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赤い月がでた夜に・音のない世界で・魂を・指でそっとなぞりました。

 ドライブデートのはずが、車内は旅特有の疲労感で倦怠期のカップルのようだった。あるいは仮面夫婦で熟年離婚寸前の夫婦。容姿だけ見れば、無精髭の男と似つかわしくない色白の美少女の組み合わせであるが。車内でも帽子をかぶったままの彼女は、日焼け防止だからと言ったがもう夜も更けている。直射日光から脳を守る代わりに、蒸れた帽子からさらさらと流れる黒髪を解放してもいい頃合いをとっくに過ぎていた。外し忘れただけなのだろうが、今は会話のとっかかりにその指摘を面白半分で言ってはならない。言ったら最後、少女は気むずかしい気性をもっとこじらせて帰りまで、いや一週間は口を利いてくれないだろう。博士は経験則から黙っていることにした。僕もただ歳をとったわけでは無いのだと博士は今すぐ自分を褒めたくなる。


 結婚が全てではないが研究に夢中になった血気盛んな10代を終え、仕事が落ち着くはずの20代でも研究という果てなき道に魅入られて、博士は恋人を積極的に作らなかった。だがラボに籠もりきりも好まない性質なので、都会の中に研究所を構えて地元の人々との交流も積極的だった。だが恋人となると途端に仕事の方が優先されてしまうので、面体は悪くないのに変人だからと言われる始末。気にしないでいるのが一番だが、親族にせっつかれるのは肩身が狭い思いがして、非常勤で講師をしている大学で講義を終えきらきら輝く学生たちを見ているとつい苦笑いをしていた。誰かに向けたわけでも無いのに、いつの間にか博士の前には少女が立っている。飛び級で、どこか幼い少女が大学にいる。そして講義を聴いてくれているのは博士も知っていた。だが天才少女は気むずかしいと聞いていたが、その日はにこにこと笑っている。

 「お困りのようですね」

 「ああ、でもね。大人の事情だから気にしないで」

 「私が恋人になってあげましょうか?」

はて、と博士は目を丸くして目の前の少女を見やる。少女といっても、もう16歳だと聞いている。最初は別の大学で履修し、飛び級で卒業したので次の次の大学に学びに来たと上下がった。それは本当らしいが、高校生が混ざっているのは異端というのか、若い美しさに男達がぎらついているのは知っている。男除けかなと博士は思い、髭のある顎を撫でた。言葉を選ぶ時の癖だ。車内でも少女の帽子について何も言わないよう、彼は顎を触っている。

 「君は可愛らしいしとても頭が良い。だから私を慰めようと思ってくれてるのは嬉し」

 「好きです、博士」

遮ってまで少女ははっきりと告げた。場所は教室で講義が終わってもいる学生もいたから黄色い声援が上がったのが分かった。20代後半になりつつあるが、別に結婚も恋愛も焦ってはいない。だが天才で顔立ちが良くマスコミに注目された事もある美少女と恋愛が出来る機会は、今後の人生で訪れることの無い僥倖だろう。断る要因が特段見当たらなくて、博士はその唐突な告白による恋愛関係を承諾した。


 まだ未成年のからだを傷付けてはいけないので、肉体関係は成人してからと誓って、博士は今まで少女と夜を共にしたことは無い。ドライブデートが長引いてしまったが、今夜もちゃんと家に送るために疲労と戦いながら車を走らせている。渋滞している大通り、平常なら穏やかな暮らしをしている人々が舌打ちをして、時計と信号を交互に見比べている。どうもこの先で事故があったらしいのは、ニュースで調べなくても分かることだ。少女がつまらなそうにため息を吐いて、頬杖をついたまま腰のあたりをねじった。同じ体勢に凝り固まったのだろう。少女の機嫌が時折もれる息がふう、だのはあだのが低い音階なので、博士はいよいよまずいなと思った。完全に未成年の言いなりになっているわけではないが、少女がいつだって自分と会う時は実権を握っている。予算は大人の事情をちゃんと汲んでいるのに、ふとした時に癇癪のように起きるワガママは彼女が自分だけに見せる子供の顔だ。そろそろ癇癪が起きそうだと博士はため息を吞み込んだ。

 すると少女がカーナビに何やら入力して、目的地を決めたようだ。機械的な女性の声が目的地を設定しましたと明るく告げる。行きますよ、と少女が目線も合わせず頬杖をついたまま言ったので、聞き逃してしまい、え、と呟くと行くんですと睨まれた。大きな目に長い睫、やわらかくて白い頬は夜の少ない灯りでもきらきらと光る肌理がある。分かった、とナビゲーション通りに博士は車を大通りから離れ、知らぬ目的地に向かって走り出した。



 着いたのは夜の海だった。街灯はあるが、誰もいない。遊泳禁止の区域かもしれないが、看板やロープが無いから観光客に荒らされることが無いのか、地元の人間が寛容なのかどちらかだ。駐車場があったのでそこに泊めて、博士が窓の外を目を凝らすとようやく海なんだと分かった。砂浜がグレーのフィルターがかかったようで見づらい。遠くに船の灯りもない。墨汁がぶちまけられたような海に、少女は車から下りるが早いか、駐車場から砂浜に続く階段へ一目散に消えた。博士はやれやれと少女の奇行に驚きもしない。癇癪の一つだと知っているからだ。そして博士はそれの対処に慣れている。駐車場にある灯りは頼りなくたまに点滅している。手元が見づらいが、タッチ式の鍵なのですぐにピッと音を立てて車がロックすると、とにかく夜の海に向かった。

 砂浜で少女が何故かバレエのような動きで踊っている。白のワンピースに帽子、黒髪を潮風に靡かせてまるで絵画のようにくっきりと少女の姿はそこに浮き上がっている。駐車場は広いので、また誰かのために街灯が何本か建てられていたから、少女がなんとか見えた。博士が声を掛けると、少女は機嫌を直したのかにこにこしながら走り寄ってくる。

 「ね、泳ぎましょう?」

 「正気かい?暗いし、ここ泳いでいいか分からないよ」

 「堅いこと言わない。じゃ、これ持っててくださいよ」

途端に顔に何か生暖かい物が投げられた。海で泳ぐと言っていたから、もしや下着かとぱっと性欲が顔を出しそうになって、慌てて引っ込めて手で持ったそれに目を凝らすと、ストッキングだった。


 「なーに、期待してんですか!お望みならパンツも投げましょうか?」

 「・・・大人をからかうんじゃないよ。まったく・・・」

きゃっきゃと笑って素足で夜の海に入っていく少女の後ろ姿を見て、博士は急いで自分の靴とを脱いで一日中履いて少し蒸れた靴下も脱いだ。靴を脱いだ後に砂浜に靴下で立ったので、砂が靴の中に多く転がったのだろうが、気にしていられない。素足になってズボンの裾をめくると、博士は少女を追うように海に駆け出した。直前でジャンプして、少女の手前に着地するとばしゃんと波が立つ。きゃーっと少女が嬉しそうな悲鳴で笑った。博士も彼女の手前では大人ぶっているが、許されるのなら少女のように無邪気に海に入って駆け回りたい。帰るための体力だとか集中力だとかを無視して、夏の海で渋滞のうっぷんを晴らすようにかけずり回って、生暖かい海で遊びたい。当然の欲求を、少女はいつだって気付かせてくれるのだが、体力面でのしわ寄せが来るのでいつも後悔する。今日も少女を追うと、彼女は海の中でも軽やかに逃げる。帽子が飛んだのを拾って、それで離れた距離の分だけ貝か石かがたまに足裏に刺さる砂を力強く蹴って、博士は少女の腕を捕まえた。

 少女がきゃっきゃと笑いながら身をよじって逃げようとするが、博士も逃がすまいと鼻息を荒くして踏ん張って攻防。男女の興奮混じりの笑い声が夜のさざ波の音に混じって遠くまで届いていることだろう。笑い疲れたのか少女がきゅうけい、と震える声で言うのだが博士はまだ体力があるのでまだ遊びたい気分だ。はたと少女を見る。出会ってから数年経ち、少女はもう19になった。赤い唇に、大きな瞳、長い睫に桃色の頬、流れるような黒髪、ラメを纏ったようなやわらかい肌。博士が見つめるのに、少女もふと笑わなくなって見つめ返した。このままキスをするのがきっと正しい。未成年に手を出したなんて言われることも、夜の海に誰もいやしないので言われないだろう。壁として二人の前に立つのは、博士のちっぽけな誓いだけ。少女はその誓いを知っているのに、わざと挑発するようなこともしてくるが基本的には博士の自主性に任せている。キスをして、このまま。少女が期待したのか頬があからんでくる。なまあたたかく不快感のある夏の海に、ただ美しいものがひとり、手に届く位置に。

博士は唾を飲んだが、少女をそのまま抱き寄せた。それだけで終わりだと言いたげだ。


 「いくじなし」

 少女がそう呟いて爪を立てて博士の腕にしがみつく。その痛みは当然の抗議だからと、博士はただ肉を爪が滑り落ちる小さな痛みに耐えている。

岸に上がると二人は無言だった。博士を靴を履いた時に腰を下ろしたので、そのまま砂浜に座り込むす。砂浜は昼間のうだる暑さを吸い込んで、人肌のような変なぬくみがあった。自分の体が熱いだけかもしれないが、固く押し込まれている砂は何故か気を抜いたら一瞬で吞み込まれていきそうだ。ぼんやりと博士が海を眺めていると、少女が目の前で素肌のままワンピースの裾を持ってお辞儀をする。


 「どうしたんだい?」

 「こんな話知ってます?満月の出た夜に、身分の低い漁師の男と宮廷お抱えの踊り子が心中したので赤い月の日の話」

 「ああ知ってるよ。あまり有名にならないけど、どうも出所が分からないみたいだね」

 「私は分かりますよ、出所なんてなくても」

どきりとした。

 「痛いほど踊り子の気持ちが分かります、だって私」

 「駄目だ」

続きを言わせてはいけない、その一心で博士は少女の言葉を遮った。この大人びて不安定で儚げな少女が望む言葉は、きっと破滅の坂道への第一歩になってしまう。だから彼女は試すように笑って言うのだ。

 「いくじなし」


原典:一行作家

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