恋人のフリをする二人(1)
私達の秘密の恋人のフリは意外と順調だった。
講義で毎日顔を合わせても人目のある所では一度も言葉を交わさず、もっぱらドライブが多かったけれど、それも有意義な時間だった。
偽デート中の私達は、きっと、普通の恋人にしか見えないだろう。
実際私達自身も、恋という感情を知る為に恋人のフリをする、いわばサンプル実験だったはずなのに、いつの間にかそんな気負いは減っていって。
ただ普通に楽しんでいた……ような気がする。
それでも当初の約束通り肉体的接触は一度もなかったし、互いの呼び方だって早乙女君、朝倉さんのままだったけれど。
だが恋人のフリを始めて十日目、隣町で開催される花火大会に車で向かう途中、何気ない感じに彼がついにその話題を口にしたのである。
「ところで、恋人同士がいつまでも苗字呼びは変じゃない?」
「まあ、それはそうだけど……。でも私達は、」
「フリだから、そのままでもいいって?ダメだよ、そこもきちんと恋人らしくしなきゃ、恋について理解は深まらないと思う」
「そうかな……」
こういう展開の時、早乙女君は優しい顔をしながらも簡単には退いてくれない。
独断ではないけれど、あの手この手で計算したように、知らないうちに早乙女君方向に物事が進んでいたりするのだ。
私がどうしても譲りたくない事においては譲歩がないわけでもないが、今回の呼び方の件は私も若干気にはなっていたので、ここは早乙女君の言い分を受け入れようと思った。
「それじゃ、ニックネームで呼び合う?」
私がすんなり賛成すると思っていなかったのか、早乙女君は「いいの?」と訊き返してきた。
「もちろん、二人きりの時だけだよ?」
「了解。じゃあさ、栞って呼び捨てにしていい?」
「え?……ま、まあ、いいけど」
前触れもなく呼び捨てされて、私の心臓がビクンとイレギュラーな跳ね方をした。
そしてその直後からはドッドッドッ…と、自己主張の激しいものになっていく。
待って、そんな不意打ち卑怯でしょ。
だって私は今まで男子と特別に親しくしなんかしてないのだから、当然、男子に名前を呼び捨てにされる経験もなくて……
けれど同時に、何の躊躇いもなく『栞』と呼び捨てにした早乙女君に、ピシッと心臓が軋んだ気配もした。
私には未経験の呼び捨ても、男女問わず友達が多い人気者の早乙女君には日常の事なんだろう。
そう思ったら、心の中に不和な感情が芽生えてくるようだった。
なぜだかは分からない。
自分にない経験を持っている早乙女君への羨望なのか、逆に劣等感なのか、その正体は不明だが、とにかく私は、容易く呼び捨てにできてしまう彼に胸が痛くなったのだった。
「じゃあ俺のことは零二って呼んで」
自分には何てことない行為だからか、早乙女君は気安く言ってくる。
いや、無理だから。
もとより高校時代の友人関係が希薄で、大学に入ってからもリハビリ状態の私には、高精度の対人スキルなど備わっていないのだ。
知り合って間もない相手を呼び捨てにするなんて、友人達と普通に接していた中学時代だってなかった事かもしれない。
早乙女君も高校には行けてなかったと言うが、身近に従兄弟がいたり自宅に家庭教師を招いたりと、人と接する機会は私よりもずっと多かったのだろう。
だから大学でもあんな風にフランクに人と接する事ができるのだと、同じ不登校カテゴリー内でも彼と私は全然違うのだという認識でいた。
「呼び捨てはちょっと……」
「え、どうして?」
心底分からないという風情の早乙女君に対し、私は心の詳細を説明するのが恥ずかしくなった。
私達を似てると言ってた早乙女君に、実際はこんなにも差があるんですよ、なんて、わざわざ教えたくなかったのだ。
「とにかく、いきなりは無理」
説明できない以上、こう返すのがせいぜいだった。
だが早乙女君は余計な詮索するつもりはなかったようで、「じゃあ、”君” 付けは?」軽やかに代案を出してくる。
その代案も私にしては結構な試練だったが、それすら拒否してしまうのは妥協してくれた早乙女君に申し訳なくて。
「……零二君」
返事替わりにぼそりとそう呼んでみた。
すると早乙女君…零二君は嬉しそうに破顔した。