編制を整えている。わたくしがやれることは少ない」

「部隊組織・派遣の法案に必要な調査をかねてるんだろう」

 その辺りの事情に聡い男である。「トメリアに行け」

「意図を聞こう」

「うちは観ての通り町を守るので精一杯だった。まともに打って出ることはできなかった」

「魔物の本拠地があの霊峰だというのか」

「幾度とない襲撃だ。出現位置のデータを録るくらいはしたぜ。傾向を分析すればある程度の推測は立つってもんだろう」

 魔物の群れがトメリア霊峰から降りてきている可能性が高い、と。

「こっちも、やられっ放しで黙ってるつもりはねえんだよ。貴様にはこいつを貸してやる」

「わたくしには似合わぬ代物だな」

 銃だ。カクミなら扱いが上手だろう。

「聖水には及ばないが聖属性魔力結晶を飛ばすわたしの手製だ。魔物には一定の効果がある。大量生産は現状不可能。貴様が役立てろ」

「感謝したいところだが」

 カインは銃を返した。「わたくしに力を分散する必要はない」

「慢心でしくじられては困るから渡した」

「安心しろ。父のように慕われている」

 カインはトメリア霊峰を睨み、「旅立つ予定はないさ」

「──頼んだぞ」

 かつての悪人が、頭を下げていた。

 カインは一つうなづき、竹神音とパランドを発った。

 街道を遡って大型輸送馬車を襲う魔物の群れを追い払ったカインは一部の魔物をあえて逃走させて竹神音と追跡した。高原の冷雨を浴びた我が身を鼓舞していると、魔物がその地に辿りついた。尖ったトメリア。その表現にもあるように峰峰は崖そのもので普通のひとが立ち入ることがない。空中を行く魔物以外は麓の雑木林に潜んで侵入者を警戒しているため、神の中でも卓越した身体能力を有し気配を潜められるカインでなければ侵入困難だった。隣で同じように崖を登る竹神音は、まあ、異例である。最初の大型輸送馬車の救出からパランドへの道程、パランドから次の大型輸送馬車救出までの道程、さらに、トメリア霊峰の麓までの道程を空間転移を用いることもなくカインを連れて一瞬で移動した彼である。そんな化物的身体能力はカインにはない。

「フリアーテノアの数ある危険地帯の一つ。お主のことだ。調べはついておるだろう」

「朽ちた神殿の柱が如く標高一万メートル超の山山が立ち並ぶ地帯。尖ったトメリアともいわれる、低緯度にありながら凍える霊峰やな」

 山頂どころか五合目にも至らないのに豪雪である。

「ほぼ全山が前人未到だろう。観ての通り崖が自然の脅威を象徴し、魔物が住んでいるとは考えにくかったのだがな、根城というのはどうやら間違いなさそうだ」

「宮殿騎士団が踏み込むなら麓の魔物討伐からやらないかんかもね」

「その前に、制空権を確保しているといえる鳥獣型魔物の眼を潰す必要があろう」

「それでこうしてあり得ん登山としゃれ込んどるわけね」

 ほぼ垂直の傾斜をロッククライミングのようにして登っている二人である。

「音殿は待機でも構わぬ。これはわたくしが引き受けた仕事でお主は飽くまで部外者だ」

「ここまで来て知らん顔ってのも変な気がするが、お言葉に甘えたい気もする。重労働は得意じゃないし」

虚言(むなこと)を。煩わしいのだろう」

「おぉ、たまには理解されるんやな、俺も」

「いや、理解したというより、わたくしの体に響きそうだと嘆きたいのだ」

「外見は若いのにね」

「心のほうが持たぬ」

「納得。仕事を放棄すれば」

「それはできぬ」

「亡き主君の志」

「……理解されているのだな、わたくしは」

「身を粉にしてやることなんて数はないよ」

 似たような考え方をするから察せられるのだろう。

「と、いうことで、俺はちょっと麓に戻っとく」

 竹神音の考え方を察したから、カインはその身を心配する。

「お主は魔物を斃さぬのだろう。魔物の群れからいかにして生き残る」

 大型輸送馬車救出時、竹神音は防御に徹して攻撃をしなかった。カインが魔物を討伐・放逐しなかったら竹神音はどうなっていた。逃げることが容易でも麓の雑木林にとどまるなら危険と隣合せだ。

「いざというときは斃すのだぞ」

「いや」

「バルハムではないがな……どう身を守る。あの群れは生半可ではない」

「逃げるのは十八番やから大丈夫よ、たぶん」

「たぶんか」

「うん」

「曖昧なことだな」

「テキトーに。それが俺やから」

「そうか」

 彼の言葉を聞いてカインの脳裏を過るのは、

 ──其奴の実力は腹が立つほど確かだ。

 さしもの主神ラセラユナの言葉だった。どうやったか知らないがラセラユナを苛立たせるほどの実力を兼ね備えたのが竹神音である。テキトーな鍛錬でそうなれるはずもない。長命のカインすら超える魔力と身体能力をどのように獲得したのか。彼の謎は尽きない。

「じゃ、頑張って」

 ぴょんと飛び降りた竹神音を、姿が見えなくなるまで見送った。

 ……既に五〇〇〇メートルは登っていたはずなのだが。

 カインは、躊躇いもなく飛び降りる度胸がないので、上を視て、登り続ける。

 ……しかしこの傾斜は、ハイナ大稜線の断崖すら超えておるな。

 ここに逃げ込んだ鳥獣型魔物の討伐作戦には宮殿騎士団でも一握りの者しか参加できそうにない。現実的なのは、地上からの長距離射撃。経験・技術両面に優れた銃士長マリアなら狙撃手に採用できるのではないか、と、今後の対応を考えていたカインに一際強い緊張が走ったのは、反り立つ崖に阻まれて山肌を迂回したときだった。山陰から視野が開けた一瞬、人影を認めたのである。

 ……こんなところに、ひとだと。

 刺すような寒気にあてられた自分のことはさておき、カインは人影の異様さになお震えるようだった。無魔力か、魔力を潜めているか、気配を感じない。

 遅蒔きのようだが、知性的な魔物の動きと目的を論理的に推察してみよう。魔物は、(なにがし)Aに操られているか、Aの指示を受けて動いていたと考えられる。頭脳はそのAであるから、知性的な動きはAの操作または指示によるものと考えられるわけだ。さらに考えてみよう。Aは何者かという点だ。魔物を操るにしても、指示を出せるような契約者であるにしても、答は一つである。Aは有魔力であり魔物を従えるような外道の術者ということだ。大型輸送馬車やパランドを狙った理由は不明だ。魔物の目的を掘り下げるなら、Aから得られる何かしらの対価ということになる。この構図で最も危険視すべきは魔物を嗾けているA。これを捕らえれば魔物の活動を鎮静化でき、パランドが復旧・復興に向かえる。

 ……斯様な場所にいる怪しい輩なら、Aの可能性が十分にあろう。

 人相を確かめて損はない。

 今度は慎重に、冷たい山肌を這うようにして顔を出し、人影の確認を行う。

 ……女。長身に、黒髪か。魔物を手なづけているのか。

 小型の鳥獣型魔物を撫で回し、大型の鳥獣型魔物には熱いハグを交わしている。寒いだけかも知れず、凍える身にはやや羨ましくもある。

 ……はて、何者だ。

 想定したAのような術者は使役したモノを駒程度に捉えており大事に扱うことがほぼない。魔物をパランドに嗾けた犯人であるなら褒められたものではなく捕縛を免れる要素とはならないが、怪しい女は魔物と良好な関係を築く希しいタイプの外道だろうか。

 女が動くが先か自分が凍りつくのが先か、根比べを覚悟するも幸いにして女が動き出した。半ば感謝したい気分のカインは飛び立った鳥獣型魔物の視界に入らないよう注意して山肌を滑る女を追跡した。雪闇(ゆきやみ)の斜面を登って狂いそうだった方向感覚を、右手に見えた海で取り戻した。

 ……トメリアからこの距離で見えるのはニーズ大海。進行方向は東だな。

 と、なると、怪しい女が向かっているのはファニップ湿地かハイナ盆地の東部、もしくはそれより東ということになる。ファニップ湿地は人家がなく人通りも少ないため外道術者が潜むには恰好の場所といえるが、

 ……む。

 スノースポーツの大会優勝候補筆頭と目されそうな素晴らしい放物線を描いた怪しい女。着地点と思われるのは想定外の場所。外道術者の住処と成り得そうな場所で足を踏み入れにくい地である。トメリア霊峰という自然の脅威を凍える骨身に覚えているが、それとは別の脅威がそこにはある。どす黒い霧に烟り毒草の生い茂った沼地〈ファニップの淀沼(よどぬま)〉と呼ばれるそこを知る者は一握りだ。

 ……俯瞰すると、存外小さいのだな。

 モカ村と同じか、それより狭い。

 怪しい女を追って放物線、と、勢いのままに飛び込みたいのはやまやまだったが、脚の力を抜いて滑走を維持した。危険とされる地帯はフリアーテノアに数あれど、大地の裂け目フロートソアーや各種山脈とは別の意味で危険視されているのがその沼地なのである。帰ってきた者がいないという点ではフロートソアーと同じ。異なるのは、侵入者が「死亡している」と断言できることだった。

 ……あの沼地の毒性には、わたくしとて堪えられぬだろう。

 トメリア霊峰との位置関係から毒霧が漏れ出している沼地東部は体調不良に陥ることで有名なエリアだ。元凶である沼地は当然それ以上の危険地帯と推測されている。斜面を滑っているカインもわずかながら変調を感ずる程度に、トメリア霊峰側にも毒が流れ込んでいる。風向きによっては手遅れになっていたかも知れない。

 さて、どうしたものか。

 ……あの女は、沼地に直接降りた。

 なんらかの魔法で対策しているか、毒に強い耐性を持っているか、どちらにせよ、漏れ出た程度の毒で変調を来しているカインでは追えない。

 ……鳥獣型魔物を手なづけ、地上の魔物を先導して襲撃しているのは確定的だ。

 Aはあの女と観ていい。事情聴取及び捕縛ができるだろう。

 偵察は良好だったものの、懸念が湧いた。毒に耐性があるか毒に対抗手段を持っているならAは毒を扱う術者である危険性があり、出動した宮殿騎士団が劇物による奇襲を受けかねないのだ。二次被害を回避できないのでは救援の意味がない。もう少し、あの女の素性を探る必要がある。持ち得る魔法の推測をつけてフルヤモントに報告しなければ、被害を最小限にとどめることは難しい。倫理や法に縛られない外道術者に対策ゼロで立ち向かうのは無謀だ。

 カインはトメリア霊峰から降りるや体を温めるために全力疾走しつつ、風上を捉え、ファニップの淀沼の北部に回り込み、毒霧を警戒しつつ沼地への侵入を試みた。空気中に放たれた毒が沼地に近づくにつれて濃度を増し、体じゅうの神経が麻痺するような感覚が増していった。ともすれば夢を見ているような、体が浮き上がるような非現実的な感覚、同時、ひどく頭が重く、瞼が閉じ、眠くなるようで、それでいて興奮状態のように体が熱くなってゆく。

 ……緊張もあろうが、これはまずいな。

 トメリア霊峰周辺の雑木林の一部、沼地周辺の林を息を吸わず進んでいたのに、皮膚から取り込まれてカインは毒の影響をもろに受けている。皮膚からの吸収は肺や粘膜からの吸収に比べればわずかとされるが排出が難しいぶん蓄積されやすく異常を取り除くのに時間が掛かる。女を見つけるには至っていなかったが、

 ……調査はこれが限界だ。

 沼地に引っ込まれては手が出せないと判ったことが収穫だ。あの女が魔物を操っているならトメリア霊峰やその周辺に再び姿を現す可能性があり捕縛の機会がないわけでもない。

 袖で口許を覆ったまま撤退したカインは、途中、下流に人家のない沢で服と全身を洗い、突如翳み(かす  )始めた視界を改善するため屈んで水を掬った、と、いうところまでは憶えている。

「ぐっ……、(ここは──)」

 においと魔力環境から察した。居候しているテラス邸の自室だ。

「やっと起きたわね」

 もう一人の居候カクミの溜息混りのような声が遠くに聞こえた。

 起き上がって応えようとしたが指一本動かない。感覚が鈍して気づくのが遅れたが、カインはベッドで横になっていた。眼が馬鹿になっているので開いても無駄なのに瞼は半開きだ。締りのない顔だろうが意識を彼女に向けた。

「心配を掛けたな」

「鞭打つのは若者の特権だったはずなんだけど。ドM覚醒して自分で打つことを覚えたわけ」

「休めば治るさ」

「むちゃするなっつってんの。解らないかなぁ、もう」

 解っているが、

「仕事だからな」

「金の入らない仕事引き受けんじゃないわよ」

「テラス様の要望ならお主は金など要らぬだろう」

「そりゃモチ」

「同じことだ」

「そういうのズルいわよ」

「舌の感覚もいささかおかしいようだ」

「ものの喩え」

「神経的な体感もあるが、あの沼地の毒はやはり危険だ。テラス様は」

「摘師よ」

 森に出ているようだ。

「一応マイにあんたの帰還を伝えてもらったけど」

「途中で仕事を放る方ではないさ」

「そうね」

「うむ……」

「……」

 しばらく、二人きりである。気まずいのでもなく、会話の合間を静寂が立ち込める。

「なんちゃらの沼、だったっけ。銃士長時代に何度か聞いたことがあった」

「ファニップの淀沼。わたくしも侵入を試みたのは初めてだな」

「あたしも行ったことはないな。カインがそのザマってことは、マジでヤバイ場所なのね。毒予防とかしてたの?」

「いや」

「まさかの無防備老人」

「見込みが甘かったことは否めぬが急ぎだったのだよ。詳しい報告はテラス様が戻られたらする予定だが、怪しい女を追跡中だった」

「本人から聞いたけど、音の身許が判ったんでしょ」

「その報告は事後にと考えていた。わたくしを運んでくれたのは彼か」

 カインが説明してもいないのにカクミが事情を知っていたのは、竹神音から経緯を聞いた。

「問題」

「うむ」

「ここに来たときあんたはおんぶされてたか、お姫様抱っこされてたか。さあどっち」

「取り上げる意味があるか」

「気になるかと思って」

 ……意識してしまうと、な。

 お姫様抱っこではなんとなく気持が悪いのでおんぶのほうでお願いしたい。いや、ご隠居のようでおんぶも困る。若く保っているつもりで老いゆく心、でも、まだまだ現役でいたい。

「パランドを襲った魔物の群れを退治するために神界宮殿のパシリを買って出たんだって?そんで、悪人の情報でトメリア登って沼行って見事に自然淘汰されたわけよね」

「表現は引っかかるが大筋は間違いない」

「バッカじゃないの。あたしみたいな馬鹿でも解るわよ、霊峰だけでもヤバイってのに、そのあとに毒の沼って、体弱ってるジジイが意気がりすぎよ」

「体温低下による免疫力減退は可能な限り防いで挑んだのだがな」

「そもそもがジジイでしょうが」

「それをいわれると、あらゆる自信を失いそうだ……」

「うぇ、ごめん、ちょっとツッコみが過ぎた」

 静寂は、村の平穏を伝える。

「音殿はどうしておる」

「ティンクと移住について話してるわ。テラス様は大歓迎ね。身許確認中もずっとうきうきしてたから、積極的に村民の説得に動くはず」

「お主は」

「テラス様にいわれればやる。けど、警戒もしてる。身許が保証されても力がなくなるわけじゃない。解毒の魔法を施したって言ってたけど、あんた、まだ動けないんでしょ?」

「うむ」

 視覚と聴覚が回復してきている。眼を動かせることを確かめると、カクミの怪訝な表情を窺えた。腕や脚を動かすにはまだ時間が要る。

「治療したってのは噓で、あんたを無力化してテラス様に取り入るのが目的とかね」

「その点は問題ない。ラセラユナ様に加えてユアラナス様にもご確認いただいた」

 どちらも多くの信仰を集める主神だ。

「あたしはどっちも知らないからね」

「それもそうだな。神界を中心とした世界大戦とも言うべき悪神討伐戦争、その中心人物にして終戦の立役者がラセラユナ様といえば貢献度や神格は認められよう」

「ちょっと前に外の神界で起きてたっていう、あの?ラセラんちゃらってのは、」

「ラセラユナ様だ」

「そんなにすごいの。あたしとどっちがすごい」

「ラセラユナ様だ」

「即答っ」

「戦闘においてはお主も信頼に足る。だが、主神ではなかろう。主神とは、その星の民意を集める者──、テラス様と同じなのだよ」

「あ、そっか、それなら、あたしは敵わないな。ユアなんちゃらってひとも」

「うむ。ユアラナス様は複数の神界を束ねる天帝神でもあらせられる」

「どのくらいすごい」

「安易な計算だが、テラス様の二八倍か」

「テラス様が二八人……!す、すごいっ、昇天するかも!」

「変な想像に目を輝かせるのはよせ」

「ステキ妄想よっ」

「『テラス様が』や『妄想』が既に失言なのだがな」

 カインは窓に目をやる。日中のようだ。

「わたくしが発って六夜を跨いでいるはずだが、その間、村で変わったことはないか」

「特にないわね。強いていうなら、テラス様が音のことをよく話してることと、摘師の仕事の割合が増えたことかしら」

「とうに知れたことだがお主の中心はテラス様だな、よく観ているものだ」

「それ以外に観るべきものがないでしょ」

 そのために地位も高給も捨てたカクミである。

 テラスの警護を主とする日中・夜間の担当は、モカ村移住当初から同じくしているカインとカクミ──。

「起きていて、体に支障はないか」

「ハイナ登ったときみたいな激動でもないし、一夜くらいどうってことないわよ。どの道、テラス様にはついてけないし」

 カインとカクミに村民の属性はない。復興こそ協力できたが村の伝統産業に携わることができず、摘師に同伴して森に入ることは、技術や知識の秘匿という観点からNGである。村民として移住してテラスと同じ摘師になればともに働くこともできるが、その資格がないので日中は留守番するほかない。その留守番も、村外から襲撃者でも現れなければ形だけだ。

「あんたはどうなのよ。寝たきりになりそう?」

 言葉は異なるが、カクミにしては慎重な再確認だった。

「お主の世話になるほどジジイでもない。安心するとよい」

「……信じるわ。ジジイはゾンビみたいなもんだって憶えてるから」

「その認識でよい。あいにくまだ腐っておらぬようだが」

「いつか腐るんだ」

「土には還りたいものだな」

「いい土にはミミズが住んでるってカオルがいってたなぁ。で、土はミミズのうんちが混じってるんだってさ。……あんたが果てはうんちなんて、っはは」

「何か切ないが……っははは」

 棘のあるカクミのツッコミは愛嬌で、本当に孫ができたような気分にならないでもなく、心地よい。

 ……指先が、動くようになってきたな。

 沼地の毒性があまりに強く効き目が遅かっただけで治療なくして命を拾うことはできなかっただろう。

 いつ腐り果てるか判らない。小さな変化を取り零すのは、いかがなものだろう。

「……テラス様が、摘師の仕事によく出ていると言ったな」

「ん?ああ、音が現れたことで俄然やる気が出たんじゃない?モサいヤツだけど、いい男だと思うわ」

 カクミも根から疑っていたのではなかった。「カインの寝顔、少しずつ和らいでたからさ、治療はしっかりしてくれてたってのは判るし、テラス様が懐くような包容力っていうか優しさっていうか、……そういうの、感じるし」

「お主に取って何より大きいのは、テラス様が評価していることであろう」

「──それもある」

 それも。カクミの中では、それ以外の要素で大きなものがあるのか。カインは少し意外に感じたが。

「もしかしたら、いいふうになるかも知れないからね」

「……なんのことだ」

「こっちのことよ。男には判んないことかもね」

 男女の機微のことか。それか、女性ならではの、何かの話か。

「その手の話にわたくしはついていけぬ。謹んで辞退しよう」

「そうしなさい。全部終わったら爺さん水準でくどくど話したげるわ」

 何やら遠い目のカクミを見ると、重い瞼に急かされてカインは眠りについた。

 

 

 シェルェリィが動き始めた。一万年以上もの停滞を感ぜさせることのない身のこなしで地中を擦り抜けて、目指す地下空洞へ一直線であった。

 大地の裂け目の名を冠する魔竜。その名は神神の長たる者がつけ、魔竜本人に自覚はなかったことだろう。一つの魔竜が生み出した数多の魔竜も己の名を知らず、また、名づけられることもなく、暴虐の日を待っていたはずだった。シェルェリィの母テラインが穢れを克服したことで、その穢れに連なる魔竜の多くが眠りについている。辺境の村モカに移り住んだ元主神テラスリプル・リアの暗躍で無力化されている個体も多い。

 仄かに光る鉱石で成る地下空洞の壁に垂直に立ち、エクセザは、シェルェリィの背を見つめた。

「さて、どうする」

「魔竜の状態は」

「石像と同じね」

「我の力で足りるか」

 穢れを増幅できるシェルェリィも、無数の魔竜を暴走状態に至らせるのは骨が折れる。神神に嗾けるにも一斉となると不確実になってしまう。

「あたしが手を貸したほうが確実ね」

「穢れの植えつけだな」

 人間の魔術師が行った不完全なものもあったがそんな紛い物ではなく、エクセザには穢れを()()()植えつける力がある。魔竜はもとから穢れを宿しているが鎮静化していない穢れを新たに植えつけることで暴走状態を引き起こしやすくできる。その上でシェルェリィが穢れを増幅すれば魔物は破壊衝動の塊と化す。

「速やかに侵略するぞ」

「宣戦布告は後回し」

「争いだ。順序など些細なことだろう」

「一つ確認だけど」

「なんだ」

「テラスリプルの身に危険が及ぶことも十分に考えられるけど、本当に魔竜を暴走させても大丈夫」

「好都合だろう」

 テラインを苦しめるには。

「改めてOK。じゃ、遠慮なく」

 エクセザは、黒い霧のようにして放った穢れを全ての魔竜に等しく植えつけてゆく。穢れは少しずつ心を蝕むのでただちに魔竜が暴れ出すことはない。

 穢れの作用を加速させるのがシェルェリィである。

「準備OK。シェルェリィ、そろそろいいよ」

「プッルティオだ。しかし諾了(だくりょう)

 シェルェリィが両手を翳し、魔竜の穢れを捉える。「貴様達の本来の役目を思い出せ」

 捉えた穢れに働きかける──。エクセザが行った穢れの植えつけと同じく、それは古代の魔法。認識されることがないそれは、使い手の減少とともに忘れ去られてしまった。

 エクセザやシェルェリィが未だ失わず揮うことのできる力の指向性は、善とはいいがたいものである。

 魔竜達の指先に、悪の脈動を観る。

「魔竜はここだけではないな。次へ行くぞ」

「そうね、一斉攻撃を仕掛けるなら、準備も同時でないと」

「波状攻撃という手もあるがな」

「意図的にズラしてじわじわ。それもありね。潰すなら一挙にグチャッとが好みだけど」

「それもありだがな……」

 シェルェリィの憎しみが一瞬で消えることはない。エクセザはそうと解っているから、

「波状攻撃案もいいかもね。夜を待とっか、それか、跨いでもいいよ」

「……そうしよう」

 一夜で済ませることもできる。それではシェルェリィが満足しないから、予定では数箇月の準備期間を要した。

 

 ところが、である。

 魔竜への穢れの植えつけ並びに穢れの増幅を施すこと約二箇月、事態の変化を観ることとなった。きっかけは、シェルェリィのこんな言葉だった。

「改めての確認だが、テラスリプルの近場は最後がいいだろう」

 破壊衝動のまま地上を襲わんとする魔竜と対し続けているテラスリプルが穢れの不自然な活性化を知ることで、一斉攻撃前に余計な横槍を入れてくることを懸念し、シェルェリィがそのように方針を告げた。当り前のことと考えてエクセザも最初から口に出さなかった基本方針だが、彼女が確認したからには反応しておく。

「そうねえ、毎回あたしはテラスリプルの居場所を把握して行動してたけど、あんたは」

「当然のことだ。が、貴様は存外大胆なところがあるからな、牽制だ」

「だいじょぶ、だいじょぶ、変な独断専行とかしないから。なんなら、今のテラスリプルの居場所を確認してく。様子も気になるでしょ」

「地下空洞に生き埋めになっているなら手間が省ける」

「自ら仕掛けたりは」

「やつがいた場合に厄介だ。今は手を出さない」

「慎重だなぁ。でもま、そだねぇ」

 やつことテラインは大地を司っている。地下空洞内では分が悪い。

 そんな調子でテラスリプルの様子を観に行くこととなり、テラスリプルがよく現れる地下空洞の入口、発光中央坑道の最奥へ向かった。事態の変化を、そこで観たのである。坑道や地下空洞内は概ねテラスリプル()()であるが、その日は二つの気配に反して影が三つあった。エクセザはとっさに警戒し、シェルェリィとともに岩陰から様子を窺った。そこには、テラスリプルが二人と、男が一人いた。テラスリプルが二人存在することは知っていたから驚くこともないが、男の存在に、エクセザは息を吞んだ。

 間違いない。姿形は幼児の頃とかなり変わったが、

「なんで、あいつがここに……」

「貴様の知合いか」

「知合い、と、いうか、(いや待て、あついは耳が──、)一旦、沼に戻ろ。話はそれから」

「……諾了」

 普段楽天的に振る舞うエクセザの焦燥に希しさを感じたのだろう。シェルェリィが応じて、沼地に引き返した。

 毒霧漂ういつもの沼地にエクセザの緊張感が張りつめる。どっかりと座ったシェルェリィが沼をじゃぶじゃぶ搔き回して首を傾げた。

「希しいな、貴様が慄えている」

「怯えてるわけじゃないし、恐いわけでもないけど、いや、……タイミング的に図ったみたいでちょっと恐い気がしないでもないけど、そうじゃない」

「エクセザ」

「だ、だから恐くないってば!」

「……整理してから話せ」

「っ……」

 情けないことに、シェルェリィに一喝されてようやく落ちついた。切り出したのは、沼に座ってシェルェリィの腕に絡みついてしばらくしてからだった。

「……あの男のことよ」

「二人のテラスリプルの横にいた髭もじゃのことか」

「そう、あいつ、あいつは、危険なのよ」

「危険。ただの人間に観えたが。それも無魔力だった」

「よく考えてみて。無魔力のただの人間が神界に入り込めると思ってるの」

「いわれてみれば、そうだな」

 基本、シェルェリィは抜けている。作戦のこと以外、あるいはその基底的な部分のこと以外に全く考えが及んでいないのでエクセザはときどき不安になる。

 今はそれはいい。肝心なのは髭もじゃのことだ。

「ヤツは何者だ。貴様が警戒するとはよほどの能力者なんだろう」

「あたしもよく解ってるわけじゃない。けど、やつは穢れを……ううん、あたしらを認識してさわることまでできる」

「……!」

 シェルェリィが目を見開いたのも無理はない。エクセザやシェルェリィ、人型として具現化した化身といえども、通常、ひとに認識されることは少ない。それに、認識されたとしても直接的に働きかけられること、例えば話しかけられたり触れられたりすることはない。ひとがエクセザやシェルェリィの揮う力を魔法として認識できず見たり触れたりできないように、エクセザやシェルェリィを存在として認識する力がひとにはないのが普通のなのだ。が、

「ヤツは我らを認識し、その存在を捉えることができるというのか。ならばヤツも──」

 同じ舞台で戦うことができる。互いが互いを害することができる。気を抜けば危険、とは、単純に理解できることだ。

「取り込むことはできないか」

 と、シェルェリィが提案したのは当然のこと。敵対の危険性がある一方で味方にできれば助けになるとも見込める。

「それは無理。ヤツは、あたしらみたいなのを一番嫌ってるから」

「……やはり知合いか」

「知合いってほどじゃ……」

「目の色が変わっているように感じるんだが」

「そんなことないわいっ」

「わい、て」

 勘違いされてしまっては困るので、呆れ顔のシェルェリィにエクセザは擦り寄る。

「違うからっ、本当に違うからっ!信じてっ、今はあんただけだからっ」

「なんの釈明だ、まったく……」

 顔を押し退けられたエクセザは、それでも彼女の腕を放さない。

「あたし、あいつが嫌いなの。それだけは本当だから、信じて」

「……そうか」

 疑いの目を向けることもなく、シェルェリィがうなづいた。「信じよう。貴様は、やつのように我を裏切らないだろう……」

「当り前。あたしは、あんたの母親じゃない、あんたのフィアンセなんだからっ」

「きもい」

「きもいだとッ」

「計画を修正するぞ」

「話が終わってなぁいっ」

「最重要は計画の実行と達成だ」

「うぅ、そ、そうだね……」

 今はお預け。計画が無事に終わって成果を得られればたっぷり時間を作れる。エクセザは前向きに考えてシェルェリィの前に座った。

「さっきも伝えた通り、あの男は危険よ」

「だから計画修正を行うと言った。貴様の警戒感からして我らは下手に動けない」

「気取られたら、それこそテラスリプルの横槍よりずっと厄介な邪魔立てをされるわ」

「我らを認識でき、害することができる。文字通り、存在を消すことすら……」

 そう。エクセザの懸念も、シェルェリィと同じだ。化身、現代において精霊と呼ばれる存在は死んでも別の個体として蘇るが別の個体に今の意識はない。新たな存在として自我を構築され、全く別の存在として生きることになる。

「我は、我だ」

「意志は大事だけど、警戒はすべきよ」

「髭もじゃとは遭遇しないようにしなくてはな」

「そういうこと。遭遇したら、是が非でも逃げて。あたしがサポートする」

「貴様は」

「あたしは、まあ、どうにでもなる。一応、顔見知りで気を引くことはできるし、うまくごまかして逃げられる」

 危険と判っている相手の懐には入り込まない。それが、対立回避の最善策だ。

「念のために聞いておく。ヤツの名前は」

「竹神音──、現代を生きる古代の使い手よ」

 

 

 エクセザと竹神音のあいだに何があるかは知らない。幾星霜の憎しみが晴れないままの現代でまた失敗してはもう脚を立てることができない。生きた(しかばね)となるならいっそ存在を消してもらう。そうはなりたくないから失敗はしたくない。

 プッルティオは竹神音を警戒し、時間を掛けて魔竜の穢れの増幅を進めた。一斉攻撃の準備段階は当初予定した数箇月を大きく超え、一三年を要した。精霊のプッルティオらにはそれほど長くないその期間は、待ちに待った一斉攻撃を目前にして長くも感ぜられ、状況の好転が見られることを疑いもしなかった。

 だが、変化はまたしてもプッルティオの苦境を示した。地上に打って出るため、最初に穢れを増幅した魔竜の様子を確認したところ、

「──馬鹿な。魔竜がまた眠っている」

 増幅した穢れが鎮静化され、破壊衝動の塊どころか眠りの権化である。これではいつまで経っても神界に嗾けられない。穢れを克服したテラインの影響は、ここまで強いのか。

「テラスリプルめ、やってくれたわね……」

 と、エクセザが言った。テラインが穢れを克服したのは、テラスリプル、あの元主神あってこそだ。

 …………。

 穢れを増幅した魔竜を、順に、全て確認した。どれも、これも、穢れが静まり、動き出す気配は皆無。加えて、消えた個体がいくつも。テラスリプルが討伐したのだろう。

「テラスリプルの影響力を甘く観てたかもね……」

 慣れ親しんだ毒霧を吸ってそう言ったエクセザであった。

 その背に手を置き、プッルティオは首を振る。

「本当にそうか」

「え」

「魔竜対処にテラスリプルは幾星霜を要した。それでいて全ての魔竜を討伐したのでもない。それがどうだ。太陽を十数回巡った程度で全て鎮静化されている。やつ……テラインが穢れを克服した影響を加味しても、我らの影響が全て無に帰することは想定外だ。ならば、我らの想定を遥かに超える何かが別にあった。それは、一つしかない」

「……竹神音」

「貴様は言ったな。あの男には我らを害する力があると。ならば、懐柔する力もあるんじゃないのか」

「懐柔なんかされないって!」

「(……、)そうだとして、現状の説明ができるか」

「それは……」

「……」

 エクセザを責めたいのではない。

 精霊と同じ土俵に立てるという竹神音がテラスリプルやテラインに力を貸している。そうであるなら、プッルティオ達の動きもとうに承知で対応していたと考えられる。この苦境は、当然の帰結だったとさえいえる。

「(どうして、わたし……、こんなにマヌケなんだ……。)どんな手かは知らないが、貴様が警戒する相手だ、関与していないとは考えられない。我も、もっと警戒すべきだった」

「……シェルェリィは悪くない。あたしが……ごめん」

「計画を、練り直そう」

「……でも、もう、……」

「練り直そう」

「……うん」

 敵対勢力または敵性勢力との対立を回避しつつ魔竜の穢れを増幅すれば今度こそ全てがうまくゆくはずだった。水面下での計画と行動に対応できる地上人はおらず、プッルティオ達の準備完了でもって奇襲は実行されるはずだった。

 もはや、魔竜を遣えない。それどころか、穢れの植えつけや穢れの増幅も意味を成さない。自分達の働きかけがテラスリプルや竹神音の暗躍で無駄となり、徒労となり、掛けた時間の虚しさが伸しかかり、

 ……それでも、我は──。

 落ち込むエクセザの背中を叩いて、前を向いた。沼地に座れども再び脚を折ることはなく、毒霧を吸えどもともに上を向き、自分達しかいない呪わしい沼地から幾度となく飛び発つ。そこをただの停滞の地として我が身を呪うだけでは、もういられない。

 ……なんとしても、這い出す。

 

 

 

──一八章 終──

 

 

 

 

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