恋人のフリをする二人(3)
花火大会の翌日は休講だった。
互いに予定のない一日だったので、私達ははじめて朝から待ち合わせることにした。
行先は、さほど遠くはない水族館だ。
大学の知り合いや零二君のファン達と遭遇しないか不安が過ったが、零二君が調べたところ、その日は夏休みの特別校外学習で何校かの小学校が合同で貸し切っているらしく、空いた枠を枚数制限ありで予約販売していたらしい。
さすがにそんな手間をかけてまで来場する学生は少ないんじゃないかと、零二君はチケットを差し出しながら笑った。
万が一知り合いに会っても、俺と栞は同じ講義を受けているのだから別に友達になっても変じゃないだろ?その辺の理由付けは俺に任せてよ。
溢れんばかりの社交性の持ち主である零二君にそう言ってもらうと、何だか妙に安心してしまう私がいた。
短い時間の中でも、確実に彼への信頼が増している証でもあるのだろう。
高校時代の自分を思えば、そこまで誰かとの信頼関係を構築できていることに少なくない感動を覚えてしまう。
そしてもしかしたら、その信頼の進んだ先に恋愛が待っているのかもしれない…と、かすかな予感も掠めたり。
それが正解か誤りか、今の私にはまだまだ判別できないけれど。
「あれ…?」
待ち合わせ場所に着いた私は、そこに零二君の姿がないことに驚きの声がこぼれた。
まだ約束の時刻ではないが、いつもなら、私が待ち合わせ場所に着いた時には必ず零二君が先にそこにいるのだ。
それは一度たりとも違えた事なかった。
私の自宅最寄り駅のロータリー、朝9時。
間違いはないはずだ。
零二君は車で迎えに来てくれる予定で、今の時刻は8時50分。
まだ10分もあるのに、私は、零二君に何かあったんじゃないかと心配になってきた。
いや、もし本当に何かあったのなら、零二君は私に連絡をしてくれるはずだ。
今日の予定がキャンセルになったとか、時間に遅れそうだとか、内容の大小に問わず絶対に何らかの連絡があるはずだ。
早乙女 零二という人はそういう人なのだから。
私は焦る気持ちを宥めながらロータリーを一周した。
やはりまだ零二君は来ていない…と思った矢先、プァンと控えめなクラクションに足が止まった。
車道に目をやると、零二君のと色は違うが同じ車種のドライバーが、じっと私を見つめていた。
「……早乙女、英一君?」
そう呟いたとほとんど同時に、運転席からは零二君の従兄弟、早乙女 英一君が降りてきた。
彼はまっすぐにこちらに歩いてきて、ぴたりと私の前に立ち止まる。
その動作が、不自然なほど精密に感じられた。
同じ精密でも、零二君の駐車はスムーズでスマートに感じるのに。
「零二は少し遅れる」
言葉少なに告げた早乙女君だったが、私としてはその理由までを聞かないと安堵はできない。
私ははじめて間近に接する早乙女君に、多少ではない緊張を抱きながら
「何かあったの?」と尋ねた。
「車の調子が悪いから修理してる。深刻なトラブルじゃないからそんなに時間はかからない」
イケメンだが無口で無表情だと評判の彼らしく、淡々と、例えるならスマホのAIみたいなしゃべり方だ。
それが彼の基本だと知らなかったら、あまりのクールっぷりに違和感を持つ人もいるだろう。
それほど、冷え冷えとした口調だった。
「わざわざ知らせに来てくれたの?ありがとう」
「零二は遅刻が確定するまでは君に連絡しないと言っていた。そうしないと気を遣った君が今日の予定をキャンセルしかねないと、零二はそれを危惧していた。俺がここにいるのは、約束より早く君が来た際、事情を説明し、車の中で涼ませる為だ」
早乙女君の話は親切心以外の何ものでもないのに、やはり冷淡な印象しか生まれてこない。
彼には表情筋が存在してないのだろうか。
その動かない相好には、夏に付き物の汗の気配さえもなかった。
さっきまで涼しい車の中にいたといっても、この日射しを1分でも浴びれば額あたりは湿ってきそうなものなのに。
彼の冷えた無表情の下には、さらさらな肌しか見えなかったのだ。
零二君の汗をかいてる姿も見たことがなかった私は、二人みたいな特別感の強い人達には、汗や体臭といった生理的な印象を受けにくいのだなと、おかしな納得をしていた。
「ありがとう。でも、ここで待ってるよ」
いくら零二君の従兄弟といっても、ほぼはじめて言葉を交わす相手の車に乗り込んで二人きりで過ごすなんて、私にはハードルが高い。
「こんなに暑いのに?」
「うん、大丈夫。ごめんね、わざわざ来てくれたのに」
「それは構わない」
早乙女君は短い返事の後、車には戻らず私の真横で腕を組みながら時刻を確認した。
零二君の事情は把握したので、早乙女君がこれ以上この場に留まる必要はないのに……
おそらくこのまま私と一緒に零二君を待ってくれるつもりであろう早乙女君。
私はそんな彼に戸惑いつつ、かといって無下に断るのも気が引けて、ならばせめて場つなぎに何か話題を提供せねばと、奇妙な使命感に駆られた。
「えっと…、早乙女君は、」
「英一でいい」
「え?」
「名前。早乙女じゃなくて、英一でいい。零二と混同するから」
「あ……」
一瞬何のことかと構えたが、単なる呼び方の問題だと分かると、私の中では使命感も緊張感もするすると薄まっていくようだった。
「今日はじめて話したくらいなのに……いいの?」
「ああ」
ぬくもりを感じない物言いの中にも、彼なりの親密感が込められているのだろうか。
もしそうなら嬉しい。
零二君の従兄弟である彼とは、できることなら私も友好的な関係を築いていきたいから。
「じゃあ、……英一、君?」
「なんだ?」
「いや、あの、呼んでみただけ、です」
私は横向いて英一君の正面から彼のクールな顔を見上げた。
「なんだそれ」
英一君からは無色の一瞥が。
クールは変わらず。でも印象が少し変わった英一君に、私は気負いのない笑顔で返せたのだった。
だがその時、バン!と車のドアが閉まる音が響いて、直後、強い力で腕を後ろに引っ張られた。
「―――っ?!」
突然の衝撃に私の体は大きくバランスを崩してしまう。
けれど倒れかかった体は、腕を引いた人物の胸にしっかりと受け止められていた。
「二人で何の話をしてたんだ?」
頭上に注がれた声は零二君のものだった。
「零二君?車は大丈夫だったの?」
私は慌てて体勢を整え、零二君を真下から見上げた。
「うん、遅くなってごめん」
零二君は私に少し微笑んでからさっと顔を戻した。
その見つめる先は、英一君だ。
「ずいぶん親しげだったな、英一?確か栞と話すのは今日がはじめてのはずだよな?」
零二君が腕を放してくれないので私は零二君にぴたりと体をくっつけたまま、彼がどんな様子なのかも把握できない。
だがその語調から、決して穏やかなものでないとは感じる。
そんな尖ったセリフを受けた英一君とはいうと、いたって常時のテンションで反論した。
「たいした話はしてない」
その返答は間違いではないが、説明不足にもとられかねないと、私は英一君を補うように加勢した。
「そうだよ。私が早乙女君って呼んだら、二人とも早乙女だから英一君って呼んでいいって言われただけだよ?」
私と英一君のどこか親しげに見えたのだろう?
英一君からは終始冷えた態度をとられていたというのに。
ところが零二君はさらに訝しむように呟いた。
「英一君…?」
それは好意的な声ではなかった。
けれど私は、零二君の反応も何となくは察せた。
私は、例え偽でも恋人関係にいる零二君を、”零二君” と名前で呼ぶまでには時間がかかったのだ。
なのに、今日まで話したこともなかった英一君をいきなりそう呼ぶなんて、不公平感は拭えないだろうから。
だが不思議なことに、今度は英一君もにわかに顔色を崩したのだ。
無表情の仮面が、不規則に歪む。
「零二、お前……」
英一君が表情を動かすのを初めて目にした私はとても驚いたけれど、それを表す暇はなかった。
零二君にまたもやきつく腕を引っ張られ、自分の意志とは無関係に強制的に、その場から離れることになってしまったのだから。
「ちょ、零二君?英一君が…」
「いいから!車、向こうに止めてるから、早く行こう。英一、世話かけたな」
零二君は英一君に見向きもせずぶっきらぼうに言い放つと、私の腕を引いたままロータリーの反対側に大股で歩いていくのだった。