弱者男性論の中枢 ~人間という生物種の生存にかかる性差の構造について~
2022年7月28日頃、ある大学のキャンパスに、
『#弱者男性 をエンパワメントする 我々に婚姻の自由を 生殖の権利を奪うな』
と書かれた立て看板が設置されたことについて、またそれが学内からの匿名の批判によって撤去されたことについて、「弱者男性」という言葉が話題になったそうです。
弱者男性は自己責任であって女性の権利を侵害する発想だだとか、恋愛対象の選択について女性には加害性がないだとか、女性に対して男性が言えば文句を言われるだろう侮辱が一部女性の側からいわゆる弱者男性に対しては気ままに行われているだとか言われていますが、現象の根本は、男女の生き物としての違いに根差しているのではないでしょうか? 例えば、男性は女性からの承認を願望する意味では生まれつきの弱者かもしれない点や、それがかえって美徳かもしれない点は、ほとんど言及されていません。
人間という生物種の生存にかかる性差の構造について。
肉体関係を持つことへの性欲は男性のほうが強く、女性のほうが弱いです。したがって、性欲が満たされない苦しみも男性のほうが強いです。
男性が恋人を欲するのは、性欲が日常的に発散できる見通しを得て安心するためです。女性が恋人を欲するのは、男性の稼ぎによって経済的に安定した生活を見通して安心するためです。したがって、自分自身の経済力が安定している場合には、女性において、肉体関係への欲求はほとんどありません。
歴史的な人間社会においては、女性が一人で生きていくことはできませんでした。なぜなら、歴史的な社会においては労働のためにも安全のためにも肉体的な体力の意義が大きく、男性と女性の筋力は生物として異なるからです。結婚して子供を産むことは女性としての義務だとすら見なされ、それが達成できない女性の人権はそれが達成できた女性とは隔絶していました。
歴史的な人間社会においては、安定した避妊の方法が広く利用可能ではありませんでした。そのため、子供というものは、望むことを要件とせず、男性の性欲の結果としてできてしまうものでした。一般の女性自身に、子供を持ちたいという内発的な強い欲求があったわけではありません。しかしすでに述べたように、現実的には、結婚をして子供を産む以外に、女性の生き方の選択肢はありませんでした。
歴史的な人間社会においては、遺伝子検査はありませんでした。そのため、男性や男性達が、女性が産んだ子が自分の子だと信じるためには、女性が肉体的に関係している異性が自分だけであることが理想的でした。そのため、ある男女が社会に対してその排他的な男女関係を宣言する意味で、結婚という儀式が広く行われてきました。
現代において起きている男女平等の傾向は、自由意志による政治活動の結果というよりはもともと、科学技術の発展による肉体労働から頭脳労働への遷移が用意した必然にすぎません。
その社会変化は、女性について、出産をしない自由や、結婚をしない自由、肉体関係を求められても応じない自由を増加しました。一方で、肉体関係や結婚の減少は、そもそも先天的に性欲を多く割り当てられている男性について、そのまま苦しみを生みます。
人間という生物が生きる社会の構造が本質的に変化しつづけている必然性が一方ではあり、ある種の男性達に深い苦しみが広がっている現実も一方であるのです。
そして同時に、資本主義社会は、格差を拡大していきました。
なおかつ、数多の統計資料から明らかなように、生まれた環境の格差は人生における社会的な地位を強烈に制約します。
例えば男性に限って言えば、強者男性と弱者男性と呼べるような性質の分断が深刻化していきました。
強者であれ弱者であれ、男性には性欲がありますから、若く美しい女性との間に多くの子を儲けることが先天的な幸福感を刺激します。
女性は、美しい顔や身体を持っているという言わば穴としての価値、あるいは若く健康であるという言わば袋としての価値と交換に、夫婦となった男性からお金や生活水準を得られます。
そのような個人的なメリットがあることから、女性が言わば「強いオス」を恋愛対象として選好し、ときに強いオスに擬態するなどして肉体関係の機会を伺う「弱いオス」つまり弱者男性を退けることは、自然です。
ところで、若く健康であることはほとんどの女性が一度は体験する性質であり、中でも優れた容姿を持つ可能性もあります。一方で、男性にはそのような性質がありません。
その意味では、弱者女性という存在はいません。弱者男性ほど弱者である女性はいないということが、その一面だけからは確かに言えます。例えば、女性であれば、若くて健康ならば性産業で何らかの需要を得られるでしょうが、男性にはその選択肢は事実上ほとんどありません。必要とされ尊厳を認められる機会が欠けているのです。ほとんど常に求める側であり、求められる側の一人だという自意識の上での空想もできません。
ただし、それは一面から見た理屈であり、現代ではまだ男性のほうが肉体労働の機会に恵まれているなどといった長短はあります。個別具体的には、女性より男性が常に弱者だと言うことはもちろんできませんが、総論としては確かに、女性には女性特有の価値と巨大なメリットが備わっているのです。
晩婚化や非婚化によって生涯独身者が増加する中で、女性は生活保護などに頼れば満足しうるとしても、恋愛体験のない人生を強いられた男性達は、性欲によって苦しみます。現代社会は、弱者男性については自慰行為を強いていますが、それは生き物に対する虐待なのかもしれません。
言わば、強者男性、女性、弱者男性という序列の階級社会があるのだと言えます。
女性の権利という概念は、長らく可視化されませんでした。それは、女性の幸福を搾取してきた従来の強者にとって、女性の権利という概念が不都合だったからです。
女性の権利は、次第に増加しました。それにしたがって、弱いオスに価値を感じない女性の本能からの、弱者男性の苦しみを共感の対象とせず一人の人間としては認めないような侮辱的な差別発言の横行を招きました。
そのため、弱者男性という概念が可視化されつつあることは、そのような暴力的な加害性を可視化する意味で、自然な現象です。しかしそれは同時に、女性という社会階級にとっては不都合を含んでいます。そのため、そのような概念自体を拒絶する反応も生じています。
例えば、離婚に際して親権のほとんどを母親側に渡している日本社会の現状は、女性ばかりを守ることを通して男性の幸福の権利を奪っているのではないかといった議論が可能です。女性ばかりを守ること、つまり女性の権利の尊重が、同時に弱者男性の権利を侵害しうる側面が、弱者男性という語彙によって、初めて明確に可視化されます。
次世代を産んで育てなければ、社会は対外的な競争力を失って衰退します。
また、結婚とは、当初は理想的なスペックではなかった相手とであっても、互いの個性の中に深い魅力を見いだして愛しい生涯のパートナーと思えるようになる場合も多々あるものです。
そして、男性の本能にとっての女性の魅力は、あまりにも若さである現実を、多くの女性の主観は十分には受け入れられません。
しかし、弱いオスを恋愛対象とは感じない女性の本能にとって、そういった正論は無意味です。
時代の社会制度が不合理な環境の格差を生じているとしても、それぞれの男性の学歴や経済力が、女性から見えるその男性の強さの程度です。
そして、女性には女性特有の肉体的な価値がありますから、それを最大限に利用して利益を得ます。つまり、強いオスとの関係を希求します。
すると、男性が女性について、美人ほど性格がいいと考えたがるように、女性は男性について、収入が多いほど性格がいいと考えたがります。
そのため、強いオスとの関係を希求する振る舞いを女性自身は正当化したがりますから、倫理的な問題は隠されてしまいます。例えば、ある種の残酷な性格をしていたほうが社会的な地位を得やすいだとか、社会的な振る舞いをすることが社会的な地位にマイナスに作用する場合が捨象されます。そして結局、いわゆる公正世界仮説によって、環境の格差は本人の資質の格差へとどこまでも言い換えられてごまかされます。
つまり、努力をしなかったまたは能力がなかったために学歴や経済力のない弱者男性なのだと言われます。女性の悪口を言っている男性達というのは外見が悪かったり稼ぎが少なかったりする弱者男性なのだろうと思われます。現実には弱者男性だけが女性らしさに嫌悪を感じたり既存社会を批判しているわけではありませんが、ともあれそうして弱者男性という集団が捏造されます。
実際には女性の肉体と尊厳を玩具のように酷使して捨てるのが強者男性だとしても、強いオスとの関係を希求する振る舞いを自己正当化しつづけたい女性達は、その痛みをより弱い立場の対象、すなわち弱者男性に罪を着せて解消するしかありません。その結果、女性に何ら加害的な行為や思考をしたことがない男性達であっても、弱者男性にくくられることで、その性欲の飢えによる苦しみに対して、嘲笑ばかりが降り注ぐことになります。人間の復讐心は、弱者へのいじめによって解消されるのです。
しかし、社会というものは、純粋な弱肉強食ではありません。一般通念としてある、人としての良心に支えられて、社会全体の幸福の生産性は成り立っています。
困っている人とすれ違ったなら、それが異性であれ同性であれ、助力して感謝されることに安心を感じるのが人間です。
これまでの人生、女性と出会えば人間として扱い親切にしてきたが、自分の人生には女性との恋愛経験がなく、むしろ人間扱いされないことがしばしばであったし、与えるだけで与えられたことがない、なおかつ、女性一般を侮辱する発言など投稿したことがないが、弱者男性全体を底なしに侮辱する記述だけは日常的に見かける、と感じる男性が少なくない数生じることは、社会の根底に亀裂を生みます。
不満を持った男性が女性の顔面を叩き潰して立ち去り、悲鳴をあげてのたうち回る女性のまわりを、一般の男性達が何の関心も示さず通り過ぎる社会は、望ましいものでしょうか? 我が子から一瞬目を離して物陰へやってしまった瞬間に、不満を持つ弱者によって子供の手足が折られてしまう社会は、望ましいものでしょうか?
社会を弱肉強食の論理で割り切ってしまうということは、資産のない者が資産のある者を殺すことを正義に定義し、学歴のない者が学歴のある者を殺すことを正義に定義し、子供のない者が子供のある者を殺すことを正義に定義することと同じです。法律と警察力という実力のみによって不運な人々の憎悪を押さえつける理屈には、どこまでいっても表面的な正当性しかないからです。
弱者に生まれることを選んで不幸な人生を選んだ人はいないのですから、強者に生まれて幸福な人生を得られた人が、それにおごって弱者の尊厳を軽んじることは、社会安定上のリスクです。
しかしやはり、女性が女性に生まれて得ているメリットを十分に自覚することはありませんし、弱者男性が性欲で飢える苦しみに対して十分に共感することもありませんから、正論を言うことは無駄なのです。
それは無駄ですから、唯一価値があるのは、権力を手にした人達の暴力性を可視化することです。
人間の生涯の幸福には本能的に避けがたい形態があって、個体の生存や次世代への遺伝子の生存はその部分です。そして幸福は、経済力などの社会的な地位と一対一と言えるほど直接的な関係を持っています。そして、社会的な地位は、極めて強く環境の格差に制約されます。
持つ人々は必ず、環境の格差を資質の格差に言い換えます。自己責任論を言うし、その欺瞞に対して自省を促すことは無意味です。
女性という性が備えている権力についても、それは同じです。なされるべきはただ、その精神的な暴力性をどこまでも可視化していくことなのです。
富裕な人々は、日頃、貧しい人々の尊厳にも敬意を払っているような態度をとります。
しかし、権威によって独占している既得権益が侵害されそうになれば、腹中にある差別意識は言葉になって表れます。
そのとき、弱者は、騙されてきたことに唖然とし、いかりを感じます。奪われてきたこと、盗まれてきたことを自覚します。
既存の秩序が弱者の利益を不当に搾取してきたものであるなら、そういった憎悪は、表面的な平穏よりもずっと価値があるのだと言えます。
例えば男性は、女性が他の弱者男性に向けた態度の中にそれを見抜くことがあるでしょう。女性も男性の中に、同様のものを見抜けるでしょう。
共感のない精神がする認知は、いつだって、自己正当化のためにゆがんでいるものです。
弱者男性の訴えにおいて、婚姻と生殖の権利を求めることは、確かに一つの本質です。
それについて、「女をあてがえ」という意味と同等だと一方的に見なして、つまり女性の自由な意志を侵害する主張であるから、言語道断であって明らかに価値がないとする批判が多くあります。
しかし、歴史的な人間社会において、婚姻や生殖は決して少数の強者男性だけに限られたものではなく、現在、晩婚化などによって特に弱者男性に苦しみが拡大していることは一つの事実です。
そして、もしも、弱者男性の不幸が、部分であれ、環境の格差から自己責任論に言い換えられるならば、経済力の弱さは人間的な魅力の全面的な欠如にまで言い換えられ、婚姻と生殖の機会はさらに減少します。稼ぎの少なさは能力の低さに、学歴の低さは努力してこなかったことに、恋愛経験の少なさは外見の不潔として断罪され、性欲の飢えが人格的な欠陥の正当な帰結として嘲笑されるならば、ときに男性は、たとえ最高水準の資質を備えていても環境の格差のみによって心の居場所を失います。したがって、弱者男性の苦しみは自己責任だという論調は実際に、婚姻と生殖の権利を積極的に侵害しています。そしてそれは明らかに、「女をあてがえ」とまで理不尽な要求ではありません。
既存の弱者男性論のほとんどは、男女の生物としての違いを見落としています。
やや大げさに言えば、男性は女性を必要としているが、女性は男性を必要としていないのです。
女性はただ、利用できる限りにおいて男性を利用しているだけです。生まれ持った肉体的価値を行使しているだけです。
しかし、女性社会は、男性の利己心を利用してきた一方で、男性の善意も利用してきました。女性にも善意はあって、男性社会はしばしば女性の善意を利用してもきました。
しかし現代は、男尊女卑の社会秩序から男女平等の社会秩序への過渡期にあり、弱者男性という被支配層から女性という権力への善意は、一方的に搾取されて終わっている面があります。その支配構造が安定し、弱者男性は女性一般に何ら親切に接しなくていいという社会通念に至れば別ですが、現状には、正直者が損をするような社会構造の亀裂があります。
女性達には、弱者男性への関心はなく、何も加害していないと直観しますから、加害性を非難されても理解できません。しかし、男性には先天的な性欲があり、女性から肉体的に受け入れられることを一つの大切な要件として、承認欲求を満たすことを必要としています。それを前提として、男性は女性に魅力を感じるし、女性に対して有形無形の利益も提供しています。男性には、そのような承認欲求を捨てたり、利益提供をやめる自由がないのです。したがって、婚姻や生殖が広く行われてきた歴史的な秩序からの社会構造の変質を何の問題もないと割り切ることには、大きな加害性があると言えます。男性が、女性の魅力への敬意や利益提供を諦め、まったく仮に一代限りの全面戦争に突入すれば、肉体的能力においても既存の知的能力においても、皆殺しにされるのは女性の側かもしれません。
ですから、可能な限りにすぎないとしても、相互理解や和解を模索しつづけることが、全体の幸福のためには生産的でしょう。そしてそのためには、男性と女性という生き物の生得的な違いを理解することが欠かせません。そして、理解が権力の側から降って湧くことはありえないのですから、社会の改革は、不当に苦しめられている人々が強者の精神の暴力性を可視化しつづけることによってしか起こりません。
女性には肉体的な価値があります。男性には女性のそれを魅力的だと思う性欲があります。
それらは天がもたらした普遍の事実であり、それらを素晴らしいと讃嘆できる社会が望ましいです。
そして、性的な価値と欲求を契機として、他者への広い共感がある社会においてこそ、幸福の生産性は最も理想的になります。
この世に異性が存在することが素晴らしい奇跡だと誰もが思える社会作りが望ましい。
人の尊厳に対する侮辱的な言動はすべて、その理想に対して唾を吐いていることになります。社会を停滞させ後退させています。
したがって、女性の権利が論じられることも、弱者男性の権利が論じられることも、本質的には喜ばしいと言えます。
議論はすべて喜ばしいのです。正論が欺瞞によって屈服させられることがほとんどであっても、常に何かが可視化されていくからです。
非難をする者や不満を訴える者は、自分なりの解答を提出すべきでしょう。
紛争の終着点としての、ゴールやビジョンを伴っているべきでしょう。
そして、女性の権利や尊厳をやみくもに後退させることは、この国の将来像として正解ではないはずです。
そしてもちろん、女性を正当化するための犠牲として、弱者男性とくくられる人々の苦しみへの共感が忘れられてはならない。
ただしそこで、女性の自由な意志を保障しつつ、すべての男性の性的な欲求を完全に満たす解は、明らかにありえません。
しかし、女性をあてがうなどといった、女性の自由意志を侵害する方法の外側であっても、弱者男性の苦しみを最小化するためになすべきことはいくらでもあります。例えば、環境の格差を資質の格差に言い換える本能はただちに反社会的です。赤の他人の苦しみが自業自得かどうかなど、どうしたってわかるはずがありませんから、任意の自業自得論は自己欺瞞です。
格差社会が拝金主義に染まっていけば、大多数の弱者が互いを蔑み合う状況になり、何も生まないでしょう。拝金主義は権威主義であり、あるべき思想は、拝金主義を相対化した弱者同士の連帯でしょう。
権力に善意を期待することは無意味であり、改革は力によってしか起こりません。そのための連帯に必要なのは、人間が権力を手にしたときに必ず生じてしまう認知の暴力、悪意に対する可視化なのです。
人の心に潜む悪魔を、言葉という魔法で一つずつ可視化するとき、私達の社会は一歩ずつ確かに前進しています。