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一一章後節

 

 思想や信念や理念は誰とも通ずるものでなく体一つで突き進んできた者のそれはむしろ反発を受けることのほうが多い多色混在の人間社会である。反発を撥ね退けるなら若い頃にいくらでもやったので、その愚かさを落とし込んだ白髪混りの頭で許容と順応を実践しているのが野原花である。騒音を訴えた周辺住民を納得させるため、支柱を除き透明な防音壁をたんぽぽ園の周りに設置する。お金は掛かるが大切なものを守るために必要なことだ。

「着工は今日でしたか」

 と、声を掛けてきたのは門前の相末学。野原花は冬木敦也とともに彼を振り返った。

「よっ、所長。サンプルテからの帰りか」

「はい。防音壁の予算、なんとかなったようですね」

「子どもがのびのび走ったり喚いたりできねぇなんてあたしには理解できねぇからな」

「相末さんの紹介だからスムーズに補助金申請が通ったんだと思います。感謝しています」

 と、冬木敦也が頭を下げた。

「いいえ、ぼくも野原さんと同じ気持だったんです。子が元気に過ごせる環境が大事。子は国の未来そのものですからね」

「で、子を想う相末ショチョーがサンプルテで何をしてたのか聞いていいか」

「花さん、不躾ですよ……」

「いいじゃねーか。端から観りゃ判りきった関係だぜ」

 野原花は冬木敦也の注意など聞かず、相末学を覗き込んだ。「ほら、言ってみな」

「ふふっ、竹神さんと新しい魔導について話していたんですよ」

「はぁ。ヒキコの親父とのこたぁ訊いちゃいねぇ。音羅とはどうなんだっつってんの」

「音羅さんですか。音羅さんなら納雪さんと一緒にお絵描きをしていました。愉しそうだったのでぼくも竹神さんと一緒にのんびり眺めていました」

「……で」

「とっても心が和らぎました」

「そんだけ」

「えっと、あれ、何かおかしかったですか」

「はぁ。ダメだこりゃ……」

 野原花は深い溜息を止めようがなかった。

 相末学の穏やかさは美点であるが、男としては枯れている、と、いうかのんびりしすぎではないか。

「狼になれとは言わねぇが、相末さんよ、もう少し積極的に誘ってもいいんじゃねぇの」

「ぼくが誘うんですか。誰を何にですか」

「『マジで判らん』って顔をするなよ。決まってんだろ、音羅をデートにだよ」

 竹神音羅と相末学、度度一緒にいる二人を野原花と冬木敦也が目撃している。冬木敦也も思わず口を開いた。

「差し出がましいようですが、相末さんは竹神音羅さんのことをどう思いますか」

「ひとびとに食を提供することに幅広く尽力してきた、とても優しいひとだと思います。彼女がそこまで考えていたかは聞いていませんが、生活もままならなかった下流階級が職を得るまでになっています。尊敬しています」

「そうなんですね……。しかしその、そういうことではありません」

 冬木敦也が顎に手を当てて一考、口を開いた。「相末さんは竹神音羅さんを女性としては想っていらっしゃらないんですか」

 ……お前も不躾(ド直球)じゃねーか。

 長年一緒にいて似たのか。

 冬木敦也の問に相末学が微笑む。

「まだまだなんです」

 ……ん。

「竹神さんの一友人で、ぼくは充分です」

 踏み込みたくないということだろうか。関係が崩れることを恐れて。

「変な心配してんだったら問題ないと思うぜ」

 音羅の気持は、確実に相末学に傾いている。野原花はそう思っているのだが相末学は極めて謙虚である。

「昔、父にいわれたことがあります。『お前の代りはいくらでもいる』」

「最悪だな、それ」

「続きがあります。『だが、お前はお前でしかない』」

「……ふうん。意味わかんねぇよな、そんなこと子どもんときにいわれても」

「はい。お前は駄目な人間だと釘を刺されたような気がしていました」

 駄目な人間とは指摘されただろう。が、そんな捉え方しかできなかったのなら、今の相末学は存在していないはずだ。いつからか、きちんと父親の言葉を理解したのだ。

「押してみればいいのに」

「平穏ならどんな形でもいいんです。壊すのは、ぼくの性に合いません」

 と、相末学が言った。

 今の関係は壊れたりしない、と、野原花はさっき教えたばかりだからわざわざ言わない。

 ……まあ、当人同士にしか判んねぇこともあるよな。

 野原花は、組み立てられてゆく防音壁を眺めた。

「ま、よろしく頼むぜ。アイツはあたしの親友だからよ」

「野原さん……。はい」

 相末学が首肯した。

 冬木敦也が「あ」と思い出したように話す。

「更新、お願いできますか」

「砂除けと魔物除けの魔導機構ですね」

 竹神音羅経由で知り合った相末学にはその魔導機構の設置と契約更新で世話になっている。

「もうそんな時期だっけか」

「もうすぐ新年度ですからね。魔物除けの効果は当所比一・〇四倍になっていますが、価格は契約更新により前よりお安くなります」

「ちょっとでも成長してんならいい仕事なんじゃね。敦也、手続きよろしく」

「だ、そうなので、後日書類をお願いします」

「承知しました。では、改めて伺います。失礼します」

 相末学がお辞儀してたんぽぽ園をあとにした。

 防音壁が着着と組み立てられている。あのように早かったか、人生いろいろなので判らないが野原花も人間関係が積み重なって今に至っている。潰れそうな家に住んでいた頃にはダゼダダきっての研究所の所長と関わることなど想像もしなかった。

 ……明日からまた忙しくなるなぁ。

 冬木敦也が両手を合わせた。

「明日からまた忙しくなるね」

「っふははっ」

「えっ、笑うようなこと言ったかな」

「いや、なんも言ってねぇよ。頑張ろうぜ」

「うん、頑張ろう」

 眼前の盟友は、古くからの怨敵だ。

 

 野原花が第三田創魔法学園高等部に在籍した最後の冬、休校期間の頭。

 穢れを埋め込まれたことなど知る由もなかったそのころ風邪や花粉症と思しきくしゃみが断続的に出ていたため、体力を落とさないよう野原花は積極的に体を動かしていた。休校期間に入ってもそれは同じ。寮暮しだった野原花は顔を洗うためにまずは飛び起きる。

 その日もそうだった。普段着に着替えて顔を洗いに向かおうとすると、コン、コン、ノックの次に、

「花さん、お客さんよ」

 廊下から寮母の声。朝早くに客とは。寮母とともに尋ねてくるのは外部の人間と推測がついたが開いた扉の先にいた人物は──。いつも傍を漂っているワタボウが綿毛を散らして消えてしまうほど、野原花は胸がざわついた。

「あたしは仕事に戻りますから帰りは声を掛けてくださいね」

 去ってゆく寮母を引き止めたい野原花は意に反して声が出ず、来客のほうが応答した。

「解りました。ご案内いただき、ありがとうございました」

「……」

 否応なく縮こまる全身の筋肉。野原花は、来客を睨みつけて、声を絞り出した。

「なんの用だよ」

「……、……」

 目つきの悪い野原花のほうがきっと傍目には悪人だ。野原花の問に対して、来客が申し訳なさそうに頭を下げて声を発しない。

「……なんの用だって訊いてんだ。よく顔を見せられたな、ヘンタイ」

「……」

 頭を下げ続ける来客。それは、野原花を拉致した冬木敦也であった。

 ……テレビで観ねぇと思ってたら、いきなり現れやがって。

 魔法で扉を破壊される危険性がある。袋小路に等しい寮室に逃げ込むのではなく、人目につきやすい場所へ逃げるべきだ。思考が済んだら瞬時に動いた。野原花は冬木敦也の肩に掌底を当てて寮母のいる出入口方面へ駆け出した。冬の休校期間は実家帰りの者が多く、廊下に誰もいなかった。

 ……くそ、力が入らねぇ!

 悍ましい出来事を想起して、体が強張って思うように動かない。

 転びかけて、壁に手をついて、野原花はやっと気づいた。

 ……追って、こない。

 恐る恐る振り返る。

 冬木敦也が両膝を揃えて座り、床に額を擦りつけていた。俗にいう土下座。野原花は、ひとに謝られることがたびたびあったが、こうもはっきりとした謝罪の形を観るのはいつぶりか。

 冬木敦也の用事は判然としている。だが、もし再び襲われたら──。野原花は、冬木敦也を睨み据えて、ゆっくりと後退りして尋ねた。

「口で言えよ……、なんの用だ」

「……二年前、ボクは、本当に大変なことをしました」

 床を毟るように固めた拳と、自らの悍ましさに慄えた声。

「君には、本当に、悪いことをしてしまったと後悔しています。傷つけて、恐い目に、遭わせてしまって……、申し訳ありませんでした」

「……」

 野原花はいったん脚を止めて、意地悪だろうか、

「口ではなんとでもいえるよな」

 促した立場でそう言った。「謝っただけで許されるとでも思ってんのか、ふざけんな」

「……申し訳ありません」

 冬木敦也が顔を上げることはない。

 ……朝から、なんなんだよ。

 気分が悪い。これでは本当に自分が悪者のようで。……知るかよ。あたしは被害者なんだ。

 何を言われても反論を許されないのは道を踏み外した者に責任がある。そんな持論は厳しく狭量か。だが、自身が咎められるべき点に野原花は反論する気がない。

「帰れ。目障りだ」

「……」

 少し動いた冬木敦也だが、額が床から離れた程度でほぼ土下座の形を保っていた。

「解んねぇのか、邪魔だっつってんだ。早く出てけよ……」

「……ほかに、用事が、ありますか」

「この期に及んで探りか」

「時間があれば、少し話をさせてくれませんか」

「は、何いって──」

「必要であれば第三者を加えていただいても構いません。お願いします……!」

 ……なんなんだ……、謝罪のほかに、なんの用があるってんだ。

 全く想像がつかない。冬木敦也の考えが野原花には理解できない。話すことなどない、と、沈黙で応えた。

 ところが。

「(げ……、むずつく……)っふぇ……」

 一二月のダゼダダも変らず暑いのだが、ここのところは不調で、我慢できることもあれば、我慢しきれないことも。

「……っくしゅっ!」

 盛大にくしゃみが出て、野原花は口許に右手の甲を置いた。

 これまでほとんど動かなかった冬木敦也。弾かれたように上げた顔には──。

「……」

「だ、大丈夫ですか。風邪ですか」

「……っるせぇ、知るか、帰りやがれ」

 野原花は原因不明であることを一言でいい表したつもりだったが、冬木敦也が血相を変えて立ち上がり声を張って駆け出した。

「寮母さんに風邪薬をもらってきます、待っててください!」

「はぁ、要らね、って、速ぇなクっソヤロぉっくしょいっ!」

 有魔力の走力はすごい。野原花が毒づいて間もなく冬木敦也が戻って、

「もらってきました。これを使ってください」

 と、救急箱ごと手渡した。

 野原花は救急箱で壁を作るようにして冬木敦也から離れて、

「要らねぇっての」

「なぜ」

「(金持ってるヤツはどいつもこいつも。)風邪なんざ黙ってても治んぜ」

「その薬は、寮のもので、寮生はタダで使っていいそうですよ」

 ……あたしが貧乏なの知ってんだったな、卦体糞悪ぃ。

 ガタッ、と、半ば投げつけた救急箱。冬木敦也の両手に戻ったそれを顧みることなく、野原花はさらに距離を取った。

「どさくさ紛れに擦り寄んな。同じこと繰り返してる証拠じゃねぇか」

 突きつけた言葉の刃物は恐怖心を露呈する威嚇だ、と、野原花は自覚していた。

 冬木敦也は気遣えないのではなくむしろ野原花の心理を完全に理解しているようで、少しずつ距離を離していた。

「……ボクは……。なんと謝っても、何度謝っても、きっと、もう君の心を軽くすることはできず、無意味に等しいのかも知れません」

「……解ってんなら、とっとと──」

「でも」

 冬木敦也が、その場で頭を下げた。「ボクは、それでも、どんな形であれ、謝り続けます。もう決して、君も、誰も、傷つけないということを示し続けます」

「っ……」

 恥も外聞もなく、言葉通りに頭を下げ続ける男というのは潔く映る。冬木敦也のそれは清清しいほどであった。

 受け入れられるものか。恐怖もそうだが、この態度を受け入れたら野原花は何かが崩れそうな気がした。

「知るかよ……」

 野原花は、冬木敦也に背を向けて自室へ──。「自己満足に付き合う義理はねぇ」

 野原花が扉を閉めると、追ってくる気配も扉を抉じ開ける気配もなかった。ただ一度、外でコトッと物音がして、

「今日は失礼します。また、ダゼダダに訪れたときにはお伺──」

「うっせぇ帰れッ!」

 野原花は、全力の怒号で凍えを打ち払った。

 冬木敦也の気配が、なくなった。

 ……くそ、クソが──。

 あたしは何も悪くない。

 そう言いきれないから、もやもやするのだろうか。

 でも、拉致の日に受けた行為は望んだことではなかった。謝らなければならないのは冬木敦也だけ。野原花は、その頃は本当にそう思っていたのだ。

 

 少しずつ変化があった。それは状況であり、心の弱さでもあったかも知れない。あるいは安心感も同時にあったか。ダゼダダが偽りの月を仰ぎ、先輩などの暗躍が明るみに出て、野原花は移植されていた穢れに吞まれて竹神音羅を苦しめた。絶体絶命の状況にあって生き残り、立場や階級を超えた大切なものがあることを知った三〇二七年二月一〇日、野原花は寮室に戻るやベッドに沈んだ。

 ……(だり)ぃ……。

 感情の激動、穢れによる暴走、心身ともに大きな消耗があった。が、誰かさんにぼっこぼこにやられたせいということにしておく。そのまま眠ってしまった野原花は、翌朝、

「花さん、お客さんよ」

 と、聞き覚えのある台詞で寮母が呼ぶものだから飛び起き、体の無理を押して警戒した。

「誰」

「前の人よ、ほら、イケメンの彼」

「あ、いや、ボクはその……」

 鳥肌が立った。また来たのだ、と。

 悪気もなく寮母が去ってゆく。今度こそ声を発したが疲労を引き摺った声は小さくて引き止められなかった。「待ってよ」だなんて可愛らしい言葉は使ったことがなく、発声に慣れていなかったせいも幾分あったか。

「くっそ……」

「あ、あの……」

 扉越しにも毒づきは聞こえただろうか。冬木敦也が用件を口にする。

「申し訳ありません……。心配で──」

「あぁ、ざけんな、テメェに心配されるようなこたぁ──」

「昨日のこと聞きました、広域警察から」

 ……無駄に顔が広いヤツめ。

 冬木敦也は配慮に欠けるわけでもない。

「その、大変だったみたいですね、いろいろ……」

 穢れの移植までを知っているかは不明だが騒動の現場に野原花が居合わせていたことくらいは聞いた様子だった。

 野原花は窓を開けて壁に凭れ、向こうの人物を睨むようにドアを見据えた。

「関係ねえ。とっとと帰りやがれ」

「……申し訳ありません」

 頭を下げた気配。

 ……なんで謝る。

 昨日の出来事に冬木敦也は無関係のはず。関係があるなら、竹神音はもとより広域警察が黙っていないだろう。一歩間違えばダゼダダが滅んだかも知れず、それに至らずとも多くの人間が死んだかも知れなかったのだから、国家反逆罪だか国家転覆罪だかに問われてもおかしくない事案だろう。

「テメェ、昨日のことに関わってたのかよ」

「いいえ。ただ、君が巻き込まれたのは、トラウマを作ってしまったボクのせいなんじゃないかと思って……」

 ……はあぁ。

 意味が判らない。トラウマ。確かにそれはあるが昨日のこととは全く関係がない。

「勝手にテメェの肩に載せんじゃねぇよ。……昨日のは、諸諸あたしの責任だ」

「え──」

「聞いてんだろ。あたしが暴走したこと」

「はい、それらしいことを聞きました」

「よく解んねぇ穢れのせいらしいな。それの移植は家族を人質にされてたから受けた。そんだけのことだ。テメェにゃ関係ねぇんだよ」

「……ご家族はご無事なんですよね」

「テメェには関係ねぇ」

「……」

 

 冬木敦也の心配を、野原花は穿鑿と捉えて取り合わなかった。思い返せば彼は野原花の心配しかしていなかった。扉脇に残した救急箱のような贖罪。途中から、その意識は別の感情に取って代わっていた。

 

 事件翌日も結局冬木敦也を追い返した野原花は、三月上旬、無事に卒業式を迎えた。学園側がどたばたしていたが、人生が自分一人の力で成り立たないように、陰の努力に支えられていることを示すように、卒業式は執り行われたのだった。

 あまり好かない集合写真を知泉ココアに乗せられるようにして竹神音羅と一緒に撮った。何枚か撮り終えたあと、

「鷹押さんに会いに行こうと思うんだけれど、どうかな」

 と、竹神音羅が言った。その場には、野原花のほかに竹神納月と竹神子欄、雛菊虎押、知泉ココア、それからヘビのプウがいた。

「わたしは直帰で」

 と、竹神納月が答えた。「雛菊さんと特別な交流があったわけじゃありませんし、会ったら喧嘩吹っかける自信がありますから」

「右に同じく」

 と、竹神子欄が竹神納月に並んだ。「面会室は狭そうですし、お姉様、プウさん、代表してよろしくお願いします」

「うん、解った」

「ピィッ」

「知泉さんと虎押さんは行くよね」

「いろいろと言ってやりたいことがあるしな」

 と、雛菊虎押が腕組。その後ろからぶら下がるようにして知泉ココアが顔を覗かせた。

「あたしもついてくー。いたほうがよさそうな予感がするー」

「なんだそれ。オレは兄弟だからいいとして、知泉は関係ないだろうに」

「あ〜ひどいー、なんちゃらハラスメントだ〜」

「なんちゃらって。普通にはぶりでよくないか」

「そっかそっか、はぶった自覚はあるー」

「わ、わかった悪かった、ハラスメントだったってことで一緒に来てくれ」

「おけ」

 してやったりな顔の知泉ココアと苦笑ながら嬉しそうな雛菊虎押。恒例になりつつある痴話喧嘩だ。

 竹神音羅が野原花を窺う。

「花はどうする」

「あたしはパス。野暮用があっからよ」

「野暮用」

「穿鑿はなしだぜ。野暮は野暮だ」

「ふふっ、解った。じゃあ、知泉さん達と行ってくるね」

 竹神音羅とプウ、知泉ココア、雛菊虎押を見送った野原花は、

「部長」

 と、声を掛けられた。山尾競だ。

「どうした、在校生代表」

「……竹神先輩や雛菊先輩は、もう行ってしまいましたか」

「ああ。──雛菊兄の一件のことだろ」

「……伝えておいてくれませんか。わたしが謝っていたと」

「前に一回謝ってませんでしたっけ」

 と、竹神納月が首を傾げた。部内どころかほぼ全生徒が雛菊虎押を忌避していたとき、竹神音羅が仲裁に入らなければ生徒同士に亀裂が入ったままだった。一学年生を纏めていた山尾競は同級生の暴走を止められなかったことを後に謝罪していたが、今また、

「わたしはリーダーシップを欠いてました。能力不足を、謝りたかった……」

「情けねぇ自分を認めんのは勇気要るよな。ここに来んのが遅れたのは、そういうことだろ」

「はい……」

 将来といわず山尾競に期待している、と、野原花は竹神音羅から聞いている。

「ひとを纏める方法ってのは人それぞれだからお前はお前のやり方を模索すりゃいい。音羅んときにやってたようなひとを煽動する手法ってのは存外難しいからできる奴は限られると思うし、ああいうやり方が活きるときもあるだろうよ」

「例えば」

「完全煽動の具体例なんかねぇよ。それを悟られてるんだとしたら、それは煽動を悟られて失敗してるってことだからな」

「悟られないように、煽動する、か……」

 それが、山尾競や周囲のひとを前向きな人生へ導く気づきになればいい。

「じゃあな、山尾。頼りない三学年もうまくコキ使ってやれ」

「……はい!お世話になりました。ご卒業おめでとうございますッ!」

 山尾競の力強いお辞儀を受け、

「さ、行くぜ」

 野原花は竹神二姉妹を両脇に寄せて正門を抜けてさらに南進した。

「……野原さん、もしかして野暮用って(うち)に来るんですか」

「んだよ納月、つれねぇなぁ」

「あいやいいんですけど、野暮用ってゆうからネット喫茶かと思って」

「違ぇよ」

「ヤベェ仕事は」

「とっくにやめたわ。てか辞めさせるのに尽力した一人だろ、お前」

「むふっ、そうでしたねぇ、忘れてま〜したっ」

「こんにゃろー」

 竹神納月がボケたりツッコんだりするのはいつものこと。そうするということは、事情を察してくれている。その察しを竹神子欄が口にせず目線で伝えた。

「漫才は時間の浪費です。お姉様も早く研究をしたいでしょう」

「ですね。からかうのはほどほどにしないとまた殴られますしねぇ」

「お前、堅実に殴られ貯金してんぞ」

「そんな物騒な貯金誰もしませんて。拳で世界征服でもしようと思ってるんですか、力馬鹿ですねぇ野原さんは」

「そろそろ一発貯まるぜ」

「ひぃっ、だからそんな貯金してませんってば」

 竹神納月をからかうのは愉しいが竹神邸に着くまでである。帰宅した二姉妹が父竹神音に卒業の挨拶をちまっと済ませて寝室の勉強机につくと、野原花は竹神音の向いに座った。

「──。花さんも卒業おめでとう」

「どうも。アンタのお蔭もあるな、なんの掛値もなく」

「音羅が頑張らんかったら俺はやることなかったよ。で、今日はなんの用なん」

 竹神音は察しが早い。一を言わずとも十を知っているような、理屈では測れない相手ゆえに恐くもあるが、頼るときには安心感がある。

「聞きたくてさ。ボっコボコのあとの言葉の意味」

「なんか言ったっけ、」

 テーブルにへばりついている竹神音が思い出す。「ああ、『きっかけ』か」

「ああ」

 ──なんかのきっかけになればいいよ。

 無魔力個体の弱さと有魔力個体の絶対優位を示した試合のあとに、竹神音は野原花にその言葉を投げかけた。

「考えてみたんだよ、あたしなりに」

「何か生まれたかな」

「やってみたいことはずっとあったんだけどな、踏ん切りはついてなかった。どこかで諦めてたってのもある。漠然と、無魔力だから無理だろう、って、思ってた。アンタとの試合で馬鹿みたいな力量差感じて、開き直ることにした」

「そっか。何するんか、聞いてもいい」

「あたしの学んだことを広めたい」

 碌でもないことがたくさんあった三年間。それ以上に大切なものを得た三年間。

「死にたくねぇって思ったとき。アンタに負けたとき。音羅の言葉、聞いたとき──。まるで逆のことを考えてたんだ。『あたしもなんかできるかも知んねぇ』って」

 黙って聞いている竹神音に、何を促してもらいたいのでもない。

「格闘を教える。ってーか、これからもっといろいろ学んでみてさ、それを全部、そんときできる限り、あとの世代に教えてぇんだ。バカみたいだけど、できねぇ気がしねぇんだ」

「っふふ。いいんやないかな、そういうの」

 竹神音が、肯定した。「俺はここから見守ることにしよう。手助けならお節介なみんながしてくれるやろうし」

「っはは、相変らずグータラ親父だな」

「一生これやよ」

「だろうな」

 性根はそうそう変わらない。

 性根は──。

「なぁ」

「ん」

「……口説きでもなんでもねぇことを断っとくんだが、あたしと前に会ったことねぇか」

「いきなりの記憶喪失」

「違ぇわ、ここ数年のことじゃなくさ。……夏休みだったな、音羅との自主特訓で初めてここに来たときアンタに初めて会ったはずなんだけど、なんか、違う気がしてさ」

「それ以前に会っとったってこと」

 そう。竹神音について過去の映像を何度か観て、野原花は「初めて見た」という気がしなかった。竹神音が最後にテレビ出演したのは一〇歳頃で、野原花は七歳である。生活苦の野原家にテレビがあるはずもなく、交わることのない中流以上の存在が詰めかける場所を避けていた野原花は街頭モニタの線も除外した。自ずと、初見がどんな形だったか答が出た。

「直接会ってると思う。あたし、察しはいいほうだからたぶん間違いない」

「『たぶん』に『間違いない』は係らんのやない」

「そんな細かいことはどうでもいいんだよ。で、アンタは憶えてないか」

「頭から否定するようで悪いんやけど俺は忘れっぽいからね」

「脳細胞までグータラかよ」

「万の出あいがあった子時代やと、拾えるもんは限られとるかな。あえてゆうなら、外に出とった頃なら遭遇しとってもおかしくはないし、多情仏心に関わったんかも知れんな」

「テレビで見せてたみたいな優しさを振り撒くさなかであたしに会ってたってことか」

「以前付き合っとった子ともそうやって出あっとったから、」

 亡くなった恋人のことだろうか。

「花さんの記憶と判断に委ねるよ」

「……そうか」

 面と向かって過去の関わりを隠す意味はないだろう。

 ……あたしの記憶違いか。

 ──生きとってほしいから。

 そう言ってくれたひとがいた。

 最近では希しい国言葉のせいで竹神音と思い込んだ可能性もあるだろう。

 その相手と親しくしていた記憶はない。親しかったならきっとすぐに思い出せた。甘い思い出を残してくれたひとを思い出せないのに、受け取った優しさは心に宿っているよう。

 ……もしあのひとなら礼を言いたかったんだが。まあ、いいよな。

 今よりもずっと幼く貧乏な頃の思い出。共有したはずの誰かを思い出せないことで、却って色褪せないこともあるだろう。

「ちょっと話変わんだけど、余談で変なこと訊いていいか」

「卒業祝いにスリーサイズでもなんでも教えたるよ」

「要らねぇよオヤジのスリーサイズなんて」

 咳払いして野原花は尋ねる。「音羅達って、姉妹で外見あんま似てないよな。羅欄納さんとはどことなく(なんとなし)似てる部分はある気ぃすんだけど(アンタの本当の子どもなんだよな、って、不躾か)」

「ん、やっぱスリーサイズ知りたいん」

「いや要らねえけど、(父親が三人いるなんてことは羅欄納さんのぞっこんぶりからしてあり得ねぇ。だとしたら音羅達の似てなさはなんなんだ、なんて不躾通り越して失礼だよな、特に羅欄納さんに。)いや、なんでもねぇ、今の質問は忘れてくれ」

「そうかい」

「ああ、全然構わねえ」

 美少女三姉妹に妬ける部分がなくはないから、と、いうことにしておく。外見的要素にケチをつけたがる一面を性悪な弱さと判断できる自分が本当は何を求めているか明白だ。それこそが手放しがたいものだとも野原花は自覚できるから、余談を打ち切った。

「変な有魔力に出逢わせてもらった。そのことへの感謝に尽きる」

 三姉妹の成長が魔法で早められた。それ以外に特別な要素があったのだとしても、円満な家庭で竹神音羅達が暮らしてゆければいい。野原花は立ち上がり、

「話はこんだけだ、邪魔したな」

「バイバイ」

 竹神音が手をひらひらさせると、寝室の二姉妹も顔を向けて「また会いましょう」と口を揃えた。

 竹神家には無魔力個体への許容があって居心地がよかった。

 いつでも訪ねられる友人がいて、いつでも迎え入れてくれる他人がいるというのは、思うよりずっと、踏み出す脚を支えてくれるものだった。

 

 野原花は頂等部に進学すると、徒手格闘以外の武術習得を始めた。第三田創のような異端の学園ではないから武術専門の教師は少なかったが伝授を断る者はいなかった。閑職ゆえ技術と体力を持て余していた複数の武術系教師から指導を受けた野原花は休校日も勉強した。休む暇も惜しいなどとせっかちな考え方をしていたのではなく、いつの間にか時間が経っている感覚だった。何をするにも集中が持続して常に一〇〇%以上の力で挑めているようでもあった。剣術や槍術についての座学を一通り復習すると夏の休校期間の終盤になっており、ようやく歩調を見直す気になった。

 ……たまには休息、だよな。

 必要とは感じていなくても休息を摂ることで何かを得ることがある。それもまた大切な学びであったが、今年は竹神音羅の誘いを断ったので列車祭に参加していなかった。

 ……行っときゃよかったな。

 日曜日なら遊びに誘ってもいいが今日は水曜日。竹神音羅が絶賛労働中なので野原花は散歩することにした。何かの講義で聞いたか、散歩すると血行がよくなって頭の働きもよくなるとかなんとか。いつもさりげなく肩や胸許にひっついているワタボウからいい香りがするので清清しく、有酸素運動という点から観てもいい息抜きになる。野原花はそう考えていた。まさかそこで遇うとは思いもしなかった。

「──」

「──」

 鳥肌は立たなかったが脚が竦んでいた。向いの歩道にいた冬木敦也と目が合ってしまった。選りに選って一人暮しのアパート前。知人の家とごまかそうか。口を開かず通りすぎれば家と悟られることもないだろうか。

 生活圏だ。そこで遇ったということは、これからも遇う可能性がある。

 ……そのたび逃げるのか、あたしは。

 懸命に学んでいるのはなんのためだ。折れても立ち上がる強さを、武芸を通じて広めるためだ。それなのに、いつまでも及び腰のまま、怯えて生きてゆく──。

 ……ふざけんな。ふざけんなよ。

 自分が信じたものを疑うばかりか、信じていないことになる。絆を、疑うことになる。

 野原花は一つ深呼吸して、目が合ったままの冬木敦也に親指で示した。

 ……ついて来い。

 車道を挟んで冬木敦也を伴った。行先はオープンカフェである。下手なことをしようものなら誰かが通報してくれることも踏んでいる。そういった最低限の保険は必要だったがテーブルを挟んで向かい合うことはなんとかできた。

 野原花の心情を顕すようにワタボウが後頭部に隠れているが姿を消していない。

 ……試合を始めた。逃げ場はねぇよ。前を向け。口を、開くんだ……。

 勇気を振り絞れ。……踏み込め。叩け。

 表情筋が固まっているものの、声は出た。

「久しぶりだな」

「……はい。その──」

「ははぁん、ストーカでもしてたのか」

「そんなことはっ──」

「判ってる。用があんだろ」

 冬木敦也の膝の上に女物の鞄がある。「落し物か、それ」

「いいえ、届け物です」

「配送業みたいなこともやんのか、魔術師ってのは」

「仕事を選びません。ボクは、多くのひとを裏切りました。それ以上に多くのひとびとに資することでしか償えないと思っています」

 ……、……。

 注文の品は届いている。野原花は何度か口に運んでいるが冬木敦也は口にしない。

 欲望が失せた彼の眼は一種の毒たる意識を秘めながら労わりに満ちている──。野原花は、ずっと前に気づいていた。受け入れることができなかった。信ずることもできなかった。

「あれから丸三年は経ったよな」

「……申し訳ありま──」

「そういうのはいい」

 過去のことを聞けば冬木敦也は謝るしかない。だから、それを制して野原花は話し始めた。

「人間ってのはおかしなもんだよな。同じように罪を犯してもあたしとアンタとじゃ全然違うふうに生きてる。ある意味開き直ってるあたしと、苛まれちまってるアンタ……。どっちがいいかなんてあたしは知らねぇけど、どっちが悪いとも言えねぇや。どっちも生きてんだから、なんかしら折合つけて生きてくしかねぇんだ」

「……」

「謝る以外はうんともすんとも言えねぇか」

「……うなづいていいのか、どうか、考えてました」

「あっそ」

 野原花はココアを太陽に翳す。「今日も暑いな」

「……はい」

「そこは返事すんのな」

「す、すみません……」

「別にいいっての」

 下手に出ている人間を苛め倒す。そんな趣味は野原花にはない。

「メンドくせ。償いは忘れんな。でも、もうあたしに謝んな、鬱陶しい」

「す、……ごめ……、う〜ん、と……」

「(言葉に詰まりすぎだろ。)お前って、じつはめちゃくちゃ慎重な奴だったんだな」

「……ボクは、その……馬鹿ですから」

「ああ、馬鹿だよ。けど目障りだし耳障りだからあたしの前で卑下してんじゃねぇ」

 ぐびっとココアを飲み干して、野原花は冬木敦也にコップを突き出した。

「まあまず飲め。話はそっからだ。干からびても助けてやんねぇ」

「っ……、ありがとうございます!」

 本当に嬉しそうに、そして申し訳なさそうに頭を下げて、冬木敦也がコーヒを飲み干す。飲むほど利尿作用が働いて干からびるのかも知れなかったがそんなことはどうでもよかった。

 空のコップを置いて、向かい合う。

「さて、話をするとは言ったが、話を聞いてやるとは言ってねぇ」

「その、野原さんの話を聞けばいいんでしょうか」

「解ってんじゃん」

 相手の弱みを衝くというのは試合では当然の流れである。それでなくても下手に出た冬木敦也が不利だ。

「償う気があるなら、あたしがやることに手を貸せ。言うまでもねぇけど金は払わねぇ」

「野原さんがやること、と、いうのはなんですか。ボクは魔術師ではありますができることは限られています。ご存じの通り、炎の魔法は傷つけることくらいしかできませんし、」

「魔法を貸せとは言ってねぇ。テメェの手を貸せって言ったんだ」

「それはいったい……」

 下手に出ていても敵に等しい相手だ。将来のこと、やりたいことを、伝えていいものか野原花は迷わないでもなかった。が、その眼──。野原花は冬木敦也で証明したいことがある。

「あたしは広く武芸を教えるために子ども向けの施設を作ろうと思ってる。保育園・幼稚園、一般の道場でもいい、そういうもんだ」

「武芸を広める、ですか。魔法社会体制の中で、根づくんでしょうか……」

「有魔力らしい意見だ。が、正論だな。あたしも簡単とは思ってねぇ」

 第三田創を創設した学園長星川英。上流階級出身者でありながら学園創設に何十年も掛かったという彼の随筆を読んだだけでも自分には足りないものばかりだと野原花は判った。文章は飽くまで執筆者の主観で客観性を担保しきれないと考えるなら、恐らく記されていない苦難もあったと推測できる。上流階級出身であり有魔力個体でもあった星川英と異なる苦難も野原花にはあるだろう。あらゆる困難を乗り越えるには、やる気と同時に貪欲さが不可欠だ。

「無魔力のあたしが運営するなんて言っても誰も見向きしねぇだろう。そもそも建てるのだって伝が要るし、コネも多いほうがいいはずだ。けど、あたしにそんな上等なもんはねぇ」

「そこまで判っていて、やるんですか」

「あたしはそれしかねぇと思ってるからな」

 オーニングの向こうの熱視線を、野原花は見つめ返す。

「お前の手を貸せ。伝でもいいし、コネでもいい。お前の人脈を使ってあたしのやりたいことに貢献してみせろ。それがあたしへの償いになる」

「ボクは……そんなことで許されるんでしょうか」

()()()()()だあっるせぇ!」

「っひ!」

「それがあたしにはねぇっつってんだろうが。テメェがトラウマを消せるわけねぇからこっちから代替案を出してやってんだよ感謝しろや、あぁん」

「す、すみませんっ……」

 縮こまった冬木敦也は今にも踏み潰されそうなアリのようで、野原花は完全な悪者だ。野原花はそんな態度しか執れないし、ほかに案が浮かばない。

「謝んなっつったろ。強制すんのも変だけど謝るくらいなら感謝しやがれ」

「そ、そう、です、か」

 冬木敦也もなんと返していいか判らない様子である。野原花自身も言っていて、

 ……ああ、おかしな話だ。あたしは、まったく。

 と、思っていた。

 竹神音羅とは別の意味で、冬木敦也は苦手なタイプだ。下手に出られすぎて、いつの間にかペースを握られてしまう感じがする。

 癪だ。より確実に勝利するには、相手を知る必要がある。

「なあ。お前の話を聞かせろ」

「ボクのこと、ですか」

「ああ。どこで生まれたとか、子どもんとき何してたとか、そういうんだ」

「ボクのこと、ですか」

「二度訊くなよ、馬鹿かお前は」

「す、すみません、なんだか変な感じがして……」

 冬木敦也が、初めて苦笑した。「ボクが話すことは拒絶されたと思ってましたから、びっくりしてしまいました」

「……で、話さねぇの。話さねぇならあたしはもう行くぜ」

「あっ、話しますっ、話しますから待ってください!」

 立ち上がろうとした野原花を前のめりで引き止めて、膝の鞄を落としそうになった冬木敦也は、慌てて席に直った。

「それ届けもんなんだっけ。仕事はいいのか」

「じ、じつはおよそ五分後が配達時刻で──」

「はっ、なんでそれ言わん!」

 先程からちらちら腕時計を気にしていた冬木敦也である。

「時間にルーズな奴ぁ何やってもうまくいかんわ、はよ行けッ」

「はいぃっ!」

 体育会系の指示に冬木敦也がびしっと立ち上がり、

「すぐに戻りますっ!」

 と、財布を置いて走り去った。宣言通り、二分と経たずに戻ってきた彼はすっかり息が上がっていた。

 野原花は耳許でふよふよ漂っていたワタボウと目線(?)を交わした。

 ……やっぱ、人間なんだな。

 有魔力も息切れする。竹神音羅を観て知った当り前のことを、冬木敦也で再確認した。

 席についた冬木敦也が膝に両手を置いてお辞儀した。

「お待たせしました。何から話したらいいですか」

「そうだな、まず個人情報から。名前・住所・生年月日、と、預金額」

「名前はともかく、個人情報はさすがに……。でも、預金額は個人情報なんですか」

「違うのか」

「一部魔術師の預金額は公開されていることもあったような……。あ、でも、長者番付のようなものでしたか」

「お前、やっぱその辺の感覚ズレてんな」

「否めません……。預金額も立派な個人情報ですね。すみません、それらは、外では話しづらいです……」

「別にいいぜ、今のは引っかけだし。個人情報をぺらぺら話すような奴は信用なんねぇ。お前はその辺、ちょっとズレてるけど及第点だ」

「ありがとうございますっ」

「じゃ次」

 緊張した面持の冬木敦也。

 野原花は試験官の気分で問いかける。

「その時計、前につけてたのと違うよな」

 前、と、いうのは事件当時のことだ。寮を訪ねてきたときには今の時計だった気がするが野原花はそんなことを尋ねる余裕がなかった。

「前のは高級そうなヤツだった。なんで買い替えたんだ」

「出直す意味もありましたが、丁寧に扱えば安くても高いものと変りなく使えるので。それに変に気を遣わないので活動的になれたような気がします」

「時計なんて子どものヨダレですぐオジャンだからな。安物も使えるのは加点だな」

「何やら面接の風情ですが、評価基準はいったい……」

「評価なんか気にすんなよ。同僚になったら嫌でも化けの皮()がれんだから面接なんざ普段の姿を観せてりゃいいんだよ」

「そ、そうですか」

 八方美人を装って疲れないような人格でもなければ、一瞬の気の緩みで体裁が崩れる。最初に最悪な部分を見せられている野原花は冬木敦也の上部の態度など気にしない。

「言葉を借りて面接的に訊いてみるけど、お前の得意技は。魔法に一切関わりのねぇことな」

「魔法以外でですか……」

 腕組をしたり顎に手を置いたりしながら必死に考え込む冬木敦也。答が一向に出てこない。

 ……隠してるふうじゃねぇな。

 魔法以外に取り柄がないからだろう。それだけ魔法に頼ってきたということだが、言い方を変えるなら、魔法一本で生き抜いてきたということ。なんの保険もなくそれ一本に絞って生きることの危うさを、野原花は毎日のように感じてきた。今も感じている。

 冬木敦也が、思いついた。

「一つあります」

「ん。あんのか」

「書類記入です。これまでにたくさんやってきましたよ、氏名・住所・電話番号に出身校、特技、は、魔法しか書いてきませんでしたが、そもそも書くことは得意で速いです」

「ふぅむ、得意技っちゃ得意技なんだろうが、パッとしねぇ……」

「謂わば事務仕事ですから、地味です、よね」

 また苦笑する。

 ……笑えば、まあ、まともなんだよな。

 もとの顔つきがいい。冬木敦也のそれは、苦笑ですら人受けしそうな笑顔だ。あの狂気さえなければ。(ひとはどこまでも堕ちんだなぁ)と、野原花は思った。

「あ、……すみません、つまらない得意技で……」

 野原花の沈黙を不快感と捉えたのだろう、冬木敦也の苦笑が引っ込んだ。

 ワタボウがアッパをするように小刻みに漂った。

 ……そうだな。そういうの、好きじゃねぇしな。

 野原花は首を振った。

「謝んじゃねーよ、ったく何度も言わせんな。あたしが愉しいかどうかはともかく、得意技があるんなら活かせばいい。地味とかつまらねえとか関係ねぇよ」

「ボクの技能は野原さんの役に立ちますか」

「……さあ、判んね」

 武芸を広める。そのために書類記入が必要か。「いや、まあ、役に立つ場面はあるかもな。お前の伝とかコネとかで施設建設とかするとしても、書類作成とかあるんだろ」

「保育園や幼稚園なら役所への申請書類などが。資金面では銀行にお世話になるかと」

「──ふぅん、そういうのも知ってんだな」

「魔術師の家系で知合いが多いのでよく聞いていたんです」

「そういうのも強みだな」

「そういうの……」

「実際にパイプになってるかはともかく、知識があるかないか、顔見知りか否か、そういう基本的な部分って得ようと思っても得られないこともあるんだぜ」

「──、野原さんも、そうだったんですか」

 今まで忖度していたのだろう。冬木敦也が初めて、野原花の懐に踏み込んだようだった。野原花は、その拳を受けて立つことにした。

「ボクは、あの日からずっと、思っていたことがあるんです」

「あの日って」

「……拉致した日、です」

「……ふぅん。で」

「……、仰って、ましたよね、その、『こっちは生きるのだけで必死だけどな、金で解決するようなアンタみたいな連中と違って、金でひとの心まで買おうだなんて真似はしねぇ。それがどれだけの侮辱か、そこでゆっくり考えやがれ』」

「記憶力がいいんだな。言った憶え、あるぜ」

「憶えていたのは、きっと、それがボクのほしかった答の底だったからです」

「答のソコって、なんだ」

「勝手な見解なんですが……、答というのは表面的なものもあれば、それを体現している礎というか、底の部分があるような気がしているんです。答の底は、表面的な答とは異なる本質的なもので、見えているようでいて、あの頃のボクでは見えないものだったんです」

「要するに、アレか、知りたいことの核心だったわけか、あたしの言葉が」

「それもきっと、野原さんの言葉だったから、よかったんだと思います。ほかの誰でもなく、君の人生の重みが、そのまま伸しかかって。そうでもなければ、ボクはその重みを受け止めることもせず、ただの障害物として払い退けて、狂ったまま、身勝手に、罪を重ねていた。そう思うと、自分が恐ろしいんです」

 俯いて目許を押さえた冬木敦也が、わずか赤くなった眼でまっすぐに野原花を見つめた。

「言訳みたいでお聞き苦しいことは承知ですが、聞いてください。ボクはずっと、無魔力個体とも共存できると思って、仕事をしていたんです」

 その拳は、重く、骨に響いた。

 野原花は、目を逸らさない。

「……。それって、あたしを襲う前からってことか」

「はい。でも……」

 何か思い出したのか、冬木敦也が吐息のような嗚咽とともに目許を拭って、語った。「いつからかおかしくなっていった。『ボクは魔術師だ。力のない人を守るのが役目だ。』そう思っていたはずなのに、ひとびとの要求を受け入れきれなくなって、あろうことか爆発してしまった……」

「……」

 冬木敦也ほど正確ではないが野原花はあの日の彼の呟きを憶えている。「確かいってたな、お前。『あいつらとは違う。理解し合えるはず』みたいなこと、あたしに」

 冬木敦也はその言葉を無意識に口にしていたのか。しばらくして思い至ったようだった。

「たぶん、あのひと達のことだと思います」

「聞かせてくれるか」

「聞いていただけるなら、勿論」

 そう言いながら、目許を拭って、拭って、冬木敦也はなかなか話し出せなかった。

 野原花は、感じた。敵である冬木敦也の懐に深く踏み込んだことを。

 陰にあってもオープンカフェは暑く、冬木敦也を待つ者は一人であった。

「とある無魔力のひと達がいました」

 その言葉を皮切りに、冬木敦也の傷が顕となってゆく。

「ボクの仕事の半分ほどを流してくれていた、お金持のひと達でした。懇意にしてくれてる。生活を考えてくれてる。ボクはそう感謝してました。懇意は結婚話に及びました。娘をあげるとか、これまで以上に仕事を預けるとか、言われて、ボクは、どこかで安心して舞い上がっていたのかも知れません。ひとの役に立つためには魔法の腕を磨くことが一番と考えて勉強ばかりして、免疫がなくて、ひとびとの闇というものに鈍感、でした」

「なんか、騙されたのか……」

「仕事を回していただいたことのお礼に、たまには菓子折でも持って伺わないと失礼だと思って、お宅に立ち寄ろうとしたとき、聞いてしまったんです……。

『冬木家とのパイプができれば家も安泰だ』

『娘一人で未来永劫蔑まれずに済む』

『馬鹿な有魔力を贔屓にしてやって正解だった』

『どこにでも尻尾を振る犬はいるもんだ』

『そんな馬鹿犬を育てた馬鹿親に乾杯だよ』」

 ……無魔力でもそんなクズはいる。

 変な有魔力に救われた自分と真逆のことが彼には起きていた。

 ……金を積めば心も買える。あのクソ発言は自虐だったんだな……。

 哀れみではなく、共感して、野原花は不憫に思った。

「……懇意にしてくれたひとびとの、心が判らなくなりました。笑顔の裏で、ボクを利用することしか考えてなかっただなんて、思えなかった。それだけならまだしも、娘を道具のように扱った物言いに、ボクは、黙ってられなかった……」

「乗り込んだのか」

「それが間違いでした。娘さんも、どうやら全部承知で、ボクやボクの家系の財産を目当に結婚するつもりだったみたいで……。どこへ怒りを持っていけばいいのか判らなくなって……ボクは逃げ出しました。下心もあったんです」

 過去の吐露する冬木敦也は怺えきれず、俯いていた。

「お嫁さんができたら毎日おいしい手料理を食べさせてもらったり、ときどきベタベタしたりもできるのかなぁ、とか、ボクにも子どもができるのかぁ、とか……、妄想ばかりして。馬鹿でした。あのひと達のことを責められないと今は思います。仕事を任されていたのは確かで、確かに、ボクは、馬鹿な犬でした、ご飯をくれる主人に尻尾を振って悦んで。そんなふうに見下げられていることにも気づけなかったんですから、考えもしました、自己責任だって──」

 冬木敦也は拳を固めて、「でもっ、そんなことをされるために仕事をしてたんじゃない!ひとびとが愉しく暮らせるように、そう、やってきたのに!そう思ったら、虚しくなって、苦しくなって、詰まって……。その気持を踏み躙って、理解しようともしない彼らを許せなく思っていった……。一方で、気づいてしまったんです。ボク自身が、人身御供のようなあんな提案に前のめりで、独りであることから脱して安心したかったことに……」

 ……何かに寄りかかりたくなるよな、そういうときは。

 野原花は格闘技術の向上に寄りかかり、そこへ無理やり意識を傾けるために罪のない両親を甚振るような心持でいた。

「それからはもう、迷走です。ボクは、ボクのためだけにいてくれるひとを求めるようになって、見つかるわけがないのに探してました。そんなとき、小耳に挟んだんです。ネット上で、貧しい女性が出会いを求めているって」

「……それで、あたしの放送に辿りついたわけか」

 全部が繫がるとなんと罪深いことか。学費ともい金のために、彼の気も知らないで、体で、女で、釣った。冬木敦也に生放送配信を責める気はないようだが野原花はそうではない。

「あたしはよ、よっぽどのことじゃなきゃ自分の言葉を引っ込めるつもりがねぇ。金のために人の心を踏み躙るようなこともしねぇ。そう思ってる、けど、意図せずそうなってることはある……、お前に対してが、そうだったんだ」

「野原さん──!」

 冬木敦也が狼狽した。

 野原花は、頭を下げていた。

「あたしはさ、嫌いなんだよ。白黒つかねぇのもそうだけど、筋通さねぇ態度とか言葉とか全部。だからまず謝るべきことを謝りてぇんだ。あたしはあん頃、アンタの気持を利用してた。無魔力に裏切られたこととか知ってたわけじゃねぇけど、色香に惑わされてホイホイ金出す馬鹿が悪い、そう思って、(騙してたヤツらと同じで)アンタから金を巻き上げてたんだ……。そのことを、きっちり謝りたい。すまない、……申し訳ありませんでした」

 なお深く頭を下げ、テーブルに額が当たっても痛くなかった。過去の自分の行いや、ひとの心を蔑ろにしたことがないと自信満満だった自分のほうが、よっぽど痛かった。

「や、やめてください、野原さん」

 熱したレンガ敷に膝をついて冬木敦也が項垂れた。

「あれはボク達が、大人が取るべき責任だったんです。過ちを正して導くべき大人のボクが、君をあそこから連れ出さなくてはいけなかったんです。それなのに、ボクはそれができなかった、……あまつさえ付け入った、最低最悪の大人だ……」

 それこそが罪。冬木敦也がいつかのように額を傷つけていた──。

 ……ああ、そうだ。最低最悪だよ。

 自分もそうだ、と、野原花は思った。大して変りない。ひとの心を踏み躙った。順序でいえば野原花のほうが罪が重いと思えるほどだった。当時は知り得なかった事情を知った上で自身にも罪があると捉えたからには、償うことを考えられない人間で存りたくはない。

「最優先の、提案がある」

 野原花は、冬木敦也の前に膝をつき、座り込んだ。

「野原さん──」

 顔を上げた冬木敦也が、胸を衝かれたような顔だった。

 償うための第一歩を、お互いが踏み出さなくてはならない。歩みは、着実でなければならない。相手の姿が見えない道で自己満足を続けても進むことはできない。面と向かってゆく必要があるのではないか。少なくとも自分と冬木敦也はそうする必要があったのではないか。今こうして話せたのは、お互いに、逃げなかったからなのだ。

 そう思って、野原花は切り出した。

「一回謝れ。あたしも、もう一度謝る。それで、あんときのことをチャラにしよう」

 

 冬木敦也が断ることはなかった。ある種の救いへの躊躇いはあっただろうが、償うことに躊躇いがなかったからだ。

 野原花と冬木敦也は、その日の謝罪を機に互いを近くに置いた。

 野原花の内心としては当然、恐怖が大きかった。いつ裏切られるか判らず、有魔力が圧倒的な力を有していることは依然として明白で、力づくとなれば負けて、ひどい目に遭うことが想定できた。それに、見くだされ利用された冬木敦也を、有魔力を怨んでいる自分が傷つけずにいられるか。その恐怖も、混在した。

 聞けば、その頃の冬木敦也も同じような心境だった。自分の心を縛りつけて言行を制限する強迫観念のような恐怖があった。野原花をまた傷つけてしまうかも知れないという恐怖は言うまでもない。加えて伸しかかったのは、本当につらい立場の野原花が、懸命に、寛容に、誠実に提案してくれたのに、期待に応えられなかったら。その恐怖。

 それでも互いを近くに置くことを選び、野原花と冬木敦也の関係は、急速に変化した。恐怖は緊張感を絶えず生み出して甘え合うことなど皆無であった。かといって相手を傷つけることを恐れていた二人は適度な距離を保つことも忘れなかった。どんな関係も、距離感を摑むと途端に平常となって気が緩むものだが、二人には恐怖があって緊張感もまた欠けることがなかった。綱渡りのような関係がそうして何年も続けば、嫌でも互いを意識していた。綱渡りの綱が別のものに変化していたのだろう。

 

 書類整理を終えた冬木敦也が、事務机から手を振った。

 野原花も軽く手を振って、水場で手を洗った。

 冬木敦也の特技はたんぽぽ園の事務仕事を一手に担える大事なもの。苦手分野を任せきりにした野原花は、その分、掃除や洗濯、肉体労働を担当している。これは冬木敦也の苦手分野であるから業務上の相性がよかった。

 互いへの謝罪からいまや夫婦同然。夫婦別姓と親しいひとから勘違いされるがじつは婚姻はしていない。野原花も冬木敦也も未婚のまま仕事のパートナとして生きてきた。無論、互いの好感を察している。自分の持つ、あり得ないはずだった相手への好意にも──。血の繫がった子はいない。が、たんぽぽ園に訪れた全ての子と巣立った子が我が子だ。また、領有地を示すように植えたシロバナタンポポも我が子である。押しつけられるように渡されたいつぞやのプレゼントがまさかそこまで増えるとは思いもしなかったが、野原花の目指すものの象徴としてぴったりだ。

 ……さて、……帰るか。

 八時間後にはまたここにいる。などとは考えない野原花である。

 野原花は冬木敦也とともに夜道を歩き、自宅に入った。寝るのは同じ屋根の下、同じベッドだ。互いに、手を取る程度でそれ以上の接触はない。お風呂に一緒に入ったって背中を流す程度で過度な接触はない。ならばどうして同じ家に暮らしているのか。そう訊かれると困る。二人はその距離感で生きてきた。その距離が保たれることで互いの存在を誰よりも理解できる。だから、いいのだ。

「今日もお疲れさまでした、花さん」

「敦也も。明日は魔導機構の書類よろ〜」

「っはは、任せて。運動のほうはお願い」

「お前に任せらんないっての」

「だよね。…………今日も、ありがとう」

「……、ああ、お前も。ありがとな……」

 感謝の言葉は長年絶えない。二人の好意はそこに行きついた。感謝の弁一つで、苦労が快感に変わる。それは、ありとあらゆる欲求を昇華する魔法のようだった。

 夜食がそうであったように、朝食は冬木敦也が作る。野原花はそれを食べて、冬木敦也が片づけをするあいだに先に出て開園準備をする。それが済んだ頃には冬木敦也が合流して、出勤時間の早い保護者がちらほら来園する。保護者と離れたがらない子どもをうまく園内に誘導するのも仕事のうち。その逆、保護者が離れたがらないことも稀に見られるので、そちらをうまく説得するのも仕事だ。保育士と園児が全員揃って、八時を回ったら武芸指南の時間である。これをやるためにたんぽぽ園を開いたので野原花は率先して指導に当たる。子どもというのは多くが「やればできる」もので、成長に差はあれど教えたことを何一つできない子はまずいない。中には自宅で勉強した成果を見せつけてくる子もいて驚かされる。そうして二、三年をここで過ごした子が武道を志したり、武芸指南役になったり、と、新たな種を蒔いている。それらの子世代がたんぽぽ園に入ってくることもあり、野原花の仕事は終わりそうもない。

 ……証明し続けなくちゃな。

 たんぽぽ園に来たいと言う子や、たんぽぽ園に子を入れたいという親が一人でもいる限り、野原花は己の学びの正しさを証明してゆく。

 昼食の時間。五部屋の子どもの様子を廊下から確認して、グラウンドに出た。

 日差が強く、ときに〈ダゼダダの風〉が吹き荒れて空が見えなくなる。今日は砂漠の砂が舞っているがダゼダダの風というには薄く、園内の空気はクリーン。

 冬木敦也が事務室から顔を出した。

「花さん、起動してあるよ」

 ダゼダダの風を始めとする砂嵐を園内限定で緩和する砂除けの魔導機構のこと。

「ダゼダダの気象予報は砂の具合だけは完璧に当ててくれやがるからな、帰り頃には少し濃くなるだろう」

「そうだね。空を観察する必要がないから助かるよ」

 相末防衛機構開発所の魔導機構はどれも高性能で、砂除け魔導機構は起動すれば一分もせず効果が現れる。今回は前もって冬木敦也が起動していたようだが、魔力を感じない野原花は眼でしっかり確認しておきたかった。

「お、来たみたいだな」

 門前で会釈する相末学を認めた。各種魔導機構の設置契約更新に係る書類を持参した彼を事務室へ案内すると、野原花はホースを伸ばして花壇へ水をやる。

 子時代の野原花は大地を干上がらせるようなこの日差に堪えられることを自慢げに話していた。冬木敦也と関わるようになってダゼダダの環境について聞くとこの日差が本当の日差でないことを知った。曰く、警備府が管理する魔法技術で日差が緩和されているのだとか。砂漠県が縮小も拡大もしなかった最たる要因がその魔法技術であり、赤道直下のダゼダダでひとびとが断熱加工やUVカット加工のない洋服を着ていられる理由であるのだとも。

 野原花に取って冬木敦也との出あいは、最初、悪夢のように不要なもので消し去りたいほど嫌なものだった。振り返ってみると冬木敦也から学んだことも数多くあった。魔法や魔導に関する知識はまさにそれで、竹神羅欄納から教わった有魔力についての基礎知識のお蔭もあってさまざまなことに理屈が通り、理解も進んだ。だからこそ有魔力が幅を利かせる魔法社会体制には納得しかねるところがあるのだが、それは野原花にはどうにかできそうもない。自称するようなことでもないが野原花は頭のできがいいほうではなく政治家にはなれなかったし、未来志向よりは目先志向であった。その性質を最大限活かせるのがたんぽぽ園での武芸指南であり、園長という立場であった。

 夕方、園児が保護者に連れられて帰宅し、保育士や事務員も次次帰宅の途について、野原花は冬木敦也とともに仕事の詰め作業をした。

 ここのところ、夜、竹神音羅が訪ねてくることが少ない。仕事が忙しいからというのもあるだろうが、野原花のもとにはどんなことをしてでも来るはずだった。それこそ、第三田創在籍時から半世紀変わらなかった心境に変化でもなければ起こらない日常の変化、

 ……なんて、大袈裟か。

 部屋のモップ掛けの途中、そんなことを思って壁に凭れた。

 ……六五にもなって、寂しいなんてな。

 親友とのひとときは、それほどに大きかったのだと痛感した。

 であるから、

「花、お疲れさまです」

「おぉ、来たか──」

 竹神音羅の来訪に内心歓喜すると肩に人型の和装少女が現れたので、その頭に咲いた花を撫でて強引に引っ込ませ、冷静に迎えた。

「音羅もお疲れさん。休み抜きで何日かぶりだな」

「日を空けてごめんね。最近、少し、考え事をしていたんだ」

「雨が降りそうなこって」

 モップを支えに前のめりになった野原花は、部屋入口から歩み寄る竹神音羅を見つめた。

「恋煩いか」

「恋、か。それなら少しは気が楽かな。いや、楽じゃないんだろうけれど、わたしには、今の考え事のほうが大変だ」

「へぇ」

 下手の考え休むに似たりなんていうけど重要なことなのか、と、ちゃかすのはやめておく。竹神音羅の表情が真剣だった。こういうときの彼女は頑として譲らない。

「言えることなら言ってみろよ。乗れる相談なら乗るぜ」

「そう、だね。花にしか乗れない話だよ。花への質問を考えていたんだ」

「ん、あたしへの質問」

 だからあまり訪れなかったのか。それにしても、大した質問でなければ気軽に来るだろう。

 モップを壁に立てかけて、野原花も真剣になった。

「言ってみろ。答えてやる」

「……うん、お願いします」

 お辞儀した竹神音羅が、若かりし頃のようにおずおずと、深めの呼吸をして、口を開いた。

「花は、敦也さんと一緒に暮らしていて、幸せかな」

「照れくせぇワードだな。けどま、続く理由はそういうことだ」

「でも、子どもは作らなかった、よね」

 竹神音羅が他者の子作りの話題に踏み込むのは初めてのことだろう。「園の子達が子ども、花はそういうって思った。けれど、そうじゃない答があるんじゃないかな。……恐怖心とか」

「考え込むわけだ」

 野原花のトラウマに踏み込むか否か決め倦ねていたことを気取られないよう、竹神音羅はたんぽぽ園に足を向けなかったのだ。

「気にすんな。あたしとしちゃ、とっくに区切りのついた話なんだぜ、それ」

「そう、だろうけれど……」

「変な遠慮されんのも疲れる(えらい)し、とっとと答えとく。恐怖心はあるぜ、最初の頃は特に強かった。当時お前にも伝えた通り、敦也と謝り合って過去のことをチャラにしたあの日だって百まで信じてたわけじゃねぇ。試合のときでもなければ男にさわれられるだけで嫌悪感が湧いてた。それがトラウマを植えつけた敦也本人ならなおのことだった。距離感を測って時間を過ごすのは神経磨り減って相応に疲れた(えらかった)

「今に至ることができたのは、敦也さんに変化があったからかな」

「それは大前提だけど、アイツがあたしを、いや、無魔力の存在を受け入れてたのが大きい。社会体制的に弱者としてしか扱われねぇ無魔力も人の役に立てると信じてた。加えて、過ちを糧に他者を労わる心を育ててた。それは、あたしが学んだことの証明にもなると思えた──。本人の力だけじゃままならねぇこともあるんだ。そのヒントを音羅がいってくれたな」

「わたし。何をいっていたかな」

「人は失敗する。一度の失敗で全てを疑われちゃつらい。ってな」

 自覚しているか否かという点が重要だ。冬木敦也は、自分の失敗を確実に捉えていた。その失敗を咎められることも覚悟していた。でも、それだけでは、いつまで経っても、立ち上がれない。立ち上がったつもりになっても、どこか間違った方向へ這い出してしまう。まっすぐに歩むのは困難だ。

「喧嘩で怪我させちまった園児がいたって話を前にしたな」

「うん。親御さんがクレームをつけたとも聞いたよ」

「暴力を振るった園児と暴力を受けた園児、重くいえば加害者と被害者。時間は掛かったが、決着した。上辺だけじゃない決着には、心の折合が必要だ。加害者がなぜ失敗したかを被害者が知って、被害者がなぜ痛みを訴えたかを加害者が知って、互いが受けたものを共有する。そうして加害者が被害者の、被害者が加害者の心理と向き合う。……昔だったらとっとと加害者を断罪して済ませちまったかも知んねぇけど、それじゃなんの解決にもならなかったことに、お前の言葉が気づかせてくれた気がしてな」

 ひとは失敗する。その失敗から学ぶべきことが失敗した本人・加害者のみならず被害者や無関係の者にもあるのではないか。だから野原花は、喧嘩をした二人の園児だけでなく園全体で喧嘩の経緯と決着までを話して経験を共有した。まだ幼く、共感性に欠け、全てを理解できなかったとしても、理解できないと大人が決めつけて何も教えないより、理解できると信じて伝えるほうが何倍もの価値が生まれる。そう考えて、時間を割いて伝えたのである。

「あたしは一馬鹿に過ぎねぇ。だからこそ、みんな理解できると信じて伝える。それを諦めたりしねぇ。──話を戻すが、園長である今はそう思ってるんだ。敦也で、その精神を固めに掛かってたってのが正しいかも知んねぇな。つまり実験台」

「その言い方は語弊がありそうだ……」

「そうなんだけど、実際あいつのお蔭であたしは自分の学びの正しさを実証できた気がしたんだ。良くも悪くも、あいつから学べたことは多かった……。だから、その観点から音羅の問に答えると、こうなる。『手放したりしねぇ』」

「……大切なんだ」

「ああ。あいつの人生は、同時にあたしの人生なんだ」

 野原花はそう思っている。「特異なケースかもな、加害者と被害者の道がこんな形で交わるのは。ただ、あたしらの場合はどっちも加害者と被害者だったんだ。歩み寄る余地があって、それをうまく理解し合えて、納得できた。奇跡的にうまくいっただけだ。そんなことは正味な話なかなかないと思うぜ。けどよ、その可能性があるなら、最初からないって切り捨てたいとは思わねぇ」

 昔の竹神音羅のような甘い考え方だ。けれども、野原花はそんな自分の考え方が好きだ。幼い頃に描いていた理想の自分を、今、完璧に近い形で体現できていると感じている。

 それゆえに、野原花は親友の機微に触れないわけにはゆかない。その変化に対する答も用意しないわけにはゆかない。

「なあ音羅。お前はだからここに来るのを躊躇ってるわけか」

「──」

「気づいてねぇとでも思ったか。舐めんな、アホ」

 出逢った頃と変わらぬ幼い顔に、野原花は拳を突き出した。

 眼前で止まった拳を、竹神音羅が、そっと包んだ。

「ごめんね。わたし、いつの間にか臆病になっている……」

「甘えろよ。あたしも、散散お前に甘えてる。昔も、今も、甘えてる。お前は、いつだって甘えていい。──そう教えてくれたのも、お前だ、音羅」

 包まれた両手を引いて、野原花は竹神音羅を抱き締めた。「お前がなんでそんな臆病になったかまでは、さすがに判らねぇ。それをお前があたしに話さないのは深い、と、いうより、いろいろと困った理由があるんだろうよ。だからあえて追及はしねぇ。けどま、遠慮して来ねぇとか回り諄いことすんな。敦也のことが大切なのとお前が大切なのとは全く別の話なんだぜ。あたしに必要なもん、あたしを育ててくれたもんだから、全部大切で、優劣なんかねぇよ」

「……うん──」

 生まれつきという異常な腕力を必死に抑えながらしがみつく腕。悦びとともに、何か、得体の知れない悲しみを吐き出すように竹神音羅が咽び泣いた。──そんな竹神音羅を野原花は見たことがなく、不憫に思えてならなかった。

 ……あぁ、吐き出せ。全部。

 彼女は何か重い物を背負っている。いつからか野原花はそんなふうに感じていた。それほど最近のことでもない。竹神音羅は生まれが特異で成長速度も並外れていた。嫌忌される竹神音の娘であることにもへこたれず人生の壁に立ち向かってきた。そんな彼女がこれほどまでに苦悩していることだ。下流階級出身者に降りかかる偏見や差別や格差を余すことなく浴びてきた野原花にも想像がつかないのは当然なのだろう。

 だからなんだ。彼女の苦悩を和らげられないと野原花は思わない。理解しようとする気持が伝われば、苦悩の本体を気づけなくても、教えてもらえなくても、相手の心を支えることができるとも、彼女が教えてくれた。彼女がいなければ、今の野原花は文字通り存在しない。

 竹神音羅がやはり最高の理想であったから、その脚が折れそうならば支えるのは自分の存在意義であると野原花は思っているのである。

「──ありがとう、花。もう大丈夫」

 離れた竹神音羅は眼が赤かったが、すっきりしたようだった。

「足下、固まったか」

「うん。踏み出せそうだよ」

「そりゃよかった」

 帰途についた竹神音羅の背中を見送って、野原花は冬木敦也のもとに戻った。

「実験台だなんてひどいなぁ」

「聞いてたのかよ」

「事務室最寄の教室で話してたから聞こえるよ。みんな帰って静かだし」

「まあ、そうだな」

 野原花は聞かれてまずいとは思っていない。「音羅のことは黙っとけよ」

「解ってる」

「実験台のことはお互いさまだと思ってるけど、違ってたか。お前もあたしで測ってた部分があるはずだぜ」

「花さんが、どこまで、どうやって、ボクを受け入れ、歩み寄ってくれるのか。そして歴史的にも上下にあると捉えられがちな有魔力と無魔力がこの先どうやっていけばいいのか」

「壮大だな」

「今になって思うことだよ。ボクができたのは花さんとの試行錯誤だけだった」

「だからおあいこだ」

「いわずもがなだね。花さんはさすがだ」

 冬木敦也が微笑で筆記用具を片づけた。

「そうだ。いわずもがなといえば、未だ魔術師のボクには、高額の預金がある」

「ばーか。知ってるっての」

 どうせ頼らないから話題にしなかった。「思うことに使えよ。あたしはお前の預金の管理なんざしちゃいねぇんだからな」

「参ったな。お金くらいはドーンと頼ってもらおうと思ったんだけど、……さすがだ」

 鞄を肩に掛けた冬木敦也が立ち上がった。それに合わせて、野原花も歩き出した。

「さあ、帰るぜ」

「うん、帰ろう」

 心身を癒やすのはいつもの居場所。

 

 

 

──一一章後節 終──

 

 

 

 

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