特別講義
「げ、また点数低い…」
パソコンの前で呟いた。
開いているのは、Eメールの受信欄。一番最新のメールは、直近に受けたテストの結果を示すものだった。
「有機化学、16点…」
今すぐどうこう、というわけではないにしろ、何事も積もり積もって山となる。すなわち私は、単位の危機に瀕しているわけだ。
わざわざ選んで取ったこの科目。詳しく教えてくれる友人もおらず、途方に暮れる。
実は、一人。私にこの教科を完璧に教えられる人間を知ってはいるのだが、その人物はすなわち私にこの苦しみを与えている張本人なわけで。何が言いたいかというと、私はこの教授を知っているのだ。それも、かなり特殊な関係性で。
婚約者、というものがそれほど甘美なものでないことを知ったのは最近。大学に入学し、しかし一向に恋人ができないことを母にこぼしたときだった。
「恋人ができれば、と思ってたけど、できないなら縁談を進めることになりそうね」
「え…?」
そこで初めて、自分に婚約者がいることを知ったのだった。漫画でも今どきめったに見かけない釣書、そこに写った婚約者は生真面目そうで、神経質そうで。正直ダサかった。
松島さん、大学教授、38歳。
私、大学生、19歳。
「え、犯罪じゃない?」
「何言ってんのよ。あんたも子供じゃないんだし、松島さんはしっかりした方だし、年の差なんて関係ないわよ」
いや、それこっちが言う台詞〜、と思ったが口には出せず。すっかり縁談に乗り気な母にあれやこれやと乗せられて、私は松島さんと初対面を果たしたのだった。
「はじめまして」
さも、人とあったらそうするものだと教えられたからそうした、と言わんばかりの顔で言い放った松嶋さんに、私は苦笑いを返すしかない。
それっぽい庭園の付いた旅館で、お決まりの「あとは若い人同士で」という言葉で庭に出され、散策を始めて数分。私はすでにかなり参っていた。
履きなれない下駄は痛いし、着慣れない着物は窮屈だし。何より、松島さんは前を歩くばかりでこちらを見ようともしない。ずんずんと進むその背中に、私は遂についていけなくなって立ち止まってしまった。
足がじんじん痛くて、立っていることが苦痛だ。今すぐ座りたい、と俯いた私の視界に、革靴が映った。
「どうしました」
驚いたら、人は痛みを忘れるのだと知った。
ぱ、と顔をあげると、真正面から目が合う。その目が、口が。想像よりも不安げに歪んでいて、もしかしたら可愛い人かもしれないと、そう思ってしまった。
私のことなどまるで気にしていないと思っていたけれど、ちゃんと聞いていたのだ。私が歩むたびに、石畳との間で音を立てる下駄の音を。
あれから、私と松島さんの面会は細々と続いている。
私達は段々とお互いの顔を見て会話ができるようになっていき、プライベートな話をぽつぽつとするようになっていた。
「実は」
松島さんが口を開く。彼は、絶対に食べ物を口に入れたまま喋らない。
「大学で教えている生徒の中に、あなたと同姓同名の子がいまして」
ここで松島さんは少し息をついた。
「なかなか苦手なようで、テストの結果がいつも芳しく無く…」
フォークを置いて、指を組む。真剣な話をしようとするときの癖だ。
「何か、わかりやすい説明ができればと思いまして」
目線がす、と上がって、私と目が合う。
「どのように言ったらわかりやすいか、意見を頂ければ、と」
私が変な顔をしているのに気がついたのだろう。不思議そうな顔をする。私はいよいよこらえきれなくなって、白状した。
「その生徒、私です。松島教授」
溢れそうなほど見開かれた目。初めて見る顔で、私はまた笑ってしまった。
「では、あなたが」
「はい、私が」
「…僕の講座と知っていて、取ったんですか」
「はい。母が教えてくれて」
「…ずっと、不思議だったんです。理系学生の中で一人だけ、わざわざ選択して僕の授業を取っている生徒のこと」
合点が行きました、と頷いた松島さんに、私は言い募る。
「はじめは松島さん目当てでしたけど、でも、今はちゃんと興味あります。有機化学。だから、勉強したいんです」
いつの間にか私も、フォークをおいて指を組んでいた。
私の言葉に松島さんは嬉しそうに笑って、そういえば笑顔は初めて見たな、と私は思った。
「いくらでも、力になります」
そう言った松島さんの声は力強くて、優しかった。
結局、松島さんの特別講義を受けても失った分の点は取り返せず、単位は取れずに終わってしまった。2年生になった私は大人しく文系教科をとって、日々勉強に励んでいる。
「こんにちは」
「こんにちは、早かったですね」
ただ、一つだけ。
毎週火曜日、午前で授業を終わらせて、私は彼の研究室へ行く。彼が学生を全員お昼に行かせて、研究室で一人待っていてくれるのだ。
買ってきたり、作ってきたりしたお昼ごはんを食べながら、私達は教科書を挟んで会話する。時々幼稚な質問をはさみながら、ゆっくり、特別講義は進む。