恋に気付きかける二人(2)
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
だが私を襲った波から飛び立った雫達がキラキラと、煌めくばかりに夏の光に反射して視界を駆け抜けていくその向こうに、零二君の姿が確かに見えた。
波の破片越しに、彼は立ち上がってこちらに来る。
だめ、海に入っちゃいけないんでしょ?
そう思った途端、雫が一斉に落ち去り、視界がクリアになった。
そしてその真ん中にいたのは、零二君ただ一人。
その瞬間、私の心までもが視界良好になったかのように、ただはっきりと、零二君への感情がそこにあると気付いたのだった。
この気持ちは………
波をかぶった私を零二君が心配そうに見つめてくれてるのが嬉しかったり、
気安く名前を呼び捨てにされて心が騒ぐ反面、その慣れた様子や私以外に呼び捨てする女子がいると思うとモヤモヤしたり、
汗をかかなかったり
運転がとても上手だったり
彼を知っていく事が楽しかったり、
こんな想いは、もしかして………
もう少しで辿り着けそうな心の行方を必死に追っていたが、浜辺からは叫びのような零二君の声が飛んでくる。
あまりにも懸命な声
だから思わず、私は心の行先をそちらに向けたのだった。
「栞、無事?!」
「平気。でも濡れちゃった」
大きく波を受けたのだから髪も服も濡れてしまった。
でも何かを得た心は晴れやかで、そんな私を、零二君は真剣な目でじっと見つめてきた。
その視線は何だかまっすぐが過ぎて、少し困ってしまう。
やがて
「……車にタオルがあるから、すぐに戻ろう」
世話好きな面がある零二君は、恋人のフリを言い出したあの時のようにやや強引に私を海から出そうとしたのである。
これ以上心配かけたくない私は素直に従うしかない。
さすがに濡れたままでは車の座席が汚れてしまうと遠慮したが、そんな私を、やはり零二君は強引に乗せ、自分の家に向かった。
ここからは私の家より近いのだ。
この気温だし、どうせすぐに乾くよという訴えは受け入れてもらえず、あっという間に零二君の住むマンションに着いてしまったのだった。
「……お前たち、水族館に行ってたんじゃなかったのか?」
出迎えてくれた英一君はクールに呆れていた。
二人は一緒に住んでいるのだ。
「海に寄ったら、栞が波を浴びちゃったんだ」
「まさかお前も海に入ったのか?」
鋭く問いただした英一君。
それだけ零二君には海は禁忌なのだろう。
二人の関係性がよく窺える反応だ。
「まさか。そんな自殺行為するわけないだろ」
零二君は場を和ませようとしてか、笑いながら否定した。
そして私に向き直る。
「そのままだと気持ち悪いだろうから、とりあえずシャワー使って?」
「え?シャワー?」
いきなりの提案に目を見開いて訊き返してしまう。
てっきりバスタオルを借りたり、ドライヤーで乾かしたり、そんな程度だと思ってたからだ。
私は焦って返事した。
「えっと……シャワーは、ちょっと……。代わりに、着替えを借りれるかな。あ、上だけでいいよ」
海水は流したいが、はじめてお邪魔した零二君の家で裸になるのは気が引ける。
しかも、英一君もいるのに。
……いや、英一君がいるかいないかは関係ないかもしれないけれど。
でもとにかく、不幸中の幸いで薄手のスカートはもうほとんど乾いていたのだ。
上のシャツを借りるだけでも不快感はかなり落ち着くだろうから。
「じゃあ洗面所に案内するよ」
さすがに零二君もシャワーまでは無理強いしてこなかった。
洗面所は、とても大学生男子の二人暮らしとは思えないほどに整理整頓されていた。
その洗面所で渡されたシャツに着替えると、何だか零二君に抱きしめられてるような感じがして、そわそわしてしまう。
私は二度、三度と深呼吸してからリビングに戻った。
学生同士のルームシェアにしては、かなりいい部屋だな……
そんな感想を浮かべながら廊下を進むと、リビングでの二人の話し声が漏れていて、自然にその内容が頭に流れ込んでしまった。
「今朝は悪かったな」
「別に。お前の感情の豊富さは理解してるつもりだ。だが……」
「なんだよ」
「……彼女と本気で付き合うことにしたのか?」
リビングに続くドアの前で、私は立ち止まった。
英一君が言った『彼女』とは、きっと私のことだ。
『本気で』というのは、つまり、恋人のフリをやめて、本当に……
この質問に零二君は何と答えるのだろう。
私は、今までに感じたことがないほどの、尋常じゃない緊張に全身を縛り上げられたようだった。
そして数秒後、零二くんが答えたのだ。
「まさか。そんなわけないだろ。あり得ない」
ドアノブに添えた手が、ギクリと慄いた。
そんなわけないだろ
あり得ない―――
唐突に目の当たりにしてしまった零二君の本心は、私の思考を殴りつけ、
瞬時に目の前を真っ暗な闇に変えたのだった。
そこからどうやって帰ったのかは覚えていない。
ただ零二君に平然と接する自信はなくて、私はリビングのドアを開くこともなく、二人にお礼すら告げずに帰ってきてしまったのだ。
そしてしばらくして、おそらく心配した零二君から何度も電話があったのに、私は一切出なかった。出られなかった。
あの日、二人の会話の中にあったのは、私への拒絶だ。
それを零二君から直接告げられる時が来るのかもしれないと想像するだけで、怖くて怖くて、とてもじゃないけど電話になんか出られなかった。
だが講義はまだ残っていて、翌日、私は、借りた服を返すという明瞭かつ清廉な動機を心の支えに、すくむ足を励まして大学に向かった。
だが、零二君は来なかった。
零二君だけでなく英一君も欠席で、学生の間ではちょっとした騒ぎになった。
二人揃って休むなんて、はじめてだったからだ。
何か親戚の用事かな?
風邪でもひいて、どちらかが看病してるのかな?
方々から彼らの話題が飛び交っていた。
確かに、昨日は相当な回数の着信やメッセージがあったのに、今日は朝から一度も入っていない。
私は不思議には思ったものの、昨日の今日ではまだ心は癒えず、零二君に連絡するのは躊躇ってしまった。
そうして無意味に時間だけが流れ、数日も経ってしまったのだった。