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静かな夜が泡のように消えるよ


 最寄駅のホームで、俺はまた、性懲りも無くマキさんを抱擁していた。初冬。夜の空気は澄み切り、早めの忘年会帰りのおっさんやら何やらがふらふらと横を通り過ぎていく。

 酔っ払ったマキさんは相変わらず、何だかエロくて、その細っそい華奢な身体を俺のコートの胸に寄せていた。ホームを駆ける冷たい風は彼女の長い黒髪をすり抜け、その様子は黒髪の乙女、翡翠の眼鏡、ちょっと才女なんて感じ、でも乙女っても、もう彼女は二十九なんだけど、結婚しているんだけど、でも可愛らしくて。

 しかしまぁ、星が見えない。こうやってマキさんを抱きしめている時、手持ち無沙汰になってついつい空を見るのだが、駅の灯りが眩しすぎるのか、都会の空が汚れているのか、漆黒。いつもそこにいて。なんだか、こんな状況なんだから、俺、頭上に星の一つくらい輝かせてくれてもいいのになぁ、なんて思って。

「マキさん」

 胸元のマキさんへ声を掛ける。顔を埋めているから表情は見えない。見おろすと、可愛い旋毛が見える。マキさんも決して背は低くない方なのだが、俺とは少し身長差がある。

「あの、誰か通るかもしれませんよ」

 するとマキさんはすっ、と俺から離れて、

「お疲れ様でした。また明日ね」

 なんて、悪戯そうな顔、舌をちろっと出して停車していた快速電車の方に歩いていった。俺はちょっとだけ手を挙げ、去っていくその背中に、手を振っているのかいないのか、よく分からないぎこちない仕草をしていた。

 一人になると風の冷たさが身に染みた。寒風。快速電車は直ぐに出て、すっかり静かな夜。ホームにいた人々は皆、だいたいそれに乗っていった。十一月とはこんなに冷たい季節だったのか。そんなことを思いながら帰路へ着いた。



 マキさんは同じ部署の先輩社員だった。

 と、言っても部署への配属は俺の方が早く、マキさんが同じ部署に来たのは去年なので、部署内では俺の方が先輩になる。一応。ま、そんなことはどうでもいいのだが。

 同じ部署になる前からマキさんのことは知っていた。もの静かで、すらっとしていて、如何にも頭の良さそうな感じ。初めて見た時から俺みたいな三流大学出の鈍間が仲良くなれるタイプの人種じゃ絶対ないなぁ、と思った。俺みたいなの、馬鹿らしくて話すのも嫌なんじゃないかと。マキさん、今思えばその頃からもう指輪を付けていたな。

 転機が訪れたのは昨年の忘年会。

 例年通り一通り偉い人達に麦酒を注ぎ、自らも同量を飲酒し終わった会の中盤頃。俺は一旦自席に戻りいつの間にか出ていた料理をパクついていた。

 こういう会はだいたいいつも途中から徘徊しているので、どうしても料理を食べ逃す傾向にある。初めの方に出る刺身、茶碗蒸し等は食べられるのだが、その後の揚げ物類、鍋、飯物はいつの間にか運ばれており、いつの間にか食べ逃している。勿体ないのだけど。だから、こういうのは気付いた時に食べておいた方がいいな、うん。なんて思い、鶏の唐揚げをパクついていたら後ろから頭を叩かれた。見ると同期入社の吉澤だった。赤い顔して。好い加減に酔っているようだった。

「何食べてんだよ」

「唐揚げだよ」

 と言い返す俺も、まぁ同じくらいには酔っている。

「唐揚げだって、ねぇ、こいつ唐揚げ食べてますよ」

 なんて吉澤は陽気で、何が可笑しいのか分からないが笑ってる。てか誰に言ってんだよ、と思ったら吉澤の陰にマキさんがいた。小さな肩を揺らして、くすくす笑ってる。

「御影さん?」

 御影さん、というのはマキさんの苗字で、その時はまだ初対面だったから、マキさん、なんて呼んでいなかった。御影マキさんは顔を少し赤くして、事務所で見る時よりもフランクに笑っていた。

「あっちの席で話してたんよ。なぁ、御影さんてお酒好きなんだって。意外じゃない?」

 そう言って吉澤は空いていた俺の隣にマキさんを座らせる。その隣は人がいたので吉澤はテーブルを回り俺の正面に座った。で、改めて、

「な、意外じゃない?」

「うん、確かに意外。お酒とか嫌いそう」

 するとマキさんは、

「いや、それ、完全な偏見ですよ。私、ビールとかめっちゃ飲みます。てか飲まなきゃやってられないでしょ、正直」

 マキさんの意外な回答に驚いた。だって俺のイメージしていたマキさんとは百八十度違っていたから。俺のイメージしてたマキさん、御影さんは、

「普段は全然飲みませんねぇ。たまにこういう会に出る時だけカクテルを、あ、カクテルって言っても本当弱いやつを、アルコールが殆ど入っていないやつを、グラスの半分くらい飲む程度なんです。駄目ですよねぇ。ほんと弱くって、私」

 なんてことを聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそぼそと呟いて、俺が「全然駄目じゃないですよ」なんてフォローを入れる感じだったのだが、完全に逆。綺麗な顔して。親父みたいなことを言ってる。

「まじすか? 全然イメージ無いですよ」

「昔からけっこう飲みますよ。いろいろ失敗もしてます。記憶無くしたり」

「うへぇ、ますます意外」

 吉澤は嬉しそうに笑う。

「記憶無くすほど酔っ払う御影さんなんてイメージできないですよ。吉澤じゃあるまいし」

「お前だってたまに記憶無くすだろ」

 マキさんはそんな俺と吉澤のやり取りをくすくす笑って聞いていたが、やがて偉いさんに呼ばれてどこかに連れて行かれてしまった。で、俺は正直ちょっとガッカリした。もう少し話してみたかったのだ。マキさんが去り二人になると吉澤が、

「なぁ、御影さんちょっと酔ってたよなぁ」

「うん、事務所にいる時よりよく喋ってたもん。てかまじでイメージとだいぶ違った」

「だろ? 俺もびっくりしたよ。何かエロいよな」

「分かる。エロい、エロい」

「先輩で才女で飲むとエロいって、お前。どんだけ最強だよ」

「確かに。すげぇスペックだよな。てか何? お前もしかして狙うの?」

「馬鹿、お前ニュース観てないのかよ。最近世間は不倫に対してめちゃくちゃ厳しいんだぞ」

「まぁ、そうだけどさ」

「バレたら大変だろ。そんなリスク、俺はごめんだよ」

「吉澤てさ、普段あほなのに意外なとこ冷静だよな」

「当たり前だろ」

 なんて話してたら今度は吉澤が後ろから頭を叩かれた。隣の部署の先輩だった。吉澤、飲んでんのかー、なんて言って、吉澤は、飲んでますよー、とか言いながら連れて行かれた。向こうの席でなみなみ日本酒を注がれている。

 俺は再び一人になり、先程の鶏の唐揚げの続きを食べた。

 さぁて、俺もまた徘徊しようか、何て思っていたら、隣にマキさんが戻ってきた。俺の顔をまじまじと見て微笑んでいる。俺は突然のことで頭が付いて行かず、え? まじ? なんで? なんて疑問符が頭を回って、なんも言えなかった。すると、マキさんは更に笑んで、

「ね、戻ってきましたよ」

「あ、はい。そうですよね。どしたんですか?」

「もうちょっと話したかったので」

「あ、僕も」

「本当ですか? 良かった」

 これ何。本気で分からんかった。

「お酒、けっこう飲まされたんですか?」

「えぇ、まぁ、まぁです」

「その割には顔に出てないですね。吉澤さんなんてもう真っ赤なのに」

「あいつは顔に出るから」

「全然酔ってないみたいに見えますよ」

「あんまり顔に出ないタイプなんです」

「羨ましいです」

 そう言ってマキさんはすももみたいな色をした自分の頬を押さえた。

「マキさんもちょっと赤いですね」

「私も顔に出るんですよ」

「普段は会社の人と飲んだりするんですか?」

「たまにですけどね。あんまり無いですよ。よく行くんですか?」

「吉澤とはよく行きますね」

「そうなんですか。じゃ今度、私も誘ってくださいよ」

「いいですよ。行きましょ。何なら二人でもいいですよ」

 酔っていたので、冗談ぽく言ってみた。席に戻ってきてくれた事実もあるので、これくらいなら許容範囲かな、と思ったのだ。マキさんは笑顔で、

「行きましょ。行きましょ」

 なんて言って握手を求めてきた。何故か。

 結局、会がお開きになるまで二人で話してた。あれからは誰も邪魔しに来なくて。吉澤もいつの間にか潰れて、床に寝ていた。

 俺の方が後輩なのに、マキさんはずっと敬語だった。しかし俺、何だかどきどきして、なんというか、今まではっきりと目を見て話したことも、深く考えたこともない存在だったのに。広がった。一気に。恥ずかしいくらいに。「御影マキ」という存在が俺の中で。こういうのって何なんだろ。勢いよく飛び出すしゃぼん玉達みたいにぱぁーっと頭が。

 二人だけの世界だったな、なんて帰りの電車で思い出したりした。



 年が明けて最初の日。出社すると、朝の早いマキさんはもう先に出社していた。

 目にした瞬間、なぜか胸が締まった。いつも何気なく見ていた後ろ姿がやたらと背景から浮き出ていて、ついでに俺の身体も浮いているようだった。ちょっとだけ。

 恋とは違うよなぁ、とこの感じ。なんなんだろ、なんて。だって、彼女はもう結婚してるのだし。それを無理矢理どうこうして自分のものにしたいなんて気持ちは無いし、覚悟もない。ただ、何だか特別な関係になったような。そんな優越感があった。

 あえて声はかけなかった。飲み会の席で打ち解けたからと言って、いきなり馴れ馴れしくなるのはどこか気持ち悪い。結局、吉澤はあの日、相当飲んだみたいで、会自体、あんまり覚えてないんだよなぁ、なんて言っていた。マキさんと仲良くなれたことも忘れてやがる。あほめ。

 しばらくはそんな感じで適度な距離を保っていたのだが、事態は急に前に進んだ。

 ある日の仕事終わり、会社下のコンビニで夕飯を買って帰ろうと思い行くと、マキさんが書籍コーナーで雑誌を読んでいた。

「あ」

 予想していなかった事態につい素っ頓狂な声を出してしまった俺にマキさんは直ぐ気付いた。

「あら」

「あ、お疲れ様です」

「お疲れ様です。今から帰りですか?」

「ええ、弁当でも買って帰ろうかと思って。御影さんも今から帰りですか?」

「ええ。今日は旦那が飲み会で、早く帰っても暇なんで時間を潰してたんです」

「そうなんですか」

「でもあまり面白い雑誌がなくて」

 そう言ってマキさんは少し笑った。

「じゃ、軽く飲みに行きます?」

 自然に出た。一瞬、これはやり過ぎた、と思ったが、マキさんは直ぐに、

「いいですよ」

 なんて笑顔で言ってくれたので救われた。

 コンビニを出て二人、夜の街を歩く。

 イルミネーション、きらきらと街が輝き、華やかに。

 冬の一番ロマンチックな時間。

 そんな中を二人で歩くと、当然周囲の人は恋仲、或いは婚姻関係等と男女の仲を勘ぐる。これはごく自然なことで、俺もそうだろうと思うし、当然のことだ。

 だから逆にこうして恋仲でも何でもない女の人とロマンチック街道を並んで歩いているというのはどこか変な感じで、どんな顔をして歩けばいいのかよく分からなかった。周囲の目線に応えて恋仲を気取るべきか、それともあくまで我々は同僚だ、勘違いをするな、という強固な姿勢を貫くか。俺は考えあぐねた。

「いつもどんなとこで飲んでるんですか?」

「うーん、何だかんだ立ち飲みが多いですね」

「立ち飲み、あまり行ったことないです。興味はあるんですけど」

「あ、じゃ立ち飲み行ってみますか」

 なんて言って、俺は極力洒落た立ち飲み、所謂バル的な店を選び入った。ワインの種類が多く、黒板にチョークで「厚切りベーコン」や「チーズ三種盛り」なんてメニューが書いてある店だ。テレビではサッカーの国際親善試合の中継がやっていた。

 マキさんは店内を見渡して、

「お洒落ですね。吉澤さんといつもこんなとこで飲んでるんですか?」

「いつもじゃないですよ。たまにです」

 嘘だった。俺はこんなお洒落な店に吉澤なんかと来る程愚かじゃない。別れた前の彼女と来たことがあるのだ。何度か。

「ビールでいいですか?」

「ええ、ビールで」

「ほんとにビールなんですね。御影さん」

 忘年会では彼女が飲酒しているところをあまり見ていなかったから、まだ半信半疑だったのだ。

「何言ってるんですか。当たり前じゃないですか」

 で、ほんとだった。

 マキさんは運ばれてきたビールを美味しそうに飲んだ。しかも、飲み始めて分かったのだが、意外とピッチが早い。俺も決して遅くはないのだが、それにしても早かった。同ピッチで飲んでいると徐々にアルコールが回ってきた。マキさんの顔を見ると、赤くなってて、またすももみたいな色になっていた。可愛い。

「ねぇ、御影さん」

「あのー、その、御影さんってやめてくださいよ。何か他人行儀じゃないですか」

「あ、あぁ、そうですか。じゃ何て呼べばいいですか?」

「うーん。私、下の名前がマキなんです。だからマキさんで」

「マキさん。分かりました。じゃマキさんで」

「はい。で、何ですか?」

「え?」

「あれ? 何か言いかけてなかったですか?」

「あ、いや。何でしたっけ? 忘れちゃいました」

「えっ。何ですか。可愛いなぁ。酔ったんですか?」

「それもちょっとあるかもしれないですけど。マキさん、なんて。会社の人を下の名前で呼んだりしたことなかったんで何かすごい違和感で」

「あれ、そうですか?」

「うん、下の名前で呼ぶなんて何か彼女みたいで」

 何の気なしに言っていたのだが、はっと我に帰りまたもしまったと思った。彼女みたいて、俺はなんて頓馬なんだ。

「ごめんなさい。変なこと言いましたよね、今」

「全然。そんなん気にしないでくださいよ」

 なんつって笑う。

 結局、終電間際まで飲んだ。

 外に出ると、雨。しとしとと降っていて。手をやると、雪に近い雨みたいで、冷たかった。

 二人とも酔っていて、ふらふらと歩き、マキさんの小さな折りたたみ傘に肩を寄せ合い入った。

 良い匂いがした。傘は俺が持って、いつの間にか腕を絡めていた。お互い、そのことには触れない。ただ歩いてる。駅までの道を。

 イルミネーションは既に消えていて、氷柱みたいに冷え切っていた。そんな通りを行く。傘からはみ出た肩にあたる雨は冷たかった。でもあまり気にならなかった。

 最寄り駅の改札を入る。帰り道を聞いてみると、俺とは全然別の路線だった。

「送ってってください」

「え?」

「ホームまででいいから」

「あ、はい。いいですよ」

 傘はもう畳んだのに、マキさんは全然離れなかった。俺も離れなかったんだけど。だって、そうしたくなかったし。

 ホームに降りるとちょうど快速電車が来ていた。

「マキさん、乗る電車これじゃないんですか?」

 マキさんは何も言わなかった。

 ただ黙って、にやにやと俺のコートにぺたんと頭をつけた。そこで俺の中でも何かが切れて、そのまま華奢な身体をぎゅっと抱きしめた。マキさんを。あの、御影マキさんを。先輩を。ぎゅっと。その時は空なんて見なかった。兎に角、抱きしめた。善も悪も。何も、無く。ただ抱きしめた。

 それからも二週に一回くらいのペースでマキさんと飲みに行っている。

 ホームでの抱擁は何故か恒例になっていて、何だこれ、と思いながらももう一年近く、そんな感じなのだ。




 季節が一周してまた冬が来た。

 スケート選手がくるりと回るように、何だかあっと言う間だった。

 去年と変わらんイルミネーション。立ち飲み、てかバル。サッカーの国際親善試合。

 で、ホームでの抱擁。

 どうしようかー、何て考えているうちに一年が経ってしまった。

 でも状況に進展なんてものは無く、関係は抱擁のみで止まっているのだ。普通の男女のようにそこから接吻や、さらにその先の行為に繋がるわけでもなく、俺とマキさんの関係は飲んで、帰りにちょっと抱擁するだけ。ほんとそれだけ。

 だからやはり恋愛感情的なものは生まれず、ただ、やはりマキさんは既婚者で、一種の過ちを犯している感はあり、吉澤の言う通りこんなこと間違ったことだとは思っている。しかしその背徳感を俺は少し気に入ってもいた。社内で自分達しか知らない秘密、そんなものを共有しているという現状。弱セックスフレンド的な。優越感。

 それだけに吉澤から聞いた話には驚いた。

 不定期会合。吉澤と飲んでいたら何かの話題から急に、

「そういえば、御影さんて何か営業部の人と不倫してるらしいぜ」

 いつもの安居酒屋。俺はビールを吹き出しそうになった。

「は? 何それ。何情報?」

「もうけっこう噂になってるよ。営業部の、えーと、雅さんて人。知ってる」

「知ってる。何かすごい仕事できる人だろ」

 有名な人だった。営業部でナンバーワンに売上があり、今一番の出世株。しかもまた、すらっと背が高く、イケメン。もうどうしようもないくらい目立っている人だった。

「そうらしいな。俺はよく知らんかったんだけど」

「有名だよ」

「あ、そうなんだ」

「雅さんと御影さんが不倫?」

「らしいよ。よく二人で帰ってるところが目撃されてるんだって。終電間際のホームで見たって人もいるみたい」

「ホーム?」

「うん、二人でいるとこ見たって」

「そ、それってどんな感じだったの?」

「どんな感じて?」

「あ、いや」

「まぁ、噂になるくらいだから良い感じだったんじゃないの」

「はぁ……そうなんだ」

「何、ちょっとショックだった?」

「あー、いや、いや、そういうわけではないよ。うん、まぁ、うん」

「何、お前。てか御影さんなんて話したことも無いんじゃないの?」

「は?」

「あっ、やっぱり無いだろ。俺は一回だけあるんよ。この前の帰り、エレベーターで一緒でな。近くで見ると綺麗な人だよな。事務所では静かであんまり喋らないからもっと取っ付き辛い人かと思ってたよ」

「あ、そう」

「まさか不倫とはなぁ」

「ね、ほんと」

 頭上でお月様、ではなく安居酒屋の裸電球が揺れる。俺と俺の飲みかけのビール、何種類かのつまみを照らして。俺はもう、早く帰りたかった。

 そんな噂を聞いてから、事務所内でマキさんを見る目が変わってしまった。疑いの、何かそんな目で。

 夕方、マキさんがそろそろ帰りそうな仕草をしている時、俺も事務所を出て、トイレ等へ行き時間を潰し、エレベーターのところで誰かと落ち合ったりしていないかをこそこそと確認した。

 マキさんが一人でエレベーターの中に消えていく様を見た後は、激しい自己嫌悪に陥った。俺、ほんとくだらねぇ。人間として。

 一度だけ廊下で雅さんとすれ違った。

 雅さんは煙草を喫ってきた後だったのか、煙草くさく、小型のPCとシステム手帳を小脇に抱えて歩いていた。

 俺は雅さんを久しぶりに見たのだが、いつの間にかパーマなんてあてていて、無造作なその髪型がまた非常にキマっており、顔も元々いいのだが、直視できないくらい格好良かった。

 これで仕事までできるってどういうことだよ。どないなっとんねん。ぼけったれ。

 本当はマキさんのこと、聞いてみたかった。まぁそんなことできるわけ無いのだけど。

 なんせ、俺と雅さんはまったく面識が無い。それに本当に不倫してるなら「マキさんとはどんな関係なんですか?」なんて不用意な質問を投げかけたりしたら危険である。「はぁ? お前あいつの何なの?」的な、若干武闘派的な、オラオラな感じで返ってきて睨まれたり、最悪、胸元を掴まれたりするのがオチである。

 そうなると俺はもう最悪で、すぐにでも駅前ビル四階にある弊社オフィスの窓から身を投じ、死するしかなくなってしまう。

 何にせよ、改めて雅さんとすれ違ってみて、こりゃカッコいいわ、マキさんでも落ちてしまうなぁ、と痛いくらいに思った。



 でもさ、よく考えたら俺は別にマキさんとこの先どうこうしようなんて気はさらさらないのだから、なんでもいいのではないのだろうか?

 週末の夜、てか深夜。アパートの屋上に登り、瓶のハイネケンを飲んでいた。気取って。

 こういう時って本当にいろいろな考えが浮かぶ。考え、というか自己との会話とでも言うべきだろうか。いつも開けないドアを開ける感じ。

 で、考えたんだけども、俺はいつの間にか、心のどこかでマキさんのことを自分のもののように思っていたのだと思う。

 勿論、それはおこがましい勘違いで、現実はそうではないのだけど。

 二人しか知らない時間を重ねる中で、そこに何か特別なものを感じて、俺だけ、俺しか、的なことを考える。確かに俺にとってマキさんは特別だった。下の名前で呼ぶ女性社員なんていないし、ましてや抱擁なんて。

 所有欲、とでも言うのだろうか。なんかすごく、くだらなく、しょうもなく、恥ずかしいものに思える。認めるよ。心のどこかでそう思ってた。だから雅さんの存在にあんなに心が揺さぶられたんだ。てかここでやはり思うのは肝心なのは相手がどう思っているか、ということだよな。相手も同じようなことを考えてくれていたらまだ報われるのだが。そうでないなら一方通行、片思い。ね、俺はマキさんのこと、好きだったの? でも、そこは完全にノーだった。それははっきりしていた。ずっと行き所の無い感じ、楽しかったけど。

 真っ黒い空からぽつぽつ雨が降ってきた。気に留めるほどじゃないな、と思いつつしばらくそこにいたが、徐々に雨足は強くなり、俺は諦めて部屋に戻った。

 部屋に戻ってから、ハイネケンの空き瓶を屋上に忘れてきてしまったことに気づく。少し迷ったが雨も強かったし取りに行くのはやめた。

 翌日見てみると、思ったより瓶の中には水が溜まっていなかった。あの雨は何だったんだろう、と思えるくらいに。



「どこ行くんですか?」

 先を行くマキさんの背中に俺は問いかけた。いつも通り飲んだ帰り、マキさんは何故だか最寄駅を通過して、駅の反対側へすたすた歩いて行ってしまった。

「マキさん」

 声をかけても返事がない。でも怒っているわけではないようで、時折振り返って笑顔を見せる。

 気がつけば今年もあと少しで、来週は忘年会だ。マキさんと初めて話した時から一年。いろいろあったような気もするし、そうでもない気もする。ふわふわしてて。

 駅前通りを抜けると市街地に出た。辺りは普通の民家で、一度も通ったことの無い道だった。マキさんは知っているのだらうか、この先に何があるのかを。

 足音が聞こえる。

 俺の革靴のぺこぺこした音が、マキさんのヒールのかつかつした音が。交互に響く。一年前よりずっと自然に。

 気がつくと公団住宅の中を歩いていた。駐輪場や小さな公園があって。俺も小さな頃こんなとこに住んでたなぁ、なんて思っていたら急にマキさんが立ち止まった。

 そして前を向いたまま、

「ねぇ」

「はい」

「ここ、どこですか?」

 なんて振り向いて言う。

「知らないですよ。俺、マキさんの後ろを付いてきただけなんですから」

「そうよねぇ」

 なんてマキさんは笑った。

「どうしたんですか、今日は」

「うーん」

「何かあったんですか?」

「何かって?」

「何か。例えば……雅さんと、とか」

 言うなら今しかないと思ったのだ。

「雅さん?」

「そうです。だって、付き合ってるんでしょ?」

 マキさんは何とも言えない不思議な顔をしていた。でも俺は更に続ける。

「噂になってますよ。二人でいるの見たことあるって。みんな」

 その時、強い風、ごうごうと。路上の枯葉が舞って、気に留める余裕のないこんな時に無駄にロマンチック。

「そりゃ、雅さんは仕事もできるし、格好いいですけど、そんなんて。俺、マキさんが不倫とかで噂になってるの嫌で。て、何言ってんだろ。兎に角、どういうことなのかが知りたかったんですよ。噂が本当なのか嘘なのか。ずっともやもやしちゃって」

 マキさんはなおも不思議そうな顔をしていた。何も言わずこっちを見てる。

「何か……言ってくださいよ」

「あ、はい」

 するとマキさんは少し考えた後で、

「何でそんなに必死なんですか?」

「は?」

 夜の市街地が凍りつき、空気が薄く感じた。

 遠くで車の音がする。

 あれは、あの音は、どこから聞こえてくるのだろう。それくらいずっと遠くに感じた。

「何でって」

「はは、何か簡単ですね」

「あ、まぁ、そうですよね」

「はは」

「はははは」

 マキさんが笑うから、俺もとりあえず笑った。

 だって、もうそれしか無くて。



 年が明けたら、マキさんは会社に来なかった。

 聞くところによると、妊娠して調子が優れないようで、早めの産休に入ったらしい。

 産休。て、ことは子供が生まれるのか。マキさんに。母になる。そういうことなんだな。

 あの夜以来、マキさんとは言葉を交わしていない。

 しかも年末年始の休みもあったから顔だって全然見ていなかった。妊娠て、一言くらい言ってくれてもいいのに。

 あ、それともあれか、あの市街地を歩き回った日、もしかしてマキさんはそのことを話したかったんじゃないのか。タイミングを見失ってあんなに遠くまで歩いていってしまったんじゃ。

 なんてことも考えたが、そんな妄想は直ぐに消した。そんなわけないだろ。何でもかんでもロマンチックにすんな。何気無い一つ一つにドラマを見出すなんて、愚かで逆上せ上がった奴のすることだ。

 いつもマキさんを見送ったホームに一人立ってみる。

 快速電車は相変わらずたくさんの人を飲み込んで颯爽と走り去る。残された俺は、また静かな夜の中にいた。

 細やかなニュースではあるのだが、年末年始の休み中、俺は三年ぶりに彼女ができた。相手は前に合コンで知り合った女の子で、性格は少しキツいが、小さくて可愛い子だ。

 だから、はは、もうここには来ねぇ。もう二度と。何だか悔しいしさ。

 もう一度空を見る。

 やはり星は見えない。

 静かな夜が泡のように消えるよ。今ここで。何にもなかったみたいに。

 だけどもし、十年や二十年、もしくは三十年経ってまたここに来てみたら、もしかしてだけど、妙に大人びた、老けたんじゃなくて、大人びた笑顔のマキさんがまたここに立っているかもしれない。悪戯っぽく舌をチロっと出したりなんかして。

 何となくそんな気がするけど。

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