恋に気付きかける二人(1)
「何か怒らせちゃった?」
修理したばかりという零二君の車はいつもと変わらない乗り心地でも、運転席の零二君の様子はいつもとは違っていた。
おしゃべりもなく、明るい笑顔もなく、全体的に余裕がなくて。
けれど問いかけた私には、やわらかく応じてくれた。
「栞は何もしてないよ。ただ……ごめん、これは俺の問題だな」
そう言われても、ああそうなんだ、なんて容易く飲み込むことはできない。
だからといって、明らかにおかしい零二君との接し方も微妙で。
こんな時、恋人、友人、その関係性にかかわらず、どこまで踏み込んでいいのかその境界線が見えないのは、人生の対人経験が希薄なせいだろうか。
今更ながらに高校時代を悔やんでしまいそうで、でもそんな後ろ向きな自分を打ち消したくて、私は、思い切って、自分が今思ってることをそのまま零二君に伝えてみようとした。
「ねえ零二君、もし……、もし違ってたらごめん…、でももしかして零二君、私が会ったばかりの英一君をすぐに名前で呼ぶようになったのを、気にしてる……?」
「え……」
零二君は一度言いよどんだものの
「それは……そうだけど」
言いにくそうに認めた。
私は自分の考えが当たっていたことに、素直に嬉しく思った。
「やっぱり。でも当然よね。だって零二君を名前呼びするまでには時間がかかったんだから、いくら従兄弟でもさっさと名前呼びになっちゃうなんて、ちょっと……いい感じはしないよね。もし逆の立場だったら私も腹が立ってたかも」
「本当に?」
信じられないと私を見てくる零二君。
「うん。昔、友達が同級生に私よりも早くあだ名で呼ばれ始めてるの知った時は、結構悔しかったから」
「友達……」
なぜだかがっかり感漂わせる零二君。
「あ、今はもう気にしてないよ?でもね、英一君をすぐに名前で呼べたのは、零二君の従兄弟だったからだよ。零二君がいなかったら、英一君の事も絶対に名前で呼んだりできなかったと思う」
「……そっか」
心なしか機嫌が良くなったような零二君に、私もホッとする。
「うん。零二君のおかげで、私も少しずつ変わってきてるみたい」
すると零二君は、やっと、今日はじめての満面の笑みを見せてくれたのだった。
「そっか!それならよかった」
零二君の表情はみるみる明るくなって、それはその後もずっと濁る事はなかった。
そのおかげか、水族館デートは予想以上に楽しいものとなった。
私達はずっと手を繋いでいて、私は自分の手が汗ばんでいないかと心配したり、お手洗いに行きたくて手を離すタイミングに密かに悩んだり、世の恋人達はこんな緊張感がずっと続くのかと尊敬しつつも、とにかく楽しかった。
そして水族館を出た後は、近くの砂浜に立ち寄った。
遊泳は禁止されてるので、今の時期でも人影はまばらだ。
私達はほとんど貸し切り状態の浜辺を、しっかり手を繋いで散歩した。
足元の砂は熱を帯びていて、サンダルを履いていてもはっきりと夏の刺激を受けるほどで。
そこで私は、他愛もない提案を投げかけたのだった。
「ね、足だけ海につけて涼んでみない?」
自分が今ちょっと浮かれているという自覚はあった。
あまりに楽しくてテンションが高まってるのだ。
何度も来たことある海なのに、一緒に来る人が変わればこんなにも気分が高揚するのかと驚くほど、私はあからさまにはしゃいでいた。
ところが零二君はスッと目を伏せて
「ごめん。海はドクターに止められてて……」
悲しそうで悔しそうな返事をした。
そんな零二君の声に、私はハッとする。
おそらく何か深刻な病気で中学高校と通えてなかった彼にとっては、私みたいに健康な人間には何てことない行動にも、重大な影響があるのかもしれない。
慌てて「私こそごめん……」と謝ると、彼は穏やかに首を振った。
「事情をきちんと説明してないんだから、栞が謝る必要ないよ。むしろ何も話してなかった俺の責任だ」
零二君はそう言ったすぐ後
「ああ、ちょうどいいや、俺はここで座ってるから、栞、足つけてきなよ」
浜に打ちあがった太い流木の前で立ち止まった。
「いいよ。私一人なら、別にいい。零二君と一緒がいいから」
するりと口から滑り出たのは、以前の私では考えられないような、非常に恋人風味のセリフだった。
それは図ったものではなく、自然と零れた言葉。
私の返事は零二君にも予想外だったのか、彼は大きく瞬くと、次には、顔じゅうでビッグスマイルになった。
「一緒にいるよ。ここで栞を見てる。同じことはできなくても、俺は、栞と一緒にいる。ここでちゃんと栞を見てるから、行っておいでよ。足元だけでも冷やしたら気持ちよさそうだ。それに、波打ち際ではしゃいでる栞も見てみたいから」
まるで本物の恋人同士みたいな雰囲気が弥漫していた。
私は頬がヒリリと熱するのを感じ
「そ、そう?じゃあお言葉に甘えて……」
零二君にそれを悟られまいと、逃げるようにして海に駆けだした。
サンダルを放り脱ぎロングスカートをたくし上げ、チャポチャポと波に進入すると、思いの外海水は冷たい。
「どうー?気持ちいいー?」
声に振り向けば、流木に腰掛けた零二君が大声で手を振っている。
離れているので、その細かな表情までは見えないけれど、私には眩しく見えた。
やっぱり零二君はかっこいいな……
そう思うや否や、海に足を浸けているのになぜか体全身が熱を高めていくような感覚に襲われて、焦った私はくるりと体を捻り、さらに海に進んでいった。
冷やさなきゃ。こんな火照ったまま零二君のところには戻れない……
それは焦燥感のような強さで誘導し、私はスカートの裾が海面を泳ぐほどの位置にまで入っていた。
「そんなに入って大丈夫――っ?」
零二君の問いかけに、私はもう一度振り返った。
彼が私を心配してくれてるのだと実感したら、嬉しくて。
でもそのせいか、またもや体の芯から熱くなっていきそうで。
これはもう、全身を海に浸けないことにはクールダウンは難しそうだなと思った。
けれど当然、そんなこと不可能に決まってる。
ここは遊泳禁止なのだから とか、だいたい服を着たままなんだから とか、いかにこれ以上進むのが現実的ではないかを己に言い聞かせて窘めた矢先
バッシャ――――ン!!
ありえないほどの大きな波が私の背後から覆いかぶさってきたのだった。