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インスタントコーヒー

作者: よしや

 お気に入りのマグカップにインスタントコーヒーをスプーン二杯分。銘柄にこだわりは無いから、その時に一番安く売っているやつで良い。カップの半分までお湯を注いだら、後は牛乳をなみなみと入れる。お砂糖はいれない。糖分は他の物で摂りたいから。


 毎日、私が言った通りに朝一番でコーヒーを入れてくれれば、その他には何にもしなくていいよ。皿洗い一つにしても、育った環境が違えばやり方だって違うもの。神経質だって笑われるかもしれないけれど、家は私だけの聖域であってほしい。

 もしも二日酔いで起きられなかったら、午前中ぎりぎりまでなら許す。出張でいない時や、風邪ひいて寝込んでいる時は仕方ない。私だって、そこまで鬼嫁になりたいわけじゃないもの。


「結婚した時からの約束だったな。最初は面倒くせぇなんて思ってたが、今考えればその……なんていい妻なんだろうと思うよ」


 そうかな。朝の忙しい時間だから怒られるかと思ったのに。風呂掃除とかゴミ捨てとか、家事を手伝ってもらうのと違うから自分でやれって言われるの、覚悟してた。あなたはむすっとした顔をしながらそれでも入れてくれる、言うなればこれは夫婦円満のための毎日の儀式。雨の日も晴れの日も、ケンカをした翌朝も、年をとっておじいちゃんとおばあちゃんになったってずーっと続けられると思ったの。


「誕生日プレゼントもいらないって言うんだから、まあ、それくらいはな。俺の同期なんかは奥さんの誕生日が来るたびに恐々としてたってのに」


 自分の持ち物にその時々のこだわりがあるからね。今日は青い財布が欲しくても明日はストライプの傘かもしれない。自分にすらはっきりこれだ!ってわからないんだから、子供の頃から親にわがままだって言われてた。

 いらない物を贈られてむすっとしてたら、慣れない事をしてくれたあなたに悪いもん。


「女が欲しいものなんてわからねェから、かなり助かった。デパートなんぞ行って女物のバッグだのなんだのを一人で見て回るより、毎朝コーヒー入れてたほうが気が楽だ」


 あはは、いかついなりして一人で探してくれるつもりだったんだ。ちょっと見てみたかったかも。きっとおっかない顔して商品とにらめっこして、店員さんも声を掛けるのをためらうんだろうな。ふふ、ちょっと笑える。


「お、ちょっと笑ったか?……なんだ、気のせいか。お前は本当に文句を言わないな」


 言いたくても全部飲み込んできたんですよーっだ。あなたは知らないだろうけど、よく離婚しないなって自分で思うくらいなんだから。


「俺が周りに浮気を疑われた時だって、友達に言われるまで気づかなかったんだろう?」


 嘘。ちょっとだけ気付いてた。お酒に混じって嗅ぎ慣れない香水の匂い、ただそれだけだったけど。メールをこっそりチェックするなんて卑怯なまね、絶対にしなかった。後をつけるなんてこともしたくなかった。

 それでも毎日コーヒーだけは入れてくれるから、戻ってきてくれるものと信じて我慢してた。結局あれは誤解だって事になったけれど、別れるなんて言い出したら慰謝料はたーっぷりもらうつもりだったんだからね。


 あなたはその後、黙ったきり何にも言わなくなってしまった。葛藤しているのかどうかは分からないけれど、私も黙って待つ。それがあなたの取扱で注意すべき点だ。ここで何か言ってしまうと、考えがまとまらずに焦って碌でもない事を口にする。私も最初はそれが理解できなくて何度も衝突した。下手をすると翌朝のコーヒータイムまで黙ったままだが、その頃には大概ケロッとして話しかけてくることにかなり驚いた。

 あれ、私たち喧嘩してたはずなのにって。こういう人種もいるのねって初めて知ったのよ。一人だけムキになって怒りを持続させるのも馬鹿馬鹿しくって、私もしれっと受け答えしてたの。


「今日はいつも通りのコーヒーを入れてきた。まだ十一時だからぎりぎり午前中だろ。水筒だから味とか変わっちまったかもしれないけれど」


 ほらね、この通り。こぽこぽと液体を注ぐ音が聞こえてくる。病院特有の匂いの中に、ふんわりとコーヒーの香りも漂ってきた。聴覚と嗅覚が刺激されて、毎日の幸せな時間が今日もやってくる。

 私は病院のベッドに横たわったまま、指先一つ動かせない。


「カップに入れてから水筒に移す時にちょっと零しちまったけど。いつも通りに、約束通りに入れてきたから……だから」


 火傷、しなかった?本当に不器用なんだから。と言っても交通事故にあった私が言えた義理じゃないけどね。さっきから心の中で思うばかりで、声に出して答えられなくてごめんなさい。


「だから、どうか、起きてくれ」


 約束を守ってくれているあなたからのお願いだから起きないとね。私に物を頼むなんて珍しいもの。いつもはほとんど命令口調だったのに、なに泣きそうな声出してんの。


「お前のコーヒーは苦くてぬるいから俺には合わないんだよ。早く起きないと捨てる羽目になるぞ」


 あなたは甘党で砂糖入れないと飲めない人だものね。そのくせ気取ってミルクを入れないんだもの、見た目にはブラックを飲んでるように見せたいんでしょ。

 かっこばっかりつけて。仕方のない人。

 きっと今だって不安なのを周りに隠して仕事に行っているのね。今日はお休み?何曜日だったかしら。


 「もったいないだろ。お前の口癖だったよな。間違えてお前のコーヒーに砂糖入れちまった時も、捨てるくらいなら自分が飲むって。頼む、頼むから起きてくれ……」


 はいはい、わかったわよ。コーヒーがもったいないから起きてあげるわ。


 重い目蓋をゆっくり上げると、コーヒーの入った水筒のカップを大事そうに持っているあなたの顔が見えた。涙を浮かべた目が、驚きに見開かれる。


 私が口角を頑張って上げたら、そのままくしゃりと歪んであなたは泣いたまま笑った。

 読んで下さって有難うございます。

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