海底庭園 2
■
修正後連載形式に編集しました。今後はこちらで更新する予定です。
そして、君たちは世界の片隅で引きこもることを選んだ。
https://ncode.syosetu.com/n4285he/
■
僕が勤めているのは、東海沖に浮かぶトコヨと称される人工島 ―― 海底地熱発電所であるリュウグウを中心とした国立機関の一端を担う燃料電池の研究所だ。
本土から切り離された空間だが、徴労の義務によって集まった若者が多く、活気がある場所である。さらには、昨日、移動型人工島オトヒメが、充電のために接岸したから、なんだか島全体がお祭りのように盛り上がっていた。
働き始めて三ヶ月、随分と環境にもなじみ、雑用から研究に直接携わるような仕事も任されはじめ、仕事も随分楽しくなってきていた。
ここに来る前は、正直、徴労なんて最悪の制度だと思ってたけど、まるで研究室の延長上のような仕事で給料(それも民間に勤めるよりも幾分か割高らしい)がもらえるのならそれに超したことはない、と思い直したりしている。
それに、ここに渡る船の中で、高校時代に好きだった女の子と再会できたのが、僕に運命を感じさせた。同時に、卒業して二年経とうというのに、まだ彼女のことが好きだった気持ちを持ち続けていたことに驚いた。
もっとも、彼女は僕のことを覚えていなかったみたいで、僕が声をかけたら戸惑っていたけれども。まぁ、高校時代、僕は彼女とろくな会話を交わしたことがなかったので、それはしょうがないことだ。
かといって、そこから発展があったかと言えば、そういうことはない。なかなか上手くいかないもので、僕と彼女の再会は運命ではなく偶然だったらしく、船から下りてからしばらくは、彼女とはすれ違うことすらなかった。昨日、オトヒメの接岸を見学しに行った時に、久方ぶりに偶然会ったくらいだ。
自分でも、もっと積極的に行動すればいいと解ってはいるのだが、元々得意な分野ではなく、何となく切掛けを掴めずにいた。
正直、こういうことは苦手だ。自分の感情がコントロールできない気持ち悪さがある。
僕は有害な光を遮光するためのゴーグルを首元まで下げると、ポケットから点眼薬を取り出す。点眼しようと上を向けば、凝り固まった肩が鳴る。僕はこぼれ落ちた点眼薬を白衣の袖で拭うと、一息ついた。
紫外線照射機器の内部には青い光が灯り、サンプルを詰めたフラスコが行儀良く並んでいる。僕は今日の仕事の出来映えを眺め、満足した。
これらはコンピュータ制御のもと、24時間に渡って、フラスコ内部で起こる変化をデータ取得される。データがきちんと記録されているか、機械の稼動を確認すれば、機器のディスプレイにはご機嫌そうにデータがぱちぱちと打ち出されていた。
「亀田~、そこ終わったら休憩してきて良いぞ」
僕が軽く伸びをすれば、それに気が付いた先輩が声をかけてくれる。僕は言葉に甘え、休憩するために席を立った。
研究室の外へ出れば吹き抜けの螺旋階段がある。見下ろせば深海をイメージしたという(少なくともどの辺がそうなのか僕には理解不能な)抽象的なモザイク画が描かれ、見上げれば海面をイメージしたという(やはり僕には理解できない)抽象的なデザインのステンドグラスが填め込まれている。
個人的にはモザイク画は深海と言うよりも時計草が咲き乱れているように見えるし、薔薇窓に至ってはクラゲを透かしてみているかのように思える。だけど、まるで気泡が水面へと立ち上るかのような曲線を描く螺旋階段の手すりと相まって、まるで全体が水族館みたいな雰囲気は、制作者の意図はくみ取れないけれども、僕は結構気に入っていた。
僕の研究室がある階はどちらかと言えば水面下に近い。二十階以上もの階段を上る気になれず、僕は屋上へ行くために、エレベータのボタンを押した。稼動音は酷く静かだ。エレベータは到着するとオルゴールストーンを転がすようにころころと耳に心地よい音を鳴らす。
僕は最上階のボタンを押し、いつまで経っても慣れない上昇する感覚に眉を顰めた。
最上階から屋上へ出るには、更に一階分の階段を上る必要がある。僕は軽い足取りで、階段を駆け上り扉を開いた。瞬間、ごうっと強い海風が頬を嬲る。慣れたのか普段はあまり感じない潮の匂いが、今は妙に鼻に突いた。建設当初は一番高い建造物だったのだが、その後、更に大きな新型発電施設が増設されてしまい、現在、360度のオーシャンビューは望めない。僕はそれが少しだけ残念だった。
何よりも、僕を落胆させているのは、隣接された新型発電施設と連絡している非常階段への入り口の存在だ。発電施設の外壁には、蔦が蔓延るように非常階段が設備されており、その階段の先にある屋上で、広い太平洋を一望できるであろうことが予測されるのだが、例え、僕がその誘惑にどんなに駆られていても、立ち入りが許されることはないのだ。
僕は憎々しげに、関係者以外は立ち入り禁止の看板を掲げた非常口をみやり、ふと眉を顰めた。
鍵が開いている。
強い風に、きぃきぃと軋みながら扉が微か揺れていた。まるで誘うようなその動きに、僕は数瞬ためらい、しかし、沸き起こる好奇心に負けてしまった。
そっとその扉へと手をかける。
ひやり、と冷たい感触が掌に張り付いた。
☆★☆
とん、とん、とできるだけ足音を潜めて、非常階段を伝っていく。竹を炭素でコーティングした新素材で作られた非常階段は、あまり足音が響かず、僕はほっと息を吐いた。
もともと、この竹材をコーティングする技術は、上質の石油が産出されないこの国において、プラスチックの代替物として考え出されたもので、日常生活のそこここで使用されている。また、技術が発展し、洗練されて行くにつれ、鉄に似た弾性と剛性、また鉄よりも高い耐火性を極めてきているため、今日はあらゆるところで用いられるようになった。この塩による腐食作用が強い海上でもそれなりの耐性を発揮している。
石油もそうだけど、基本的に資源に乏しい国土から良質の鉄鉱石は殆ど採掘されないため、鎖国をする際に必要と迫られたハイテク技術だ。
勿論、鉄や石油が必要となる技術は未だ稼動している。実際、鎖国をしているとはと言っても、国際情勢に疎くなるわけにもいかず、また資源もリサイクルや人工燃料だけでは限界がある。
そのため、民間交流という言い訳のもと、鎖国直前にロシアから返還された北方領土や、南方に浮かぶ沖縄地区に特例を認めたり、台湾を経由して三角貿易を行っていたりするのだ(あと、噂では世界中にニンジャと称してスパイ組織を放っているとか言われているけれども、政府がそこまで優秀とは思えないから、これは嘘だと思う ………… 個人的には存在して欲しいけれど)。
その際に日本が輸出しているのは、大型プラント技術だ。
変動を続ける世界は、人類に対して過酷な環境へと変化を続けているためか、近年は、世界各国で特に水不足に悩まされているらしく、海水淡水化プラントの建設ラッシュが続いている。日本も例に漏れず、この淡水化システムは野菜工場と併せて受電施設に併設されていることが多い。他にも日本国内では駆逐されかけている原子力発電所の建設を、技術継承の意味も込めて請け負ったりしている。
エネルギー不足の世界に家電や四輪駆動車を細々と売るよりは、手っ取り早くまとまった外貨が手に入るし、なによりも、こういったライフラインに直接関わる事業は、人権問題を盾に鎖国政策の元でも輸出しやすいこともあるのだと思う。
ちなみに国内における最大の大型プラントはタカマガハラなのだが、これは国家機密に指定され、法律上輸出禁止となっている。これは主に、まだ鎖国政策を採る前の運用当初から、世界のパワーバランスを崩しかねないと諸外国から圧力がかけられていたことと、それに伴い、国家間条約により国境を越えてのエネルギー供給を制限されたことに起因する。その後、正式に日本国内においても国家機密に指定され、それは鎖国政策下においても撤回されていない。
そのため、生産されるエネルギーを他国に供給できず、相変わらずめぼしい資源がない我が国は、代替物がまだ発明されていないレアメタルや資源を手に入れるための外貨を稼ぐには、やはり技術を切り売りするしかないのは、今も昔も変わりない。
まぁ、僕たちにとってはごく普通の(時には必要に迫られた末の)日用製品は、海外ではニッチ産業どころか珍品扱いになっているらしく、好事家には大変人気らしいのだけれど。しかし、僕たちの国において、鎖国をしてから、ある種の資源を除いて、ほぼ自給自足で事足りるように努力を積み重ねてきたため、たまに流れてくる舶来品はやはり珍品扱いで、最高の嗜好品だったりするのだから、お互い様なのだろう。
非常階段は高みが近づくにつれ、設計上の都合なのか、細く頼りなくなる。僕は眼下を見ないように慎重になりながら、いつから、高いところに対する恐怖が芽生えたのだろうか、と不思議に思った。もっとずっと小さな頃は、ここよりも足場が悪い高い場所を平気で走るような真似をしていたはずなのに。
それは、おそらく、ある日突然のことだったに違いないと思うのだけれど、それがいつなのかははっきりと思い出せなかった。まるで恋に落ちた瞬間を、自覚できないみたいに。いつだって、何だって、堕ちる時は一瞬で、その時は何が起こったのか把握ができず、溺れはじめてから自覚するのだ。
そういえば、やんちゃをしなくなったのいくつくらいからだっけ?
少なくとも、高校生の頃から屋上が好きで、あのころは結構無茶をしていた記憶がある。僕の高校は住宅街から更に頭が一つ突き抜けた小高い丘の上にあったから、四階建ての校舎の屋上は、街で一番高かった。更に屋上の出入り口の上に昇ると、そこからは本当に空しか見えない、最高の場所だったから。
僕は当時仲の良かった友人達と休み時間を、よくそこで過ごしていた。
「あぁ、何とか煙は高いところが好きだって言う……」
ふっと、高校時代の同級生の声が耳元でよみがえった。
甘ったるい高い声なのに、言うことはどこまでも辛辣で、人の神経を逆なですることにかけては、彼女の右に出るものはいなかったんじゃないかってくらいの女の子だ。だいたい、先の台詞はまともに話したのは初めてと言っていいくらいの時に言われた言葉で、側にいた彼女の幼なじみが苦笑して「ごめんね、千代子は言葉が悪いの。悪気はこれっぽっちもないんだよ」とフォローをいれてくれなければ、僕はその後、例え一緒の委員会だったとしても、彼女と話す機会を積極的に持つことはなかっただろう。
あの頃は彼女、古田千代子の辛辣な口調に言い分に随分苛立ったけれども、今思えば、彼女には、悪気というものは小指の先ほどもなかったんだと思う。何事に対しても。ただ、同じように遠慮や気配りというものもなかっただけだ。
婉曲な言い回しを用いることはせずに、思ったことをはっきりと口にするのは、気持ちがよい時と同じくらい、相手を傷つける時がある。まだ若く、今よりも青臭いプライドが高かった僕は、古田のような生意気な女の子を受け入れることができなかった。
その一方で、僕が惹かれたのは、彼女の幼なじみの竹下美雪だ。
正直に言えば、容姿だけ取り上げれば古田の方がずっと可愛かったと思う。
大きな目と整った顔立ち、華奢な体躯はいかにも守ってあげなければと思わせるような、ある種の男心を擽るものだったし、すらりと背筋が伸びた姿勢で、小さな熱帯魚が水草の隙間を縫いながら泳ぐように、すいすいと歩く姿はそれなりに魅力的だった。
実際、見た目に騙されては玉砕している奴らも多く、良くその手の噂を耳にしたものだ。
竹下は、どちらかと言えば地味な顔立ちだったけれども、丸みを帯びた体つきは小枝のような古田よりもずっと好ましかった。何よりも、僕が惹かれたのは彼女の笑い方だ。普段は目立たない彼女が笑うと、ふっと華やかになる、その瞬間が好きだった。もっとも、竹下がそんな顔で笑うのは、古田と一緒の時くらいで、僕はそれを遠くから眺めているに過ぎなかったのだけれども。
それでも僕は、竹下のことが好きだった。
彼女が笑うとまるで溺れているかのように、息苦しくなり、上手に呼吸ができなくなるくらいには。
その事実を唐突に突きつけられたのは、放課後に行われる委員会を終え、教室に戻った時だった。当時、古田と僕は、美化委員という何とも地味な委員会に所属していた。活動と言えば、定例の集会の他は目立ったものはなく、ごくたまに思い出したように設定される校内美化週間や、半年に一度くらいの割合で催される郊外美化活動の時に多少、忙しくなるくらいの大変楽な委員会だった。
その日の集会もあっさりと終わり、暮れなずむ教室には、まだ誰も戻ってきてはいない。古田は放送委員の竹下の帰りを待つと言い、僕は部活へ向かうためにロッカーからスポルティングバックを取り出した。
正直、僕は古田が苦手だったし、また、彼女も僕に良い印象を持っていないだろうと感じていたから、特に雑談をするわけでもない。グランドから運動部のかけ声が聞こえるくらいで、校内は酷く静かで居心地が悪い。水のような粘度を感じさせる空気がまとわりついて、酷く息苦しかった。まるで、溺れているみたいに。
だから、さっさと教室を出ようとした僕の背中に、しかし、それを遮るように甘い声がささやきかけてきたのだ。
「亀田君さ、美雪のこと好きでしょ?」
ふと、思い出したみたいに軽い言葉。
彼女はこの粘度の高い水の中、少しも息苦しさを感じていないどころか、こここそ自分の領域だとでも言うように ―― それこそ、水を得た魚のように、張りのある声で言い放ち、そして、それは紛れもない図星で、僕をすごく焦らせた。振り返ることもできずに、ただ、「だったらなんだって言うんだよ」とぶっきらぼうに返せば、ふふ、と笑う気配がする。
「別に、どうもしないよ。選ぶのは美雪だもの」
選ぶ? 何を? 古田か僕かを? 竹下が?
馬鹿馬鹿しい。そもそも古田と僕とは立場が違うものだ。
それにしても、いちいち勘に触る言葉を選んでいるとしか思えなかった。僕がその言葉を無視して、教室から立ち去ろうとすれば、更に砂糖菓子をかみ砕くような、ざらついた甘い言葉が追いかけてきた。
「君は一つ勘違いしてる。私は彼女のものだけど、彼女は私のものじゃない。美雪はいつだって自由なの」
妙に引っかかる物言いだ。耐えきれず、振り返るものの、古田の表情は逆光になっていてよくわからなかった。柔らかい蜜柑色の光が薄っぺらいカーテンを透して教室に溢れ、窓枠の濃い影が長く伸びている。その橙と黒の滲むようなコントラストに、決して眩しさは感じていないはずなのに、僕は思わず目を細めた。
「お前、何が言いたいの?」
意味わかんねーんだけど、苛立ちまぎれに問いかければ、古田がひっそりと囁いた。
「…… 私はあの子を束縛してない。それがあの子の意志だってこと」
やはり彼女が何を言いたいのかさっぱり僕には理解できなかった。古田の態度のそれが、まるで恋人を取ろうとする相手に対する牽制のようだと、その時の僕には気が付かなかった。ただ、僕が何か言い返そうかと口を開いたその時、クラスメイトが数人、教室に向かってくることに気が付いた。僕はそれ以上の彼女との会話が面倒になり、一言、「あっそ」と言い残して、教室を後にしたのだ。
僕は、今、少しだけそのことを後悔している。
なぜなら、その後、彼女は倒れて病院に入院することになり、その後まともな会話をすることなく、彼女は僕の前から姿を消したからだ。そして、その年の内に彼女は転院のため自主退学し、年を越えて先生から訃報が伝えられた。
朝礼で先生が悲壮な声音で告げる間に、ちらり、と竹下を盗み見れば、彼女は先生が何を言っているのか全く理解できていないような顔で、ぼんやりと黒板を見つめていた。教室のそこかしこから、小さな嗚咽や息を呑む音が聞こえる中、どことなくあどけない表情が酷く印象的だったから、よく覚えている。彼女があのとき何を考えていたのか解らないけれど、少なくとも、泣いてなんかいなかった。
本当は解っている。僕が竹下に対して積極的になれないのは、後ろめたかったからだ。
勿論、拒絶されるのが怖いとか、結局は自分に意気地がないだけだとか、そういう気持ちも否定できないけれど、まるで彼女の親友を失った悲しみにつけ込むような行為に思えて、それは僕のちっぽけなプライドが許さなかった。
それに何よりも、僕が後ろめたさを感じていたのは古田に対してだ。
何がどう、と言われても上手く説明できないけれど、海に浮かぶトコヨは、あの水に沈んだ放課後を思い起こさせるのか、ここに来てからあの時の夢ばかりを見ている。
夢の中での古田は、相変わらず夜店の金魚のように、するりと僕の思惑をすり抜ける。胸がつかえて掻きむしりたくなるような衝動に追われ、真夜中に目覚める度に、僕はこの夢を終わらせるにはどうすればいいのかと頭を抱えるのだ。
発電施設の屋上は思っていた以上に広かった。
「おぉ~」
思わず感嘆の声が漏れる。フェンスは設置されておらず、風も強いため、正直、縁に寄るのは怖い。僕はゆっくりと四方に広がる海原を眺める。西には僅かに霞む列島の陰、その向こうに日が沈もうとしている。すでに東の空には宵闇がせまり、天上では透き通った紺藍と薄紅がせめぎ合っていた。僕はゆっくりと宵闇を楽しもうとして、しかし、ある一点で動きを止めた。
視界の端に捕らえたもの。白衣をはためかせながら、何とも頼りなげなその後ろ姿。屋上の端ぎりぎりに、一人の女性が立っていたのだ。
悲壮な感じは受けない。だからか、自殺志願者という選択肢は浮かんではこなかった。ただ、僕の頭の中に浮かんだのは、名前だ。
線が細い、華奢な体つきの少女の名前。
☆★☆
「古田っ!?」
僕の叫びはあっさりと強風に吹きやられた。おそらく彼女には届かなかっただろう。だけど、駆け寄る足音に気が付いたのか、女性はゆっくりと振り返る。瞬間、僕は後悔した。
彼女は古田ではなかった。
確かに古田に似ている。けど、違う。顔の一つ一つのパーツは似ている。けど、違う。華奢な体つきも似ている。だけど、会わなかった年月による変化からではなく、何かが決定的に違うのだ。
僕は恐縮し、謝罪の言葉を口にしようとした刹那、目の前の女性が口を開いた。
「…… すみません、どちら様ですか?」
甘ったるい高い声。さすがにこれは間違いようがなく、僕は目を見開く。やはり古田だったのかと、安堵と共に混乱した。
「俺だよ、亀田だよ! 高校一緒だっただろ?」
なんでお前こんなとこにいんだよ死んだんじゃなかったのかよ、とはさすがに言えなかった。そのまま言葉を失った僕に、彼女はゆっくりと瞬きをひとつし、僕の言葉を反芻した。
「亀田……さん? 高校?」
訝しげな表情に苛立ち、僕が頷けば、彼女は困ったように微笑んだ。
「人違いでは? 私、看護学校卒ですから」
「え?」
彼女の言い分に、僕は再度混乱した。これは、あれなのだろうか、いわゆる世間には似ている人が三人いるとか言う、その一人なのだろうか。
混乱するまま、彼女を眺め、そして僕は鬼の首を取ったように思わず叫んだ。
「やっぱ古田じゃねーかよ! なんでとぼけんだよっ!」
胸に付けられたネームプレートには行書体で古田と刻まれている。僕が指摘すれば、思案するように眉根を寄せ、ふと、何か思い当たったように彼女は表情を曇らせた。
「…… もしかして、千代子のお友達?」
控えめな問いかけに僕は毒気を抜かれる。
「え?」
思わず間の抜けた声を出せば、古田は納得したように小さく頷き、小さくお辞儀をしながら自己紹介をしてくれた。
「初めまして。亀田君。古田千代子の姉の十和子です」
「え? 姉? …… えぇ? 古田の姉ちゃん!?」
漸く事態を飲み込んだ僕の頭は、羞恥でいっぱいになり思わず謝罪すれば、十和子さんはゆっくりと頭を振って許しの言葉を口にした。
「いいえ、こちらこそ、千代子を覚えていてくれてありがとう」
その言葉を聞いて、初めて僕は古田千代子がこの世にいないことを実感した。今までふわふわと現実感のないものとして、宙ぶらりんに浮かんでいた古田千代子の死は、漸く現実感を伴って僕の中に堕ちてきた。
十和子さんは妹と違って、随分と穏やかな人らしい。古田千代子は息を呑む程に鮮烈な美少女だった印象が強いけれど、十和子さんは特に目を惹くような雰囲気を纏ってはいない。確かに姉妹だからよく似ていて、整った顔立ちをしているけれども、妹のような華があるわけではなく、どちらかと言えば彼女の魅力は雰囲気のよさだろう。はんなりとした笑みで、周囲を和ませる人だ。
聞けば、現在オトヒメで新種ウィルスの基礎研究に従事しているらしく、昨日トコヨに上島したばかりらしい。尤も交代要員ではなく、三週間後には再びトコヨを離れることになるらしいのだが。
屋上に二人で膝を抱えて座り込み(何しろベンチのようなものは一切無い)、海を眺める。透き通った碧羅の空に一番星が瞬いていた。
「そうかぁ。千代子とは委員会が一緒だったんだ」
僕が「ええ」と軽く頷けば、十和子さんは懐かしむように目を細めた。何となく、古田千代子に関わる高校時代の思い出を、さすがにあの放課後の話はできなかったけれども、訥々と話せば十和子さんは懐かしむように耳を傾ける。
そして、僕は思った以上に、古田のことを見ていたらしく、それなりに話をすることができたことに我ながら驚いた。それに、今まで悶々と彼女との相性の悪さに歯がみすることが多かったけれども、こうして冷静に彼女について話してみれば、実はそんなに嫌ってはいなかったのだと再発見することになった。
おそらく、古田も僕を嫌っていたわけではなく、お互いに竹下を軸に張り合っていただけなのだ。
また、彼女は辛辣と言うよりも、単に物事をオブラートに包むことが下手だったのだろう。そのことに気が付けば、あの歯に布着せぬ物言いも、確かに不快と言うよりは、あまりにも的確に図星を突くものだから、居たたまれなくなることが多かったが故に、苦手意識を持っていただけだと思い当たる。もし、何かの切掛けがあれば、仲良くなれていたかもしれない。
「亀田君はなんだか千代子と似てるね。あの子のことだから、実際、そんなに仲良くなかったでしょ?」
「えぇ?」
唐突な十和子さんの感想に、僕は思わず頓狂な声を出した。
「そ、そんなことは ……」
あるけれども、とは言えずにただ、「似てるってどこがですか?」と言葉を濁す。
「…… なんか、不器用そうなところが。あの子言うこときついけど、人を嫌うことはしない子でね。姉の私が言うのも変だけど、結構お人好しだったんだよ」
ふふ、と古田千代子と同じ声で笑う。つまりそれは、僕も取り繕うことが下手だと言うことなのだろうけど、思い当たる節もあるので反論することができない。十和子さんの言葉はあまりにも的を射すぎていて、僕は思わず言葉を失った。こう、人の本質を指摘できるところはやはり姉妹だからなのだろうか。ただ、やはり妹よりも、十和子さんの物言いは柔らかかったけれども。
僕は困惑してちらりと十和子さんを盗み見る。
十和子さんは海を眺めていた。空は既にシアンに溶け、透明な青い光が彼女の滑らかな頬の輪郭を淡く描き出している。
こうしてみると、やはり良く似ている。特に横顔の鼻梁から顎にかけてのラインは人形のように美しく、儚い印象は、やはりさすが姉妹だと思うほどだ。
古田千代子の、少し寂しそうなそれでも穏やかな微笑みなど見たこと無かったはずなのに、十和子さんの青い笑みの向こうに、少し幼さを残した彼女の横顔が透けて見えた。
彼女がいなくなって、既に四年。まだ、生々しさはぬぐえないだろうけれども、十和子さんの中でも確実に時は過ぎているのだろう。
十和子さんは僕の話を反芻するように、ぼんやりと瞳に残照を映していたが、ふと、ポケットを探ると、銀紙に包まれたチョコレートを取り出す。薔薇の形をした大手製菓会社の看板製品だ。
森林限界のため、日本ではカカオやコーヒー豆はあまり取れないけれど、まぁ、マスプロが可能なほどには台湾経由で輸入されている。勿論、和菓子や他の国内で材料がまかなえる菓子と比較すれば割高ではあるけれど、高級品とまでは行かない甘味だ。
「甘いもの平気?」
十和子さんの問いに僕は頷いた。銀色の薔薇が差し出され、僕は礼を言って受け取った。甘い香りが潮風に混じる。
「ああ、そうだ。…… 千代子のクラスメイトってことは、竹下美雪ちゃんって覚えてる?」
十和子さんの問いかけに、僕は思わず口の中のチョコレートを丸飲みしそうになった。
「え、ぇえ。はい」
動揺を隠しきれず、思わずうろたえれば、十和子さんは僅かに目を見開いて振り返った。
「彼女もここで働いてますよ。なんでも海洋生物だか、海洋環境だかを調査するような研究機関で事務をしているとか」
僕の話を聞いているのかいないのか、十和子さんは言いつくろうような僕の顔をまじまじと見て。
「もしかして、好きなの?」
ストレートに尋ねられ、僕は否定することもできずに黙り込む。十和子さんはくすくすと微笑んだ。
「やっぱり。…… なんだ、安心した」
「…… 何がですか」
十和子さんはにやにやと人の悪い笑みを浮かべていたが、僕が憮然として問いかければ、ふっと穏やかに囁いた。
「ん。美雪ちゃん、千代子と仲良くしてくれてたのに、最期まで義理を果たせなかったから。美雪ちゃんは優しいでしょ? 千代子も気にかけてたし、変に思い詰めてなきゃ良いけどって、少し心配してたんだ」
僕は十和子さんの言葉に眉を顰めた。その心配は決して的はずれではない。おそらく竹下は古田のことを引きずっているであろうことは、確実だ。少なくとも高校卒業まではそうであったし、トコヨに渡る船に乗り込む彼女を発見し、あのどこかぼんやりとしたあどけない表情を見た時、今もそうなのだと確信した。
「別に竹下とはそんな仲じゃありませんから」
正直に告げれば、十和子さんは、ことん、と少し首を傾げた。古田千代子には見られなかったかわいらしい仕草だ。
「そうなの?」
「…… 相手にされていません」
自分で言って、落ち込んでいれば世話はない。十和子さんは何を思ったのか、軽く僕の背を叩いてくる。
「がんばれ、青年!」
無責任な激励に、僕は力なく笑った。あなたの妹が最大のライバルだなんて、さすがに言えなかった。
☆★☆
その日の休憩時間、僕は気まぐれに、いつも向かう屋上ではなく、地下へ向かうための階段へと足をかけた。この回廊の一番下の階には強化ガラスが一面に填め込まれた海中庭園がある。
オトヒメの着岸の日に、水中で行われる接岸を好奇心から見物に行った時に偶然竹下と会って以来、三分の一の確率で休憩時間に利用している。
我ながら何ともわかりやすいと思うのだが、こればかりはしょうがない。英国の格言で”戦争と恋愛には手段を選ぶな”って言ってたし。 …… ここは日本だけど、色恋沙汰に国境はないはずだ。多分。
尤も、僕の恋愛はとっくに神様からは見放されているらしく、あれ以来一度も竹下と遭遇したことはないのだが。僕の涙ぐましい努力は一切認められないようだ。
しかし、その日は違っていた。
僕が海中庭園へと踏み込めば、薄暗かった庭園にぽうっと街灯が光りを強め、公園の散歩道を浮かび上がらせた。
僕は迷わず巨大スクリーンへと向かう。既に日が暮れており、巨大スクリーンは紺藍に沈み、まるで鏡のように街灯の明かりを映し出し、ガラスの向こうに続く果てのない道を描き出していた。
ついているのかいないのか、僕はスクリーンの正面にあるベンチを見下ろし困惑する。
僕の視線の先には、竹下が無防備にもベンチの手すりに身を持たせ、小さく船を漕いでいる。彼女が手にした保温カップが今にも滑り落ちそうだ。僕は彼女の手からそっとカップを取り上げ、隣へと置いた。
見下ろしてみれば、高校時代よりも、綺麗になった気がする。男の僕にはよくわからないけれど、化粧が施されていているせいかもしれない。長い睫に少しだけ不自然な色が乗せられた瞼。整えられた眉は、あの頃よりも幾分か細い。
それでも無防備な寝顔はあの頃の幼さを再現し、僕を切なくさせた。
柔らかそうな髪が、彼女の頬にかかり思わずそれをかき上げたい衝動に駆られる。僕はそれをぐっと押しとどめる。
あまりにも無垢な寝顔を盗み見るのは、失礼だと解っているけれども、僕は目をそらすことができなかった。
ふと、彼女の小さな唇が震えた。寝言だろうか、竹下はもごもごと口の中だけで、小さく呟く。優しい夢を見ているのだろう。彼女は少しだけ口の端を持ち上げ、笑みを作った。それは、高校時代に竹下が古田にだけ向けていた類の笑みで、古田が居なくなってからは、見ることが叶わなかったものだ。なによりも。
「…… 千代子、」
はっきりと僕の耳に届いた単語はそれだけだった。
なぜかその言葉を聞き取ってしまったことが、酷く後ろめたく、僕は漸く彼女から視線をそらした。そして。
「!」
そこに居た人物と目が合い、僕は息を呑んだ。あまりにも驚きすぎたためか、悲鳴がでなかったのは不幸中の幸いだろう。
十和子さんは、しぃっと人差し指を口先に当て、僕が口を開くことを牽制した。そのまま悪戯っぽく微笑み、すっと足音もなく近寄る。
思わず僕は竹下から数歩距離を取った。彼女はまるで弥勒のような柔らかい笑みで竹下を眺め、自分が着ていた白衣を脱ぎ、竹下へとかける。そして、僕があれほど渇望しながらも躊躇した、竹下の頬にかかる髪をなで上げるという行為を、あっさりと実行してみせると僕に向き直った。
彼女は僕の悪趣味を咎めることなく、視線だけで僕を促し、僕らは海中庭園を後にした。
☆★☆
とうとうオトヒメが離岸する日を迎えた。
僕は先輩に断って、オトヒメの離岸の見学へと向かう。十和子さんに挨拶をしにいこうかとも思ったけれど、そんな時間取れないからいいよ、と本人に断られてしまった。そんなこともあり、見学場所は水面下にある海中庭園だ。
僕が巨大スクリーンへと向かうと、案の定、竹下がお茶を片手にぼんやりとスクリーンの向こうを見ていた。
「よぉ」
近づきながら声をかければ、竹下はゆっくりと振り向いた。僕を認めると、口の端に笑みを浮かべる。
「亀田君も来たんだ」
竹下はそう言って、ベンチの半分を明け渡してくれた。僕は軽く頷きながら、彼女の隣に腰掛け、巨大スクリーンの向こうにある大きな人工島を眺める。あの箱船には既に十和子さんが乗っているはずだ。
彼女は、結局、竹下と会わなかった。さらには僕にも自分のことを口止めしてきたものだから、なんだか僕は竹下に対しても、微妙な後ろめたさを抱えることになってしまった。
僕がちらり、と竹下を見やれば、僕の視線に気がついた竹下がすぃっと僕へ視線を向けた。そして、少しだけ眉を顰めて、懺悔するように小さく呟いてくる。
「亀田君、こないだはごめんね」
何に対する謝罪なのか、竹下ははっきりとは口にしなかったけれども、先日の白衣の件のことだと理解した。結局、あの白衣は僕のものではないし、僕がしたことと言えばその白衣を十和子さんに渡したくらいだから、別に謝られることは何一つ無い。
「…… なんのこと?」
僕がとぼけてみせれば、竹下ははぐらかすように笑みを浮かべた。
「わかんないなら、別にいい」
でも、竹下は十和子さんと会わなくて正解だったのかもしれないと思う。おそらく彼女は、(十和子さんと会う僕と同じように)古田千代子の死を信じていないのだ。否、彼女の不在を信じていないと言うよりも、彼女の生を確信して居るんじゃないかとさえ思う。
その信仰を壊す勇気も権利も、僕にはなく、また、十和子さんにもない。
「そお?」
僕が彼女の言葉を流せば、竹下は小さく顎を引いた。
「うん …… ん?」
なんとなく、釈然としないような表情を浮かべていた竹下が、ふっと僕を見上げる。僕はその視線に少しだけ胸を高鳴らせ、しかし、できるだけ平静を装って彼女を促した。
「どうした?」
彼女は少し低い鼻をひくひくさせながら、ことん、と小さく首を傾げた。無意識なのだろうが、かわいらしい仕草だ。
「亀田君、コロン変えた?」
「え?俺、そういうの何も使ってないけど …… 」
しかし、彼女の疑問は僕の範疇外のことで、僕が困惑しながら首を傾げ返せば、竹下はびっくりしたように目を見開いた。
「え? …… そうなの?」
「俺、なんか匂う?」
あまりに意外だというような表情に、僕の方こそ不安になる。確かに忙しいけれど、ちゃんと風呂に入ってるし、身につけるものも清潔にはしているつもりだ。不安になって、二の腕を引き寄せて匂いをかいでみるけれど、自分の匂いなんて解らない。
竹下は慌てたようにぶんぶんと両手を振った。
「ううん、そんなこと無いよ!ただ、ちょっとお花みたいな香りがしたことがあったから ……」
お花みたいな香り?
取りあえず、不快な形容詞でないことに胸をなで下ろしたものの、僕は首を傾げる。正直身に覚えがないのだが。
「あぁ~、たまに柑橘系の制汗剤使うからそれかな ……」
何とかひねり出した僕の答えに、オトヒメの離岸を告げるアナウンスが重なった。
接岸した時に見た光景が、巻き戻されるように、全く逆の手順が踏まれていく。竹下曰く、虫の足みたいな接続アームが切り離される時、がくん、と人工島全体が揺れた。
僕がからかい半分に「ちゃんと家具は固定してきた?」と尋ねれば、彼女は苦笑いを浮かべた。
「…… 棚からコンポが落ちてないことを祈ってる最中」
彼女の言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
そして、昨夜、ここで竹下と会えたら、口にしようと決めていた言葉を言うべく、腹を決める。
「あのさ、竹下」
「ん~?」
ゆっくりと離岸していくオトヒメを眺めながらの竹下の緊張感のない返事とは反比例するかのように、僕は緊張のため速くなる動悸を何とか押さえ込みながら、勇気を振り絞る。
「今度呑みにいかね?」
馬鹿馬鹿しいほどになんてこと無い台詞。それでも、これは僕からしてみれば大きな一歩だ。あの、放課後の古田千代子に対する宣戦布告に近い。
「いーよぉ」
しかし、帰ってきた返事はなんてこと無い台詞に相応しく、やはり気の抜けたものだった。だけど、疑いようのない承諾に、僕は一瞬にして緊張が解ける。竹下は小さくなっていくオトヒメから視線を僕に移し、「どっか良いお店知ってるの?」等と尋ねてくる。
僕はそのことに少しだけ浮かれ、脳内でお店のリストをぱらぱらとめくりながら頷く。
「おぉ。なんかリクエストあるなら言ってくれれば」
思わず意気込んで答えるものの、相変わらず竹下は僕の気持ちなんて全く気がついていないようで、暢気に「ん~亀田君のお薦めで」と笑った。
「解った。じゃぁ、後で詳細を連絡するから」
僕の言葉に「うん、よろしく」と彼女は小さく頷いた。
「さて、と。私はそろそろ仕事にもどんなきゃ」
そして、すぃっとベンチから立ち上がる竹下につられて、僕も立ち上がった。
「ああ、俺も」
実際、実験中のサンプルがそろそろ結果を出す時間だ。
僕は竹下の後を追うように海中庭園を後にしてから、一度だけ、青い光を差し込む巨大スクリーンを振り返る。
青、その向こうに見える海の青、そして、水面を見上げた先にある青空。
今度、竹下を屋上に誘ってみようかと思いつき、僕は先を行く彼女に並ぶために足を速めた。