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Get it, Reloy

作者: 昼行灯

 データチップを差し込み、首の後ろのスイッチを押す。ピッ、という電子音と共に、真っ暗な画面に二つの光点がともる。カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、それはひどく不気味に映った。

 起動時の動作確認だろう。ストレッチのような動きを何度かしてから、それは僕を見上げて、「ワンワン」と鳴いた。別に「犬だからワンワンと鳴いた」なんて表現したわけじゃなくて、そうとしか聞こえないのだからしょうがない。


 狭い部屋に敷かれた毛足の長いカーペットは、幼いころから使っていて随分くたびれている。ほつれに足を取られてコテンと倒れたそれは、銀色の滑らかな体をしていた。かがんで助け起こしてやると、短い尻尾をちぎれんばかりに振る。

立てかけたバットの横、転がっていたボールを部屋の隅に向けて放ると、跳ねるようにそれを追いかける。その姿は、記憶の中の彼によく似ていた。


 そうして僕は、その後ろ姿に向かって呼びかける。


「――取ってこい リロイ」


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 視界の先、随分と小さなキャッチャーミットを睨みつける。


 マウンドからホームベースまで、18・44メートル。慣れ親しんでいたはずのその距離が、今となってはやけに遠い。ケガも疲労もないはずの体が、泥でできたかのように重かった。弱気になりそうな自分を振り払うように、右足を大きく持ち上げる。

 脳内にインプットされた動きをなぞって、体重移動を意識しながら右足を前へ。お手本のようなテイクバックから、左腕を鞭のようにしならせる。空中へと押し出された球は白いラインを描き、パンッと乾いた音を立て止まった。


「……ボールだな」


 ぼそりと呟く。キャッチャーミットに収まったボールは、想定よりも一個分低い。スピードガンを構えていた後輩に目をやる。「――128km/hです」と、どこか申し訳なさそうに伝える彼に気にするなと手を振ってから、僕は捕手を務める和田にちらりと目をやった。

 捕まえたボールをミットにパシパシと叩きつけていた彼は、こちらの視線に気づくと「よっこらせ」と言いながら立ち上がる。マスクを外した下の顔は、普段の彼とは違う気遣うような曖昧な笑みが浮かんでいた。

 医者から指示されている投球上限まではまだまだ余裕がある。とはいえ、三十球投げて130km/hを超えた球は一度もない。これ以上の練習をする意味もなければ、その無意味な練習に他人を付き合わせる理由もなかった。


「まだ調子は戻んないみたいだな、真吾」

「……悪い」

「謝んなって。あんなことがあったんだから仕方ねえよ」


 ポンと僕の肩を一つ叩いて、「それより腹減らねえ?」と、防具を外しながら和田が言う。先輩に付き合わされた格好の一年生が「俺ラーメンが良いっす」と乗っかった。奢られる気満々の後輩に苦笑しながら、「じゃあ3人で食いに行くべ」という和田の誘いを、僕は通院を理由に断った。残念そうな、それでいてほっとしたような顔の二人に背を向けて、早々にロッカーへと向かう。

 普段なら無理にでも誘ってくるところだったが、今日は引き留める声もない。それに寂しさよりも安堵を感じている自分に気付いて、僕はチッと舌打ちをした。背番号1、MORINOの文字が入ったユニフォーム。その他諸々をバッグに無造作に放り込むと、二人を待たずに練習場を後にした。


 川面を吹き抜ける風もずいぶんと暖かくなっている。どこかの少年野球チームだろうか。隊列を組んだユニフォーム姿の子供たちが、川沿いの道をランニングしている。ただ息が上がりやすくなるだけだろうに、掛け声をかけながら走って行く。強烈な西日に引き伸ばされた彼らの影が、巨大なムカデのようにうねっていた。

 そのまま彼らを目で追っていると、その先で飼い犬の散歩をしている女性が、急に走り出した犬に引かれて大きくつんのめった。2、3歩よろめいて何とか持ち直した彼女は、しゃがみ込んで飼い犬の顔をわしゃわしゃと撫でまわす。


「引っ張らないの、もう」


 聞こえるような距離ではないのに、犬を構う後ろ姿からそんな声が聞こえるようだった。叱られているのにちぎれんばかりに尻尾を振るダックスフントの、柔らかそうな茶色の毛並みが目に入る。夕日のオレンジと、伸びる影の灰色。そして、日の光を反射した川面の白。


――ビリリ、と


 なんてことの無いそれらを見て、不意に首の後ろあたりに電流が走る。しまった、と思ったときにはもう遅い。それを切欠に、思い出せるはずもないあの日の出来事が、ゲームのセーブデータをロードするみたいに浮かび上がってくる。何度経験してもなれない、記憶を思い出す感覚に、心臓がキュウと縮こまった。


――ああ、またか。


 自分が自分でなくなるような、根源的な恐怖を感じる情報の侵略。強張る筋肉をなんとか操って、くずおれそうな体を支えながらゆっくりとしゃがみ込む。周りの人からは、靴紐を結んでいるように見えるだろう。


――大丈夫、大丈夫


 ゆっくりと深呼吸をしながら、何とか落ち着きを取り戻そうと試みる。それでも、そんな努力は情報の濁流の前ではあまりにも非力で。せめて倒れ込まないようにと体を丸めて、そこから白昼夢を見るかのごとく、意識は映像の中に引きずりこまれた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 森野真吾は昔、犬を飼っていた。

犬の名前は、リロイと言った。


 リロイは真吾が中学に上がったころに、河原で拾った犬だった。僕はどちらかと言えば猫の方が好きだけど、犬が嫌いな訳ではない。一人っ子だったこともあり、真吾にとっては弟ができたように嬉しかったのだろう。

 真吾とリロイは何をするのも一緒だった。ご飯を一緒に食べ、同じベッドで眠り、毎朝早朝にランニングをして、野球の自主練にだって付き合わせた。真吾が投げたボールを短い脚を必死に動かして追いかけ、拾ってきたボールを足元に置いてこちらを見上げる。そんなリロイを、真吾は本当に可愛がっていた。


 あの日、最後に感じたのは、不思議なことに痛みでも衝撃でもなかった。


その日、真吾は日課のロードがてら、犬の散歩をしていたのだと思う。

虫か何かを見つけたのか、それとも単なる気まぐれか。急に走り出したリロイを追って道路に飛び出す。慌てて彼を抱え上げた次の瞬間、ドンッという音が聞こえて、目の前が真っ白な光で塗りつぶされた。ちょうど雷に打たれたら、きっとこんな感じなんだろうなと、呑気にそんなことを考えていたことも記憶している。そうして真っ白な光と、腕の中の暖かな感触が薄れて行って、真吾の意識はそこで完全に断絶した。

 その次の最初の記憶は、枕元で目に涙を浮かべる一組の男女と、ユニフォームを着た老人と、白衣を着た医者らしき男が、それぞれ一様に、――おそらくは、それぞれ全く異なる理由で―― 浮かべた歓喜の表情だった。どうやら自分は事故にあったらしいということを、僕は医者に聞かされて初めて知った。


 昔ならいざ知らず、現代では即死さえしなければ、事故で亡くなるということはほとんどない。あらゆる組織に分化する万能細胞の開発は、肉の器を完全に修復する力を人に与え、脳科学とITテクノロジーの発展は、損なわれた魂の修復すら可能にした。こうして生み出された肉体と魂を復元する技術は、人に疑似的な死者蘇生すら可能にした。その魂の復元を可能にしたのが、「シュクレン」と呼ばれる技術だ。


 SYstem Undertaking Kinesuthesia and Remembrance in Artificial Nerve。直訳すると「人口神経に運動感覚及び記憶を格納するシステム」といったところか。世間一般には、頭文字を取って通称「シュクレン」という呼び名で通っている。ものすごく簡単に説明すると、脳の後方にコンピュータの脳味噌を増築する。そこに記憶や経験のバックアップを取っておき、必要な時――老化やケガで記憶に障害が発生したとき――に脳に再ダウンロードする、そういう技術である。

 記憶の保護という機能は、元々は認知症や記憶障害の治療のための研究から生まれたものだった。だが、開発者の意図とは裏腹に、この技術が爆発的に広まったのはスポーツの世界だった。

 シュクレンに記録できる記憶は、知識や思い出といったものだけでなく、体の動かし方といった感覚的なものも含まれる。つまり、全盛期の動きをシュクレンに記憶してさえおけば、ケガをしようがスランプに陥ろうが、いつでもその感覚を取り戻せる。

 たまたまシュクレンを入れた引退間近のプロサッカー選手が、急に往年を思わせる大活躍をし始めた、そのあたりがターニングポイントだろう。翌年から同じ施術をする選手が増え始め、――たぶんその後色んな話し合いやらルール改正やらがあったのだろうが――現在では一定の制限をかけてスポーツ目的のシュクレン施術が認められている。そんなプロスポーツ界に倣うように、プロ候補の学生やアマチュア選手の中にも、学校やチームの補助を受けてシュクレンを入れる者は多い。


 真吾もまた、そんなプロ候補の一人だった。

 名門野球部のエースピッチャーとして注目され、学校に進められるままシュクレン施術も受けた。そのお陰で、ケガで失われるはずだった記憶も元に戻った。

 体のケガもすっかり完治している。ついでに色々と直してもらったから、事故に会う前より体のコンディションはむしろ良いくらいだろう。


 そんな僕がケガから復帰して1カ月。

 真吾のピッチングに、未だ復調の兆しはない。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「精神的な問題が大きいのかもしれません」と先生は言った。「ペットを一緒に亡くされているでしょう。心的外傷がパフォーマンスに影響を与える、というのは良くあることですから。辛い過去の記憶を思い出したくないがために、それ以外の記憶も上手く定着しないというのは良くあることです」と。

「それじゃ、その記憶だけを消してしまうとか……」

「一部でも重要な記憶を消すと、他の記憶にも影響を与えます。最悪、今よりもっと重篤な精神疾患を引き起こす恐れがあります」

 先ほどからずっと、こんなやり取りが続いている。僕は未成年ということもあって、治療方針は両親も交えて決めることになっていた。

だけど母はどこかぼんやりと僕を見るばかりで、医者とのやり取りには口を出してこない。子供とはいえ17になる僕を尊重しているのか、それとも、仕事疲れで頭が働いていないのか、それは分からなかった。


 「でも、なんとかその、治す方法はないんですか? 今のままだと困るんです」


 困るというのは比喩でもなんでもなく、このまま平凡な選手に成り下がれば、僕は野球推薦というアドバンテージを失う。退学にはならないにしても、部活動に森野真吾の居場所はなくなるだろう。

 担当医であるシュクレンの施術医は、そんな僕の懇願に対してしばらく悩み、「ちょっと調べてみるよ」と断ってデスクに置いたパソコンに向き直る。

彼は医師免許を持っているれっきとした医者だが、目にもとまらぬタイピングでパソコンを操作する姿はSEと言われた方がしっくりくる。どちらかと言えばシュクレンの技術者的な側面が強い。少なくとも精神科医ではないのだから、トラウマを克服する方法を知らなくたって仕方はないのだけど。

 そうして5分程画面を睨んでいた先生は、論文か何かを見つけたらしく、一つの治療方法を提案した。僕は少し考えて、それを受け入れた。母は最後に「ありがとうございました」と頭を下げた以外、何も言おうとはしなかった。



 それから数日後。


 僕はなぜか、リビングで犬と向かい合っている。


本物の犬ではない。

ソイツは全身がつるりとして光沢があり、目があるべきところには、横長のディスプレイが付いていた。今は電源が入っていないが、起動すると目が表示されるらしい。全体のフォルムは犬そのもので、ものすごく遠くから見れば犬に見えるだろうが、近くで見ればどう見ても機械だと分かる、そのくらいの再現度だ。


「……これ、子供の玩具じゃないの?」

「そんなこと言わないの。中古品で安いの探したけど、それでも2万円もしたんだから。大体、あなたが先生にお願いして、見つけてもらった治療法でしょう」


 母親はそう言いながら、「何となくリロイに似てるわね」と呟く。リロイはダックスフントの成犬だったから、子犬型のコレと比べればもう少し大きいが、確かに尖った鼻や大きな耳は似ていなくもない。


「ロボット犬なんて久しぶりに見たけど、そんな使い方があるのねぇ」


 ロボット犬。数年前に一度流行った記憶がある。母によれば20年前にも流行りが来ていたらしいから、随分と息の長い玩具だ。何社か扱っている会社はあるが、母が中古品サイトで見つけて来たのは、十年前に発売された最大手のブランドだった。辛うじてデータ学習機能がついているモデルだ。後ろ足の裏に、「FANGO」とロゴが書いてあった。


『シュクレンペット、なんて言い方をするんですけどね』


 先生が提案した治療法とは、つまりこういうことだった。


『ペットロスの治療にロボット犬を使う治療法があるんです。生前の振舞いを記録した媒体……ホームビデオとかですね。そういうものがあれば、その行動を学習させることで、亡くなったペットと同じように振る舞うロボット犬が出来るんですよ。ただ、森野君はシュクレンを入れてるから、そこから君の飼い犬……リロイ、だったかな? その子の記憶を抽出すれば、同じことができますよ』

『それは……ロボット犬をリロイの代わりにする、ってことですか?』

『あ、いえ、そういうことではないんですが……う~ん、何と言ったらいいかなぁ…』


 癖なのだろう、後頭部をがりがりと掻きながら、先生はゆっくりと、言葉を選びながら続けた。


『シュクレンペットは決して、亡くなった誰かの代わりにはならないんです。例え振舞いがどんなに似ていても。でも、それがかえってセラピーになるといいますか……。亡くなったパートナーと同じ振舞いをするロボットと触れ合うことで、もう彼/彼女はいないんだって納得がいく、というか。悲しいことは変わらなくても、思い出にしてしまえれば心も軽くなることがある、みたいです』

 もちろん個人差はありますし、私はペットを飼ったことが無いので、よく分からないのですが。まだ30代くらいに見える彼は、そういってハハと笑った。


『あくまで一治療方法の提案ですし、本当に効果があるかもわかりません。ただ、提案させていただいた手前、森野君の記憶の抽出くらいならサービスしますよ』


 そこからはあっという間だった。もう検査で何度も乗っている、MRIに似た装置に寝っ転がって、頭の中のシュクレンからデータを読み取る。そうして抜き取ったリロイとの5年間は、今は1センチほどのチップの中に詰め込まれて、僕の右手に収まっている。

 じっとそれを見つめていると、母が声をかけてくる。


「どうする? すぐに試してみる? その、シュクレン……」

「シュクレンペットね。後で自分の部屋に持って行ってやるよ。これからロード行かなきゃいけないし、さすがにコイツ連れてけないでしょ」

「そう、じゃあ箱にしまっておくわね」


 そういって後ろを向き、ごそごそと箱にロボットを治めていた母が、ふと思い出したように言う。


「あのね、真吾……」

「何?」

「そんなに、無理しなくて良いのよ」


 玄関へ続くドアを開けようとして止まる。無理をしている? 僕が? 動揺を隠すように、後ろを向いたまま答える。


「別に無理はしてないよ、おれ。体は治ってるし、練習も先生の言うとりセーブしてるし」

「そ、そう、ならいいんだけど。ゴメンね、変なこと言って。あ、そうだ。今日の夕飯、パート終わりにコロッケ買ってくるから、楽しみにしてて」

「マジで? 分かった」


 意図的にうれしそうな声を出す。コロッケは真吾の好物だった。僕は振り返らずに返事をして、そのまま玄関を出る。


「っと、そういえば鍵……あった」


 ジャージの左ポケットにしまっていたそれを取り出す。鍵を持ち換えて、鍵穴に差し込んだ。ガチャリと音を立てて鍵が閉まる。それを確認して、はぁっと深いため息をついた。

 まだ大丈夫だ。気づかれたわけではない。それに、このままの生活を続けて、本当のことにしてしまえばいい。森野真吾の完全な復活をもって。


「……無理なんかしてない」


 その呟きは誰にも聞かれることはなく。僕は何かから逃げ出すように、家の前から駆け出した。

すっかり回復した体は地面を力強く蹴り、風のように体を前に運ぶ。重心を意識して背筋を伸ばし、息は二回吸って二回吐く。何千回とこなしたその動きは、この体が長く楽に走れるように最適化されているはずだった。


なのに、なぜだろうか。胸をふさぐような息苦しさがいつまでも消えない。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「アレ、真吾じゃん? ロードの途中か?」


 気づけば僕はまた、練習場へと戻って来た。いや、当然か。森野真吾のロードコースは決まっている。記憶を頼りにその道を走ったのだから、最後にここに着くのは当然だった。

 今日は自主練習の日のはずだが、それでも部員の大半は出てきている。さすがに強豪だけあって、部員一人一人の意識が高いのだろう。

 そこに交じってあれこれと指示を飛ばしていた和田は真っ先に僕に気付くと、「10分休憩っ!!」と部員に声をかけこちらに歩いてくる。三々五々日陰に戻って行く彼らを尻目に、和田はこちらに歩みよる。


「別に練習止めなくても良いのに」

「良いんだよ、切欠がねえと休もうとしねえもんアイツら。んで、今日はどうしたんだよ。自主練はしばらく様子見って言ってなかったか?」


 そう言って彼はまた笑う。和田は良く笑った。笑顔で激を飛ばし、笑顔で味方を励ました。他人へのアドバイスは惜しまないが、決して後ろ向きなことは言わない。そういう人柄だからこそ、キャプテン兼正捕手という重責を任されているのだろう。

 別に、何か用があったわけではなかった。けど、ここに寄った以上は何か言わないと不自然だろう。何かないかと考えてふと、一つ質問したいことが浮かんだ。母親にはとても聞けない。でも和田であれば、――このひたすらに快活な友人であれば、いいかもしれない。


「あのさ、和田。例えば、なんだけどさ……」


 深刻そうに切り出した僕を、和田はいつもみたいに温和な目で見る。その目は、記憶の中の目となんら変わらない。常に優し気で、真面目な顔をしてもどこか笑っているように見える顔。そのいつも通りの顔に勇気づけられて、僕は言葉を続ける。


「例えば、おれがこのまま、調子戻らなかったらの話だけどさ……。和田はおれのこと、どういう風に思う?」

「どういう風に思うって、何をだよ? お前を試合で使うかどうか決めるのは監督だろ。お前の調子を理由に俺がどうこうできる理由なんて無いっての」

「いや、そうじゃなくてさ。……おれが、このまま活躍できなくなったら、もう和田と練習とかもできないじゃん。そしたらどうすんのかなぁ、てさ」


 こういう時はどう喋っていたか思い出しながら、言葉をつなげる。言葉をぶつ切りにして、でも内容はシンプルに。これもこの一か月で随分と上達した。僕はずいぶんと、自分の記憶に慣れて来た。なのに……。


「別にどうもしねぇよ」

「え?」


 和田のリアクションは、記憶の中のケースとは違っていた。


「そりゃ、このまま行けばエース交代とかバッテリー解消とかはあるかもしんねよ。それは仕方ねぇ。でも別にそれで付き合いが無くなる訳じゃないし、今でもそこそこ投げれるサウスポーってだけでベンチには入るだろ。それに……」


 そこまで言って、和田はまた笑う。


「それに、野球が無くたって、友達じゃなくなるわけじゃないだろ」

「君もそんなことを言うのか……」

「ん? なんか言ったか?」

「いや何でもない。それより用事があったの思い出したから、おれ、帰るわ」

「え、もう帰んの。ちょっとくらい交じってけば良いのに」


 ま、用事があるなら仕方ないな。そう言って和田はまたな、と右手を上げる。僕はそれに右手で応じて、来た道を戻る。

何度も通った帰り道だけど、こんなに朝早くに復路を走ったことは無かった。走る向きと時間が違うだけで、随分と新鮮に映るその光景を、僕は意図的に無視する。さっき以上に増した息苦しさも、無視する。

 

 どうしても、確認しなければならないことがあった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 そうして僕は今、部屋でシュクレンペットと向かい合っている。


「取って来い、リロイ」


 簡潔に下された命令を、ロボット犬は忠実に実行した。

 足元にじゃれついてくるそれは、僕を見上げて「ワンワン」と鳴く。

 起用に加えて持って来たボールが、コロリと足元に転がる。


 ――ああ、やっぱり


 ゆっくりとかがみこんで、その頬に手を這わせる。

 クゥーンという甘えた鳴き声の後、尻尾の揺れが一層激しくなる。それもまた、記憶の中のリロイそのものだ。あたかも、死んだはずのリロイが蘇ったかのように。



 でも、そこにあったのは、リロイではなかった。



 「ワンワン」としか聞こえない鳴き声も。

 こちらを見上げるつぶらな瞳も。

 名前を呼ばれて走り寄ってくる、その一歩でさえも。


 体の色や形がどうだとか、機械でできているからとか、そんなことが理由ではない。

 見せる表情や仕草がよく似ていても、何も関係無かった。


 僕にダウンロードされた、森野真吾の記憶がはっきりと言っていた。


 そこにあったのは、リロイと名付けられ、リロイの振舞いをダウンロードされて。リロイとよく似た振舞いをする、――まったく別の、ただのロボットだった。




 そして僕は、その体にバットを叩きつけた。




 全力で振り下ろされた金属バットは、リロイの頭をひしゃげさせ、アイディスプレイに罅を入れる。急激に加えられた力に耐え切れず、片足の関節がぽきりと折れた。プラスチックでできた耳がはじけ飛んで、壁に当たって床に落ちた。


「なんでだよ、クソッ、クソッ」


 そう言いながら、涙を流しながら。僕は何度も、何度もバットを叩きつける。哀れな子犬はその度に体の一部をひしゃげさせ、弾けとばされていく。とっくに機能は停止しているのは分かっていて、それでも僕は振り下ろすのをやめなかった。


 肉体と魂を復元する技術は、人に”疑似的”な死者蘇生すら可能にした。

 でもそれは、普通なら助からないか、あるいは助かっても脳に障害が残って廃人同然になってしまうような、そんな患者を相手にしたときの話だ。


 それなら、一度完全に死んでしまった患者はどうなるのか。


 あの時、部活帰りに事故にあった森野真吾は一度死んだ。そして生き返った。森野真吾の体に、森野真吾の記憶と人格をダウンロードして。だから僕は、森野真吾であるはずなのだ。森野真吾でしかないはずなのだ。


 なのに、付きまとい続ける違和感が、僕を誰でもない”僕”へと引き戻す。

 

 記憶の通りに動かない体。

 使い慣れない一人称。

 そして、近しい人たちの目が、何よりも物語る。


 僕は、森野真吾ではない、と。


『そんなに、無理しなくて良いのよ』。

そう言う母の、寂し気な後ろ姿。


『別に野球が無くたって、友達じゃ無くなる訳じゃないだろ』。

和田のどこか諦めたような、日に焼けた笑顔。


以前の母親なら、労わりこそすれ「やらなくていい」なんて言わなかった。野球推薦が無くなれば、学費を払わなくちゃならない。一人親のうちにとって、それは無視できない負担のはずなのに。

和田だって、以前なら僕を励ましたはずだ。「お前ならきっと大丈夫だ」って、いつもみたいな前向きな笑顔で。なのに今日は、「野球が無くたって」と、そう言った。

二人が見せた表情のどちらも、”僕”だけの記憶だった。

森野真吾が見たことの無い、別の誰かに向ける顔だった。



『シュクレンペットは決して、亡くなった誰かの代わりにはならないんです』



母親も友人もきっと、無意識のうちに気づいて。それを受け入れていたのだ。森野真吾はもういない、その残酷な真実を。



先生の言ったことの正しさは、皮肉にも僕自身によって証明された。


本物そっくりに振る舞う、本物のふりをしたロボット。

 

出来の悪いシュクレンペットが、僕だった。



 「はぁ、はぁ、はぁ……」


 叩き続けたリロイの躰は、既に原形をとどめないほどに拉げて、カーペットの中に沈んでいる。握力を失った手から落ちたバットが、ゴロンと重い音を立てて転がった。

 もうすぐ母親が返ってくる。僕のやったことを見て、彼女はどうするだろうか。なんてことをするんだと僕を叱るだろうか。それともまた、あの受け入れたような笑顔で僕を見るのだろうか。

それはとても、耐えられそうになかった。


 壁に背を預けて、ずるずると体は崩れ落ちていく。比喩ではなくそうなれば良い。泥人形のように溶けて流れて、なくなってしまえれば良い。心のそこからそう思った。


 シュクレンペットが二つ、真っ暗な部屋に沈んでいる。

〈Fin〉


テーマ:そこにシュクレンペットがあったとして



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