一章 平和と破滅の幕間
深い森の中の小さな村には機織り機のリズミカルな音が小気味よく響いて、動植物の囁きと元気な子どもの声が融け合っている。
「テラス様。テラス様。……。テラス様」
過去の主であり現在は娘のようなテラスにカインは布団脇から呼びかけた。
「……、いい加減に目を覚ましませんと仕事に遅れますよ」
「……ふぁうぅ」
何万年経っても朝にめっぽう弱いテラス。体の小ささもあって、ゆっくりと伸びをして起こした上体はちんまりとしている。
「ほら、皆の迷惑になりますよ」
「ふぁ……すぅ……」
深呼吸を一〇回ほどして、テラスがやっとこさ目を覚ました。
「おはようございます、カインさん。もうぱっちりですから、横になってください」
今の今まで自分の上体を支えていたカインにテラスが布団を勧めた。寝ぼけているのではなく、そういうひとなのである。
「自分の寝所を使いますのでお構いなく。それよりテラス様」
テラスの警護がカインの仕事の一つだが、今日はその前に伝えることがある。
「あ、朝ご飯ですね。今日もどんなものか愉しみです。カクミさんもまだ起きていますよね、早く行きましょう」
カクミはテラスの元配下で今はよき友人。カインと同じく配下という立場を棄てテラスの家に逗留している。テラスからも惇い信頼を寄せられている銃士であるがそれはそうと、
「朝食ではないのでお待ちを」
テラスを通せんぼしてカインは会釈した。「森外層を窺う男がいましたので捕縛しました」
「捕縛。縛っちゃったんですか」
「不審でしたので。身柄はティンク殿の家ですので、まずそちらへ参りましょう」
「かわいそうなのでほどいてあげましょう」
「性急です。不審とお伝えしましたがウマの耳ですか」
「わたしにはお馬さんの耳があったんですねっ」
「錯覚ならお気を確かに。ウマの耳はわたくし達にはありません」
テラスもカインも〈神〉に連なる者で、耳は人間的なものである。
「もしかしたら彷徨った末にぼろぼろのひとかも知れません。かわいそうです」
「ぼろぼろではないので彷徨ったと認められません。外からしばらく森を窺っていたことを私が観察しましたので紛うことなく不審です」
この辺境の村〈モカ〉をぐるりと囲むように広がった森は貴重な資源、要するに財産だ。勝手に伐採されたり最悪の場合は燃やされると考えて不審な男を捕縛した。幸いにも大人しく捕まってくれたので、村長であるティンクと話し合って処遇を決める運びだ。
「そのひとに会いに行きますね」
「危険なのでやめていただきたく。協議にご参加いただければ十分で──」
「会ってもいないひとの扱いは決められません」
不審な人物でも話を聞かずには扱いを決められない。正論のテラスがとことこと歩いてゆこうとする。
「承知しました。せめて服を召してください」
「そうでした。お願いします」
下着姿のテラスが両腕を広げてカインの前に立った。
「うぅむ……」
「カインさん、どうしたんですか」
……自ら召す努力を、と、言っても無駄だった。
人間の尺度でかれこれ一六〇万年の無駄。カインはテラスに素早く服を着せて、外へ出た。
風が穏やかに吹き抜けるモカ村は藁葺き屋根の家屋・広場・水田・畑・動物小屋、それらをぐるりと囲う森などで成り、森に入らなければ端から端まで徒歩五分と掛からない。都市部と比べると高齢化が進み、一〇〇〇万年後にはなくなっているのではないかと危惧する村民もいる、まさしく小さな村だ。子どももいるが大人になって出てゆく者も現れるだろう。特産品たる伝統工芸品〈モカ織〉と同じように先細りで消滅を逃れられない村であっても、問題が起きれば乗り越えてゆかなければならない。
不審な男を預けたティンク邸にカインはテラスと赴いた。
「ティンク殿。テラス様をお連れしたが──」
「捕らえた男のひとはどちらにいますか」
「と、この始末で、申し訳ない」
玄関で出迎えたティンクに会釈したカインは、テラスがあらぬほうへ行ってしまわないよう掌でそれとなく制しておく。
ティンクが穏やかにテラスを伺う。
「テラス様はなぜ、お会いになりたいんです」
「カインさんのお話では怪しいかどうか判らなかったんです」
「ふむ。わたしからもお話をさせてください。会うかどうかはそれからお決めになっても遅くありません」
「縛っちゃってますよね」
「問題がありましたか」
「息ができなくて苦しいと思います」
「息ができる程度でカインさんが調整してくれましたので大丈夫です」
「ほっとしました。お話を聞かせください」
どんな縛り方を想像していたのか。テラスが聞く姿勢を見せてくれたのでようやく本題に入れそうだ。
ティンクの案内で囲炉裏を囲むと、テラスに次いでカインも座った。
ティンクの話は二つ。一つは不審者の危険性で、カインも考えていた通り村の財産損失を危惧していること。もう一つは男への事情聴取の内容で、名前と出身地を聞き出したこと。
「──かの惑星アース、ダゼダダ生まれの竹神音か。地名は知れども足を運んだことがない。名も知らんな……」
カインは腕組し、不審点を挙げて結論を提案する。「無魔力の人間が神界の、それも魔物が多い森付近をうろついており、供述の信憑性も疑わしい。排斥が望ましいでしょう」
「ですな……」
と、ティンクが迷いなく応じた。
ところが、テラスはそうではない。
「疑って掛かるのはよくないと思います」
相手がどんな怪しい風貌でどんな前科をもっていてもこんな調子であるから、周りのカイン達は冷や冷やしっ放しである。
「噓塗れかと。惑星アースと繫がる神界は一握りなんです」
神神の住まう星を神界といい、その一つがここ〈フリアーテノア〉である。
「フリアーテノアのような辺境神界に訪れるには、(一部例外はあるが)空間転移で別の神界をいくつも渡る必要があります。道中で魔物に襲われることもあろうに、無魔力どころか並の人間では到底モカ村に到達できません。それこそぼろぼろでなければ辻褄が合いません。無精髭はともかく彼は装いが小綺麗でいやに余裕がある。取り繕わずいえば、不気味です」
無魔力個体を装った危険人物だったら。モカ村に訪れたことに意図があるとしたら。テラスやモカ村を害するのではないか。
カイン達の懸念に、テラスが二三うなづいた。
「疑い、ご尤もですね」
「解っていただけましたか」
「怪しいひとなら野に放つのも危ういです」
テラスが宣言する。「わたしが裁定します」
起ち上がるテラス。覚悟を決めた彼女は普段のマイペースな振舞いとは別の意味で止めるのが難しい。
「おやめください……!」
カインはティンクとともにテラスの前に立ちはだかった。テラスの覚悟が何を意味しているのか、二人とも察したのである。
テラスは、過去に魔物への対処が遅れて一般神である村民を危険に曝してしまった。テラスリプル・リア・フリアーテノア。一神界の統治者〈主神〉の肩書には「元」がついているが、昔も今も彼女は変わらない。
ティンクが口を開く。
「以前のこと、気にしておられるのでしょう」
「今回は皆さんの考えですが同じことです。多くのひとに降りかかる危うさを見過ごすことはできません」
「……でしたら」
カインはテラスの意に副う。「わたくしもお伴します。どうかお許しを」
「はい。お願いします」
自分一人でできることは限られているとテラスはよく解っている。だから同伴を許してくれるが、
……結局こうなってしまうのか。
カインが処遇協議への参加を求めたのはどこからか聞きつけてしまうであろうテラスに予め伝えて危険から遠ざけるためだった。危ない場所と判っていても他者のためならテラスは踏み込んでしまうからだ。
ティンクも出る。
「わたしもお連れください、テラス様」
「お願いします。カインさんもティンクさんも気をつけてくださいね」
「『はい』」
カインとティンクはテラスに応じて、自称竹神音のところへ向かう。ティンク邸を北に出てすぐの納屋、自称竹神音がそこにいた。ぐるぐる巻きにし、手脚まで縛っておいた縄にはカインが封印魔法を施したので一歩も動けないのだが──。
「この男……、なんと太い神経をしておるのだ」
不気味を一周回ってカインは驚いてしまった。自称竹神音は押し込まれた納屋で横になって眠っていた。
……いや、寝たふりやも。
反撃の機会を狙っているのか、表情が険しい。捕まえたときは反抗しなかったが、こちらの油断を誘うためなら納得だ。
警戒心を取り直して、カインは自称竹神音を揺り動かす。
「こら、起きぬか」
「……んんん。あとごふん〜」
「ぬ……、(反撃するならしてみるがいい。)さあ、起きないか!」
ティンクが慌てる。
「カインさん、もう少し穏便に。逆上させるようなことがあっては」
「それもそうだが。(なんなのだ、この男は。演技にしては起きない時間が長くないか)」
逆上してしまったカインに対して、テラスが動ぜぬ氷河のようだ。
「やはりお疲れだったのではありませんか。カインさんもいうようにフリアーテノアまでは長い旅だったんでしょう。わたしも長旅には疲れてしまいますし、じっとしていたら眠ってしまいます」
「じっとしていて眠るのは稀だと思いますが、長旅は……」
カインは長旅や長時間労働に慣れきっていて睡眠時間が短くてもどうにかなる体質だ。そんな自分を基準に自称竹神音を観察しても、正しい判断ができない。
「要注意人物であることに変りはありますまい。森を窺っていたのは確か。モカ村やテラス様を狙う不逞の輩との疑いは拭えま、って」
自称竹神音を揺り動かしならがテラスの警戒を促していたカインだが、気づけばテラスが自称竹神音の髭を撫でていた。
「ちょっテラス様っ、お下がりを!」
「ん〜〜……」
「あ、目を覚まされましたよ。お髭が素晴らしいですね、もさもさですねっ」
「もさもさは山賊も獣も同じです」
やや強引だがカインはテラスの両腋を失礼して強制的に後退させた。その間にティンクが自称竹神音の様子を窺う。
「目覚めたようだな。そのまま耳を傾けられよ」
「ん」
「君がどんなひとか知らないが、我らは他民・異人との交流を絶っておるゆえ出ていってもらいたい」
「排他的小規模コミュニティ。外から観た通りの場所やな」
自称竹神音は調べていたことを隠そうともしていない。
ティンクが警戒心を高めて尋問する。
「君の目的はなんだね。村の何が目当か」
「住みたくてね」
「む……、住みたいだと」
潜伏先を探す罪人の類であったか。テラスを制するようにして前に出て、カインは自称竹神音を覗き込んだ。
「交流を絶っている、と、言ったはずだ。お主のような得体の知れない者の入村を許すこともなければ、身許の知れた人物も簡単に招き入れることのない村と納得せよ」
「お前さんはこの村の出身じゃないのにか」
……何。
カインは表情にこそ出さなかったが意表を衝かれた。鎌か。
だが、自称竹神音が眠たげな目差に反して鋭い観察を口にした。
「お前さんの取得魔力には首都テラウスの魔力環境と似たものを感ずる。長く首都暮しやったんやろう。強いていうならお前さんはこの神界の出身者じゃないね、個体魔力の状態を観るに、神界三〇拠点が一つメーク──」
「もうよい、黙れ。(此奴、やはりおかしい)」
無魔力個体のようなのに、カインの持つ個体魔力を極めて正確に分析しているようなのだ。少なくとも、彼が言おうとしたであろう神界の名は正しい。分析がいま行ったものなら有魔力個体ということであり、無魔力個体は偽装。魔力を潜める技術は体を触れた上で魔力探知を行えば見破れるため、カインはその手で確かめて自称竹神音が無魔力個体と判ったが、自称竹神音はいやに余裕がある。カインの知らない魔法技術で魔力を隠しているのだとしたら、自称竹神音に魔力があって他人の個体魔力の分析ができる可能性がある。本当に無魔力個体なら、分析データを渡した仲間が存在するだろう。
テラスのリスクが跳ね上がってしまうのでカインが場を離れるのは得策ではないとして、一つ、深刻な懸念が生まれている。
……個体魔力を精密に分析できるということは、テラス様の魔力も──。
それをこの場で行えるとしたら。それを自称竹神音の仲間がどこかで行っているとしたら。
……テラス様の魔力の不自然に気づかれては、終りだ──!
魔物の魔力である穢れを持って生まれた稀有な存在、それがテラスだ。直接探知できない〈不知得性魔力〉である穢れをテラス自身はおろかカインも探知できないが、テラスの人格と穢れが深く結びついてしまい、いつしか暴走と隣合せの状態になってしまっていた。今は暴走の危険性がないと判っているが、魔物化する危険性があるために穢れを持っていることが一般的には忌避の要因となる。
自称竹神音が、カインを視る。
「いろいろと考え事をしとるようやね。こちらもゆっくり休む機会ができて幸いやよ」
そう言うと瞼を閉じて緊張感を解く自称竹神音。何者か見極めて手を打たなければ、何度でも訪れる太太しさがある。
テラスと魔物に深い繫がりがあることを知っているのはモカの村民と神界の統治機関〈神界宮殿〉の一部でフリアーテノアの多くのひとびとは知らない。この男に変に言いふらされて混乱を招かれてはたまったものではない。
「お主、身分証明はできないか」
「証明書は持ってきとらんな……」
「記録をこちらで調べよう」
「残念なことに記録がないと思うよ」
「語るに落ちる、だ。そのようないい加減な身分証明書は存在せぬ」
文書改竄や重要記録廃棄など公的機関でも不届きな行いをする者はいる。事情はさまざまあるがどこかで不正な考えが働いていることは確かだろう。
「最近のことであるなら記録が廃棄されることもあるまいよ、惑星アースの人間がよほど愚かでなければな」
「システムは愚かかも知れんが意味のあることやと思うから俺は構わんよ」
「自分の立場を理解しておらぬのか。ここで始末してもよいのだ」
カインは魔力を込めた右手を固める。「お主が無魔力個体かどうか判断しかねる。わたくしはお主の危険性を排除したい」
「殺しは慣れとるようやね。いいんやない、どうぞ。どの道、俺は長生きできんから死期が少し早まるだけのことやよ」
「先程ゆっくりすると言ったばかりではないか。仲間がいて安心しきっておるのか」
「急ぐ・急がんと死期とは分けて考えるべきことやからちぐはぐでもない。ちなみに俺は独りやよ。同居人が来る予定はあるけど、こちらの話が纏まったらやし」
「同居人。(ここに住むという虚偽を押し通すか。驚きを通り越して呆れる。)やはり自分の立場が解っておらぬようだな」
問答は無駄。飄飄としていてまともな回答が得られないばかりか、本音を語っているとも捉えられず、こちらを弄んでいる節すらある。
……阿呆のゆく末だ。せめて楽にしてやろう。
無論、殺すつもりはない。その価値もない。しかるべき強制送還、二度と来られないよう強烈なダメージでトラウマを植えつけてやる。
カインは拳を振り下ろす。
「待ってください」
「はいぃっ……!」
カインの腕に抱きつくようにしてテラスが止めた。
「ちょ待……っ!」
テラスの勢いが余って拳が自称竹神音の脇へ。
……魔力拡散が間に合わぬ!
拳が床を貫くと魔力の集束で風が巻き上がり、老朽化した納屋を吹き飛ばしてしまった。
「ふぁっ!」
縄でぐるぐる巻きにされた自称竹神音が受身を取れず木にぶつかって悲鳴を上げ、どすっと地面に落ちた。
「あわわっ、体に差障りはありませんかっ!」
「ちょちょっ、テラス様!」
カインとティンクは風の余波に煽られて体勢を崩し、テラスを追えなかった。カインの風を物ともせずテラスが近づいたが気を失っていたのか自称竹神音が身動き一つしなかった。
……、……なぜだ。
テラスを捕らえたり人質にしたり害したりするなら、今が最もいいタイミングだった。
……彼奴は、本当に本当のことを言っていたのか。
テラスを害したり、テラスを盾にするような外敵ではない(?)
「カインさん、このひとを運びましょう。血が出ています!」
「……はい」
カインとティンクは目配せ、警戒を維持しつつもテラスの指示に従い、この怪しげな無精髭の様子を運ぶ傍ら窺った。
……本当に気絶している。
実力ある暗殺者や諜報員ならば任務達成のため無防備な状態を避けなければならず、縄でぐるぐる巻きにされていようとも最低限の受身を取れる。自称竹神音は完全に伸びている上、テラスが治癒魔法を掛けて怪我が癒えたあとは寝息を立てていた。のんきなものである。
警戒を解くことはできない。村やモカ織を狙う輩という線が消えていない。魔力分析の根拠も彼は話していない。正体が知れない。十分に危険視できる相手だ。
先程のような事故があっては家が吹き飛びかねない。カインとティンクはテラスの承諾を得て自称竹神音を森の出口まで運び、大地の裂け目〈フロートソアー〉を遠目にした。小岩に凭れさせるまでにテラスが治癒魔法を掛けて怪我は癒えたのに自称竹神音が目覚めない。
「まったくなんなのだ、此奴は……」
「カインさん、村が心配です」
「うむ。ティンク殿は村を頼む。わたくしは此奴を見張ろう」
「テラス様、くれぐれもお気をつけて」
「はい。納屋のこと、ごめんなさい……」
「お気になさらず。件の急拵えで雨漏りも多かったのでこの機会に建て直します」
テラスにお辞儀、カインに注意の一瞥を向け、ティンクが走り去った。
……陽動、か。
この男がそこまで考えているかは不明だ。カインはこの男を危険視しながらも、何か抜けている気がしてならない。この男の警戒心のなさか発言の揺らぎかそれともカインが無理やり危険視しているからか、経過と状況がいまいち合致していないように感ずる。テラスまたは村に害を及ぼそうという輩ならカインが見つける前の観察時間があまりに無防備であったし、それが陽動役ゆえなのだとしたらカイン達を都合よく引き離せたこの瞬間に村でアクションを起こさなくては意味がない。逆に、テラスを主として誘き出したかったのだとしたらテラスへの奇襲のタイミングを逸してカインに警戒されてしまっているので段取りが悪い。
……念のため、魔力探知で村の周囲を警戒するが。
不審な者が近づいたなら自称竹神音を陽動と判断して捨て置けばいい。
「カインさん、このひとの体は危うくありませんか」
「どこの馬の骨とも知れない相手ではありますが髭を弄るのは無礼・不躾・不用心ですよ。わたくしは左様な指導をした憶えがありません」
「とってもコシがあって触り心地がいいですよ」
いざとなれば非常に頼もしいひとなのだが、普段のテラスはのんびりとしている。
「さわってみませんか」
「う、……はい」
無邪気なテラスの発言に乗せられてしまうのは昔からだが、カインは最低限の警戒心を手放さない。
……仮にわたくし個人を害することが目的なら今こそチャンスであろう。
カインが害されれば、テラスも危険だ。
「……どれ」
カインは髭が薄く剃ることもほとんどないし、ひとの髭をさわったこともないが、
「ふ、ふむ、確かに、なかなかよき手ざわりですね」
「そうですよねっ。とっても癖になってしまいました」
「なりませんよ、立派なレディが斯様な悪戯は。(言いながらさわってしまうわたくし、いったい何をしたいのだ)」
自制したカインは髭から手を引いて、テラスを少し遠ざけた。
「このひと、まったく起きませんね。カクミさんのように抱き締めてあげたら起きますか」
「変な起こし方に汎用性を見出されないようお願いします」
テラスにさわられればカクミはどこでもよい。体裁が悪いと無用な衝突を生みかねないからテラスに変な起こし方をさせてはならない。
「わたしはいつもどうやって起こされていますか。同じ手をこのひとに試してみましょう」
「時間が掛かるものの呼びかければテラス様は起きてくださいます。疲れているのなら……寝かせてやりましょう」
「そうですね。あ」
「どうされました」
「縄が緩んでいます」
縄に掛けた封印魔法がカインの魔力に反応して消え、木にぶつかった衝撃で緩んだよう。テラスをさらに下がらせてカインは縄を縛り直す。
自称竹神音が眠っている。髭をさわっているあいだもそうであったのだが、
……険しい寝顔だな。
起きているときは飄飄としていたが、本当は気の休まる時間がないのではないか。そんなふうに思わせる寝顔だった。
神界三〇拠点の一つ〈メークラン〉の諜報員として働いていた頃のカインも、同じような寝顔であると指摘されたことがあった。任務に次ぐ任務で気づかぬうちに精神が擦り減って心が押し潰されることがある──。
「かわいそうです」
「……ええ」
著しく行動を縛る胴の縄をテラスが氷の刃で切ったのを、カインは咎めなかった。
「このひとは、タケミオトさんというんですよね」
「現状は自称ですが、そうですね」
髭をさわりながら、テラスが興味深そうに話す。
「変わったにおいで、とってもいい気持がします。なんでしょう、この感じ」
「変わったにおい……。(わたくしと同じ諜報員のようなことをしておるのなら、左様な雰囲気があるということだろうか)」
生まれたときから近くにいたカインをテラスは父親のように慕って雰囲気に馴染んでいる。ただ、カインは自称竹神音に諜報員の感を受けていない。あえて表現するなら放蕩者か。自分の都合で周りの者を振り回す、そんな印象だ。
などと考えていたカインだが、テラスが自称竹神音の胸に顔をうづめて深呼吸し始めたのでぎょっとした。
「ちょちょちょっ!お待ちをぉ!」
「あわぁっ」
「何をしておられるのですか、はしたない」
「何もしていませんよ」
「しておりました」
「なんのことですか」
きょとんとしたテラスである。無意識の行動だとしたら教育し直さなくてはならない気がしてならないのだが。
と、わちゃわちゃやっているうちに、
「んぅ」
呻いた自称竹神音が、背伸びしてうっすら瞼を開けた。
「……おはよう。ここ、どこぉ。納屋ぁ」
「納屋はわたしが壊してしまいました」
先程に続いてさりげなく責任を被ったテラスが会釈した。
「おはようございます、オトさん。わたしはテラスリプル・リアといいます。あなたはタケミオトさんで間違いないですか」
「ん、竹神音。生きる価値もないクズ野郎と覚えてくれれば早いね」
「放蕩者とて左様に卑下するものではなかろうに……」
同属意識かカインは警戒心が薄れつつあったものの、警護のためテラスから離れないよう注意した。
「テラスリプル、テラスでいいかな」
「お主、馴れ馴れしいぞ」
「いいではありませんか」
のほほんと笑ったテラスが自称竹神音にうなづき返した。
「お好きなように呼んでください。わたしもオトさんと呼びますがいいですか」
「うん。お前さんからは、首都テラウスにより近い魔力を感ずる」
「(早速か。)いずこ調べか知れぬ分析を披露するゆとりがあるなら向こうを観るがいい」
「ん。フロートソアーやったっけ」
カインは自称竹神音の視線をさりげなく後ろへ誘い、前方のカイン達を警戒しているかどうか観た。諜報員なら不用意に体をねじって後ろを観たりはしないが、この男、小岩の横へ行ってカイン達に背中を向けるとフロートソアーをじっくり眺めたのである。
「こんな間近で観たのは初めてやな。大昔にできたっていう大地の裂け目、宮殿騎士団なんかも踏破できてない危ないところなんやろ」
「調査済みか」
「そりゃ住処周辺のことも頭に入れとかんとね」
「虚偽をまだ引っ張るのか」
「本当の話やもん」
自称竹神音が体を見下ろす。「腕と一緒にぐるぐる巻きやった胴の縄がない。手首・足首は縛ってあるけど無意味やない、これ。フロートソアーに突き落とそうとすんなら兎跳びしてでも全力で逃げるよ」
「またも語るに落ちたな。お主、死ぬ気などないではないか」
「いや、さすがに転落死は嫌やん。なんの足しにもならんどころか魔物の餌になって環境悪化に与してまう」
「無魔力個体を食らったところで魔物の活性化は最低限にとどま──」
カインがいい終わらぬうちに、
ゴッーー!
目眩がするような突風を感じた。が、物理的ではない。これは、特に強大な魔力を持つものから発せられる〈魔力波〉だ。ほんの一瞬で魔力波は治まったのに、余波を浴びているような感覚に鳥肌が立ってカインは後退りした。おまけに膝が笑いそうだ。
振り向いた自称竹神音が微笑。
「感じたかな」
「オトさんには魔力がおありのようですね」
と、テラスがカインを一瞥。胆力といっていいかは微妙なところだが、テラスは尋常ならざる魔力波を浴びてなお怯えることなく穏やか。
「魔力を潜める術は知っていますがこれほど優れたものを目にするのは初めてです」
じつのところテラスには観察力と判断力がある。カインやカクミにも魔力を潜める技術はあるが自称竹神音のレベルには達していない。テラスの見立てに、カインはうなづかざるを得なかった。
「……いったい、何用だ」
警戒心が再び湧き上がっていたカインに、自称竹神音が言うのは、
「最初から言っとる通り、村に住まわせてほしいんよ。俺と、俺の家族をね」
「お主と、お主の家族……」
「オトさんはなぜモカ村を選ばれたんですか。お察しのようなので申し上げます。わたしは宮殿を追い出された身で、村の皆さんに初めから受け入れられていたわけではありません」
「テラスさ──」
今まではカインが制する側だったが、テラスが柔らかい目差でカインに断った。
「わたしは元主神でした。あ、これも判っていらっしゃるんでしょうか。でも改めて名乗らせてください。神界フリアーテノア元主神テラスリプル・リアです。今はモカ村のひととして、よろしくお願いします」
正座でぺこりとお辞儀をしたテラスに対して、竹神音が縛られた手足も気にせず器用に姿勢を正してお辞儀した。
「初めまして、と、いっても気絶、かな、それを挟んで何回か顔を合わせたが、改めまして、竹神音です。惑星アースはダゼダダ警備国家中央県出身の代表的悪人が俺だ」
「カインさん、悪人さんだそうです」
両手を合わせてにっこりと言われてもカインは反応のしようがない。ただ、悪人に対するテラスの特効性は過去に何度も発揮されているので、「話を進めてください」と、カインはそれとなく様子を窺うことにした。
テラスが自称竹神音に向き直って、前のめりで話をする。
「例えばどんなことをしてきたんでしょう。ひとや危ないお薬の売り買い、いけない建物の注文などなど、フリアーテノアにも悪人さんがたくさんいましたよ」
「俺はそういう悪人とはちょっと違うけど、ひとの財産や将来を奪った罪とでもいおうか」
「あら、あら……」
感嘆して考え込むテラス。何を思ったか、自称竹神音の膝に顔からダイブして深呼吸し始めた。
……テぇラぁスぅさぁまぁ〜〜〜ッ!
「カインっていったかね」
「……うむ」
「この子、大丈夫」
「…………」
どう答えろと。
カインは黙ってテラスリプルの両腋を失礼した。
正座し直したテラスがなぜだか満面の笑みで、カインを見上げた。
「この方、やはりいい気持の変わったにおいがしますっ」
「いや、よう判りませんっ。テラス様は少少お口を閉じてください」
テラスの横に正座したカインは、自称竹神音に向かう。元主のはしたない行為に居ても立ってもいられなかったわけではない。
「どんどん話がずれていって申し訳ないが、モカ村に住みたいとのこと。理由を聞こう」
「いくつかある」
自称竹神音がやっと語り出した。と、いうよりはテラスが余計なことをしてしまって進まなかったのだがカインは目を瞑る。
「さて、まずどこを話すか。そう、理由の一つは、〈聖起源〉がないことやね」
「聖起源……、神界では破魔の魔力ともいわれる、聖域を作り出しているもののことか」
「うん。モカ村に魔物が蔓延っとるのを観察した。捕縛された早朝のことやよ」
「それで森の外から窺っていらっしゃったんですね。ほら、カインさん、悪いひとではありませんでした」
「テラス様、そろそろ本気で口を縫いつけますよ」
「あわ、……ごめんなさい」
テラスを苛めたいのではなく、自称竹神音に付き合って村を留守にするのがよろしくない。
自称竹神音が言うようにモカ村には聖起源がなく魔物の侵入は日常茶飯事。モカ織の材料を採るため村民が森に入ることが増える日中、夜の警備を終えた男達は眠りにつくため村の警戒が手薄になりがちだ。夜に比べれば魔物が活動的ではないものの村の防衛力を落とすのは避けたい。
「人手の少ない村ゆえわたくし達も暇なき身だ。早めに頼む」
「拙速になるが説明しよう。惑星アースで聖起源が余っとるから移送先を探しとる。ついでに俺達家族が生態に合った状態で暮らせる可能性を排除せずに生きられる場所を探しとった。それがあの森から成るモカ村だ」
「……拙速も拙速でいまいち吞み込みきれていないが、確認する。破魔の魔力がダブってしまうと却って危険な魔物を呼び込むことがある。その危険な魔物を懸念したお主は破魔の魔力がダブらぬ場所を探していた。同時に、お主の家族が独特の生態を有しており人間の世界では暮らしにくい状況にあるため、住みよい場所を探していた。その両方に適った土地がモカ村であった。この認識でよいか」
「理解が早いひとがおってよかった。ほかにも適正と考える理由はあるけど追い追いで。ってことで、案内お願いしていいかな」
トンッと立ち上がって兎跳びのようにして村へ向かう自称竹神音の前をカインは塞ぐ。
「こら、こら、待たないか。案内など誰がするか」
「オトさん、こちらです、手を引きますね」
「っふふ、テラス、ありがとう、助かるわ」
「こらぁ!」
カインは二人の前に立ちはだかった。「テラス様、いい加減にしてください。追放される前に暗殺の手筈が整っていたわたくし達はそれもあって却ってうまく事が運びましたが、此奴については別問題なのです」
「わたしがみんなにお話しますね」
「それなら納得してもらえそうですが……あ、いや、そうではなく、この竹神音とやらが仮に産品密売、果ては伝統技術の売買を狙う業者だったりしたらいかがされるおつもりですか」
テラスに気に入られたのをいいことに自称竹神音が村で好き勝手しだしたらどうなるか。最悪、モカ織の密売にとどまらず、受け継がれてきた秘伝の技術までもが奪われ、村民の生活が立ち行かなくなる虞がある。
「まずは素性確認。お主の素性を知っておる位のある神、例えば宮殿所属の上級神などはおらぬか」
自称竹神音が空を見上げて口にした名は、
「冥刻の死神辺りならいいかね」
「メイコクノシニガミさんですか」
テラスが首を傾げる。カインはその名をよく知っている。
「待て……!馬鹿な。お主、あのお方と親しいと申すか」
「それがダメなら、そうやな、俺の家族と懇意にしとる天誅神でもいいんやないかな」
「テンチュウシンさん。カインさん、そちらはどちらさまですか」
「っ、テラス様、いや、その、……」
魔力波を感じたときもそうであったように、カインは膝が笑いそうだった。
……噓であろう。冥刻の死神。天誅神。どちらも、名のある主神ではないか。
以前カインが仕えていたメークランの主神に肩を並べる神神である。
上級神を纏める立場にある主神級の神神と竹神音はプラスの繫がりがあり身許を保証されているのか。惑星アース出身の人間の身でありながら。
「(いや、轟いている名ゆえに挙げられたのであって口から出任せの可能性も。いやしかし魔力波の件は納得が。こ、これは、どうすべきだ!)テラス様っ」
「カインさん、希しく汗をかいているようですが健やかですか」
「健やかともいいがたい心境ですがとにかく照会が先です、少少お時間をください。それまで竹神音……〜殿っ、お主にも、お待ちいただきたく!」
「俺はいいよ、時間あるし。それより」
竹神音が微笑した。「そろそろ腰が痛くなってきた」
「縄を切らせていただくっ」
カインは風の魔法で手早く縄を切って、竹神音を自由にした。
「ふう……、ありがとね。自分から切ってもよかったけど、疑いを掛けられたままじゃ意味がないし、そちらが納得いかんと結局縄打たれとるのと同じやからね」
「失礼をば。テラス様、音殿の身柄を一旦任せてくれますか」
「オトさん、──」
テラスが歩み寄って竹神音のお腹にぽふっと顔をうづめた。身長差で自然とそうなってしまうが、手が自由になった竹神音がテラスの髪を撫でて、そっと離した。
「星影に似合う綺麗な黒髪やね」
「──オトさんも黒髪ですね」
「しかしこれは……」
「どうかされましたか」
「いや、つやつやでいいね、白髪が混じる前の、昔の自分の髪を思い出すわ。また今度、ゆっくり話そうね」
「はいっ」
傍目に判らないが、笑顔でうなづいたテラスがふわふわと体を揺らしている。
……テラス様が、完全に心を許している。
根が腐った相手にテラスが近づくことはない。が、それ以上に、今までになかった態度を感じて──。
……これではまるで、本当の父親だな。
テラスが最初から竹神音に関心を持っていることを、カインは判っていた。認めたくなかったのは、嫁に出したくない気持に近い。
竹神音が、テラスの想いびとになったりするのだろうか。そうなったとき竹神音の分析能力やあの魔力がテラスを救うことも──。
……いや、そんな簡単な話ではないな。
テラスは勿論、竹神音の人生にも関わること。都合よく考えてはならない。
テラスを森まで送ったカインは、小岩の側で待たせていた竹神音と合流し、街道で辻馬車を拾って町へ向かった。
蹄の響きが平野の風。揺れる荷台で、カインは竹神音と向かい合った。
「改めて聞こう。お主はいったい何者なのだ。人間。否、ただの人間にあれほどの魔力を潜める技術は持ちようがない。わたくしが知る限り、かの第一拠点トリュアティアの主神アデルですらできないことなのだから」
「やれへんだけやと思うが」
……やれない。どういう意味だ。
引っかかる言い方をする竹神音が、カインを窺う。
「護法の神と知合いなんやね」
「……お主も顔見知りと」
「照会は冥刻の死神か天誅神によろしくね。護法の神は知っての通りの身やから、仕事は別んとこへ回してほしいんよ」
「承った。して、……」
どこから話していいものか。この竹神音という男、照会するまでもなく身許が保証されているように感じたカインである。有意義に時間を過ごしたい。
竹神音が先に口を開いた。
「ソイエ・プラーゼン」
「耳したことのある名だな」
「隠さんでいいんやない」
「当てずっぽうなどとはいうまい」
ソイエ・プラーゼン。長いあいだカインが使っていた偽名だ。
「三〇拠点を中心とした各神界で名を馳せたっていう、メークラン所属の優秀な諜報員の話を聞いたことがある。お前さんがそうとは知らんかったが、神界を渡り歩いたような個体魔力を持っとるから当てずっぽうで言ってみた」
「その顔の広さ、知識、やはり人間離れしているように思う。齢は。無論、〈星霜制〉でなく」
星霜制というのは長命な神に当てた年齢の数え方。日にちや曜日の概念がないフリアーテノアのような神界も多いためざっくりとはしているが、三六五日を一年と換算して一〇万年ごとに「一星霜」と数える。この一星霜が人間の一歳に相当するが成長はその限りではない。
「星霜制なら零星霜。人間年齢は二一、かな。数えとらんけど、たぶん合っとるよ」
「その幼さで大昔の話を捉えていると……。驚嘆に値する」
カインがメークランの主神に仕えていたのは竹神音が生まれるずっとずっと昔、一億年以上も前のこと。当時を知る主神との接触なくしてソイエ・プラーゼンの情報を得られず当てずっぽうにもカインに確かめようと考えられないのである。
「モカ村に住みたいという話もまことか」
「一聞には信じがたいかも知れんけどね、事情があるんよ」
「聞いても」
「搔い摘まんで話そう。生き物は皆、生まれた場所のルールで生きることを迫られる。神には神の、人間には人間の、畜生には畜生の、社会がある。俺と家族は、人間に生まれて人間のルールで生きる必要に迫られたわけだ」
「が、肌に合わなかった」
「ルールを破ったと見做されれば『悪』と後ろ指を指される。生まれた場所が違えばなんの問題もないことなのにね」
「土地のルールがある。従わぬなら排斥される。わたくしはそれが自然と思うが」
モカ村に特殊な掟があるように、フリアーテノアのほかの町にも独自性を守るためのルールがある。その土地の営みを壊さぬよう、ルールを受け入れなければならない。
「独自性保持や負の歴史を繰り返さんようにって観点なんかも理解できるが、俺のみならず悪人になってまうからね。そういうの、なんか理不尽やろ」
「害を被るのはお主ではないということか」
「主に娘」
竹神音が瞼を閉じて、嘆息のように、ふうっと。
「なるほど、テラス様が懐いたわけだ。お主は、父親なのだな……」
どことなく感ぜられた父性。探り当てたそれと亡き父を重ねてテラスは竹神音を敵視しなかったのだろう。
「立派な父親なら娘が後ろ指を指されることもなかった。俺はもとから犯罪者やったからどうしても娘が傷つく。生きるために、傷つける」
「──。モカ村の特色を調べ尽くしたか。本日は、調査の最終日ではないかと推察する」
「調べ尽くして来たよ。その過程で元主神が移り住んだことなんかも知ったけど、そちらはおまけみたいな情報。お前さんのいうモカ村の特色こそ重要やよ」
「求めているのは、『排他的な村』か」
「本質じゃないね」
「『血の濃さ』か」
「近いね」
「……、『掟』」
「そう」
竹神音が欲している掟は、恐らく、
……血族交配。
モカ村は辺境の村である。かつてはフロートソアーに囲まれた土地で極めて排他的に暮らしていた。焼失に際して止むなく土地を移ったが風習に大きな変化はない。他民の血を入れないことはモカ織の技術継承・秘匿を行う上で大事な掟だからだ。他民であるテラスを受け入れた今でもその掟は変わっていない。そうして守られた掟が血族交配を認めている。現在のモカ村にもそうして生まれた子が存在しており、それを自然なこととして受け入れ、リスク上昇が知られてもなお掟を変える向きはない。
勿論、節操もなく血族交配を行っている者はいない。恋愛関係や血統維持が前提であって、近親者を侍らせて私欲を満たすような輩は一人もいない。誰もまじめに、血を繫ぐため、技術を継承するため、必死に生きている。
竹神音が血族交配の掟を求めるのも私欲のためではないのだろう。齢二一とは思えぬほど強い魔力。そこから察するに、娘の魔力も尋常ならざる強大さであろう。
魂器過負荷症。魔力が強すぎるがゆえに発症する、人間的な不治の病。魔力増大の手段として近親交合する悪魔にはしかし魂器過負荷症の症例がないため、近親交合には魂器過負荷症を回避する方法が潜んでいると推測できた。それが〈魂器拡張〉。竹神音が求める掟によって、誰に咎められることもなく娘が助かる手段だ。それは、神神でも一握りしか認識していないものであるから人間が知る由もない。
「お主は、娘を救いたいのだな……」
「ルールが人間社会になく倫理の許容を逸してもおる。と、いうのが常識だ」
娘を救うためのルール、並びに、娘が誹りを受けないようなひとびとの意識、それらを探すしかなかった。竹神音はそうしてモカ村に行きついた。
「強いていうなら、俺も今は死にたくないしな」
「誰もがそうであろう。(が、今は……。)疑問がある」
モカ村を選んだ理由だ。集落どころか星の規模で似たようなルールのもと営まれている神界は存在するだろう。いっそ悪魔の住む土地に住めば早いが竹神音はモカ村を選んだ。
カインが口にする前に、竹神音が疑問に答えた。
「神界は広く、怪奇的・猟奇的ものまで包括して文化多様。モカみたいに異端的伝統を重んずる小規模の村だって探せばいくらでもあった」
「ならばなぜモカ村を」
「一つは掟。先程もいった通りやね」
「破魔の魔力がないこともそうであったな」
「さらに、どうしても叶えたいことがある。『聖水の確保』と『運搬技術の開発』だ」
いつぞやのバルハムのようだ。
「〈テラリーフ湖〉が目当か」
「聖水の源泉やからね。現在は神界宮殿も管理しとらんのやろ」
約一万五〇〇〇年前、神界宮殿が自然保護区と定め、古くからゆかりのあったモカ住民に委ねられた土地だ。村民の建てた社が健在で、管理・維持を名目として村民唯一の村外活動の場となっている。
「村民になれれば貴重な聖水の安定供給が見込める。外せん条件やよ」
「掟もそうだが、聖水にもいやにこだわるのだな。その理由はなんだ」
「ちょっとあってね。──」
竹神音が語ったのは惑星アースでのこと。魔物から取り出した穢れを人間に植えつけ、魔人化を促して兵器のように扱う非人道的な実験が行われた。娘とその友人も騒動に巻き込まれたため見過ごせなかったそうだ。
「確保の難題がクリアできても、聖水は源泉から持ち運べん。持ち運ぶための技術開発を考えとる最中でね、ゆっくり研究できる場所もほしかった」
一度は聖水の採取許可を得たバルハムだがテラリーフ湖が自然保護区になる過程で手を引いている。従って、聖水の扱いはモカ村の自由だ。
「神界宮殿の管理下にないテラリーフ湖ならばそれができるということだな。しかし、村民の管理下ゆえ異人・個人が自由に扱えるとは思わぬことだ」
「そこは交渉次第やろうけど」
「自信があるのだな」
「底なし沼を渡るように試行錯誤で足搔くほかない」
「……。お主の思い通りに事が運んだとして、問題は残る」
「持ち運べる量が限られる」
「うむ」
聖水の正体は水ではなく、聖属性魔力の溜り場だ。源泉から聖水を持ち運ぼうとしても自然魔力に拡散して、手許から消えてしまう。持ち運ぶ技術が開発できたとしても、聖属性魔力の貯蓄速度を上回る量を源泉から持ち出せばテラリーフ湖が枯渇に向かう。
「当然の心配やからね、匙加減は計算できとるよ。安定供給できんなら運搬技術があっても意味がないもん」
「それなら構わぬが……モカ村民と、念のため神界宮殿への連絡が必要であろう」
「そこで、おまけの情報が役に立つかもとは思ったよ」
「テラス様から村民や宮殿に話を通すか。賢しいな。わたくしは嫌いだ」
「俺も好きな行為ではないけど……」
次いで、竹神音が、確かに言ったのである。
「悲惨は、もう要らん」
常人にはほとんど聞こえないだろう、疲れ果てた声であった。
その一心だったのだろうか。その一心で、抵抗もせず縄を打たれ、ただ、モカ村に住みたいと言い続けた。
……強いひとだ。
その強さは、どこか、テラスにも似ていた。
モカ村が余所者を招き入れることは少ないが村民がこぞって余所者を嫌うわけでもない。ならば何を嫌うのか。単純明快、モカ織の技術継承に邪な意図が介入することだ。
村長であるティンクのもとにテラスが訪れた。彼女には、村民として生きる上で最も大切にしている仕事があるが、それを後回しにしてまで竹神音移住の話を持ち込んだのだった。今のモカ村は掟を重んじながらも盲目ではなく、テラスを始め、余所者を受け入れないわけでもないが、
「申し訳ない、テラス様……」
と、いうのが、最初の応答となった。竹神音がどんな神と関係を持っているかを聞いて驚きはしたものの、ティンクは、村長として守らなければならないものがある。
「テラス様方とは状況が違いすぎます。竹神音。彼が何者か、カインさんが身許を洗ってくれるならすぐにも判るでしょう。わたしも既に信じていいように感じています。ですが、彼の自己紹介が全て真実ならば人間、それも、極めて稀有な純粋な人間なのです。モカ村は辺境とはいえ神の暮らす村です。そこへ、異人、それも人間の血を入れるわけには……」
「血は水よりも濃いですか」
「一概にそう申せぬことは承知です。しかし、やはり、難しい、難しいのです……」
テラスの移住による変化にも村では大きな抵抗感や反発があった。モカ織に対するテラスの熱意を感じたあと村移転などの騒動を経てテラスへの信頼感を礎に変化を前向きに受け入れることができるようになったのであって、新たな局面に向かうにはまだまだ早いと感ずる。
一方、テラスには得体の知れない確信があるよう。
「オトさんはとってもいいひとです。わたしのことをすぐに受け入れてくださって、──慣れがとても速いと感じました」
「テラス様のようにこの村に馴染む、と、仰るんですか」
「村をこの眼で観て、わたしも驚くことがたくさんありました」
血族交配によって保たれてきた村である。奇形児や先天性の疾患を持つ者が多く生まれ、幼くして亡くなる子もいる。それが当り前のことで、血族交配のリスクを下げる手段と解っていても余所者の入村を嫌う。生まれる前から存在し肌で憶えた掟が変化することで、多くの村民が人生を、ひいては存在を否定されかねない。
「わたしはこう考えました」
「……はい」
「モカ村にはいいひとがいっぱいいます。元気な子もたくさんいます。ひとびとと血が繫いだ立派な伝統があります。明日が、あります。布が染まらないと決めるのも、あるはずの木の実が見つからないのも、ひとの心によるところです。時を掛けてゆっくりと、ちょっとずつでも手を動かして、考えて、頑張って、できないと思っていたことも苦しいことも乗り越えてこられたから、わたし達はここにいるんだと思います」
テラスがにっこり笑った。「わたしはオトさんを招き入れたいです。わたしが約します。彼はきっと村を気に入ってくださいます」
異人が、村の掟を否定しないなら。
異人が、村の風習を受け入れることができるなら。
「……」
ティンクは微苦笑して、「意地悪なようですが、もし、そう、もし、彼が、村を嫌ったら、テラス様はどう責任を取るおつもりですか」
「カクミさん、カインさん、訪れたときのようにそっくりお二人を連れて村を出ます。オトさんも、わたしが連れていきます」
テラスに迷いはなく、「そうはなりません。この村が大好きなわたしがそう思います」と、力強く言った。
テラスの熱意はいつも氷のように透き通っている。それでも村長として、ティンクはどうしても尋ねなくてはならない。
「彼には何がありますか。テラス様がそれほど信頼を寄せるからには、何かあるんでしょう」
とっさの判断で体を動かすことも多い彼女だがそのじつ先の先まで考えていることも多い。竹神音を招き入れることでどのような変化が起きるか解っていてここに訪れたことをティンクは想像した。が、
「今のところ確たることは言えません」
と、テラスが答えた。「わたしにも、はっきりと言える由がないんです」
「そうなんですか。てっきり、何か深い理由があるのかと……」
それではとても受け入れるわけにはゆかない。そう思った矢先、
「でも、」
と、テラスが話した。「彼はこの村を守ってくれると思います。魔物除けや立ち番に頼らない形で、誰も傷つかない形で」
「……」
フロートソアー間近の村も、移転前に比べれば魔物の襲撃が減った。けれども、傷を負わない状況になったことは一度もなかった。移転前の村を知り、今の村を知り、大功を挙げたテラスがなんの確証もなく「誰も傷つかない形」などという言葉を使って説得に掛かるか。
冥刻の死神。天誅神。名だたる主神とゆかりのある竹神音なら、それをするに足る実力や知恵があるのではないか。ティンクの目では、憶測の段階に過ぎない。が、自分が追いつめられても村のために行動し続けてきたテラスが村の不利益になるようなことを率先して行うことはなく、自身の村追放を懸けてまで竹神音の入村を求めることもない。村民がよりよい暮しを送るための何かが、竹神音にはある──。
両拳を握って自信に満ちているテラス。そんなときの彼女の言葉に噓はなかった。村に多大なる貢献をしてきたことに甘えて手を緩めるということもなかった。
彼女が表したように今の村があり、他民であった彼女達を受け入れた自分達がいる。
「……あなた様には、ほんに敵いませんな」
ティンクは頭を搔いて笑った。それが、竹神音の移住を承諾した瞬間であった。
村長の鶴の一声でどうにかなる、と、都合よくはゆかないのがモカ村である。意見を聞き、村民一人一人の承諾を得る必要がある。道程は長いが、彼女なら、また、彼女が認めた竹神音なら、やり遂げるだろう。
……森の声よ、どうか、テラス様を見守ってください。
待合せの時間より少し早く、オトが現れた。モカ村民を説得し移住許可を得るのが今の彼の仕事。三方を山に囲まれた聖水の源泉テラリーフ湖、湖上の四阿でララナは待っていた。
「お疲れでしょう。お越しください」
「ん」
長椅子に座ると上体をくてんっと横にしてララナの膝に頭を載せるオト。
「もう少し待ってね」
「はい。しばしのお休みを」
「ん」
辺境神界フリアーテノア。ララナの調べによれば過去強力な魔竜が襲来した神界。テラスリプルや神界宮殿の働きによって現在は平穏が保たれており、高水準の雇用状況など好要素が重なって、排他的かつ閉鎖的なモカ村のような村落であっても貧窮する者は少ないようである。
仕事終りの時間、ララナはサンプルテに帰宅した。テラリーフ湖で別れてフリアーテノアから戻っていないはずのオトが、テーブルに突っ伏した姿でいる。
「ただいま戻りました」
「……」
オトが返事をしない。理由がいくつもあって家ではこうなる。一つ挙げるなら、フリアーテノアにいるのがオトの分身であること。分身は魔法なので使い続ければ精神力を消耗して疲労する。結婚後からこれまでの十数年間、移住先を探すためオトは分身を用いた神界遠征を続けてきた。そして、移住先の確保に漕ぎつけようとしているが、そろそろ限界に近いだろう。
……あともう少しです。
無職の引籠りであることに変りはないのに陰でむちゃを続けている彼の傍に、ララナはずっといたい。
──一章 終──