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始章 大事の天秤

 

 多くの分れ道(わか  みち)がこれまでにもあった。

 今から選ぶ分れ道は、中でも特別なものになる。大きな転機を招き寄せるか可能性を潰えさせて、一方を選ぶことで一方が消えて永遠に戻れず交わらない道だ。それまでと異なる未来へ踏み出す分れ道はどちらを選んでも光と闇を混在させている。その度合が偏っていても、光を見つめれば爪先のように前向きになる。

 心が伴わなければどんなに大きな光があっても闇に囚われてゆく。

 許されることではないと解っていても選ぶほかない道がそこにある。許しがほしいのでも、哀れみがほしいのでも、ない。許されなくても理解されなくても、竹神(たけみ)(おと)は闇の深いその道へ踏み出す。左手で握った新月のような刀を足許の娘に向けて──。

 

 

 分れ道を進んだ足は数秒前と全く異なる地面を踏み締める。

 きっかけは些細なことである。例えば、動くことと動かないこと。どちらも異なる道へ進む些細なことだ。ひとは息をしながらにそれを選び続けている。立ち上がること一つ取っても、動く・動かないを選択する。選択自体に目的がなくても、その先の目標があれば必ず有意義な選択をする。目標を持つ者の多くは、そうして動くことを選ぶ。

 ひとによっては刃とも表せられるもの。それは言葉であり、相末(あいまつ)(まなぶ)に取ってはまさしく刃であった。

 ──ほら、ゲーノージンって親がモンダイ起こすじゃん。お前の親もそうなんじゃないの?

 自分に振るわれたのならば我慢すればよい。切り返すことは難しかった。

 他者に振るわれた刃を看過してしまったことを罪に思い、反省し、行動したこと。それが、相末学の選択であり、きっかけとなった。

 ──昨日はごめんなさい。

 日を跨いで、なんとか、刃を振るわれたそのひとに、そう謝った。そのひとはとても穏やかで公平ですぐに許した。相末学はそのひとと友人になり紆余曲折──。

 

 相末学が竹神(たけみ)(おと)と再会したのは一八歳のとき、彼が暮らすアパートを訪ねた。

 何度目かの訪問の日、いつものようにダイニングテーブルを囲んで話していると、

「そろそろ呼び方をどうにかしようかね」

 と、竹神音が言った。

 彼の妻になる予定であるという(セント)羅欄納(ララナ)、彼と彼女の娘である竹神音羅(おとら)がその場におり、相末学はそれぞれ奥さんや娘さんと呼んでいたのだが、

「何か問題がありましたか」

「なんとなくね」

 彼が感覚的に恐らく不都合か違和あるいは不愉快を示した。「みんな『竹神さん』じゃ混乱するから却下として、俺に対しては苗字が慣れとるやろうから、羅欄納と娘のことは名前で呼べばいいんやない」

「いいんですか」

 将来的に「竹神さんと奥さんと娘さんと下の娘さん」と長長と呼ばれる状況を回避できるとは言え、妻を名前で呼ぶ男がいたら、古い友人でもない限り夫としては不愉快ではないか。ひとによっては消しようのない感情が湧くだろうが、

「初恋でもあるまいし他意のない呼称にいちいち嫉妬したりせんよ」

 と、彼が欠伸混りだ。「羅欄納はどう」

 ちかぢか夫になるひとの提案に自身の意見を交えて聖羅欄納が答える。

「古来、対象並びに責任所在明確化と情報伝達円滑化を意図したもの、現代はさらに対象人物の任意としたものが呼称です」

「小難しく遠回しにゆうな。要約せぇ」

「相末さんのお好きなように呼んでください」

「だそうだ」

「では、竹神さんの提案通り羅欄納さんと呼びますね」

「はい」

 落ちついた喋り方の聖羅欄納は好感の高い笑顔を崩さず話しながら家の中の雑務をせっせとこなす働き者であり、動きたがらない彼に必要不可欠なひとだろう。

「お前さんはどう」

 と、彼に意見を求められた竹神音羅も笑顔が似合う少女で、

「わたしは名前がいいかな。娘さん、って、近くにいるのになんだか遠い感じがするもの。なっちゃんも名前がいいと思います」

 と、ちゃんと目を視て(み )主張できる子である。

「では、あなたのことは音羅さんで、ほかの子達はまた都度訊くことにします」

 竹神音羅を長姉とした二姉妹は生まれたばかりだが竹神音の魔法で既に言葉を発するほどの成長を遂げており、身長を比べたら母親の聖羅欄納が末妹のように見えてしまう。次女竹神納月は遊び疲れたのか相末学が訪ねたときには眠っていたので、呼び方の確認はあとにした。

 それはともかく、

 じー……。

「音羅さん、ぼくの顔に何かついていますか」

「あ、いいえ、なんでもないです」

 そう言いながら、竹神音羅はちょくちょく相末学をじーっと。穴が空きそうだ、とは、口にしないが、「ぼくの顔に何か」と何度も問うと変なので相末学は時折竹神音羅にも話を振って竹神音羅の目が暇をしないようにした。

 

 そんなふうにして相末学は竹神家の各人を名前で呼ぶようになって、さらに時を経た。

 感謝を伝えよう。心を曝けるように瞼を開いて相手を見つめ、決して顔を背けず、平に、切に、気持が届くよう願って、飾らない言の葉を紡ごう。それは必ず彼の心に届く。

 偽りの音を彼は必ず聴き分ける。壊れたガラスが過敏に他者を悟る。反面、腫れ物を触れるように踏みつけにされることも崇め奉られるように疎まれることも慣れてしまっている。伐り拓かれる森や埋め立てられる海あるいは侵蝕される空のようにひとのいいままに扱われて、ただ終りを待っているかのようで──。

 謝罪からも再会からも数十年が立った。若き日と同じ彼を、相末学は対席で見つめていた。彼は変らず顔を伏せているが意識を傾けてくれていることは応答で解る。

「──、と、少しバージョンアップできました」

「よかったね。現代魔導学の真髄に手が届いたようで」

「竹神さんが話を聞いてくれるお蔭です。いつも、ありがとうございます」

「愉しむといい。自ら考えて形にできるというのは得難い経験やから」

「はい。所のみんなと分ち合いながら、頑張ります」

 初老と表されるような年齢に達してようやく相末学は多くを推し量ることができたようだった。それでも不足を感ずるのは、計り知れない質量を今昔の彼から感じている。

「竹神さんは、どうですか」

 蜜柑の山から不思議な小人や毛玉が窺っているのは、相末学ではなく彼のほうだ。

「竹神さんは得難い経験を望みませんか」

「充分やよ」

 安アパートの一室。ここで満ち足りている。噓でもなく真実でもないだろう。彼はそういうひとだ。彼の言葉を素直に受け取って応えるのが相末学のスタンスである。

「もしぼくが関われそうなことがあったら呼んでください。微力を尽くします」

「機会があればね」

 その機会が訪れたことは一度もなかった。

 別れの挨拶を交わして、月明りに映えるアパートを振り返る。

 ……、……。

 呼ばれることはなくとも、積み重なってゆく関わり。胸を占めるものは、昔に失ったとてもあったかいものだ。

 

 

 片隅にひっそりと灯る記憶。

 際限のないエネルギを向ける場所が見つかりすぎていたそのとき果てのない宇宙を感じて暴走するような好奇心のまま駆け出そうとするのは生まれ立ての宇宙が粒子の放出や核融合現象や星の誕生といった営みを活発に行うように自然であった。地を捉えず空転する脚やその場でくるくる回る体に愉しさを憶える無垢さを自覚することもなく景色を見渡して己のなすべきことを探し、まだ見ぬ壁に挑むべく準備運動をしていたのだろう。

 宇宙のような広い空間。音羅はそこに父といて、長い話を聞いた。心が躍ってほとんどの内容がすっぽ抜けたが、一つだけ、憶えている。

 ──傷つける炎でなく、ひとに寄り添いあっためる(あかり)でありなさい。

 父がそんな言葉遣いをするのは変なスイッチが入ったときだがあのときはその限りでもなかった。ひょっとすると、普段から落ちついた口調の母の言葉と父の記憶をごちゃ混ぜにしているかも知れない。古い記憶はどんどん薄れてゆく。両親から受け継いだ記憶〈継承記憶〉はその性質が著しかったが、自身の体験もそうであった。

 しかしだ。

 音羅は、確かに今も思っている。

 ……わたしは、誰かを守れるかな。

 ひとに寄り添いあっためる燈。そのような存在になりたい。そう、思っている。

 いくつもの準備運動を終えて、いくもの壁を乗り越えて、いくつもの休憩を挟んで、辿りつくのはいつもスタートラインだ。果てない壁越えをこなしているようなものだろうか。漫然たるメビウスの帯のようでいて発展してゆくこの道が、音羅は愉しかった。

 音羅の自宅〈サンプルテ〉の南約一〇〇メートルのところに、親友野原(のはら)(はな)が営む〈たんぽぽ(えん)〉という保育園がある。日が沈んで空気が冷えつつある仕事の帰途に必ず寄ってゆく。跳び越えられる高さの門を横に少し開いて、燈の洩れる事務室へ。屋内のカーテンが開いているので中の様子を観て扉をスライドさせた。

「こんばんは。花はいますか」

「竹神さん、こんばんは」

 デスクで書類片手に振り返った冬木(ふゆき)敦也(あつや)は開園当時から事務職として働いている。敦也に力を貸している透明感のある金色や水色のハムスタがあっちこっちで書類を片づけているのはお馴染の光景である。

「花さんは奥で掃除中だよ。粗相があったから念入りに」

「毎度大変ですね。お邪魔します」

「どうぞ」

 上履きを借りた音羅は事務室に上がると扉を閉めて奥へ。日中、保育士などの職員が三〇名以上勤務し、年平均五〇名の子を新しく預かる保育園だ。廊下を挟んで五つの部屋と多目的室がある。

 事務室から三つ目の部屋で割烹着姿の花がモップ掛けをしていた。こちらにもハムスタと同じ存在──分祀精霊(ギフトスピリット)──である綿毛、愛称ワタボウがたくさんいるが手脚や口がないので手伝えることが少なく、花のあとをついて回るのみである。

「花、お疲れさまです」

「おぉ、もうそんな時間か」

 音羅の来る時間はほぼ決まっているので時計(がわ)りである。一部ワタボウが分れて音羅にくっつくのもお馴染の光景だ。

「ワタボウさんもお疲れさまです」

「ふぅふぅ」

「こいつらはふわふわしてるだけだって。もうちょっとで終わっから待っとけ」

「うん」

 壁に掲示された絵に音羅は目を留めた。「増えているね。どれも可愛いな」

「ヘッタクソだろ。何がなんだか判んねぇ絵ばっかだぜ」

 今年六六歳の花は高等部時代の面影を残してより逞しい。「真ん中のなんかあたしだっていうんだぜ。どこがぁ」

「ワタボウさんに囲まれて満開の笑み……、そっくりだよ」

「っへへ、ありがとよ」

 第三田創魔法学園高等部で学んだ格闘技術を、花はたんぽぽ園の子達に継承している。たんぽぽ園を卒園して高名な武芸者に成長した者も数知れない。魔力を持たない〈無魔力〉でありながら優れた冒険者として名を馳せる者も存れば、いつか観た学園長が如く有魔力の身で武芸を教える道に進んだ者もいる。いずれも花を恩師として挙げ、花がいなければ今の自分はなかったと言う者も。今の園児も花を心から慕っている。

 モップ掛けを終えた花が振り向いて、

「うっし、あとは仕上げの殺菌〜っと」

「手伝うよ」

「仕事()んのかよ」

保育士(みんな)が帰る前にしっかりやってくれているんでしょう」

「人任せが堪えらんねぇ」

「花らしいな。勝手にやるよ」

「へいよ」

 殺菌剤を浸した真新しい布巾で床を隈なく拭く。園児が粗相をしなくても花が毎日している仕事で、見習った音羅は時折手伝っている。

 全ての部屋の床掃除を終えたのは三〇分後。掃除用具を片づけて事務室に向かう前に、音羅は花を引き止めて尋ねた。

「何かあった」

「ん。別になんもねぇけど」

「掃除、今日は進みが遅かったでしょう。別の何かで後倒しになっていたんだよね」

「あぁ、そういうこと。いや、ほんとなんでもねぇよ」

 壁に凭れて天井を仰いだ花が白髪混りの前髪を除けて(よ  )おでこに手を当てた。

「格闘教えてるとき喧嘩が始まって一方が一方を、ってな」

「保護者が苦情を言ってきたんだね」

「そゆこと」

「ちゃんと止めたんだよね」

「間に合わなくて怪我させちまったから親が怒るのも無理からんってトコだ。──」

 保育士が治癒魔法ですぐに治したが、怪我をした園児が拳を振り翳した園児への感情を親に伝えた。

「──。子ども預かってる身だからな。怪我させそうならちゃんと止めるのも務めだ。耄碌(もうろく)したんもんだぜ、まったくよ」

 かなり応えているようだ。園長になって初めての事態でもない。年を取り体に負担を感じて気が滅入りもするだろう。

「あたしのことはいいさ。お前はどうなんだ、仕事」

「わたしは普通、かな」

 音羅は花に並んで壁に凭れた。生徒の頃と同じようで、違う。老いた花とは正反対に、音羅はあの頃と外見も体調も変らず健康そのもの。

「今日は子ども達に食べ物を届けたよ。消費期限が切れていない冷凍食品や地物野菜をね。そうしたら『飲物がほしかったなぁ』って。小さい頃わたしもジュースを飲んでいたから気持は解るけれど、ジュースじゃお腹は膨れない。形あるものをよく嚙んで食べないと」

「だな。普通そうで何よりだ。あたしも通常運営にしっかり持ってかねぇと」

 花がふと漏らすのは、「学園長みたいにハツラツと、ってのは、なかなか難しいもんだな」

「一〇〇歳を超えていたなんて思えなかったものね」

 音羅達が学園長と呼ぶのはただ一人、第三田創魔法学園高等部の元学園長星川英だ。

「あたし、あと何年だ。三四年ちょいか。そんなに生きられんのか怪しいぜ」

「花ならあと五〇年は余裕だと思うよ」

「いや逆にそこまでは生きたくねぇ。シワッシワのカピッカピになってそうじゃん」

「ふふっ、いいじゃない、シワッシワのカピッカピ。生ける伝説の誕生だよ」

「魅力的な呼び名ではあるな」

 花がガハハッと笑って事務室へ歩き出した。横に並んだ音羅に彼女が言うのは、

「あたしの夢は叶ってる」

「それ以上は望まない」

「満ち足りてる、いや、満ち足りすぎてる。ほかに何を求める」

「う〜ん」

 手に余った幸せは行場(いきば)がなくなりそうだ。「天寿って言葉があるよね」

「ああ、あるな」

「生は授かり物だと思うから、天に還すまで手放さないようにしないとね」

「いいこと言うじゃん」

「ありがとう」

「お前にも何度も救われた命だ。大事にするさ」

「うん。……」

 自分の命もそうだろうが、花が大事にしているのはきっと他者の、特に幼い命である。その一つ一つが、他者を救う命となって世に多くの幸せを齎すことを願っている。

「どうしようもねぇ暴れん坊もいるからなぁ、しっかり教育してやんねぇと」

「花ならきっと導けるよ」

「お前も同じだな。いつも元気をくれる。今日もいい夢見れそうだ」

「安眠剤なのっ」

「っはは、間違いでもねぇな」

 笑い合って事務室に入ると、

「整ったよ」

 と、敦也が差し出した書類を花が受け取った。

「あんがとよ。どれ、どれ」

 敦也が先程見ていた書類だ。

「なんの書類」

「ほら、この辺りは耕作区域だってぇのに後継者不足か何年か前から家が建ち始めたろ。そこの住人がガキの声がうるせぇだのなんだの文句いいやがるから視界や日光が遮られないタイプの防音壁を設置することにしたんだわ。で、これは警備府に『補助金くれ』っつぅ申請書。もらえるもんはもらっとかねぇとな」

「さすが。やりくり上手だね」

「お前も日頃似たようなことやってんだろ。ロスしそうなとこ回って頭下げて、なるべく安くいっそタダで子どもの飢えを防ぐためによ」

 音羅の仕事は、貧窮したひとびとに最低一食を届ける。学園給食が一食当り平均三〇〇ラル前後という現代、それより安い一食分の食材や料理を量・質ともに充実させて貧困世帯に届けることに心血を注いでいる職場で、音羅は営業と配達を担当している。消費者動向のビッグデータを活かして大量発注の無駄を減らす取組みがかなり前から進められているが、小売店や飲食店など小規模事業者は店舗ごとの個性均一化が難しいためデータを取りづらく、流行を取り入れるような事業者ではさらに消費データの流動性が激しくなって無駄を減らすことが困難になる。そうして消費から零れた製品をただで引き取ってくれる相手を探している業者も少なくなく、音羅はそういう業者に営業を掛けて幸か不幸か食品供給には事欠かないため、このところは配達がメインの仕事になっている。

「どこかしらでお金を取らないといけないのが企業所属の限界だって感じている。もし、無料配給できるようになったら、もっと多くのひとを救うことができるのに、できていない……」

「花さんも言っていることだけど、それでいいんだよ」

 と、敦也が意見した。「ただになると堕落してしまう。勿論、体や心が不自由で働けない、雇ってもらえないひとには救いになるかも知れない。でも、そういうひとびと、絶対的貧困層は極めて少ない。そこへは本来、政治が手を差し伸べるべきなんだ」

「音羅んとこは絶対的貧困層に無料配給所って形で食事を提供してる。何もしねぇ政治よりはずっと積極的だ」

 敦也に次いで花がそう言ってくれるのは嬉しい。

「それでもね、配給所に来られないひと達のことを考えるとやっぱり限界がある。何年もその課題を乗り越えられないでいる。それは怠慢だ、って、感じているんだ」

 積極的行動で救える命があることを、音羅はおよそ五〇年忘れたことがないが、体制という強固な壁を打ち砕くことは困難。政治の消極性、企業の限界、どちらも、音羅は変えられていない。貧困層の意識の堕落はまた別の問題である。

「胸張れよ」

 花が書類を確認して励ます。「うちを卒園したやつらも言ってる。山田んとこの竹神部長はよくやってる、てな」

 一家心中をせずに済んだ。とは、音羅が直接仕事先で聞いた感謝の言葉だ。

 第三田創卒業前にファミリーレストランsugarsで働いていた音羅は、就職の相談に乗ってくれた店長の紹介でsugarsの元経営母体〈山田(やまだ)食品(しょくひん)運送(うんそう)〉に入社した。

 ……花も言うように、役には立てている。それでも満足できないのは──。

「事実と気持の違いかな」

 敦也が苦笑した。「山田家傘下企業の業績は竹神さんを雇用した頃から急上昇して今ではダゼダダ在住者の一三%が勤めるトップ企業に上りつめている。それが最終目標じゃないから竹神さんはかつてない貢献にも満足できない」

「そうだろうな。こいつのことだから自分の功績なんてこれっぽっちも思っちゃいないだろうし」

「力仕事以外あまりできないわたしがよくむちゃな提案をしてしまうから、人手が必要になったんだと思うよ」

 と、言った音羅を花が一瞥した。

「その辺はあたしと同じようなもんかな、満ち足りてても満足できねぇって部分も」

「うん」

「ま、やれるとこまでやるこった。諦めたら何事も()らねぇ」

「そうだね。やれるところまでやってみせるよ」

 音羅の張ったネットワークは企業のネームバリュに支えられている。山田食品運送の竹神部長という肩書がなくなれば食品供給から困難になるだろう。そうでなくても自分なりの社会貢献や展望は山田食品運送で得たものであるから、水面下で背任的独立計画を推し進めるのは音羅の選択肢にない。山田食品運送に寄与しつつ絶対的貧困層を救う道筋を見出す。正面からこれを行えなくては弱者救済が社会基盤強化に繫がると企業や政治が認めてくれない、と、考えている。

 敦也がお茶を淹れて、音羅に出した。

「ところで、お父さんの加減はどうかな」

「変らずですよ」

 五〇年も。「いろいろあったのに、いつも動きません。今日も何もしていないでしょう」

「いつぞやの金塊採掘以降だっけ。嫌でも動きたくなりそうなもんなのに、逆にすごいぜ」

 花が呆れると、お盆を片づけた敦也が笑った。

「国家間の嫌な噂を聞かないから、お父さんも動く必要を感じていないのかも知れないよ」

「それに託つけて動いていないようにも観えます」

 と、音羅は本音を言った。国家間に不穏な空気がないことは非常にいいことである。生まれた頃のようにテラノアから毎週のようにミサイルが撃ち込まれて、核兵器を使うのではとか、あの熱源体攻撃を仕掛けてくるのではとか、怯えることがなければ心穏やかだ。その分ダゼダダは国内に目を向け、貧民問題に取り組むことができた。音羅が社会貢献できたのは時流と活動が一致したことも大いに関係しているのである。あとは、安寧の維持を目指してダゼダダ国内の不安の芽であるところの貧民問題を完全に解決するため絶対的貧困層の救済を行いたいのだが、それが足踏み状態であるから音羅はやきもきしている。父が力を貸してくれないかと思いたくもなるが、父がそれを夢に描いているかというとそうではないだろう。夢の賛同者にこそ協力を求め、ともに歩み、目標を達成したいと音羅は考えており、その指針は相対的貧困層を救済するに至った。絶対的貧困層の救済にも漕ぎつけたく、そこに思いの伴わない父の力は不要。足を掬われないよう、父のみならず思いの伴わない人物への協力要請を絶対に避けなくてはならない。そのためにも貧困層救済事業は時間を掛ける必要がある。

 ──お前さんに寿命はない。

 と、父から聞いた。老いない理由は、どうやらそういうことらしい。

 天寿はなくとも、お金という概念と仕組に苦しめられるひとびとの救済という天命はある、と、音羅は思っている。

「書類を読まないといけないんだよね。今日は帰るよ」

「すまねぇな」

 花の支えになることはいつからか敦也の専売特許となっていた。少し寂しく思うも花の人生のパートナは彼冬木敦也であると音羅は認めてもいる。音や声に関するご近所トラブルは前前からあったことだろうが音羅は聞いていなかったし、仮に聞いていたとしてもいいアイデアが浮かばなかっただろう。相談を受けた敦也が防音壁での解決を提案した。実績があるのは彼。そういうことである。

 くっついていたワタボウを花に渡してたんぽぽ園をあとにした音羅は、燈の洩れる事務室を敷地の外から振り返り、農道へと踏み出した。

 足下の月明りは自然の優しさ。サンプルテの燈は家族の優しさ。

 時が、花を送り迎えした日日を思い起こさせる。風は冷たいが寒くはない。ボッと火の粉を散らしてプウが現れると、より温かく感じた。

「プウちゃん、このところワタボウさんと遊んでいないし、出てくればよかったのに」

「ピィぅ」

 ぷいっとそっぽを向いてしまう反抗期(?)のプウをにぎにぎしてあげると、そっけなくも肩に跳び移って丸くなった。爬虫類を連れ歩く人間が少ない一般社会では不気味がられるので木彫りのヘビっぽいプウは精霊の一種といえども表に出られる時間が少なく不自由だ。ストレスを発散するための反抗期と受け入れた音羅は、プウの頭を指先で撫でて瞼を閉じて歩いた。

「いつかまた、みんなに受け入れてもらえるといいね、プウちゃん」

「……」

 本来の姿でいられないストレスもきっとある。音羅の身長の二倍ほどまで成長したプウだが人目を引かないよう今は小さくなっている。尻尾をくるくると巻いた姿は幼い頃と同じだが返事をしなかった。

 俯き加減に歩いていた音羅は、

「おかえりなさい」

「……学さん」

 柔らかな声に応えて顔を上げた。

 相末学。星川英を彷彿とさせるような優しい声と柔らかな物腰の老紳士である。

 互いの歩を確かめるように立ち止まり、顔を合わせた。

「学さんは父と話した帰りですね」

「この道程も何十年目かの日課です。音羅さん、お仕事お疲れさまです」

「学さんこそ、お疲れさまです」

 相末防衛機構開発所を父親から受け継いで所長を務めている相末学である。

「所のほうは順調ですか」

「みんなが頑張ってくれて、ぼくは顔を出す必要もないくらいです。平和の時代。紛争荷担を迫られることもない」

「嬉しいことですよね」

「無論です。永劫、そうであってほしく、そうであるべきとも思います」

 学がコートを脱いで音羅の肩に掛けた。

 ……温かい(ぬくとい)

「サイズオーバですがプウさんと一緒ならちょうどいいでしょう。着ていってください」

「学さんは、」

「大丈夫です。ぼくは慣れていますから」

 笑顔で。学が多少無理していることを察しているから、音羅は嬉しい。コートの内側で垂れ下がったプウがマフラのようだ。

「ありがとうございます。洗って返しますね」

「はい。では、あ、そうです、送ります」

 学が手を合わせて、「家の前で返してもらえれば、洗濯を押しつけなくて済みます」

「学さんも凍えなくて済みますね。よければ、お願いします」

 一月の夜空を学のエスコートで歩き出す。音羅は右手でコートの前を閉じて、学の白髪を見上げた。学の視線は、遠くもないサンプルテに一直線。

 音羅は、再び足下へ視線を落として歩いた。自然の優しさが灰色の農道を際立たせて侘しさも醸し出す。

 不意に、

「何かありましたか」

「え」

「音羅さんから何も話さないのは希しいな、と、思いました」

「……。じつは云云(うんぬん)で」

 サンプルテに訪れる学にはこれまでにも話せることを話してきたので、少し話せば花との関係の変化が伝わった。

「落ち込んでいますか」

「どうなんでしょう。落ち込んでいる、と、いうより、何か……どうしようもなく手放さなければならないような気がしていて、それが寂しいんです」

 関係が悪化したでもなく、親友であることはこれからも変わらない。けれども、パートナが音羅に限らなくなった。

「『独り占めじゃなくなっちゃった』って、もう大人なのに、おかしいですね」

「誰しもそうじゃないでしょうか」

「わたしに合わせなくてもいいんですよ」

「いいえ、解らないわけではないので」

 学が肩を上下させた。「ぼくが竹神さんに会いに通っていたのはそういうことなのかも知れないと思っているんです」

「父に会いに行くことが、独り占め……」

「ええ。竹神邸は未だ近寄りがたいところとして世間に認識されています。それは、竹神さんが恐れられ、反面仰がれた影響だけでなく、今では天下の竹神部長が住んでいるからということもあると思います」

「わたしはそんなに偉くは」

「音羅さんがそう思っていても事実そうなんですよ。余所様を訪ねようとすれば理由が必要になりますが、何かの繫がりがなければ見つからないものです。肩書のある相手ならなおさら」

「……」

 その点は、音羅にも経験がある。花の家族に会ってみたい、と、考えたことがあったものの自分からは言い出せず、卒業後しばらくして花に誘われて初めて会うことができた。

 

「君の話はよく聞いてるよ」

「よければあなたの話も聞かせてほしいわ」

 花の両親は歓迎してくれた。床から離れられず健康とは程遠い、痩せ細った体だった。花から聞いた断片的な話を繫ぎ合わせたところによれば花が中等部に通っていた頃にはさして変りない状態だった。

 お見舞。理由はそれだけでよかったが、病人扱いしてはゆけないのではないか、とか、体調を崩しているのなら気安く訪ねても迷惑ではないか、とか、変に気を遣って訪ねなかった。一度会ってからも訪ねにくく、三〇四二年の初めに亡くなったことを、後日に聞いた。

 なんでもいいから理由をつけて会いに行けばよかった。それでもっと花の話や本人達の話を聞けばよかった。床から離れられない体でひとと話すことが少なかったこともあるだろう、愉しそうに話す二人の笑顔がとても心地よくて、本物の家族と過ごしているような居心地だったのに、生まれながら裕福だった自分が貧しさから体を崩した二人に会いに行くことに、どこか負い目のようなものを感じて会いに行けず、音羅は、後悔した。

 

 そんな後悔をしても訪ねていないひとが音羅にはいる。両親の両親、つまり、祖父母。ときに厳しくも優しい両親の親だ。きっといいひとだ、と、考えてはいるが、両親が積極的に会いに行っている様子はない。仕事があるから、やりたいことがあるから、と、言えるくらいには現在の生活に打ち込めているため音羅から訪問を切り出したこともない。

 ……気軽に訪ねるのは、難しいな。

 一度も訪ねていない祖父母のところへはなおのことだ。

 学が話を戻す。

「ぼくは、竹神さんの家に五〇年来通って普通のことのようになっていますが、一般的には稀有なことだとも思っているんです」

「(きっかけを大事にできただけじゃなくて、継続する熱意があるから、稀有な繫がりを保てるんだろうな……。)確かに、毎日のようにうちを訪ねてくるひとはほとんどいません。月に一回くらい、管理人さんやヒイロさん、それに雛子さんが来るくらいです」

「五〇年前に比べれば増えましたね」

「父は迷惑そうです。あ、学さんのことはそうではないですよ」

「そうなんですか」

「直接聞いたわけではありませんけれど、雰囲気でなんとなくです」

 学に対して父は至って穏やかでほかの来客に比べると歓迎しているようだった。ほかの来客を邪険にしているかというとそれはよく判らないが、来客本人が足を遠ざけない程度に迎え入れている、と、いうところだろう。

 音羅はゆっくりと視線を上げて、白髪を見つめる。

「管理人さんというのは以前住んでいた緑茶荘の」

 と、学が訊くので、音羅はそっと星を見上げた。

「たまに学園で剣術指南をしているすごいひとで、前に試合をしたことがある父と再び試合する約束をしているみたいです」

「さぞ愉しい試合だったんでしょうね。ヒイロさんは勉強家で好奇心旺盛ですから竹神さんから学ぶことがとても多いんでしょう」

「学さんもヒイロさんとは同窓生なんでしたね」

「ええ。彼ほど蔭で努力できるひとはそうはいません。ところで、雛子さんというのは」

「そういえば学さん、雛子さんと会ったことがないですね。sugarsは覚えていますか」

「音羅さんがアルバイトをしていたファミリーレストランですね」

「雛子さんはそこの先輩で、貧困層の心境についていろいろと聞かせてもらいました」

 下流階級との距離の縮め方は花との関わり方から経験的に学んだ部分も大きかったが、「必死に働いているひとに取って上流の手助けが歴史の轍を踏む選択肢に観える」という雛子の言葉も大切だった。

「そのひとは下流階級に関わりのある方なんですね。雛子ということは、女性ですよね。羅欄納さんとは大丈夫ですか」

 音羅の母ララナと雛子のあいだで父の取合いなど複雑な関係が発生していないか推測しての質問だ。音羅は微苦笑を抑えきれなかった。

「一悶着がありましたよ、ずっと昔、父が浮気しているんじゃないか、って」

 ただし、音羅が勘繰って納月が話を膨らませて三女子欄《こらん》がややこしくしてしまった。本当はただの友人という落ちで、母が荒立てたのではなかった。

「──、父にはあとでじとっと叱られました。『阿呆どもめ』って」

「それは災難でしたね。ふむ……」

 学が考え込むそぶりを見せたところでサンプルテに到着した。

 音羅はコートを脱いで学の肩に掛けた。

「貸してくれてありがとうございます。あったかかったです」

「どういたしまして。音羅さん、感心しませんよ」

「はい。何がですか」

「社会人ですから帰宅時間が遅いのは譲るとしても毎度そんな薄着では。何かあったときどうするんですか」

 母に倣ったようにワンピースしか着ない、と、いうこともないが薄着は薄着だ。

「ダゼダダにもときどき雪が降りますものね」

「そういう意味ではなく、──」

 学が説教くさいことを言うのは、音羅の口数が少ないことと同じくらいに希しい。ちゃかすことでもないので、音羅はまじめに受けた。

「今度からは上着を着るようにします。学さんが風邪を引いたら申し訳ないです」

「ぼくのことはいいんですが、音羅さんの──」

「はい、着るようにします。おやすみなさいっ」

 音羅は会釈。「学さんも早く家に帰って温かくしてくださいね。なんなら父か母に頼んで空間転移で送ります」

「自分の脚で帰りますよ」

 学がくすりと笑ってコートの前を閉じた。「音羅さん、おやすみなさい。また会いましょう」

「はい、……また」

「ピゥ」

 ぺこりとお辞儀し合うとプウも小さく鳴いた。

 家に入ってそっと鍵を掛けると、音羅は靴を脱ぎつつ框に足を掛けた。

「ただいま」

「『おかえりなさい』」

 と、奥から応答。子欄以降も両親が次次子を作って、音羅の妹は計七人になった。今このアパート〈サンプルテ〉の一〇三号室にいる妹は一人。とことこと歩いてきて音羅とプウを出迎えたのがその妹、末妹納雪(なゆき)であった。

「お疲れさまです」

 粉雪が地上に積もるような小さな声。出迎えてくれた納雪の頭を、音羅は撫でてあげた。

「お出迎えありがとうね、(ゆき)ちゃん」

「……おねぇさん、元気、ない」

「ううん、元気、元気っ。お風呂に入ればもっと元気だよ」

「それならよかったです」

 にこにこ。音羅の調子がいいと納雪が笑う。

 妹が笑顔でいられなくなるようなことを音羅はしたくない。少し沈んだ心も、学の心遣いや納雪の笑顔で元気になったので、言ったことは噓でもない。

 外見年齢に差のない納雪が甘えん坊のように腕を絡めて連れていったダイニングに父の姿。

「パパ、ただいま。今日も通常運転だね」

「素晴らしい皮肉をどうも」

「平和だなぁって思ったんだよ」

 学園での騒動以降、父が動く姿を見ていない。金塊採掘事業などで動いていたようだが国や組織が絡む大きな動きを見せていないという意味である。

「俺が動くと事件が起こる、なんて、思ってないよね」

「順番の問題かな。事件が起こったから動くんだよね」

「年がら年じゅう事件は起きとる。誘拐だの略取だの監禁だの引っきりなしやよ」

 音羅が言っているのはテレビを点ければ耳に入ってくるようなことではない。個人が小規模対象のために起こす事件もないほうがいいが、個人または団体が企業や国といったものと争う大規模事件を指している。

遣り手(や て)部長ともなると馬鹿ではおられんか」

 父の言葉は、ずしりと来る。

「パパや花だけだよ、今もわたしを馬鹿っていってくれるの。少し安心する」

「ドM」

「ドは余計だけれど、そうかも」

 厳しい環境に身を置くと自然と抗いたくなる。そこで何かを打ち砕けそうだからか、大事なものを見つけられそうだからか、最後は不満ばかりでもなくなる。でも、不自由のぬかるみを感ずるわけで──。

「湯は沸いとるから入ってきぃ」

「うん、ありがとう」

 音羅はキッチンに声を向ける。「ママ、今日のご飯はなぁに」

「自炊を実践しましょう」

「仕事の日は食べるのが専門だよ」

 母から料理を習っていても仕事のあとに作る気はまったく起きない。

「私も働いております」

「ママは要領がいいなぁ」

「音羅ちゃんに作る気がないことはよく解りました」

 笑って許してくれた母が、「麻婆豆腐ですよ」

「やった。ご飯もあるよね」

「ダゼダダの食卓に欠けてはならないものです」

「よっし。じゃ、雪ちゃん達と一緒にお湯いただきます」

 音羅は普段着の納雪を抱っこ。キッチンからちょこんと顔を出した母が、

「のぼせない程度にしっかりと湯に浸かってきてください」

「『はい』」

「ピィッ」

 音羅やプウとともに納雪も小さすぎる声で返事。音羅より耳の利く両親が、

「いい返事やね」

「よい返事です」

 と、納雪にも反応した。「音羅ちゃん、よろしくお願いします」

「任せて」

 料理をしない音羅でも納雪の相手はする。脱衣室に入ると納雪の服をすぽーんっと脱がせて自身も軽快に脱ぎ、器用に頭の上に登ったプウを落っことさないように浴室へ。洗面器で湯船の湯を何杯か浴びると、納雪を上から順に洗って先に湯に入れてあげた。次に音羅は自分の髪と体を洗い、水洗いしてあげたプウを肩に載せて、湯船で納雪と向かい合った。

「っふぅ〜……今日も頑張った〜。雪ちゃんも頑張ったかな」

「うん、写しを描いたよ」

「そっか、前に雪が降ったときに写真を撮っていたんだっけ。綺麗に描き写せたんだね」

「うん。次は広幅十二花(ひろはばじゅうにか)の結晶を描いてます。ヒレみたいなのがいっぱいついていて綺麗なんです、花みたいで」

「そんな形のがあるんだね。雪ちゃん、物知りだなぁ。ご飯を食べたら観せてくれる」

「うんっ。観てほしかったから、描きかけですけど、お願いしますっ」

「もう可愛いなぁ、雪ちゃ〜ん」

 湯が温かいからというのもあるだろう、頰を赤らめて極上の愛らしさを見せた納雪を思わずぎゅっとしてあげたくなる音羅だが、人間を吹っ飛ばすほどの腕力は時を経るごとにパワーアップしているので妹の骨を折らないよう撫でるにとどめた。

「はふぅ〜……──」

「ピィぃ……」

「おねぇさん、プウさん、二人とも眠いですか」

「ん、大丈夫ぅ、眠くないよ〜……」

「ピぅ〜……」

「そう、ですか」

「うんぅ、眠くなぁい……」

 音羅が抱き締めない(かわ)りに、納雪が音羅をぎゅっとした。

 ……ああ、気持いいなぁ。

 湯の中、納雪の素直な体温に音羅は心が洗われるようである。

「ありがとう、雪ちゃんぅ」

「あぁ、溺れてしまいそうですっ。上がりましょう、おねぇさん、プウさん」

「そうだね〜そろぉそぉごぼっ上がろうかぁっ」

「ごぼぼっぴゅぅィっ!」

 心地よさについ溺れてしまう魅惑の湯を、音羅とプウは納雪に引かれて上がった。

 音羅達がパジャマを着てダイニングテーブルにつくと、何年同じ姿か知れない父が食事の様子を聞いている。それに音羅が気づいたのはつい最近のこと。単なる反射かも知れないが、たまに父の耳がぴくりと動く。その昔、音羅の髪の乱れなどを観ずして指摘していたのはきっと音を聞き分けていた。鋭敏な耳を持っていることは特筆すべき点と言え、その耳を自分に向けていてくれたことに音羅は感激したのだった。

 ……でも、──。

 たくさんの愛を知った。そんな自分で存ることに側面ではあるが後悔の念をやはり持ってしまった。予想していたことなのに、どんなときより恐かった父を思い出してやまない──。

「音羅、食べるか考えるかどっちかにしぃよ」

「食べるね、うん」

「そうしぃ」

 ……、……。

 父は心の言葉を聞いて反応する。音羅はそれを普通のことと思って気にしていなかったが、約三三年前の〈後悔の日〉から父の前で無心であるようにした。父を目に入れるとどうしても父の愛を知って胸が締めつけられる。愛に満ち満ちた怒りを想起して涙が出そうになる。

「……」

 プウがじっと見つめているが応えられない。

「おねぇさん……」

「あ、うん、大丈夫だよ雪ちゃん。おいしいね、麻婆豆腐」

「うん……、おいしいです」

 母の作るものはいつも絶品で食卓に自然と笑みが零れる。納雪が笑うと一層に和む。

「ママ、これってもしかして味噌が入っている」

「コクを出すためにほんのりです」

「本当にすごいなぁ、仕事をしながら毎日このクオリティだもの」

「好きでやっておりますが、広い意味ではこれも私の仕事。クオリティは当然のことです」

 母が柔和な笑顔。

 その母が来たる苦悩を予想して苦しいとも厳しいとも悲しいともつかない表情で言ったことを音羅はたびたび思い出す。

 ──押し寄せる風雨に吞まれぬことです。

 その言葉を聞き流した心境が音羅にはあった。(わたしは吞まれない)、(なんとかなる)と、自信過剰に未来を楽観していた。

 苦悩に吞まれかかっている音羅を知る母がわけもなくテーブルを見つめていることがある。

 今でこそ父は母と軽く話すようになったが、後悔の日から冷たい態度が覗くようになった。

「維持する余裕があるなら上げることも考えるべきやね」

「さらなる試行錯誤の必要がございますね。精進致します」

 今日は麻婆豆腐にケチをつけた父に、母は笑顔で応えた。

 雰囲気が悪くなることを懸念して音羅は口出ししないようにしていたが、母が苦にせず応ずるさまに父が付け上がっているように感じて、

「パパはまともに稼いでから言ったらどうかな」

 と、言った。「ママはたくさんのひとに知識や経験を伝えて、家庭教師として責任ある仕事をしている。パパはどうかな。おんぶに抱っこでも観ていれば文句は言えるよね」

「小賢しいね」

 顔を上げず父が含み笑い。「お金が社会貢献の対価と存じての言葉と受け取ろう。なれば何かしらの寄与をしていない絶対的貧困層の救済を謳うお前さんは自己満足一辺倒の愚か者ということの自白でもある、」

「っ」

「と、気づいてなかったんやね。小賢しいとの評価も過大評価やったな。俺は相変らずお前さんに甘いらしい」

 変らず口達者の父は他者を推し量ることに絶対の自信があり、他者を説き伏せることに長けている。が、観察は意図してか否か飽くまで外面のことである。

「わたしは、生きているひとに無駄はないと思っているよ。だからパパを排除したりしない。でも、ママのことを考えたらパパは自分をアピールしてもいいとも思っているんだ。社会貢献じゃなくてもいい、もっと広くその力を活かして必要としてくれるひとを探すように動いてもいいんじゃないかと思うんだよ」

「社会貢献の入口みたいに『人助け』を使うな」

 父が微笑した。「何度も言っとるように俺は家におりたいんよ。それが俺の存在意義といってもいいし、お前さんはその意を含めて排除せんって言ったんやろ」

「そう、だね、そうだよ。でも、消極的だなぁ、って」

 音羅としては、母へ向かう冷たい態度が少しでも分散すれば、と、いう狙いもあった。

 父はそれを完全に見抜いている。

「俺に関わった奴は碌なことにならんよ。お前さんがそれを望み、それもまた存在意義というならやってもいいがそうとは思わんやろう」

「それは、うん、嫌な目に遭わせたらいけないよ」

「音羅ちゃん、まだまだでしたね」

 母が父の勝利と判定。「諦めず挑むことです。いつか及ぶこともあるでしょう」

「う〜ん……」

 庇う必要がないのだろうか。父の冷遇を母が愉しんでいる、と、音羅は感じてしまうことがある。家にいる納雪によれば、壁を隔てたような両親の関係は音羅が不在のときも変らず、たまに険悪ですらある。高等部時代の音羅達の成長を狙ったように、母との連携で父の冷遇が成り立っているということは考えにくい。

 後悔の日からいろいろなことがおかしくなった。共犯者だった昔の両親とは違う。今では、俗に言う仮面夫婦。揃って目標に向かうことはない。それならばなぜ、父は母との関係を続けているのか。夫婦の感性が働いており、未婚の音羅には理解できないことなのだろうか。

 ……、ん。

 襖の開けられた寝室は誰もおらず燈が消えている。誰かに視られている気がして、音羅はそこを振り向いた。……やっぱり誰もいない。

 立ち上がって襖の陰を見てみたい気もしたが食事中に立つわけにもゆくまい。

「パパ、ママ、今日は誰か家を出入りした」

「ん。お前さんと羅欄納、それと相末君くらいやけど」

「留守中、納雪ちゃんが出ましたか」

「『また雪が降らないかなぁ』とか言いつつ俺の背中に垂れとった。重かった」

「ごめんなさい……」

 納雪が申し訳なさそうに頭を下げた。

 ……じゃあやっぱり気のせいだ。

 盗撮でもされているなら視線を感ずることがある。学を疑う余地が音羅にはなく、ほかは家族しか出入りしていないのだから盗撮の線はない。

「クムさん達は」

「ここ」

 と、父が蜜柑山の頂点を抓んだ。蜜柑に埋もれた毛玉な糸主と、糸主をもふっている小人なクム、どちらもぐっすりだ。

「ほかのみんなは」

「今日は結師だけやな。朝、お前さんの寝癖を梳いたきり来とらんよ」

「そっか。パパ、部屋にカメラを置いたりしていないよね」

「持っとらんもんは置けんわ」

「ママや雪ちゃんは」

「ええ」

「わたしのカメラはあそこですけど……」

 納雪が指す寝室の片隅、レンズキャップを嵌めた古いカメラは窓のほうを向いており視線を感じないと判っている。

 母が小首を傾げた。

「音羅ちゃん、先程からいったいなんの質問でしょう」

「ちょっと視線を感じたものだから、なんだろうと思ってね」

「ふうん」

 父が自分の後ろを右手親指で指す。「いつも窓から観とるヤツならおるけど」

「えっ」

「そうなのですか」

「いったい誰が……」

 音羅、母、納雪、それぞれ驚いて大窓のほうを向くと、父が顔を上げて目を丸くした。

「うわぁ、気づいとらんとは。魔導遠視スコープでいつも観とるぞ。淀んだ欲望の視線を感ぜられんのは警戒心の欠如やな」

「わ、わたし、怨まれるようなことをしたのかな」

「仕事をすると七人の敵ができる、なんて、よくある話やな」

「えぇっ」

 どこまで本当か知らないが視線でそこまで判るものか。と、いうか、そんなに視線が多いのか。今はカーテンが閉まっているので音羅の感じた視線とは別物だろう。

「今日もいろいろあって疲れたから勘違いしているのかも。雪ちゃんの絵も観たいし、冗談はここまでにして食べちゃおう」

 音羅は納雪と顔を合わせると箸を進めた。

 夜食と歯磨きを済ませて納雪と床につくと、音羅はスケッチブックを観せてもらった。貼りつけた雪の結晶の写真の横に、色鉛筆を使って丁寧に描かれた写し絵がある。一つとして同じ結晶はなく、頁を捲るごとに細やかになってゆく絵を鑑賞できた。

 ……ひとは、こうやって少しずつ成長していくんだなぁ。

 と、音羅はしみじみ思う。音羅を始め竹神家の子は両親の記憶を一部継承して生まれる。また、魔法によって一気に成長するので互いが互いの成長過程を観ることは少なかった。ところが、納雪は唯一、両親の記憶を少しも継承していなかった。生まれたあと一気に大きくなったのは同じで発声はできたが、意味のある言葉が出てこなかった。魔力はあるのに、七女刻音(ときね)までは当り前のようにできた魔法の行使もできず、納雪は、この一家で初めて人間的な稚拙さを持って生まれてきた子なのである。生後約一〇年が経つ今は声こそ小さいがきちんと話せるし、興味のあることに前のめりであるから、いずれは仕事や趣味に邁進するだろう。それまでの成長をゆっくり観られるのが音羅は愉しみだったりする。

「あの、……」

 スケッチブックを閉じた納雪が、音羅の腕に抱きついて何か言おうとした。音羅は妹の頭をなでなで。

「なあに、雪ちゃん。照れちゃうようなこと」

 父が入浴、母がキッチンで後片付(あとかたづ)け、テーブルからクムと糸主が起きてくる様子はない。音羅の枕許で眠っているプウを除けば、寝室は音羅と納雪の二人きり。

 納雪が躊躇いがちに尋ねたのは、

「おねぇさん、チョコ。……」

「チョコ。なんのことかな」

「〈ユガの祝日(しゅくじつ)〉の」

「ああ、そういうことか」

 一箇月後、二月一四日がユガの祝日。結婚・出産を司り女性の守護神とされる女神の祭祀が起り(おこ  )である。転じて、主に女性が意中の相手にチョコレートなどを贈って想いを伝えてきた日だ。国民の祝日のように休日にはならないが、今ではひとに感謝を伝えたり自分へのご褒美を買ったりする日としても広く知られている。

 ……もうそんな時期なんだよな。

 みんなに日頃の感謝を伝える準備をしなくては。

 会社ではユガの祝日に向けたお菓子類の企画がいくつも動いている。音羅はそちらの所属ではないので詳しくないが、余り物は毎年音羅の所属・指揮する廉価(れんか)食品(しょくひん)配達部(はいたつぶ)に回されるため無関係でもなく、立場上、忘れるイベントではない。しかし近年、二月といえばもっぱら納雪の誕生日というイメージになっており、同じく誕生日のある子欄が一緒に暮らした頃はカレーパーティをしていた。子欄が家を出てからは味気なくメールでお祝いしているが家族の誕生日を忘れることはなく、ユガの祝日より大事だ。

 音羅は納雪に応答する。

「わたしは特にあげないな」

「おとぉさんや相末さんは」

「パパと、そう、学さんには……」

 噓のチョコを、音羅は父に毎年贈っている。また、同じような噓を潜ませたチョコを、学に渡している。

 ……わたしは、どこまで素直じゃないんだろう。

 幼い頃は、自他ともに認める真正直が音羅であった。時を経て、家族との衝突や社会での挫折を繰り返して、少し臆病になった。やりたいことはしてきたし、やりたいことをできている人生だと思っている。恵まれた人生だとも。だが、どこか煮えきらないとも思っている。

「本命は」

 と、納雪が尋ねるので、音羅は微笑でごまかした。

「雪ちゃん、誰かにあげるの」

「おとぉさんに」

「そっか」

 父とは別の意味で外に出ず、登園拒否している納雪。幼い頃の音羅達と違って盲目的に父を好いているのとは違うものの父以外の男性を知らない。

「おとぉさん、全然動かなくて心配なので……今年はすごいカカオのチョコをあげて、運動するように言うんですっ」

 幼くも決意の目差であった。

 ……それで動くパパならとっくに動いてくれたんだろうなぁ。

 と、いうのが音羅の素直な意見だが、納雪の気持を削ぎたくないので口にしない。

「一緒に買いに行こう。気持を伝えられるように豪華なラッピングを選んでみようね」

「うんっ。おねぇさん、ありがとう」

「ふふっ、どういたしまして」

 無垢な催促ならもしかしたら父も動くかも、と、いう気がしないでもなく、音羅は納雪に全面協力の姿勢であった。

 翌朝、視線に関する父の意見を思い出して無性に気になり、出勤する音羅は警戒した。

 ……窓から観ているってことならサンプルテの南だ。

 魔導遠視スコープを使っているという話もあった。近くにはおらず、望遠するようにしてサンプルテの、父曰く音羅達を観ている者がいる。格闘を学び魔法も使える音羅や、粗方のことができる両親はともかく、自衛手段を持たない納雪に危害が及んでは困る。

 ……誰かいるなら捕まえておかないとね。

 場合によっては山田食品運送の上層に掛け合って警備してもらうことも考えた。

 サンプルテの南方で遠望に適した場所は多くない。花の営むたんぽぽ園や家屋はサンプルテとのあいだに遮るものがないため疑う余地がある。それより遠くは、たんぽぽ園の南に木製の物見台や鉄塔があるが見咎められるので登らないだろう。念のため視認したが各所に誰もいなかった。仕事の帰途にも視線の主を注意深く探したが見当たらなかった。

 そのようにおよそ一箇月警戒したものの怪しい人物がいなかった。感じた視線は気のせいであり、父の言ったことはやはり冗談だったと音羅は断じた。

 ……なんだったんだろう、この一箇月。

 子欄に誕生日メッセージを送って、納雪と一緒にチョコを買い、会社のみんなに日頃の感謝を配って、同窓生の集いでとある異変を共有したが、音羅自身に目立った出来事はない。不審人物との接触などないに限るし平穏無事が一番だ。日常を守るためにはある程度の警戒心が必要なことを改めて学べてよかったと前向きに考えておくが、ユガの祝日、夜食を済ませた食卓で音羅は父に一言投げてやらねば気が済まなかった。

「パパ、からかったでしょう」

「っふふ、なんのこと」

 (めずら)しく面白そうに父が肩を揺らしている。音羅は溜息が漏れた。

「無意味な噓は本当にダメなんだからね」

「誰の望みが絶たれたわけでもないよ」

 父が顔を上げて音羅を視た。

「もう……」

 さまざまなことを察して配られた優しい目差に、強く言えない。悔しいことに音羅は学べてもいる。「大事なものが改めて見えた気がする。その点はありがとうね」

「結構」

 父が顔を伏せようとする。

「ああ、待って、待って、プウちゃん行ってっ」

「ピゥ」

 床を這っていた全長三メートル超、通常サイズのプウがするりと背伸びして、頭で父の顎を支えた。

「舌、嚙みかけた。こりゃなんの催しかや」

「理由はこれから。プウちゃん、ありがとう」

 音羅は(ひだり)斜向い(はすむか  )の納雪を促す。「渡すものがあるんだよね」

「うん」

 納雪がうなづいて、ラッピングされた箱を膝からテーブルの上へ。「おとぉさんに」

 納雪とタイミングを合わせて、音羅も箱を出した。

「雪ちゃんと一緒に選んできたんだ。受け取ってくれるよね」

「ふむ」

 父が一年ぶりに上体を起こした。

「誕生日がいつか未だ教えてくれないからそのお祝いもかねているんだ。受け取ってくれないならこの場で爆発させちゃうから火事になるね」

「食べて、ジョギングでも、……おとぉさん、してくださいっ」

 納雪が渾身の大声で言った。

 父が、鼻を鳴らすようにして微苦笑。プウに支えられることもなく顔を上げて、音羅と納雪の手から二つの小箱を受け取った。

「火事は困るし、納雪も頑張ったから受け取ろうかね。誕生日祝いは要らんけど」

「素直じゃないなぁ」

「反面教師になれてないみたいで残念やよ」

「あはは……」

 首を傾げる納雪の横で音羅は、気持を完全に見抜いているふうの父にごまかすような態度を執るしかなかった。床に戻ったプウが呆れたように見つめているがどうしようもなく、蜜柑山のクムと糸主の笑みから陰を取り去れない。

「オト様」

 母もいくつか箱を出した。「こちらは先日届いておりました」

「なっちゃん達からだね」

「ええ。それと雛子さんからです」

「雛子さんからも」

「毎年届いております」

「そうだったんだ」

 音羅が意外に感じていると、父は母から受け取った小箱群をテーブルに置く。

「律儀な家族だこと。あの子もね」

「義理チョコだよね」

「本命を手渡しせんのはだらしがないな」

「パパに言われたらみんなが泣くよ」

「義理しかないから問題ない」

 父が雛子のチョコを持った。「よくある板チョコサイズ。一〇〇均とかやないかな」

「義理中の義理だね。ママのは」

「これやね」

 父が今度は透明の袋に入った母のチョコを持った。小さな花がたくさん繫がっているような唯一無二の見た目なので手作りとすぐに判った。

「毎年可愛いね。わたしもそういうのがほしいなぁ」

「音羅ちゃん、会社の皆さんからもらっていませんでしたか」

 それはそうだが、

「ママのチョコ、わたしは長いこともらっていないよね」

「親と同居とはいえ一社会人ですから」

「そんなぁ」

「納雪ちゃんにはございますよ」

 母が遅れて取り出したのは、父に渡ったものとは別の花型チョコが入った袋だ。

「小さい花と大きい花、二つも入ってて嬉しいっ!ありがとう、おかぁさんっ」

「どういたしまして。オト様と相談してたんぽぽとモクレンにしました」

「クムさんの頭の花に似ている、たんぽぽ。それじゃあ、こっちの大きい花弁のほうがモクレンですね。チョコで細かいところまで形になっていて、綺麗ですね……」

「作った者としては観察してくれて嬉しいですがチョコですからずっと持っていると、ほら、溶けています、食べてください」

「あわっ、い、いただきますっ」

 手作りしたとは思えない出来映えに躊躇いはあっただろうが、促された納雪が思いきってたんぽぽ型チョコをかぷっと。

「んふ〜」

 指を銜えた至福の笑みが、音羅は羨ましい。

「いいな〜っ。ママ、わたしにはないの」

「皆さんの愛をしっかり味わいましょう」

「ママの愛が足りないよっ」

「とうに成人したのですから親の愛をねだる(せぶる)ものではございません」

「そんなぁ」

 甘えたい気分になる日だってある。

 音羅が諦めかけたそのとき、父が自身の花型チョコを指先でおよそ半分に割って、

「はい、音羅。お食べ」

「いいのっ」

「音羅ちゃん……。オト様も甘やかしてはなりません」

「俺はお前さんからもらったもんを食べたくないんよ」

「パパ、その言い方はひどいよ」

「要らんのね。騙した詫びも込みやったが、じゃあいただきま〜──」

「あぁっ、いただきますっ、お詫びいただきますっ」

「素直やよし。はい」

 父のチョコの受け取って、音羅は母を窺う。

「ママ、いい」

「……仕方のない子です。どうぞ、食べてください」

「ふふっ、じゃあいただきますっ。──んふ〜っ、んんふ〜」

 至福の笑みが二つ並ぶと、母はもとより父も笑った。

 だから、と、いうことでもないが父が片割れのチョコも口にしないことに音羅は注目した。

「食べないならわたしがもらってもよかったような……」

「やらん」

「棄てたりしないよね」

「それを盾に奪おうとすんな」

「奪い取るつもりまではないよ」

 経済的に逼迫している家庭の子はお腹が空いていても、親のプライドを傷つけないように、親に負担を掛けないように、と、我慢していることがある。音羅はそんな子を何人も観てきたから、父の様子がなんとなく気になったのである。

「パパ、この一年、ちゃんと食べていないよね。我慢している、っていうのとも少し違うと思うけれど、よくないよ、絶対……」

「大きなお世話が回り回って自分の荷になるとは昔から承知しとるやろう」

 ……魂器(こんき)過負荷(かふか)(しょう)、か。

 食べたものが魔力となって体内に蓄積される〈|魔力〈まりょく〉還元(かんげん)体質(たいしつ)〉の父。魔法が強くなる利点はあるが不治の病たる魂器過負荷症に陥る危険性が高まる。従って食物摂取を控えてリスクを低くすることが父には求められる。そうしなくては、倫理的問題を抱えた魂器(こんき)拡張(かくちょう)の手段を講じなくてはならなくなる。父はそれが嫌なのだ。

「……顔色がよくない気がする。食べなくても平気とはいっても、パパは人間として生まれたんだよ」

 人間というのは、いや、食という文化を有する者は皆、食の愉しみ方を発展させる。愉しみが欠けると積木(つみき)のように心のバランスが崩れてゆく。貧困層のみならず、食生活に乱れのあるひとびとと接する機会が多い音羅は、それを肌で感ずるのである。

「もし必要なら──」

「ところで納雪、おかぁさんのチョコはおいしかったん」

 父があからさまに話題を切り換えたので音羅は我に返った。納雪がほっぺたを両手で押さえてうなづいている。

 ……雪ちゃんの前でする話じゃなかったな。

 悪癖だ。音羅は心配で視野が狭くなっていた。母が配慮の目差をくれて、プウが情けないと言わんばかりに小さく鳴いて、音羅は苦笑を返した。

 音羅も話題の切換えを狙うため、父の手許のチョコを改めて見た。名前が添えられており、誰が贈ったものか判る。

「……、ん。パパ、ひーちゃんからのチョコはあるかな」

 両親への感謝を忘れるような薄情者ではないのに、ひーちゃんこと五女謐納(ひつな)の名前が見当たらない。

「先にもらったからここにはないな」

「あ、そうなんだ。ひーちゃんも仕事で忙しそうだから会える機会は少ないはずだよね。時間が合ったならわたしも会いたかったな」

「俺との時間が合ってもお前さんまで合うとは限らんやろ」

「それもそうだけれど……」

 謐納と会ったことを父は全く口にしなかった。噓とは違うが、音羅は少し疎外感を覚えた。

「もらったチョコはもう食べたの」

「ああ。お前さんのもやけど、ちゃんと食べるよ」

「……うん、ありがとう」

「感謝するのは贈られたほうやよ。ありちょま、音羅、納雪、……羅欄納も」

 父の一瞥に、皆が微笑した。

 魂器過負荷症を抱えていても父がもらったものを棄てることはない。

「感謝といえば、相末君は」

 と、父が音羅を窺う。「昼、チョコあげたんやろ」

「あ、うん。お礼の言葉をもらったよ」

 ──いつもありがとうございます。

 折目正しく、で、あった。

「よかったやん。相末君も音羅を好きやと思うし告白すれば一気に進展やね」

「ふにょっ」

 再び音羅はびっくりした。変に自分の気持をごまかすと父に押し負けるので、音羅は学の立場から物を言う。

「学さんは所長として忙しいからわたしの相手なんてしていられないよ」

「なんでチョコを渡したん」

「パパがお世話になっているからだよ」

「暇といいつつ今日もぶらりやってきた老紳士が忙しいかどうか。俺を利用するなら『あわよくば』を狙えばいいのに」

「学さんにも選ぶ権利がある」

「俺を利用したことを否定せず、自分が相末君を選んどることも否定せんわけやね」

「っ、怒るよっ」

「っふふ、暴走の春やな」

 ちゃかして愉しんでいる父に音羅は踊らされまいと冷静になる。

「わたしの青春は、貧しいひと達がおいしいものを食べることだよ」

「利他の精神。頑張って」

 と、ちゃかしたふうでもなく父が言って、突っ伏した。「うぅ、疲れた……」

 ……わたしのほうが疲れたよ。

 父ではないが今すぐ突っ伏したい気分であった。……とはいえ。

 暴走の春。そんなものがあるなら音羅は一思いに暴走してみたい。

 されど理性を失うようなことはない。感情が爆発しても一線を守っている。どこまで行っても一番大切にしているのは家族。それ以上のものは存在しない。貧しい家庭に踏み込んできたのは商売という形で手を差し伸べなくては生存がままならないことがあり、そうすることで自分のような()()を生まずに済むからだ。

 ……素直でいるためには──。

 ひとは、身動きが取れない柱などになってはならない。

 

 

 

──始章 終──

 

 

 

 

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