恋を知らない二人(1)
『二つなき 恋をしすれば 常の帯を
三重結ぶべく 我が身はなりぬ』
他の誰とも比べようもない恋をしてしまった私は
いつも巻く帯を三重しなくてはならないほどに
痩せ細ってしまいました―――――――
何年か前、偶然見かけた万葉集の歌だ。
恋というものをよく理解できないでいた私には、実に衝撃的なものだった。
誰かを好きになって痩せ細ってしまうなんて、そんな事あるのだろうか?
疑いしかなかった。
だいたい、恋愛というものに私はいい感情を持っていない。
恋心は、時には人の心に悪意を宿らせもするのだと、私は身を以もって感じているのだから。
だからそんな私は、大学生になった今でも変わらず、
恋という感情を掴めずにいたのだった。
※※※※※
世間では夏休みとされる8月下旬のある日、私は大学のカフェテリアにて、非常に不愉快な光景を目にしていた。
どう見ても高校生にしか見えない女の子に、どう見ても大学生であろう男女グループが、品のない言葉でちょっかいを出していたのだ。
高校生の女の子は背を曲げ、どこかコソコソした雰囲気があり、そんな姿が暇な学生達のからかい対象になってしまったようだった。
私の通う大学では8月も一般教養の集中講義があるので、学生と大学見学の高校生が入り交ざるというのもおかしくはないのだが……
おそらく女の子は一人で見学に来て、休憩がてらカフェテリアを利用していたのだろう。
それにしても大学生にもなってそんな言葉で年下の高校生を揶揄するなんて、少々驚いてしまう。
ダサイだのキモイだの、そんな品性もなければオリジナリティの欠片もない悪口に遭遇し、私は思わず耳を疑ったほどだ。
その学生達とはほぼ面識もなく、高校生の女の子も全然知らない子だが、いくら無関係の人間とはいえ、目撃した以上無視するのも寝覚めが悪い。
私はやれやれと思いつつ
「ねえ、スカートに汚れが付いてるよ?お手洗いで見て来たら?」
見ず知らずの彼女にそう声をかけたのだった。
「?」
女の子は言われるがままにに自分のスカートの後ろ側を見ようとした。素直な子だ。
だが勿論汚れてなんかないので、私は女の子や学生がそうと気付く前に再度促した。
「自分じゃ見えにくいと思うから、トイレの大きな鏡で見てきなよ」
すると、女の子はスッと私を見てきて、何やら少し考えてから、ぺこっと頭を下げ、駆けていったのだった。
そして残った私に突き刺さってくるのは、大人気なく集団で高校生をからかっていた彼ら彼女らからの視線だった。
全員が、まるで拾ったおもちゃを取り上げられたような面白くなさそうな顔で。
私も女の子と一緒に立ち去ればよかったのだが、出来立ての日替わり定食がホカホカとそれを妨げてくる。
仕方なく、彼らとは距離を保ちつつ、遅めのランチを堪能する事にした。
だがしばらくすると、案の定彼らからは棘のある言葉が聞こえてきた。
「あの子、文学部の子?なんか感じ悪くない?」
「あー、あの子ね、なんか高校ん時不登校だったらしいよ」
「まじ?そんな風に見えないけどな」
「でもぼっち飯してるじゃん。かわいそう。お前ら声かけてやれよ」
「やだよ。不登校してた人なんて何て話しかければいいかわかんないもん」
「そうそう。すぐイジメだーって騒ぐ人もいるしね」
「ああいう人達って自分勝手だよねー」
彼らの賑やかな会話は徐々にヒートアップしていく。
私と同じ高校の出身者も何人かこの大学に来てるようだし、別に高校時代の事を隠してるつもりもない。
でもどちらにせよ、私が高校に行ってたかどうかなんてあなた達には何の関係もないし、1ミリも迷惑かけてないでしょうに。
内心で反論しつつも、この手のタイプは相手にしても疲れるだけなので、私はきれいさっぱり無視することにした。
ところが
「ねえ、俺も高校には行ってないけど、自分勝手かな?」
明々後日の方角から、そのセリフは矢のようなスピードで飛んできたのだった。
一斉にその声の主に注目が集まった。
もちろん私も例外ではなく。
だがその人物を認めた途端、舌打ちをしたくなってしまう。
彼は、この大学で知らない人はいないだろうというほどの有名人だったからだ。
早乙女 零二 文学部一年生。
私は同じ学部ということもありその名前を知っているが、おそらく他学部でも彼のフルネームまで知っている女子は多いはず。
それほどに彼はイケメンで長身、モデル並みのスタイル、いつも明るい笑顔の社交的な優しい性格で友人も多いが、サークルには入らずコンパなどにもあまり参加しないという、お近付きになりたい人間にはなかなか機会を与えてもらえない、まるでアイドルのような存在だった。
そして彼には同じ学年に従兄弟の早乙女 英一がおり、彼もまた女子から大人気だった。
英一の方は零二と違ってクールで口数も少なかったが、端正な容姿は大人びた雰囲気もあり、あまり表情が動かないところはまるでアンドロイドのように無機質な美形と噂されていた。
二人は従兄弟で、学生達の間では ”早乙女兄弟” と呼ばれることもあり、とにかくファンが多かった。
その早乙女兄弟の片割れが、…いや、よく見ると相方も離れた所からこちらを注視しているが、そんな大学一の有名人が突然話に飛び入りしてきた事に、悪口の花を咲かせていた男女グループの勢いはピタリと止まったのだった。
「やだ……、早乙女君が不登校?そんなバカな」
「そうよ、零二君ならクラスの人気者だったんじゃないの?」
信じられないと訴える彼女達に、早乙女 零二はトレードマークの笑顔を濃くして告げた。
「そんなことないよ。実際、俺は中学も高校も行ってないよ?事情があって行きたくても行けなかったんだ。でもそれが自分勝手?君達に関係あるのかな?」
「それは…」
「人にはそれぞれ事情があるんだ。他人が勝手に土足で入り込むべきじゃない。例えば君が先月俺にくれた手紙の事だって、俺は誰にも話したりしてないよ?」
「っ!」
早乙女 零二の最後のひと言はかなり強烈に彼女達を刺激したようで、そのうち一人は顔を真っ赤にさせて立ち上がった。
遠目にもその彼女の全身から羞恥が滲み出ているのは見て取れた。
彼女は早乙女君を見る勇気もなさそうで、無言のまま、カフェテリアから走り去っていく。
そしてその後を男子学生達が追いかけ、まるで台風一過のように昼下がりのカフェテリアからは品のない騒音が消えた。
すると、早乙女君がすすっと私に歩み寄ってくるではないか。
間近で見上げた彼は、評判以上に整った顔をしていた。
端正過ぎて造りもののようだという揶揄も耳にしていたけれど、そんな温度のない印象は感じない。
むしろ柔らかにゆるめられた表情は、とてもあたたかい。
「ごめん、余計なお世話だったかな?」
「別に…。静かになって助かったけど」
「ならよかった。それじゃ、またね。朝倉さん」
早乙女君はそう言って、眩いばかりの笑顔で去っていった。
同じ学部で、今受けてる集中講義も同じなのに、彼と言葉を交わしたのはこれが初めてだった。
それは、私が極力彼らと接近しないようにしていたからで。
何も彼らを嫌っているわけではないが、ただとにかく、私は、モテる男子とはかかわりたくなかったのだ。
だから今後も、早乙女君達とはかかわり合うつもりはなかった。
顔見知り程度の距離感で卒業まで過ごすつもりでいたのだ。
それなのに………