九章 暗躍する者
そこと刃との隙間から噴き出したものを浴びて狂気に笑む自分──、客観視するのは、どうにも不気味である。
……朝か。
姉音羅による父延命から三三年と三箇月が経った。
夢だと判っても、天井がぐるぐるしているように感じて気分が優れない。父の苦しみのきっかけを作った音羅を、謐納は夢の中で何度も手に掛けている。
家族は大切。家族のために父を生存させる。
そう考えているのに、斬って棄てることのできない憎悪が心の底に座している。仕方がないことだと理解していても、憎悪が夢に現れると起き抜けに背中が寒くなる。
夢落ちに貢献などない。それでも神経的に貢献しているような気になるのは、決意の姉にいつでも手を伸ばすことができると誰にともなく示すことができ、何より「終わらせることが貢献とは限らない」と自分の考えを再確認できるからか。いずれにせよ、現実の凍えを癒やす温かみが夢にはない。謐納は、布団を片づけて模造刀を握った。素振りをすると気が晴れる。
仕事があるから滅入った心は邪魔になる。数回の休憩を挟んで行う八時から二〇時までの仕事は剣術指南である。四つの時間割で構成しており、前の二つが子ども向け、後ろの二つが大人向け、どちらも主に無魔力個体に向けたもの。剣の握り方、足運び、攻め方から守り方、試合での立居振舞などなど、どちらかというとスポーツ的な剣を教えている。才能の芽がある者には一歩踏み込んだ指導もする。喋るのが得意とはいえない謐納がそのように指導者として働くことができているのは、幼いうちに謐納の才能を見出して第三田創魔法学園高等部の登園手続きを進めてくれた父のお蔭である。技能習得の努力はしていたが、謐納は労働においても父に感謝してやまない。
模造刀を置いて時間を確認。七時。シャワを浴びて汗を流したあと、テーブルについた。
「いただきまする」
テーブルの上に置いてあるバナナの総から一本取って、コップ一杯の牛乳とともにゆっくりと食して、七時半。
「ごちそうさまでした」
挨拶は人道においても武道においても基本である。
「……」
仕事用の和装に竹刀を挿して家を出る。
夜間に冷え込んだ地面からの放射冷却で少しひんやりとした風を起こしながら日差が熱い。いつものダゼダダの朝だ。
仕事場へ歩む。今日は母校第三田創の剣道部・剣術科で外部顧問として指導を行う。謐納の指導は生徒に好評とのことで度度オファがある。そのように、仕事は評価によるのでオファがなくなることもある。幸い多くの好評を得られて定休日以外に仕事が途切れたという体感はない。顔見知りも多い母校ということもあって今日は気兼ねなし、思考が散らばる。一番に思考が向かったのは、
……かの魔物はいかになっておろうか。
一昨日深夜、聖域であるここ中央県に侵入した魔物。父が警戒しているものの魔力を潜める稀有な魔物に魔力探知がどこまで有効か不明。謐納も最大限の警戒心を保っていた。
学園別館の剣道場に到着すると朝練終盤の生徒に群がられるようにして指導を終え、相変らずごった返す洗濯の時間を遠巻きに見て、同剣道場にて剣術科生徒の指導を行った。上下関係があっても少しフランクな雰囲気もある部活動に対すれば、専攻授業の生徒はしっかり距離を置いて指導を受ける姿勢で、言葉より姿勢で指導するタイプの謐納はやりやすく感ずる時間である。ただ、スポーツとして教える剣道より剣術科での実戦向きの指導は、内心、向いていないようにも感ずる。魔物など外敵との対峙に役立つのは実戦向きの剣術であるがそれを普及することが正しいことか、と、殺生に関わる技術を指導しているので思うところはある。磨き上げた武術は相手を害する力に成り得るため殺人術に等しい。第三田創で徒手格闘を教えている星川教諭によれば、無手の格闘家と木刀装備の剣士が争うなら後者が圧倒的に有利とのこと。もし前者が無抵抗な子どもやお年寄であったら後者はただの狂人である。そんなことにならないよう「自他の安全に重重気をつけるよう」と言葉でも伝えている謐納である。
学園での仕事を終えると、今度は一般の道場での剣術指南についた。これは第三田創卒業後に誘われた定常の仕事。新規以外は門下生が一定であるからより気兼ねなく指導を行えた。
帰途につくのは空気が冷え込む夜。
「謐納さん、今日もお疲れさま〜」
在学時代の先輩であり道場主である田端ナナコが道場の出口まで見送った。
「って、ありゃ、雨だねぇ」
謐納は傘を持ってきていない。テレビをあまり観ないので天気予報もしかり。田端ナナコによれば「予報にない天気は困るね」とのことなので傘の用意はできそうもなかった。
「傘、貸すわ。明日返してくれればいいからさ」
「辱い」
「一人が風邪引くと連鎖的に、ってこともあるからね。用心、用心」
傘立てからビニル傘を取り出して、田端ナナコが謐納に渡した。
「また明日ねっ」
「本日もお世話になり申した。明日もよろしくお願い仕る」
「っはは、うん、こっちこそね」
にかっと笑って送り出してくれる田端ナナコに会釈すると、謐納は借りた傘を差して歩き出した。
家は一〇〇メートルほど先でゆっくり歩いてもすぐに到着する。ダゼダダ平野部の降雨は希しく思わずビニル越しに曇天を仰いで観察した。傘にぼつぼつと散る雨粒はほかの雨粒と合わさって自重に堪えかねて地面に消える。ホースの先端を押して噴射した水を傘に降らせれば同じような現象を観察することができるが、大いなる力を感ぜさせる曇天の薄暗さまでは再現できず、その下で起きる現象も一〇〇%の再現はできない。
……ううむ。
降雨に、柄にもなくうきうきしている。ダゼダダに生まれたひとは皆そうであるようで謐納も例に漏れない。くるくる回した傘から吹き飛ぶ雨粒のゆく末に飽きもせず、ぴちゃぴちゃと撥ねる足音を愉しむ。三三歳にもなって。
……存外、ひとは変わらぬ。
人外的な若き身とて、童心に返ることもある。
雨に濡れないよう小脇に抱えた竹刀を一瞥したそのとき、突風で、傘が吹き飛んだ。反射的に前を向いた謐納に、
……!
恐ろしい形相の赤黒いモノが迫った(!)それを隠すように黒い背中が現れると、高圧の空気が弾けて雨がしばし止む。
「っ、父上──」
「退がりぃ」
何が起きたのか理解が追いつかないが、黒い背中こと父の指示を聞いて謐納は後退した。
空気の圧力で雨とともに吹き飛んだ赤黒いモノが電柱を足場に体勢を整え、電線にぶら下がって見下ろしている。
「なんだァ貴様ァ。どこから現れやがったァ」
「さあね」
父がいつもの調子で飄飄と。しかし、謐納は感じ取らざるを得なかった。身体能力の高さに反して魔力を感ぜさせない、あの赤黒いモノは、人型の魔物だ。
「狩りの邪魔ァ、すんじゃねぇぜェ」
重低音の声やもったりとした口調からは想像もつかない速度で飛びかかった魔物。恐らく数回に及ぶ攻撃を父が躱し、弾いて、右手掌底で魔物を押し返した。
「物騒やね。話し合いで解決したいところなんやけど」
「……貴様ァ」
跳んで後退した魔物が押された腹を撫でている。「人間にしちゃあできすぎだなァ」
「お前さんにいうのは何か変やけど、俺は化物やから」
「化物ねェ」
知性はあるのだろうか。一つの眼に、黒玉を縦に二つ並べている。そんな奇怪な眼でこちらを視る「意識」に、食欲に似た欲求が漲っているように感ずるのは謐納の思い做しか。
鋭い爪の両手を前傾姿勢でだらりとさせた魔物が初めて父に目を向けた。ターゲットを変えたのか。
「ッ!」
謐納の警戒心が薄まったその瞬間、魔物が謐納の前に現れた。その脇腹を父の踵が捉えてもとの位置へ押し返したが、そうでなければ、振り上げられた爪が謐納を捉えていただろう。
「けっ……、厄介な奴がいたもんだぜェ。貴様、名を言え」
「不躾な男に名乗る名前なんぞないわ愚か者」
「……」
魔物が戦闘姿勢を解き、腰に手を当てて父を見やる。「バルァゴアだァ」
「お前さんの名前かね」
「憶えなァ。貴様は、いずれオレサマが狩るぜ」
「ご勝手に。下手に手を出せば──」
服の色に限らず、父の背中は黒い。何かが弾けると雲がぱっと開けて星空が広がった。父から発せられたそれに、魔物バルァゴアが後退りした。
「……ますます──、ッッッ」
声にならない笑いとともに、バルァゴアの姿が夜闇に消えた。
……、……。
「もう大丈夫。ゆっくり、息を吐きなさい」
父の手が、そっと、手に重なって、謐納は息を始めた。
「っ──、ぐっ…………っはぁ……」
「恐かったね。よく怺えた」
謐納は、膝が笑って崩れ落ちそうだった。
「ぁあっ、あのようなっ、魔物が存在するだなどと……」
何度か見た魔物は、どれも一刀のもとに消滅した。父に比べれば威圧感も大したことはなかった。魔物は飽くまで力なき者の脅威でしかなく、刀や魔法を扱える自分に取っては駆逐対象でしかない。そのように謐納は思っていたのである。あのバルァゴアという魔物には、父にも優る威圧感と脅威を感じた。二度も懐に踏み込まれて、呼吸を忘れていた。
「だからかねがねいっとるんよ、魔物を魔物としてだけ観るな、と。中にはああいうもんもおるわけやから」
「父上は、存じていたのですか」
「人間に俺みたいなのがおるんやからどの種族にも例外的な奴はおるやろうという類推やよ」
類推で心の準備まで万全だった。父の姿勢は、謐納のそれと格が違う。
「さて、帰ろ。送るわね」
「……はい」
雨が治まった星空の下、未だ慄える謐納を抱っこして父が微笑む。
「今日は特別ね」
「……辱うございまする」
父の首に縋ると、少しずつ息が整って、気持も落ちついた。
「傘、吹っ飛んでったけど、どうする」
「あ……」
呼吸と一緒に忘れていた。お猪口になった上、骨組からビニルが剝がれていったような音がしていたのを思い出した。
「借物です。弁償せねばなりませぬ」
「不良に絡まれて壊れたとでも伝えときぃ」
「左様に。バルァゴア……、あのような者のことを伝えたとて信じてはもらえませぬ」
父がいなかったら。謐納自身、我が身に起こりかけた恐ろしい現実を信ぜられない。
「父上、何故こちらに」
「あのヤローの気配を感じて」
「魔力を潜めておったようですが」
「気配は魔力だけじゃないんよ」
「心の声ですか」
「なかなかいい読み」
当りではないのか。「まあ、そのうち解ることもあるかもね。ゆっくりお休みなさい」
早くも家の前だった。
名残惜しいが謐納は慄えが治まっている。自分の脚で立って、会釈した。
「恐れながら父上、一人で問題ござりませぬか」
「魂器過負荷症がなければ余計な気を回さんでいいし問題ないよ」
謐納の才能を見出した父。されども、謐納は父の戦う姿を観たことがなかった。実戦に挑む父の姿は普段通りに見えて、そのじつバルァゴアを圧倒していたようだった。本気の父の実力はそれこそ測ることができない。
「ヤローは俺みたいに大人しく引き籠もるような玉に観えんかったし、警戒が必要やろうな」
「わたしを狙っておったようですが、その点、いかに捉えまするか」
「魔力の強い人間を狙って捕食しとった流れでお前さんを狙った」
魔物には、捕食した対象の魔力を奪う能力を持つ者が存在する。バルァゴアはそんな能力を持つ魔物だということだ。
「わたしは魔力を潜めておりまする」
「いくらでも探りようがある」
「左様な技術を持ち合わせておるとは由由しきこと。確証はござりまするか」
「雨に流されかかってはおったが血のにおいがしたな」
「あの赤黒い体は返り血を」
「地肌の色やろうけど、それもあるわな。俺の観察によれば既に何人か捕食したあとに謐納に接触したわけやし」
父の発言から、何人かを見殺しにしたことが窺えた。正義感の強い音羅などは非難することもあるだろうが父の考えを推測すると非難はできない。
「魔力を奪う能力〈喰魔昂体〉にも限度がある。わたしのほかに何人か捕食したならば、しばし捕食できなくなると踏んでおられるのですね」
「正解。誰しも死にたくはないが、魔物が町に侵入して死人が出ることはままある話。魔術師や魔導師の警戒心を高める意味でも必要な自然淘汰の一環だ」
父はそう言いながら、謐納を守った。
「わたしは、捕食される寸前でした」
「あんにゃろーに言った通りね、下手に手は出させんよ」
「ありがたき幸せです」
「俺としては当然のこと。まあ結局自己都合やから、公益なんて考えてないよ」
父に取って大切なのは家族。自分が特別なのではないと解っていても、謐納は嬉しかった。
「おやすみ、謐納、よい夢を」
「はい、おやすみなさいませ、父上」
拠点であるアパートの一室で兄の伝達に愕然としつつも、大神凰慈は一枚の紙に情報を纏めた。
……昨日までで、最低でも八人が行方不明、か。
「大神様にも、予見できなかったのですか」
「ご存じの通りです」
遠見は、飽くまで現在の出来事しか見ることができない。過去・未来を見通す先祖もいたそうだが範囲は狭かったと伝え聞く。大神凰慈の遠見は国外にまで及ぶが時を超えることはできない。同じ能力でも、性質には個体差があるのだ。
「とにもかくにも、これが私達の手に負えるかどうか」
「あの者の知恵を借りますか」
「はい」
「お伴します」
「お爺さんになっても相変らずお目付役のようですね。不要ですよ、私はこれから──、大川雛子よ、一人で行くからあなたはここで待っていて」
「……左様な喋り方は、さすがに抵抗を感じます」
兄が瞼を落として憮然としている。
大川雛子は、四つ折にした紙をポーチに収めて、一室を出る。
「じゃ、そーいうことでー」
「ちょっ──」
制止の声など聞かない。大川雛子として、とっととサンプルテへ向かう。
……遠見は、失敗しているんだろうな。
瞼を下ろせば大体のことが遠見できていたのに、行方不明になる人物の像を捉えられない。また、行方不明になった人物を捉えられない。
……あの気配が関係しているのか。
一週間ほど前に中央県へ魔物らしき存在が飛び込んだ。魔力を潜められたため魔力探知で捕捉できなくなり、遠見でも捕捉できていない。喰魔昂体を発揮する魔物は人間を捕食することで魔力を高めようとするはずで、遠見の結果からも行方不明のひとびとは亡くなっていると想像できる。それぞれ、遠見失敗の原因は指定がアバウトであること。遠見の性質上なんでも見える気になってしまうが対象の生存が前提。さらに、テレビやラジオのチャンネル切替のように周波数を合わせなければならない。要するに、
……被害防止のためには、情報を集めて狙われるであろう人間を絞らなければならない。
人海戦術で八百万神社の右に出る組織はないが、目的や指示をはっきりさせなければ大量の人材が活かせない。今回の問題については、大神家に知恵が足りない。
サンプルテに到着した大川雛子が呼鈴を鳴らすと竹神納雪に出迎えられた。と、いうより、竹神一家ほぼ全員が玄関に集まっていた。
「おはよう。今からみんなでお出掛け」
「おはようございます、雛子さん」
と、竹神納雪の後ろの竹神音羅が言った。「これから買物です。父にご用ですか」
「面白い話を聞いたからつい伝えたくなっちゃって。音サンいる」
竹神音の姿はなく、竹神羅欄納、竹神音羅、竹神納雪の三人が出掛ける間際。
「父はテーブルで変らずですよ」
「っははは、じゃ、遠慮なくだべられるわね」
「お願いします。ママ、いいよね」
「はい。雛子さん、申し訳ございませんが留守番をお願いします」
「ええ、任せて」
都合がいいので、大川雛子は三人を見送って家に上がり、念のため鍵を掛けて竹神音のもとへ向かった。他意はなく、二人きりだ。最初は竹神音羅のアルバイト先の先輩としてやってきていたが、下流階級的会話が概ね通る相手が竹神音であった、と、いう建前でこうしてよく話しに来ている。
「おはよう。テーブルに苔を生やしそうね、竹神音サン」
「生えるとしたら黴じゃないかね。魔物の件やろ」
「耳が早い」
向いの席について、大川雛子はポーチから紙を取り出した。
「問題はここにある通りよ」
「ふむ」
竹神音が上体をむくっと起こして紙を手に取ったから、大川雛子は目を丸くした。
「関心が高いの」
「必要に迫られてね」
「……知合いがいるの」
「このリストに五女が載りかけたからね」
竹神謐納。日向像佳乃などに並ぶトップクラスの剣士で剣術指南に明け暮れ、ダゼダダ出身の無魔力個体の剣術水準を押し上げている逸材だ。その命が失われれば、ダゼダダの武術水準に影響が出る。
リストに載りかけた。捕食される寸前だったことを意味する言葉には、一つの事実が潜む。
「敵を目撃されましたか」
「仮面」
「っコホン。敵はどんなヤツなの。魔物でしょう」
「返り血もあったろうが赤黒い肌が特徴のほぼ裸体、二足歩行の人型で二二〇センチほどの長身、筋肉質、ある程度言葉を解する知性と魔力を潜める技術が備わっとる」
「……、魔力を潜めるだけでも厄介なのに長身で、謂わば知性派マッチョであると」
「現に相手は名乗ったからね。バルァゴアってゆうらしいよ」
人類が危険な魔物に名前をつけることがある。今回の魔物は、自らにつけられた名前を名乗ったか、自ら名前をつけて名乗ったということになる。どちらにしても知性があり、大川雛子は聞いたことがないケースだ。
「バルァゴアは、既存の魔物なの」
「いや、世界じゅうのデータにないな」
だとすると、信じがたいことに自ら名前をつけて名乗ったということになるか。知性を裏打ちするのは名づけの意義による。それを順に深掘りしよう。
「交戦したの」
「適性はともかく相手は潜伏任務やからね、あっさり踵を返したよ」
「今も国内で暗躍してるわけね。(組織性がある。)任務って」
「魔物に組織や社会性があるのか、訝る気は解るよ」
「名前をつけること同様に聞いたことがないわ。バルァゴアが任務って言ってたの」
「いや、俺の推測」
「……」
確証はないのか。彼はときたま説明不足だ。知恵とともに情報不足を補いに来たのだから大川雛子は話を進める。
「武闘派っぽい魔物が潜伏任務って解せないわね」
「見つかってもいい采配なんやない。〈テスムナ〉も人材不足なんやろう」
魔物が住むという〈幻獣界テスムナ〉。竹神音の知識は惑星アースにとどまらない。魔物が組織的な行動をしていると推測するのは常識的な見解ではないが、命名の意義は個体を認識することにあるため、バルァゴアが自ら名乗ったことを踏まえて考えると推測の確度は高いといえる。
「バルァゴアは派手な行動を前提にしてる。何かしらの破壊活動も担ってるってことね」
「情報収集を逐一行っとるのは間違いないな。得た情報を基に何かやらかす腹積りがあるんやろう。見つかっても最終目標に支障が出んなら、潜伏任務中の捕食行動も整合性がないわけじゃない」
見つかることでバルァゴアが得る利点はなんだ。現に起きていることと捉えるなら、捕食によって力をつけることとこちらの注意を引き混乱を誘うこと。反対に、警戒網が構築されるというデメリットもあるが。
「潜伏任務は発見されたら終了するのが普通でしょう。けれど、バルァゴアは暗躍を続けている」
「魔力を潜めんまま魔物が突入してきたことも忘れたらいかんね」
「(魔物が……。)発見されることも織り込み済み──」
全てが伏線などというできすぎた物語であるならあり得る話ではある。あえてそう考えるならば、利点は再度姿を捉えられることにも生ずる。
竹神音による早期発見になったことはバルァゴアに取って想定外であったかも知れないが、結果として、大川雛子は警戒網を張り巡らせるためここにいる。ダゼダダ全体の警戒心が、バルァゴアに集中しようとしているのである。その役割を二字で表すと、
「陽動」
「俺もそう思う」
陽動は、作戦における本隊ではない。個体認識のための命名は、命令系統の上下を作るのみならず、横の関係で役割分担することにも活きる。偽名やコードネームでも同じだ。
「バルァゴアのほかに、最低でも一体以上の魔物が入り込んでいる……」
「やろうね」
「なんてこと。バルァゴアに遭遇したとき、魔力反応は探知できたの」
「できんかったね」
「そういうことは早く言って……」
魔力反応を発したまま聖域に突入した者のことを竹神音が魔物と表したのは、魔力の照会ができずバルァゴアと断定できなかった。
聖域に突入してきた魔力反応が一つだったから魔物は一体と踏んでいたが、バルァゴアまたは別の魔物が陽動目的でわざと魔力を発して突入してきたのだとしたら、バルァゴア以外に本隊たる魔物が潜んでいることになる。
「いや、でも待って、それなら未だに陽動役が魔力を潜めているのは変じゃない」
「陽動部隊と本隊がおるとして、どちらがバルァゴアか俺達は判っとらんから、魔力を潜めとること自体はそれほど不自然でもないよ」
バルァゴアが陽動としたのは話を円滑に進めるための、仮定に過ぎない。実際の役割の見定めには、時間が掛かる。
「警戒心を煽るのが魔物側の一つの目的で、バルァゴアが陽動なら再出現時に注目を集められるから、本隊がフリーになりやすくなる。バルァゴアが本隊に編成されているなら本隊の隠密性を高めるため別働隊に移された可能性もあるわね」
「脅しが過ぎたとも思わんし、もとから陽動やったなら魔力を潜めっ放しなのは向こうの事情が変わったんかも知れんよ」
「予想していなかった事態が魔物側に起きていると。『脅し』というのは」
「『下手に手を出したら』とね」
「魔物側に起きた予想外の事態はそれじゃないかしら。あなたのそれは立派な脅迫よ……」
脅迫のタイミングを、大川雛子は察した。「先日の夜、雲が一気に晴れた。あれ、あなたの仕業だったのよね。魔力は感じなかったからたぶん〈空衝層〉かしら」
真空斬の応用技で、より広い範囲を攻撃できるのが空衝層。相手の動きを封じたり、牽制に用いたり、砂煙や水を巻き上げたりと多様に使える。
「観とったんやね」
「雲が割れた直後、空域を遠見でね。まさか地上で交戦中とは思いもしなかったけれど」
知っていたら敵の顔を拝んでやった。その顔が周波数を合わせるのに役立つ。
大川雛子の渡した紙とともに、竹神音が別の紙をテーブルに置いた。竹神音が出した紙には証言によく似た姿の人型が描かれている。
「これ、もしかしてバルァゴア」
「夜で暗かったから多少色味が違うとは思うが、補足を書き起こしといたから参考にしてね」
おおよその身長・体重・肌色・髪型・スリーサイズから足のサイズまで記されている。正面や背面の絵もあるので、魔物図鑑の一頁を観ている気分だ。
「魔力量も記されてるわね。魔力を探知できなかったんじゃなかったかしら」
「〔推定〕の字から察せられんかったかね」
「身体能力から推し量ったの」
「そんな感じ」
身体能力、主に筋力で発せられる運動エネルギと身体強化効果から魔力量を推定したのだと大川雛子は考えたが正解ではないのか。ともあれ、身体的特徴は正確性の高い情報といえる。
「ありがたいわ。ここまで情報がもらえるとは思わなかった」
「これなら周波数を合わせやすいやろ」
「さすがね。と、思わずいってしまう……。そういうのはいけないわね」
「祭り上げるようなのはね。お前さんのそれは憐れみに等しい」
大川雛子、否、大神凰慈もそうであったから。
「信心を束ねる旧家の当主として嫌でも部下を持つことになる。頭を下げるもんもおれば身を犠牲にするもんもおるわけやから」
「そんな存在が、幼いときからあなたには存在した」
「今も変わらんよ。俺を侮蔑すべき情報が手の内にあるやろう」
魔力漏出症に苦しんでいたはずの竹神音がいつからか寛解状態だ。魔法に精通し、悪魔の存在を知る者なら、竹神音が執った行動を、竹神音に娘が存在する事実から推測できる。
して、推測できた者はそれが真実だとしても暴き立てることがダゼダダのためにならないと思い至っている。ゆえに、竹神音は逮捕されていない。約二四年前に言葉真国夫が、約一四年前に言葉真恒子が拘置所で死亡しており、家督を継ぐ者がいない言葉真家は没落。防衛力として存在する広域警察や相末家、陰でダゼダダを支える大神家なども竹神音の魔法の前には霞んでしまう。動く保証がないとしても、むやみに拘束して動けなくさせるよりはずっとダゼダダのためなのである。
それに、広域警察は今もって竹神音を拘束する方針を秘めているが、どこからか圧力が掛かって逮捕が見送られたり失敗したり、そもそも令状が下りなかったり、と、不自然な状況が大神凰慈に報告されている。星川英の創設した第三田創を皮切りに無魔力個体の育成を目的とする教育施設が増えて無魔力個体の成長が著しい半世紀だったが、それでも魔法社会体制が総崩れしたということはなく、依然として魔術師の威光は幅広く有効であり毒のように社会を冒している。竹神音が逮捕されないのは、影響力のある魔術師が挙って竹神音に心酔して彼の逮捕を食い止めている──、などと、非現実的な憶測をしてしまうくらい、不自然な現状である。
「かといってあたしは密告しないわよ。やっぱり損だもの」
「『かといって、』って、何も言っていないのだがな」
「あなたならあたしの思考を読んで答えるかと思ったの」
「盗聴犯でもあるまいに」
そう言いながら竹神音が立ち上がって玄関へ。「どこか行くのかしら」と、大川雛子がついてゆくと竹神音が玄関扉をゆっくり開けて外を窺った。
「いらっしゃい」
「オト君、おはようございます」
……この声。
大川雛子は竹神音の背中から顔を出して、玄関先に佇む老婆を目にした。
「あなたは」
「あら、その顔は、大──」
「川、雛子よ。希しいわね、こんなところで」
「ふふふ、そう、ヒナコさんですか」
と、微笑む老婆は日向像佳乃である。
……本当に来ているとは。
大川雛子は緊張が走った。素性を知っている数少ない人物の一人が日向像佳乃であるから、と、いうだけではない。
竹神音と日向像佳乃はのんきだ。
「改めて、おはようございます、オト君」
「おはよう、お婆さん。変らず瑞瑞しい若葉のようやね」
「ふふふ、お婆さんを揶揄うもんではありませんよ」
「本音やけど」
「それをいうならヒナコさんもですよ」
「この子は魔力の作用やろう。無魔力のお婆さんは別格よね」
「ふふふっ、お上手ですねぇ」
のんきだ。本当に。
理由は定かでない。不審な動きのあった日向像佳乃を観察していた侍従の話によれば、突如真剣での為合となった二人だ。その為合はあまりに人間離れしており、侍従は慄えながら観察したものの、為合が終わったか、と、いうときからの記憶がなく、目覚めると八百万神宮の前で倒れていたそう。竹神音が侍従を気絶させて運んだことが考えられた。それは余談なので横においておく。竹神音と日向像佳乃は因縁の仲であろうになぜ和める。大川雛子は、訝しむほかない。
「暑いし、お婆さんも入りんさい」
「枯れ葉が燃えるような猛暑日ですからねぇ、遠慮なくお邪魔します」
竹神音の招きに応じて日向像佳乃が入室すると、大川雛子はついてゆく。竹神音が南の席について、向いの席に大川雛子と日向像佳乃が並んで座った。
……改めて観ても、因縁の雰囲気がない。
兄によれば為合後も一箇月に一回は会っていた二人であるから和解したと考えられないでもないが、大川雛子は尋ねざるを得なかった。
「二人はどんな関係なの」
「加害者と被害者やね」
「加害者と被害者ですねぇ」
「……どちらがどちらなのかしら」
「『……』」
気が合う、とは、当然ジョークで、二人とも明答を控えたいようだ。
竹神音が大川雛子の持ってきた行方不明者リストをさりげなくスライド。日向像佳乃の目をリストに向けさせて、
「用件を聞こうか」
「まさしくこれです」
と、日向像佳乃がリストを指した。「ヒナコさんも動いとるようですからわたしが出張ることもないんでしょうが、はて……」
「佳乃サン、何か気になることでも」
「行方不明の方方の住所は広範囲にまばら。ヒナコさんの情報網は異次元ですねぇ」
「佳乃サンの情報と突き合わせてもいいかしら」
「二、三、七番目の行方不明者ですね」
「田創町内の行方不明者ね。どうやってその情報を」
「老人には老人の繫がりがありまして」
「町内会とか」
「中には魔物の姿を捉えた者もおります、ちょうどこのような」
竹神音の描いた絵を指して微笑む一三一歳の若若しさは底が知れず、顔の広さも侮れない。
「〔バルァゴア〕ですか。わたしが知っとることは各備考欄にそのまま書かれとりますし、紙のほうが多く書かれとります。侍従方はよう調べとられますねぇ」
「そっちのは音サンの情報だけれどね」
「どんな敵かと想像はしとりましたがこれでわたし個人の認識としてもはっきりとしました。侍従方の調べてくれた情報……、行方不明者の共通点は〔それなりの有魔力個体〕とのこと」
「ええ。低レベルの有魔力や無魔力を捕食しても効率が悪いもの」
その辺りも分析して紙に記載済み。
「佳乃サンは何をしに」
と、大川雛子は尋ねた。「わざわざ音サンを訪ねた。目的があるでしょう」
大川雛子にうなづき返して、日向像佳乃が竹神音を視た。
「共闘を求めたく。少数精鋭で確実に魔物を討伐せねばなりません」
多勢に無勢という言葉もあれば一騎当千という言葉もある。少数に制限するのは多勢でどうにもならない一騎当千の相手を想定している。日向像佳乃もバルァゴアの戦闘能力を多少知っているということだろうか。
「佳乃サンはどうやって相手の強さを測ったの」
「バルァゴア一体が短い時間でこれほど捕食しとる、と、するなら、わたしも遭遇したことのないような強力な魔物です。それ以上のことは対面せねば摑めませんねぇ」
日向像佳乃は過去に何度も魔物と対峙している剣豪だ。バルァゴアに対する推測はかなりざっくりとしているが、柔軟な対応を想定して視野を狭めていないということ。経験を活かしてその歳まで生き残っているのだから、たとえ感覚でも信頼できる。
「音サン、どうするの」
メンドーの一言で拒否。大川雛子はそう読んでいた。案の定、
「メンドーやね」
と、答えた竹神音が継ぐ。「必要とあらば放逐はしよう」
「『……』」
大川雛子と日向像佳乃は目を交わした。
放逐、とは、追い払うという意味で、討つという意味が含まれていない。
大川雛子は尋ねる。
「なんで斃さないのか聞かせて」
「魔物だからという理由で殺すことを俺は好かんからやよ」
「巡邏に集束のようなことをいうのはなんなんだけれど、既に八人は殺されているわよ」
「俺は単なる引籠りで魔法も独学やけど、一応、理屈もある」
竹神音曰く、「バルァゴアは恐らくテスムナでも相当上位の魔物やよ。あれをむやみに殺すと呼水になる危険性が高い」
大川雛子は思わず掌で制した。
「ちょっと待って。バルァゴアが幻獣界から来た確証は。名前の有無ではちょっと弱いわよ」
「成長具合からいって何億年生きとるか、魔法学的・生物学的に窺い知れんヤバイ奴やったから、〈天産魔物〉の可能性は低いと思ったんよ。で、魔物の本拠たる幻獣界テスムナから渡ってきたもんやろう、って、推測するのは普通の流れやな。ただ、それでもやはり強すぎる」
天産魔物というのは自然物に穢れが蓄積して生まれた魔物のことで、個体魔力量からある程度の生存日数が判る。バルァゴアの個体魔力量だとこの星で生まれた魔物と考えることが難しく、幻獣界テスムナからやってきた個体と竹神音は推定し、さらに、幻獣界テスムナでも有数の実力者と捉えた。バルァゴアに匹敵する個体魔力を持つ者がこの星に存在していることが推測を裏づけているのだろう──。
「名前があること。それが、一定レベルに成熟した社会が存在することの証明と捉えるなら、能力面の推測を確証づける材料にもなると考えたのね」
「そう。低くて幹部クラス、高くて始祖直系一親等やね」
と、竹神音が述べたので、大川雛子はもはや仮面を割るしかない。ここまでの話は惑星アースと照らした類推に過ぎないはずなのに、いやに具体的な単語が竹神音の口から出てきたようだったからだ。
「お待ちを。詳しく聞かせてください。幻獣界に社会構造があるのかどうかすら私は存じません。音さんはご存じなんですか。幹部や始祖、ですか、それらの基準はいったいなんです」
「すまん、名称はテキトーで基準なんかないよ」
と、オトが頭を下げて、言葉を正す。「いろいろ憶測しとるんよ。あんだけの高能力者が育まれるならただただ捕食に生きる本能的な生態系で終わるか。答を否とするのは不誠実かね」
……まだ類推の域、か。
竹神音特有の憶測力が発揮されていたようだ。
「確証は未だない。しかし、オト君の言葉も一理ある……」
日向像佳乃が膝の上で両手を重ねた。
幻獣界テスムナに一定の社会や秩序があるならバルァゴアを失った際に報復と言わんばかりにダゼダダへ総攻撃を仕掛ける体制があるのでは。そうなったとき迎え撃つダゼダダは無事で済むか。針小棒大に言って荒唐無稽な対策を張るのがいいとは言わないが、人命が懸かっているなら大きな網を張って実態を捉えるにつれて狭めるのが正しい対策の仕方である。それで網が大きすぎたとしても被害がなければ皆の平穏が保たれるのだ。
しかし観察の目は多いに越したことはない。大きな網を張るにしても形が大事だ。考え込んでいた日向像佳乃が示した可能性はこうである。
「『ダゼダダ側が総攻撃を懸念してバルァゴアを討伐しない乃至見逃す』と、見越してバルァゴアが魔力を潜めて動き続け、ダゼダダの弱体化を図る。とは、考えられませんかね」
「可能性としてはあるし、それを副題に動いとる可能性もあるかもね」
「副題。物のついで、と、いえますか」
「プランBとも。要するに、主目的があって、そのついでにいろいろな策を講ずる。わざわざ魔力を潜めてこちらの警戒を煽って気を引いとるのはそうされても構わんかそうさせたい部分がある。何かしらの作戦に利があるってことね」
竹神音は合わせた両手に顎を載せた。「まあ、そこまでやられるとこちらは後手ばっかやから考えるより動いたほうが早い。その点でお婆さんの策は正しいよ」
「少数精鋭で討伐ですね」
大神凰慈は日向像佳乃を向いた。「その少数精鋭に音さんを入れるとしたら、ほかに誰を組む予定がありますか」
「最前線はわたしとオト君。バックアップのために広域警察本部署長のヤワラ君と可能ならオウジさんにも参加していただきたいところです」
「(最前線を音さんと佳乃さんに任せきりか。)バルァゴアと交戦した音さんの経験から推して、前線を二人でどうにかできますか」
「俺は含めんといてね。バルァゴア一人ならお婆さんが斃せると思うよ」
「佳乃さんが訪れる前に話していたんですが、バルァゴアのほかに規模不明の本隊か別働隊が存在する可能性があります」
「状況がひっくり返る可能性が大いにあるんですねぇ」
「そうです。最悪の想定をして、十二分の戦力を集める必要があります」
最低ラインが精鋭であることは論ずるまでもない。魔力を潜める相手は無魔力個体のように捉えがたく、魔力に頼った戦い方をする者では返り討ちの危険性が付き纏う。竹神音の記した備考によれば、バルァゴアは瞬間移動じみた高速移動をする上、身体能力が極めて優れている。竹神音との交戦時は魔法を使っていなかったようだが、潜めた魔力を解放して魔法を使う可能性もある。そのような相手にぶつける戦力は、牽制的・威圧的な瞬間移動に魔法のための集中を妨害されかねない魔法主体の術者より柔軟な対応が可能な武術に秀でた者が望ましいということになる。竹神音と日向像佳乃以外で大神凰慈が思い当たるのは二人。ともに、竹神音の娘だ。
「音羅さんと謐納さんに協力要請できませんか」と、大神凰慈は尋ねようとしたが、
「それはなしで」
竹神音が大神凰慈を視て。「あの子らはまだ弱すぎる。KOなら許容範囲やけど、触れられて即死では学びの余地がない」
「触れられただけで……」
竹神音が娘の安全確保に手を抜くとは考えにくい。
……つまりこの備考は、真剣みがあるということね。
竹神音の描いたバルァゴアの脇に記された数数の備考。その一つに、先も少し触れたバルァゴアの個体魔力量が記されている。
〔推定1.3億mp。〕
mpは魔力量を示す単位。それを基に、魔法社会体制では無魔力個体を含めた個体にFからA、そして最上をSとしたレベルをつけている。Fが無魔力個体、Eから上が有魔力個体だ。S級にランクづけされる天才的有魔力個体が保有する個体魔力量は一〇〇〇mp以上であるが中でも際立って強い魔力を持つ天才中の天才が存在する。一二英雄の面面がそうであった。レフュラル表大国の聖瑠琉乃が三・五万mp程度、神ラセラユナが一二万mp程度と推定されている。ここで竹神音の記した備考に戻れば、悪神総裁を退けた時の英雄すら超越した異次元の魔物がバルァゴアであることを理解できるだろう。
「バルァゴアはどの程度の脅威と音さんは考えていますか」
「せやね、悪神討伐戦争における敵将、悪神総裁ジーンの魔力総量と単純に比べるなら、バルァゴアはおよそ半分以下の脅威といえる」
「ならば退けることも不可能ではないということですね」
魔力総量で劣った一二英雄が悪神総裁を退けたように、結束を固め知恵を絞ればバルァゴアに対抗できるはずだ。
「なるほど、強い魔力を持つ相手だからこそわたしが斃せるということですねぇ」
と、日向像佳乃が納得した。「神威ならば物理攻撃も魔法攻撃も等しく相手に撥ね返すことができます。どんなに強い魔物も、強さが仇となります。さらに、相手の魔力を感じ取れない無魔力個体の特性上、一・三億もの魔力によって生ずる魔力波に気圧されることもない」
「まあ、そういうこと」
魔力流動の中でも強力なものを魔力波と呼ぶ。無魔力個体は魔力流動や魔力波を感ぜず、有魔力個体は暴風のように体感する。有魔力個体は強い魔力から発せられた魔力波を感ずるとその感覚も相俟って思わず足が竦んでしまう。突風に煽られたときにバランスを保とうと屈んだり踏ん張ったりするのと同じ反射であるから防ぎようがない。戦闘中の魔力波は、発すれば牽制と成り得、受ければときに命取りだ。
「例外的に魔力と影響し合う無魔力個体もおらんことはないけど、一般論的にお婆さんは適任やね。超震波による積極的攻撃も可能やし」
「超震波……!佳乃さんは、剣技をそこまで極めていたんですか。(そうか──)」
竹神音と日向像佳乃、二人の為合を侍従が観て慄え上がった理由が解った。剣技の中で人間が使える域にないとされる〈最高剣技〉が存在する。それが、一撃で国を滅ぼすと恐れられる超震波。侍従が気を失ったのは竹神音がそうしたのではなく、世にも恐ろしい究極の剣技を目撃してしまったためだ。
「オト君、軽軽に口に出していいことではありません。驚かせてしまいました」
「チームになるなら連携のために知っといたほうがいいかと思ったんよ」
「心の準備ができて幸いです……」
知らずに観ていたら大神凰慈も気を失ったかも知れない。「ですがどうにも心許ないです。一・三億mp、S級有魔力個体一〇万人に等しいバルァゴアに剣術が通じるのか……。身体強化効果で弾き返されそうな気がします」
「だから撥ね返せん神威が主体の最前線構成。お前さんは神威を使えんからバックアップに指定されたんよ。戦闘域から一般人を逃す役回りも込みね」
「それは勿論ですが、瞬間移動じみた高速移動を使う相手でしょう。点や線、よくて面の剣技では、」
「心許ないと。使えもせん人間が見限るんやないの」
竹神音が鼻を鳴らした。「下手な魔法より神威のほうがよっぽど頼れる。使い手がお婆さんならなお信頼できるわ」
「おや、おや、オト君に大層推されとります。これは張りきらんにゃなりませんかね」
おどける日向像佳乃だがあらゆる外敵の駆逐に奔走して武勲を挙げており、悪神討伐戦争の頃には一般人でありながらひとびとを守った、知る人ぞ知る剣豪だ。
「国内の戦力を考えると佳乃さんの参戦は心強いですが、音さんにも確実に参戦していただきたいです」
「どの道その流れになるんやろうし、いっか。血みどろは好まんから協力するよ」
竹神音が消極的ながらうなづいた。
頼んでおいてなんだがその協力姿勢を大神凰慈は少し疑った。以前有事への対応を頼まれたことから、事に関わらないほうが彼らしくも感ぜられる。娘が失踪者リストに載りかけたことを理由に協力を確約できるものだろうか。
「本当に、いいのですか」
「間違っても途中で降りたり裏切ったりはせんから安心して」
と、先を読んだ回答があった。「内心穏やかじゃないんよ。教育中の娘が道半ばで食われそうになったんやから」
娘竹神謐納が狙われたことがよほど頭に来ているということ。
「オト君が参戦する理由もあったわけですねぇ」
「ん。前線で肩を並べるときはよろしくね」
「ええ」
曰く加害者と被害者。その関係に目を瞑って協力する積極性。それを信用したとして、その姿勢を台無しにする危険性を無視してはならない。
「どういった理由で加害者や被害者になったか想像の域を出ませんが──、最後までダゼダダ側を守るために協力する、それを約束できますか」
どちらが加害者側であるか。それは言葉通り想像の域を出ないから、大神凰慈は二人に目を配って尋ねた。
二人の答は、
「信頼できんから問うたと理解した上で、無論やね」
「国を守るため個人の感情を伏せるのは当然のことですねぇ」
示し合わせる暇などなかったことは大神凰慈が一番解っている。
「あなた達の言葉を信じます。改めて、ご協力をお願いします」
「ん」
「こちらこそ。此度の艱難、ともに乗り越えましょう」
疑うべき点は疑って慎重を期し、信ずるべきときは信ずる。そうでなければ信頼関係は簡単に崩れてしまう。二者の言葉とうなづきを、大神凰慈は信じて本題を進める。
バルァゴアが次に誰を狙うのか。
「お二人も考えてください。バルァゴアが次に狙う有魔力個体は誰かを」
「三大国の有魔力個体はおよそ三・八六億人。内、ダゼダダにおるのは九二〇〇万人前後。その中でS級以上の魔力を持つもんは推定五五〇〇人余りやね」
「そう、五五〇〇人。行方不明になっている、恐らく亡くなっている八人もその内。もっと数を絞りたいんですが、できるでしょうか」
「警護対象を決めんと話にならん、って、ことやな」
神社の通常業務があるため五五〇〇人もの対象を警護する人材を八百万神社から投入するのは難しい。これは仮に広域警察の協力を得られてその非常勤人材を数に加えても変わらない。竹神音と日向像佳乃を頼るにも的を絞らないと守れない。
「一つ思うが」
竹神音が大神凰慈を見やる。「この絵と名を拠り所にバルァゴアを遠見できへんかな」
「あ──」
大神凰慈は失念していた。「やってみます」
今は、竹神音の絵や情報で姿形が判り、名前も知ることができて、ピンポイントでバルァゴアを遠見できる可能性がある。遠見できたら、狙われる有魔力個体を特定して先回りすることも、犯行前のバルァゴアを拘束することも、本隊や別働隊を確認することもできるだろう。
……、……。
瞼を下ろした大神凰慈は、「……見えませんね」
高速でダウンロードできる無音動画といえば判りやすい。見えるなら対象の周囲を含めてすぐ見えるのが大神凰慈の遠見である。チャンネルが合っていないのかバルァゴアが見えない。
「遠見の材料は揃っとる。向こうが圏外に出てまっとるんかもね」
「ダゼダダに潜伏しているのではなく、幻獣界に帰還しているのでしょうか」
「断言はせんよ。お前さんの遠見は惑星の裏まで届くわけじゃないんやろう」
「加えて北海や南海など一部見えない場所がありますが、海上で暮らす人間はおらず、三大国を始め人間が暮らす土地は概ね網羅しています。こちらの遠見の範囲を正確に知っているとは考えにくく、その対策として遠見の圏外に適宜逃れているとも考えにくいことから、幻獣界に帰還したと考えるのが現実的ですね」
「オト君に遭遇して暗躍が難しいと考えた可能性がありますからねぇ」
と、日向像佳乃が言った。そう。幻獣界テスムナが秩序ある世界なら、指揮系統が存在し、いわゆる報連相──報告・連絡・相談──もあるのではないか。バルァゴアは人間側に予期せぬ戦力が存在したことを幻獣界テスムナに戻って報告し、次の指示を待っている。だから遠見で姿を確認できないと推測できる。
そもそも幻獣界テスムナの位置は不明だ。惑星アースのどこか、または隣り合って存在する異世界、と、いう世界的見解はあるが、大神凰慈の遠見の最大距離から考えると惑星アース上にあるとは考えにくい。現状はバルァゴア始め魔物の動向が摑めないことが問題だ。バルァゴアが幻獣界テスムナから出没するという推測は遠見の結果と辻褄が合うので正しいだろうが、間違いも想定していろいろな見立てでさらに対応策を考えることが大事である。とかく被害を抑え、暗躍する魔物の脅威を取り除かなくてはならない。
日向像佳乃が立ち上がった。
「わたしはヤワラ君に協力要請を出しましょう。治安維持に関わることですし、行方不明者の件が耳に入っているなら拒否することもないでしょう」
「ひとまずそちらをお願いしてもいいですか」
「オウジさんはオウジさんのお仕事を。お先に失礼しますね」
お辞儀して竹神邸を出た日向像佳乃を見送ると、竹神音が玄関にとどまったので、大神凰慈もとどまった。
「……バルァゴア以外の敵は未だ判明していないんですよね」
「別の部隊が存在するか否か。バルァゴアみたいな魔物の存在も想像はしとったが遭遇は想定してなかったからな、何が起きてもおかしくないと考えといたほうがいいと思うよ」
「虚を衝かれれば命を落としてしまう。心構えが必要ですね」
大神凰慈の言葉にうなづき返した竹神音がしばらくして玄関扉を開けて、
「おかえり」
と、迎えたのは出掛けていた家族である。
大川雛子の留守番はここまでである。ダイニングに置いていた資料を素早く回収して竹神一家に会釈した。
「じゃあ、そろそろ帰るわね」
「雛子さん、また来てくださいね」
と、竹神羅欄納が微笑む。「主人も悦びます」
「それはよかった。またお土産話を持ってお邪魔します。今度はお菓子なんかも用意して納雪サンと仲良くなりたいわね」
そそそっと竹神音の背中に隠れてしまう末子。
……そろそろ慣れてくれてもいいんだけれど、可愛いなぁ。
善人が豹変することはある。警戒心があるのはいいことだと捉えて大川雛子は竹神邸をあとにした。
……音さんの協力を得られたのは大きい。
あとは、バルァゴアを放逐するにしても討伐するにしても、環境を整えておく必要がある。魔物放逐・討伐作戦時にひとびとが巻き込まれないように八百万神社全体で作戦をバックアップしなければ。そのための通達が大神凰慈の一番目の仕事。次に、いざ放逐・討伐をする際、大神凰慈や天白和がどのように竹神音と日向像佳乃をサポートするかを考える。バルァゴア以外の魔物が存在するなら各所との連携を踏まえて対応パターンを練る必要がある。
……そも、放逐するか、討伐するか。
放逐してもバルァゴアが戻ってくるのでは意味がない。それを危惧して討伐しても別の危険を招くのでは意味がない。バルァゴアひいては魔物の目的がなんなのかしっかりと捉えて対処すれば戦いを回避できる可能性も生まれよう。相手の出方次第で話し合いの場を設けることも想定せねば。
……と、なれば、和さんに会いに行かないとな。
日向像佳乃が協力要請に向かってくれたが大神家当主として大神凰慈も彼の助力を請わねばならない。
……遠見も、定期的にやろう。
バルァゴアの動向が判るならそれに越したことはない。次に狙われる有魔力個体が誰か絞ることはできなかったが、その辺りは広域警察を指揮する天白和とも考えよう。思いつきや気づきがあれば竹神音と日向像佳乃に共有すればいい。
敵の全貌が見えていない。その中でできることをやってゆく。大神家と広域警察の連携は法律も含めて問題がないが、飽くまで一般人の日向像佳乃や曰くつきの竹神音が実働の中核に絡むので根回しが必要だ。政治中枢たる警備府を水面下で説得・納得させる国益が必要になる。
……その辺りも考えないとな。
諸諸の見通しを立てた大神凰慈は、広域警察本部署に赴いた。
ネイルや肌のケア、体幹ストレッチ、見映えのいい髪型の模索と実践する技術、やれば成果が出ることがある一方で、愚痴大会や足の引っ張り合いになる職場の人間との勤務時間外の付合いや怠惰の末の残業などは不要だ。不要なものは、概ね誰かのエゴイズムや価値観の押しつけや皺寄せだ。実益がないことはやるだけ無駄と誰しも解っている。それでも人間はついついやってしまうことがある。そう、確認だ。コンロの火や戸締りは典型例だろう。無駄でもやめられないことの中には、そうした確認行動が潜んでいることが多く、さらにその奥には別の何かが隠れていることも──。
竹神姉妹の六女夜月は高等部三学年生、一人暮しで空いた時間に仕事をしている。無駄を省いて効率よく活動していると自負する夜月であるが、日曜日はなるべくフリーにして相末学の動向を観察している。
ほぼ毎週日曜日、相末学が夜月の父竹神音も訪ねる。表向き父を訪ねているが内心はどうだ。夜月は読心の魔法が使える。相末学に我欲があろうものなら「もう来るな!」と容赦なく横っ面をぶん殴れると夜月は考えている。が、父が来訪を許す相末学、只者ではなかった。父を訪ねてきても話すことは魔導機構のことがほとんど、話が逸れても「将来のダゼダダが──」とか、「自分が世に資するためには──」とか、そんなことばかりで、内心も、
──あの魔導機構を使えばもっとひとびとに安心を届けられるかな。
──なるほど、あれを工夫すれば砂嵐を緩和できそうだ。
──みんな今日も平和そうでよかった。
などなど、我欲どころかひとのことしか考えていない一種の変人だ。
……絶対ぶん殴ってやりたいのに。
夜月はそう思いながら、今日も相末学を尾行・観察した。竹神家を訪ねていつも通り父と会話したあと帰途についた相末学を尾行すること数分。サンプルテ周辺の田畑を区切る農道の一角で相末学が脚を止めた。隠れる場所の少ない農道。夜月はサンプルテの陰に潜んで窺った。
(………………)
時折、相末学の心が無になることがある。意図してのものか、無意識のものか、相末学がどんな思いから無心になるか不明だが、決まって風景を眺めているときだ。
(……行こう。まだまだ、やらなければならないことがあるんだから)
我欲と表せられるか判らないが、相末学の唯一といえそうな我欲寄のその内心は、無心の直後にしかないのであった。
……でも、相末学は毎週家に来る。
それもまた我欲的行動、ひとに尽くすこともまた。と、捉えて、夜月は相末学を追った。しかしながら相末学は相末防衛機構開発所に直行すると休日返上の仕事に取りかかった。これも毎週のこと。夜月としては否定したいことであるが相末学は高徳であるらしい。同じく休日出勤している所員の士気が上がっているのは多くの内心から察せられた。
……ふん、認めるもんですか。
サンプルテを出て一人暮しの夜月は、開発所脇を東進、駅南の自宅に戻った。
ベッドに落ちつく。
──されども父上は存えましょう。誰がためとは申すまでもなきこと。
姉謐納の言葉を夜月は重く受け止めている。母や姉妹の想いを受けて、父は生きてくれる。それは夜月に取って望ましいこと。でも、父は自傷し、気を失ってまで魔力を棄てている。父は魔法の無駄遣いを嫌う一方、魔法は心で成るものであると考えている。ならば、魔法の素となる魔力を棄てることは心の一部を棄てることと同じではないか。
……屁理屈だとは解ってる。
そうとでも思わなければ、父の自傷を止める理由が見つからない。ただ、それでは屁理屈としても弱いから伝えられずにいる。
……ワタシは、なんて弱いんだ。
未成年といえども竹神家の一員として父が傷つく選択肢を認めてはならない。なのに、生存手段を否定することはできない。
……ワタシは、どうしたらいい。
助けられるものならいくらでも助けるがそうはさせてもらえない。だったらほかのことで奉仕するしかないのに手段が見つからない。納月や子欄のように地道に研究するのは性に合わないし、それが父を救うことになるとは思えない。家族が〈後悔の日〉と呼ぶ夜の経緯を聞くと、対症療法になるはずだった創作魔法の失敗が音羅を後押ししていたのは明白。失敗はできない。否定すべき自傷を苦肉の策としつつ、もっと効率的な延命手段を考えるのが家族の役目だろう。その手段が見つからないから、夜月は日日無力感を覚えるしかない。
翌日、学園に顔を出してすぐ帰宅した夜月は、当てもなく自宅付近をぶらぶらし、
……何をしてるんだ、ワタシは。
無気力で、気づけば昼だった。
「あ、ヤヅキ〜ン」
と、軽い声が呼びかけてきて、夜月は溜息を引っ込めた。中高生向け雑誌のモデル撮影でよく一緒になる仕事仲間で、外見は大人びているが同い年、岡畑真奈だ。
「こんなところで何をしてるんですの。アナタ、家は隣町でしょう」
「散策ダヨ〜。ほら、いい空気吸って気分リフレッシュしつつ新しい場所に触れてアンテナを磨かないと、ネ〜」
「ふうん、そういうもの」
「ヤヅキンはいいナ〜、何もしてなくてそのスタイルだなんて。アタシは日日努力、日日サクゴ?ダヨ〜」
「錯誤って、間違ってるだけになってますわよ。試行錯誤の間違いじゃなくて」
「ああ、そっか、それダヨ、それ。ヤヅキンは頭もいいっ、羨ましいナァ」
気さくなのが彼女の美点。方向性を除いて、彼女の努力を夜月は見習っている。
「せっかく会えたし、一緒に散歩しない?イイ感じなショップとか案内してほしいんダ〜」
「もしかしてアナタ、それが目当でここをうろついてたんじゃないでしょうね」
駅南口である。最寄のアパートに夜月が住んでいると岡畑真奈は知っていたが、細かい住所までは知らないから夜月との遭遇を狙って徘徊していたのではないか。
「あっはは〜、アタシついてるヨネ〜、勘が働いたんダヨ」
「徘徊してたんですわね……」
「毎日じゃないヨ、久しぶりダヨ」
以前も徘徊していたようだ。夜月は思わず苦笑して、
「どうせ時間もありますし、ワタシも気分を変えたいですから、付き合いますわ」
「やた〜。じゃ行こ〜!」
夜月の腕に引っついて岡畑真奈が歩く。
夜月は彼女を突き放すことはせず、腕をほどいて適度に距離を保って歩いた。近場の衣料品店に案内し、流行の服やアクセサリを物色させ、どれが似合うこれが似合うなどと言われるうちに時間が過ぎた。岡畑真奈が話すばかりで夜月はテキトーに相槌を打っていたが、夜月はもとより岡畑真奈が気を悪くしたふうはなかった。
複数の店を回って一五時過ぎ、
「お腹すいたネェ、あ、自販機はっけ〜ん」
スーパ横に並んだアイスクリームの自動販売機に岡畑真奈が駆け寄った。夜月はひとの流れを縫うようにしてゆっくりとあとを追ったが、
……ん……。
視界の隅、ひとの流れの一部に違和感があった。体感的なものだろうか、スローモーションのように観える人影が一つあった。夜月はそちらを意識しないように岡畑真奈の背中を視ていた。それも不自然な視線であるのだが妙な人影へ目を向けるのは危険な気がした。
……ヤクザか。女だから姐さんとでもいうのか。
一般人と異なる雰囲気のある人影であった。ひとの流れに紛れてスーパ脇の小道へ消えた。そのとき少し安心できた夜月は、思わず岡畑真奈に駆け寄った。
「ワタシも買うわ」
「選んであげよっか!」
「自分で選びますわよ」
「ざんね〜ん。これがおすすめダヨ〜」
「推しては来るのね」
夜月は別のアイスを買ったが。
「ヤヅキン、我が道ダァ」
「当り前ですわ。自分の意見を簡単に曲げるもんですか」
そうでなければあの父を救う道だって見つからない気がしている。地道な作業や研究は嫌いだが夜月には多少の頑固さがある。
自動販売機の脇に移動してチョコミント味のアイスを口に運ぶ夜月を、バニラアイスを買った岡畑真奈が怪訝そうに見る。
「それオイシイ」
「まずいですわ」
「えっ、じゃあなんで買ったノッ」
「(妙な人影に脚が震えたから気分転換。)アナタが言ってたんじゃなかったかしら、苦手なものも食べないと体に悪いとかなんとか」
「うん、言ったネ、でも食べないヨ、普通」
「そう。ワタシは気分で食べてるだけ。たぶん今後は食べませんわ」
「っははは、やっぱり我が道ダァ」
岡畑真奈がアイスを口に運んで、ふぅっと一息ついた。「なんでそんなふうなノ」
「唐突ですわね」
「アタシはネ、」
本当に唐突に岡畑真奈が言うのである。「ヤヅキンのこと最初見たときからずっと好きで、孤高な感じでカッコよくて、でも、誰とも打ち解けないから寂しくないかナァとか気にしてみたりもしたんダけど、必要ないみたい」
「そんなJCみたいな孤独、ワタシには無縁ですわ」
「リアルJCのアタシも無縁ダヨ」
岡畑真奈が誰とも仲良くなれる一種の才能を持っていることは、ひとを寄せつけない夜月と仲良くなっていることで証明されているだろう。
唐突な話題が許されている。夜月は彼女の今日を振り返った。
「アナタ、中等部はどうしたのかしら。今日は月曜日、祝日でもありませんわよ」
「えすけーぷっ、へへへっ」
屈託なく笑う岡畑真奈の口に、夜月はミント味をツッコんだ。
「ほぐぉっ!スゥッとする〜っ、嫌ラァ!」
「ちゃんと行かないひとへの神罰ね」
「ヤヅキンもじゃ〜ん」
嫌といいながら食べ物を粗末にせずちゃんと胃袋に収める岡畑真奈であった。
夜月は溜息ひとつ。
「どうかしたノ?」
「……いいえ」
岡畑真奈。どこか、音羅に似ているから、嫌いになれず突き放せないのだろうか。
……関係ない。
また屁理屈だ。家族の和さえあれば生きてゆける、と、思い込みたい。そんな屁理屈だ。
……羨ましく思ったこともあった。
父と音羅の関係は人間社会で忌むべきものであり、竹神一家の中でも特異といわざるを得ないものだ。が、夜月は、いや、夜月だけでなく複数の姉妹が羨ましく思っている。ただ、一線を越えることで堪えがたい苦しみが待つことも視野に入っている。だから多くの娘がサンプルテを早くに出ていった。夜月も、その一人だ。父には圧倒的な魔力と才能がある。それが失われることを危惧する者も存れば、単純に父の拒絶を避けたい者も存る。夜月も、いろいろ考えている。父への恋愛感情に葛藤することは嫌であるし、拒絶も嫌であるし、父の才能が失われることも嫌である。最も嫌なのは、父の消滅・死そのものである。
……孤高ね。
岡畑真奈の表現が事実だとしても、そうならざるを得ないだけだった。いつ狂気に身を委ねるか知れないほど心は混沌としている。姉妹全員を手に掛けようと考えてしまうほどに。
……ワタシだって、本当は──。
「寂しいんダヨ、学園にいると」
「……学園に友達がいないのかしら。アナタは誰とでも仲良くなる印象だった」
「仕事場はそうなんダけど、学園じゃアタシってモデルさん扱いだからネ〜」
実際にモデルだ。ファッション雑誌に毎月載っている。
「でもそれって友達と違うデショ〜。壁を感じるっていうノカナ〜。だからえすけーぷ……」
「そう」
「ヤヅキンは。なんでえすけーぷぅ」
夜月は単純に授業がつまらないから。自分で言うのもなんだが両親の才能ゆえか勉強など不要なほど魔法の実力があり、継承記憶のお蔭か頭もそこそこだ。
「どうでもいいでしょう、ワタシのことは。どの道ワタシはこれからもエスケープしますわ」
「スキップで高校生なんだヨネ。留年しないのすごいナァ」
「見習うといいですわ」
「そうしようっ。要領よくえすけーぷぅ」
「そこじゃなく──」
ドタタッ。
小道のほうから物音が響いた。
……あの人影か。
「なんダロ〜」
トトトッと歩いてゆく岡畑真奈の腕を摑み損ねて、夜月はひやりとした。
……妙な連中とは関わり合いになりたくない。
夜月の気も知らず、岡畑真奈が小道を覗き込んで、
「ちょっと〜、そこで何をしてるノカナ〜」
と、やや喧嘩腰で言ったので、無視はできなかった。岡畑真奈の陰から小道を覗く。物音の原因であろう木箱と外れた蓋が転げており、そのすぐ近くの壁際に一人の少年を追いやる柄の悪い男子が二人。
……さっきの女じゃないみたいね。
ほっとした。弱い者苛めをしている魔力の弱い輩で、岡畑真奈の注意で逆上して一人が寄ってくる。
「あんだよぉ、カワイコちゃん、っと、二人もいんじゃん。相手してくれんのか?」
……あぁ、こういうバカどもは。
これは親譲りであろうか。「メンドーね」
「あぁん?」
「メンドーと言ったのよ」
夜月は寄ってきた男子の腕を触れて魔力を鎮静、身体強化効果を一時的に奪うと、その男子をぶん投げ、少年を壁際に押さえつけていた男子ともども転倒させた。
「どぉあっ!な、何しやが──!」
起き上がる間も与えない。男子二人の胸をヒールで踏みつけて見下ろし、ミニスカートの裾をわざと煽ってやる。
「ほら、満足かしら、坊や」
「『ひっ……』」
「ワタシが軽くてよかったわね、ヒールが刺さらずに済んだもの。下手に動くと刺さるけど」
にっこり笑ってあげる。「金よりいいものを拝めたでしょう」
男子二人が小刻みにうなづいた。
「いい子ね。このまま黙って下がりなさい。下手な手を出したら今度は刺さるわよ」
夜月は男子二人から降りると、立ち上がるのを手伝って押し出してやる。
「さあ、振り返らず。過ちは振り返るだけ損よ」
指示したでもないのに両手を挙げてびくびくと去ってゆく男子二人であった。
「ふん……、本当にメンドーですわね、ああいうバカどもは」
「っはは、やっぱりカッコいいナァ、ヤヅキン。あいつら有魔力だったんダヨっ」
「そう」
ほとんどずっと魔力を潜めている夜月のことを、岡畑真奈は無魔力個体と捉えている。夜月は男子達の魔力に気づいていたがそんなことはどうでもいいので相槌にとどめた。
カツアゲされそうになっていた少年が涙目でお礼を言って去っていった。年は夜月の一つか二つ下であろう。それもまた、どうでもいい。
夜月が気にしたのは、
「アナタ、一人のときまで危ないことに首を突っ込んでるんじゃないでしょうね」
「ううん、ヤヅキンが一緒だったからイケるかナァと思って」
「ワタシ頼み……」
「でも、助けてくれたヨネ」
屈託のない笑顔で。「ヤヅキン、本当は優しい人だって判ってたからネ、一緒に退治してくれると思ってたヨ」
「退治、ね。汚い口を塞ぎたかっただけですわ」
男というのはどうしようもない性格や性質を抱えているものだとは、父を観ていても解る。それが父のように優しさを秘めたものであるならいいが、私利私欲であると夜月はどうにも苛つくのである。
……同属嫌悪。
自分が私利私欲でしか動けていないと解っているから、夜月はそういう輩が目障りだ。どうして父の好くような性格に育たなかったのか、と、自問自答して自己嫌悪してしまう。
……相末学、か。
ぶん殴りたいのは、本当は彼ではなく、彼のようになれない自分のほうだ。
「ヤヅキン……」
思いつめた顔をしていたか。心配そうに覗き込んでくる岡畑真奈を手で招いて、夜月はスーパ前に戻った。
「さっきのことは忘れて。ワタシは忘れたわ」
「カッコよかったノに」
夜月は自販機を指差した。
「黙って買収されなさい」
「パンツ見せられながらヒールで刺されちゃうのはヤだもんネ。バイシューされちゃおっ」
嬉しそうに笑う岡畑真奈。残ったアイスを片手に指差しながら選び始めた。
……ふぅ、まったく、このひとは。
怒るに怒れない。突き放そうにも突き放せない。そんな空気が嫌いでないから、仕事場でもよく一緒になっていた。
……認めるべきは素直に認める。ちゃんと、大人にならないとね。
追加のアイスをおいしそうに頰張った同世代を可愛く思いながら、夜月はそんなことを考えた。
「今度は徘徊なんてしないで直接来てちょうだい」
夜月は、自宅アパート前まで岡畑真奈を案内して、そこで彼女と別れた。嬉しそうな彼女の声を背に階段を上がり、踊り場の陰で夜月は密かに笑った。
……友達って、こうやってできるのかも知れないな。
音羅曰く、素直に接してゆけばいつか解り合えると。そうして友達ができて、自分のいいところを磨き、悪いところを見直して、成長することができるとも。
モデルをやっていると嫌でも女同士の張合いに巻き込まれてうんざりする。うんざりする関係とも折合をつけている岡畑真奈だから、夜月はこう思えもした。
……いい友達になれるといいな。
いい気分で帰宅してすぐ、電話で母にやんわりと叱られてしまった。毎度のことだが授業をエスケープした件で学園に呼び出されたとのこと。父を助けたい。そんなことを思いながら両親に迷惑を掛け、心配までさせる体たらくなのだから、
……これじゃ駄目よね。
夜月はようやく少し反省した。
翌朝。生活態度を改めるべく早く起きた夜月は、目覚し替りにテレビを点けて、ニュース番組をBGMに朝食を作る。
「朝食といったらベーコンエッグですわね」
卵一つ割るのに三回失敗したが自分の稼ぎで買っているので勉強といえば通りもする。などと屁理屈を捏ねていた夜月の耳に飛び込んだのは、
〔──で、岡畑真奈さんと見られる遺体が発見されました。遺体は右腕がなく──〕
撥ねた油が目に入ったかのように、じわっと涙が出た。
……は……、……。何よ、それ。
一瞬、耳が塞がったように何も聞こえなかった。
聞き間違い。そうだ。夜月はテレビの前に躍り出て食い入るように観た。
ベーコンエッグが焦げてゆく。
……噓、でしょう、こんなの。
肌が、ざわついた。
顔写真が出ている。彼女が載っている雑誌もいくつか紹介された。
「(なんでよ……。)なんで、……なんでよ!」
当てつけのようにテレビにリモコンをぶつけた。跳ね返ったリモコンが机に接触、電源ボタンが押されたか室内がしんと静まって、遠くの焦げつく音が徐徐に大きくなっていった。
胸に巻き起こった感情の渦と向き合うことで精一杯だった。火災報知器が騒いでも動き出すことができかった。
──九章 終──




