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湖畔にて


 だだっ広く広がる湖に向かって、思いっきりコーヒーの缶を投げました。

 しゅるるると飛んでいくブルーの缶。

 すぐに小さくなって。

 その中にはまだ半分くらいコーヒーが残っていたので、液体は空中で飲み口から溢れて茶色く甘い放物線を描き、やがてそのまま風に揺れる水面の中へ音を立てて消えて行きました。

 私は最後までじっとそれを見つめ、思ったより遠くまで飛んだなぁ、なんて思いました。

 こんなこと、もちろん悪いことなのは分かっています。

 飲みさしのコーヒーを清潔な湖に投げるなんて、相当な不良行為です。今時、タチの悪いヤンキーさん達でもしないでしょう。誰も見ていなかったのか少し不安になりました。怒られたりするかも、なんて。少し。

 耳につけたイヤホンからは春風のような長岡さんの声が今もします。

 彼の弾くエレキギターも、その友達が鳴らすベースとドラムも、同じように耳から順に私の中に入ってきます。

 私はずっとそれに嫉妬していました。

 Aメロ、Bメロと我慢をしていたのですが、とうとう我慢できずにサビの中盤くらいで手に持っていたコーヒーを放り投げてしまったのです。

 夏前、雨が降りそうな湖のほとりにて。



 三番目のバンドのステージが終わったあたりで、ライブハウスの熱気はピークに達したようでした。

 私のバンドの出番は五番目。

 徐々に緊張が私の身体を支配します。まるで悪い魔法使いに不思議な力でだんだんと石にされていくように身体の先から順に冷たくなっていって。

 半年に一度の大きなライブイベント。

 今回は全部で十組のバンドが出場します。ほとんどが私達と同じくらいの年齢で、どこかの大学の軽音サークルに属しているバンド達なのです。観客は多分、五十人くらい。もしかしたらもう少しいるかもしれません。

 長岡さんのバンドは九組目。所謂トリ前というやつでした。

「綾倉さん、リラックス。リラックス」

 そう声をかけてくれたのはドラムの富永さん。大学の二つ上の先輩です。

 声を掛けられて初めて、私は緊張で自分のギターを力いっぱい握りしめていたことに気がつきました。開くと指に弦の食い込んだ跡が残っていました。

「あ、大丈夫です。うん。リラックス。リラックス」

 そう自分に言い聞かせて笑ってはみたのですが、上手く笑えていなかったのか今度はベースの石渡君が、

「またいつもの綾倉さんの緊張癖が始まったよ! 大丈夫ですよ。なるようにしかなりません。たくさん練習したんでしょ?」

「うん、そうよね」

 今度こそ、と思い上手に笑ってみます。

 まったく。後輩にまで励まされていたんじゃ仕方がありません。ましてや石渡君はまだ一回生。つい半年前までは高校生だったのに。

 でも大人です。私よりずっと。

 そして情けないです。私。とても。

 そうこうしているうちに前のバンドのステージが終わりました。割れんばかりの歓声。良いステージだったようです。五分挟んで、すぐに私達の出番です。

「さ、行こうか!」

 時間がくると、富永さんの声に弾かれて私達はステージに出ました。すると歓声。私は緊張しながらもちょっとだけ客席に手を振ってみます。

 そっとマイクの高さを調節して、大学に入った時から使っているギブソンSGを肩からかけてちょっとだけ弾いてみます。

 ギブソンSGの形は何だかツノが生えているみたいで、鬼みたいで、華奢で小柄な私には全然似合わない強そうな顔つきで、でもそのアンバランスさを何故か気に入って選んで気に入って使っています。

 後ろを振り向くと富永さんと石渡君がにまにまと笑っていました。それを見ると私も何だか笑ってしまいました。

 富永さんが大声でカウントをします。それに合わせて私と石渡君が演奏へ入る。

 音の洪水。

 なんて言うとものすごくカッコよく聞こえますが、本当にそんな感じ。少なくとも私はそう思っています。

 ギターをかき鳴らします。ギャンギャンと。この音が大好きです。本当に大好きなんです。

 そして精一杯歌う。授業中、アルバイトの休憩中、電車の中、笑った後、泣いた後、怒った後、私がひっそりと書き上げた曲を、みんなの前で。

 歓声が上がる。手を挙げている人もちらほら見えました。

 とても気持ちが良かった。

 叫んだりもしました。叫んでる時の私の顔、不細工だろうなぁ、とも思うのですが、そんなこと気にしていられません。横目で見た石渡君はもう汗だくでした。

 確かにすごい熱気でした。

 あれれ、気づいたら私も汗ばんでる。

 富永さんも石渡君も楽器が上手です。

 富永さんは小学生の時からドラムを叩いていたようで、今年二十二歳になるので、もうキャリア十年以上のベテランです。石渡君はまだ若いですが、高校の時から軽音部に入っていたのでしっかりと基礎ができていてミスも少ないです。

 だから私はそんな二人に負けないよう必死で練習しました。バンドを組んでちょうど半年くらいになります。私にとって初めてのバンドです。

 ステージはずっときらきらしていて、歌い、はしゃいでいたら、気づいたら転がるように最後の曲。楽しい時間が過ぎるのは本当に早いです。もうすぐライブが終わるのです。

 最後の曲の最後の瞬間、私は思いっきり高く飛びました。それに合わせて三人で一気に鳴らします。ジャーンなんて感じで。

 歓声。見渡すと一面の拍手でした。みんな笑っていました。ヒュー、なんて言って口笛を吹いてくれる人もいました。

 あぁ、ライブが終わったのか。私は最高に幸せな気持ちでした。

 もっと、もっとやりたい気持ちを抑えて、手を振ってゆっくりとステージを下ります。

 ステージ脇へ行くと、他のバンドの仲間達が拍手で迎えてくれました。

「良かったよ」とか、

「最高だね」とか、

 そういうの、本当に嬉しいです。

 その時、拍手をするバンド仲間達の奥で長岡さんが腕を組んで壁にもたれているのが見えました。細っそりした長身に天然パーマの長髪、今日も肌着なしで白シャツを着ています。そして丸眼鏡。やっぱりちょっと目立ちます。

 長岡さんは大学の一つ上の先輩で、名目上、一応私の彼氏です。

 長岡さんが片手を挙げて挨拶をしてきたので、私は近くまで行って話しかけました。

「観ててくれてたんですか?」

「あぁ、観てた。途中からだけどもね」

「どうでした?」

「まぁ、良いんじゃないのかな。うん、そうだな。悪くないな、という感じかな」

 なんて悪気もなくしれっと言います。

 私の中にぴしっと稲妻が走りました。

「じゃ、僕はちょっとコンビニでお茶でも買ってくるよ」

 それだけ言うと、そそくさと何処かへ消えて行ってしまいました。

 私は悔しくて、何だか泣いてしまいそうでした。さっきまではあんなに幸せだったのに。長岡さんの馬鹿。本当、馬鹿。

「何ですか、あいつ。感じ悪いですね」

 そう言って石渡君は口を開けた缶ビールを私に一つ渡してくれました。おそらく、さっきの長岡さんの言ったことを聞いていたのでしょう。少し怒っているように見えました。

「綾倉さん、あんな奴の言うこと気にしなくてもいいですよ。ちょっと人気があるからって調子に乗っちゃって」

「ありがとう」

 石渡君の言う通りです。

 あんな奴の言うこと、気にしないで生きられたらどんなに楽でしょう。でも残念ながら今の私にそんな生き方はできない。どうしても。

 長岡さんのバンドのステージが始まる時、私はライブハウスの一番後ろの壁にもたれていました。富永さんと石渡君はまだ楽屋でみんなと打ち上げをしています。私だけこっそりと抜けてきたのです。

 まずステージに現れたのは長岡さんでした。続いてベースの人、ドラムの人が出てきました。二人とも違う大学で、確か長岡さんの高校の同級生だと聞いたことがあります。私達と同じスリーピースバンドです。

「こんにちは。よろしく」

 長岡さんがぼそっと言います。

 時間はもう十九時です。それを言うならこんばんはでしょうが。なんて思いました。でもギターの音が鳴り出したら、そんなことはもうどうでもよくなってしまいました。

 長岡さんのギターの音は綺麗です。華麗と言うか、上品と言うか、私みたいにギャンギャンと弾きません。

 ゆったりとしたリズムに乗って長岡さんが歌い出します。何度もイヤホンで聴いたあの春風の声です。

 一番後ろからステージを観ると、長岡さん達の演奏に合わせて観客達が左右に揺れたり手を挙げたりしているシルエットがよく見えます。それはまるであの湖の、風に揺れる水面のようで、すごく一体感のある完成された光景のように思えました。

 私はほぼ無意識に唇の柔らかい部分をつねっていました。

 少し血の味がしました。

 悔しい。

 それはとても良いステージだったから。どんなに良いライブをやっても、いつも、どうしても長岡さんに勝てません。



 月が綺麗なある月曜の夜、長岡さんがふらっと私の下宿にやって来ました。

 私はそろそろ寝ようとしていた頃合いで、化粧も落として(元々そんなに濃くはないのですが)歯磨きも済ましていました。

「こんばんは。ラーメンでも食べに行こうよ」

「あ、はい。そうしましょうか」

 売り言葉に買い言葉。私は少しだけ化粧をし直して、外出用のシャツに着替えました。

 外に出ると長岡さんは自転車にまたがって私のことを待っていました。

 長岡さんは自転車が大好きです。普段はオシャレな自転車(ロードバイクというみたいです)に乗って町中をふらふらしているのですが、私を迎えに来る時だけはぼろぼろの格好悪いママチャリに乗ってきます。これは私を後ろの荷台に乗せるためです。

「乗りなよ」

 そう言われて私は長岡さんのママチャリの後ろにちょこんと座りました。自転車が走り出すとぎいぎいと錆びついた車輪が回る音がして、私はそっと長岡さんの細い身体に腕を回します。

「いつものとこでいいかい?」

「ええ」

 そう言ってぎいぎいと、私達は大通りの方へ細道を抜けていきます。その姿はまるでステレオタイプな恋人のようでした。

 そう言えば私は長岡さんのことを「名目上は彼氏」だなんてややこしい言い回しをしていましたね。けれどもこれにはちゃんと訳があります。

 あれは忘れもしない大学一回生の夏の日、私は初めて長岡さんのバンドのライブを見に行きました。

 長岡さんは当時から既に有名人で、駅前のライブハウスをワンマンで満員にするくらい人気がありました。私はこの日もライブハウスの一番後ろにいて、壁にもたれかかって長岡さんの歌を聴いていました。

 当時、私はギターを始めたてで、毎日暇さえあれば練習をして、その合間に曲も作ってというような日々でした。そしてなぜかそれに対して強い自信を持っていました。私の作る曲は最高だと。今思えば恥ずかしいのですか。

 長岡さんの春風は、そんな私の自信を粉々に吹き飛ばしてしまいました。開いた口が塞がらない。って言ったらだいたいの方は悪い意味で取らえますよね。でも私は本当に開いた口が塞がらなかったのです。良い意味で。

「最後までよろしく!」

 その日、長岡さんは大きな声で叫んでいました。今にして思えば珍しいことです。

 私の開いた口は最後まで塞がりませんでした。こんなに格好良い音楽があったのか。心からそう思いました。

 同じ音楽の世界に身を置く私、その感情は「感激」なんてお熱く、クリーンな、映画みたいなものではなく、素直な「嫉妬」でした。私の中にどろどろとしたチョコレートシェイクみたいな何かが渦を巻いていました。溶岩のように燃え盛って。不安で不安で、早くギターを、早く弾かないと私が私でいられくなるような感覚でした。

 ライブが終わった後、私は半ば放心状態でした。ショックだったのです。自分の音楽が全否定されたみたいでした。

 ふらふらなままコンビニまで行きました。

 気が張っていたのか、何気なく置いてある一泊用の歯ブラシやブルーのテープで封緘された安っぽいエロ本なんかがやたらと気に触りました。それと同じくらい頭の中では行き場のないメロディーが流れていました。もちろん全てボツになってしまうような雑多なものです。

 この感覚を、行き場のない感情をとにかく誰かに話したいと思いました。例えば富永さんとか、もしくは故郷のお母さんとか、もしかするとすごく綺麗な歌詞が浮かぶかもしれない、なんて思っていました。

 そんなことを考えながら、棒付きのアイスキャンデーだけを買ってレジへ行くと、驚くことに、なんとそこに長岡さんが立っていました。緑のパッケージのお茶を買っているではありませんか。

 さっきまでステージに立っていた長岡さん。私が嫉妬した、ショックを受けた長岡さん。チョコレートシェイク。緊張していたからなのかやたらと見つめてしまったようで、長岡さんが私の視線に気付きました。

「ライブに来てくれたお客さんかな?」

「はい」

「そうか。そうか。今日はどうもありがとう」

「いえ、こちらこそ」

「気に入ったなら、是非また来てくれよ」

「ええ、はい。あの」

「うん?」

「あの、私と付き合ってください」

 それは私にとって、初めての告白でした。コンビニのレジ前。みんなに聞こえました。店員さんもレジを待って並んでいるお客さんも、きょとんとしていました。もちろん長岡さんも。

 私はしまった、と思い収穫時のトマトみたいに真っ赤になってしまいました。でもそんな私を見て長岡さんは、

「そうか。じゃ君は今日から俺の彼女だ。うん、そうしよう」

 なんて言って私の肩をぽんぽんと叩いて笑ったのです。

 意外な返事に今度は私がきょとんとしてしまいました。

 そうして私達は彼氏彼女になったのです。

 でもそれだからと言ってそこから大学生らしい麗しの恋愛ストーリーが始まるわけでもなく、と言うより、私達の関係は普通の大学生の彼氏彼女とは大きく違っていました。

 あれからもう一年くらい経ちますが、デートらしいデートなんて実は一度もしたことがありません。

 水族館とか美味しいイタリアンとか、そりゃ私だってたまには行ってみたいと思います。でも長岡さんはいつもラーメン屋さんとか古本屋さんとか楽器屋さんとかにしか連れていってくれません。嫌ではないのですが、やっぱり少し寂しいです。

 もちろん記念日なんてものもありません。クリスマスも交際記念日も関係なしです。

 今年のバレンタインなんて最悪でした。

 私はちゃんとチョコレートを手作りしていたのに、長岡さんは終ぞ連絡がつきませんでした。悔しいので手作りのチョコレートは全部自分で食べました。

 と、まぁこれが「名目上は彼氏」なんてややこしい言い方をする理由です。

「長岡さん、またギター教えてくださいよ」

 国道沿いのラーメン屋さん。私達の行きつけです。私は隣でラーメンを待ち、水を飲む長岡さんに話しかけます。

「嫌だよ、もう」

「どうしてですか?」

「だって君、どんなに言ってもがギャンギャン弾くじゃないか」

「それはそうですけど」

「君と僕とではプレイスタイルが違うんだから無理に合わせる必要はないよ」

 そこでラーメンが運ばれてきました。

 長岡さんはコーンのたくさん乗ったコーンラーメン、私は普通のラーメン。長岡さんはコーンが大好きなのです。同じようにネギも大好きで、ネギをセルフで好きなだけ入れられるこのラーメン屋さんではいつもたくさん取って入れるのですが、今日はさすがに入れ過ぎたみたいで、入れすぎた分をれんげで私のラーメンに移していました。すまない、すまない、なんて言いながら。

「で、何の話だっけ?」

「だから、ギターを教えてくださいって話ですよ」

「あぁ、そうか。ダメダメそれは」

「いいじゃないですか。ケチんぼですね」

「やっ、ケチんぼなんて女の子が言うもんじゃないよ」

 そう言って長岡さんはすくい上げた麺をふぅふぅしながら食べています。本当ケチんぼ。口に出すと叱られてしまうので、心の中でもう一度言ってやります。

「次はいつライブするんですか?」

「さぁ、まだ決まってないなぁ。君は?」

「決まってないです。それに新しい曲も最近はできていません」

「そうか。なんだ? 難産なのか?」

「難産ですねぇ。と言うかアイデアもまとまっていません」

「あぁ、それはダメだ。ほら、これをお食べ」

 そう言って長岡さんは私のラーメンにれんげで掬ったコーンを少し入れてくれました。

 お気持ちはありがたいですが、私はコーンが、嫌い!

 ラーメン屋さんを後にして自転車で来た道を引き返します。道行く野良猫も眠りこけているくらいの真夜中です。

「こんな時間なのに悪いんだけど、良ければ君の下宿でコーヒーを一杯だけいただけないかなぁ?」

「いいですよ。一杯だけなら」

 なんてやり取りをするのですが、これは長岡さんが盛り立ってる時に必ず言うセリフで、結局下宿に上がり込んで、私のお乳に触ったりパンツを脱がしたりと、エッチなことをしてくるのです。

 せっかく淹れたコーヒーは冷たいまま、十中八九誰にも飲まれないまま放置プレイなのです。

 で、長岡さんが帰った後、私は一人で二人分のコーヒーをシンクに流します。ごめんなさいね、なんて思いながら。

 上半身だけ何かを羽織って、下半身は裸のまままです。その後ろ姿は多分どうしようもなく猥褻。破廉恥とも言うべきか。何だかエロ本の一生節のようです。一人きりだとどうしようもなく悲しくもなります。

 結局、長岡さんとは、私にとって何なのでしょうか。もちろんその逆も然り。床に落ちている破れたアルミ製の小さな袋を拾いながらそんなことを考えます。




 曲が作れない時はいつも湖に行きます。

 初めて音楽について悩んだ時、ふらふらとこの湖まで来て水面を眺めていました。そしたら何故か上手いこと一曲書けたことがあります。

 それが私の中で変なジンクスになって、悩んだらいつもここまで来るのです。でもだからと言ってそれ以来、特別何かが浮かんできたことはないのですが。

 湖は私の下宿から歩いて十分くらいの公園の中にあります。

 都会の中にしては大きな湖で、近隣の老人達が外周を散歩したり、夏になったら天気の良い日に小学生が水着になって泳ぎに来たりします。でも今みたいな平日の昼間は高い確率で誰もいません。

 私はそのほとりに座って、水面に石を投げたり(この前はついつい缶コーヒーを投げてしまいましたが。本当、ごめんなさい)、自分の作った歌を口ずさんだり、大好きな作家の本を読んだりして過ごします。

 大きめの石を手探りで選び、湖に投げてみます。それは別に水を切るでもなく、ぼしゃん、と水面を弾いた後、すぐに沈んで消えていきました。

 結局今日も曲は書けませんでした。



 スタジオに入ると富永さんと石渡君はもうすでに楽器を用意していました。

「遅くなりました」

 湖で考え事をしていたら乗ろうと思っていたバスに乗り遅れてしまったのです。私は慌ててギターケースからお馴染みのギブソンSGを取り出します。

「次のライブが決まったよ」

 富永さんがパパンとスネアを叩きながら言いました。

「あ、いつですか?」

「来月の末。三バンドでの対バンになるよ」

「そうですか。三バンドって他は誰が来るんですか?」

 富永さんが残り二バンドの名前を言います。両方とも何回か対バンしたことのあるバンドでした。残念ながら長岡さんのバンドではありませんでした。

「綾倉さん、それまでに新しい曲書けるの?」

 石渡君が少し刺々しい言い方をしました。

「う……そうですよね。何とか頑張ってみます」

「そんなこと言ってもうだいぶ新しい曲書けてないじゃないですか。同じ曲ばかりやってたらお客さんにも飽きられますよ」

「ごめんなさい」

 もちろん私だってそれは分かっています。

 だから焦って湖に向かって何個も何個も石を投げたりしているのです。でも石渡君はなんだか怒っているようなので素直に謝りました。

 すると富永さんが、

「石渡君、そんな言い方はないだろ? 綾倉さんが頑張って曲を書いてくれるからうちのバンドは成り立ってるんだろ」

「もちろんそれは分かってますよ。でもそろそろうちのバンドも新しい曲がないと辛い時期に来てることは富永さんにだって分かるでしょ?」

「分かってるけどそれは仕方ないことだろ。我慢の時期なんだよ」

 だんだん富永さんも語気が強まってきました。スタジオの空気がピリついているのが分かります。

「俺は真剣なんですよ。このバンドでもっと上に行きたい」

「俺だってそうだよ」

「富永さんは春が来たら就職するんでしょ?」

「そうだよ。でもバンドは続ける」

「そんな中途半端でいいんですか?」

「何が中途半端だよ? こっちだって真剣なんだ。大学に入りたてのお前には分からないよ」

 二人ともほとんど怒鳴りあっていました。怖かったです。でも怖かったのはその怒号じゃなくて、バンドが捻じ曲がってしまうことが怖かったのです。

「あの」

 私が弱々しく声を出すと二人がじろっとこっちを見ました。

「私、曲作りますから。次のライブに間に合うように。だから、大丈夫ですから。ね?」

 必死で笑ってみました。

 上手く笑えていたかどうかは分かりませんが、女の私にそう言われて二人とも少し冷静になりました。

 その日のセッションは最後までしっくりきませんでした。やはり今、私達のバンドには新しい曲が必要なようです。



 それから二週間が経ちました。

 でも曲はまったく書けていません。

 メロディーも詩も、まったく。断片の一つすら浮かんできません。私は毎日毎日あの湖まで足を運び、数え切れないくらいの石を投げ込みました。

 でもダメでした。日に日に闇が深くなっている気がして、視界がどんどん悪くなります。先行きが見えません。

 そうしている間にも時間は刻々と先を急ぎ、期日がだんだんと近づいてきています。私は頭を抱えました。

 そんなある日の夜、長岡さんから電話がかかってきました。

 私はその時、家にいて、白紙の原稿用紙の前に座ってすでに五時間経過、という状態でした。気づいたらあたりは真っ暗でした。

 暗がりで携帯電話の画面が光っています。そこには「長岡さん」の文字。バイブレーションが畳をじんじん言わせています。

「やぁ。何してる?」

「家で曲を書いています」

「そうか。そうか。どうだ? 駅前の喫茶店にでも行かないか?」

「あ、はい。いいですよ」

「じゃ三十分後に現地で」

 それで電話は切れました。

 私は自転車に乗って駅前の喫茶店へ向かいました。時刻はもう夜の十九時。長岡さんたら、なんてったってこんな時間に喫茶店なのでしょう? どう考えてもお茶を飲んで休憩するような時間ではありません。

 喫茶店でご飯を食べる気かしら、とも思いましたが、あそこの喫茶店のフードメニューはサンドイッチセットのみで、高い割に美味しくないともっぱらの評判でした。長岡さんも大嫌いだったはずです。だからその線はなさそうです。

 駅前の喫茶店の前にはすでに長岡さんの自転車が停まっていました。今日はママチャリではなく、あのオシャレな、ロードバイクというやつです。煤けた窓越しに、店の中に一人水を飲む長岡さんが見えました。

「綾倉君、こっちこっち」

 私が店に入ると長岡さんはすぐに気づいて手招きしてきました。少し暑いのか扇子でお顔を扇いでいます。

「こんばんは」

「あぁ、こんばんは。暑いねぇ。何飲む? たまには奢りますよ」

「じゃサイダーでお願いします」

「サイダーね、了解。僕は……アイスコーヒーにしようかな」

 運ばれてきたサイダーをストローで飲むと、身体の中が冷んやりしました。お昼から何も食べていませんでしたが、不思議とお腹は空いていません。長岡さんは慣れた手つきでガムシロップとミルクをブラックのコーヒーに入れてかき混ぜています。

「長岡さん、今日は何だったのですか?」

「ん、いや。大したことじゃないんだけど」

「はぁ」

「悩んでるみたいだね、だいぶ」

「曲のことですか?」

「ま、そうだね」

「誰から聞いたんですか? そんなこと」

「うん。まぁ、ちょっとね。バンドが微妙な感じになっているのだろう?」

「そんなことまでご存知とは」

「ま、狭い大学の狭いコミュニティだからね」

「噂になっているなんて何だか嫌です」

「別にそこまで噂になってるいわけではないよ。ちょっと小耳に挟んだだけ。で、曲はどんな状況なんだ?」

「全然ダメです。まだ一生節も書けていません。今日も五時間フリーズしていました」

「いかんなぁ」

 長岡さんはそう言って眉間に皺を寄せました。

「そうです。いかんのです。このままじゃ本当にマズいんですよ」

 私は喫茶店のテーブルに項垂れました。

「うん。で、そんなことではないかと思ってな、これ」

 そう言って長岡さんはズボンのポケットから綺麗に四つ折りにされたA4用紙を取り出し、テーブルの上に置きました。

「なんですか? これ」

「ま、開けてみなよ」

 私は言われた通りに四つ折りの用紙を開きました。するとそこには鉛筆で書かれた丸っこい長岡さんの文字がありました。

「長岡さん、これって……」

「うん、良かったら使ってくれ」

 それは長岡さんの書いた曲でした。

 歌詞の下には丁寧にコードまで書いてあります。

「こんなの、受け取れません」

「君ならそう言うと思ったよ」

「そりゃそうですよ」

 私は少しむすっとした声を出します。だって私は長岡さんの歌に心底惚れていたのです。こんな屈辱はありません。

「お返しします」

「ま、そう言うなよ」

「受け取れません」

「でも曲が必要なんだろう?」

 私は少し怯みました。

 長岡さんの言う通りでした。私には曲が必要です。そしてそれができていない。

 あと一週間くらいで曲が書けないと、いよいよバンドがマズくなります。富永さんと石渡君の顔が浮かびました。それだけはどうしても避けたかった。

「持っていきなよ」

 長岡さんはそう言ってアイスコーヒーを飲み干しました。私はもう何も言いませんでした。言えなかったという方が正しいかもしれません。涙が溢れてきました。でも悔しいからぐっと堪えました。

「後悔しますよ。いつか」

 ほぼ睨むような涙目で長岡さんを見ます。向こうもこちらを見て、私と長岡さんという点と点が結ばれて線になったような感覚でした。

 サイダーはまだ半分くらい残って、グラスの中で魔法を唱えています。私達の周りだけ真空が取り巻いたように空気が薄くなりました。

「ま、それも悪くないよなぁ」

 長岡さんは水滴で濡れた手で二人分の伝票を掴んで立ち上がりました。



 それから一週間後、私は富永さんと石渡君をスタジオに呼びました。

 先日のスタジオ以来、二人はどこか距離があるみたいで、スタジオにいつものような笑顔はありませんでした。

「綾倉さん、曲できたの?」

 石渡君がベースを肩に掛けながら言います。富永さんは既にドラムセットの前に着席していました。

「一応できました」

 罪悪感がチクリと心を刺します。

 私はそれを打ち消すかのようにSGを爪引きます。

 そしてそのまま歌い出しました。この一週間、何度も練習した曲。

 長岡さんがくれた曲はやはり素敵な曲で、歌う度に私はそれを好きになりました。長岡さんがこの歌を歌っているところは見たことありませんが、だいたい想像はつきます。だってずっと目指していたから。私は。長岡さんの歌を。音楽を。

 SGが信じられないようなメロウなフレーズを奏でます。

 私は、春風のように歌えませんが、頑張ってそれらしく歌いました。なぜなら曲がそれを求めていたから。長岡さんが作った曲なのですから、長岡さんのことを好きなのは当たり前です。

「どうですか?」

 歌い終わり二人を見ると、なんだかキョトンとした感じの顔をしています。私は額と首筋に薄っすらと汗をかいていました。

「あ……いいんじゃないかな」

 石渡君がそう言って富永さんの方を見ます。富永さんは神妙な面持ちで小さく頷きました。

「合わせてみようか」

「はい」

 私がもう一度長岡さんの歌を歌い出し、感覚だけで三人、音を合わせます。

 久しぶりのバンドの音でした。

 ここ数週間、私はずっと一人でギターを弾いていたので、そのグルーブをとても懐かしく思いました。

 当たり前のように富永さんがいて、当たり前のように石渡君がいます。

 ライトシンバルの音にベースラインが絡んで、そこに私の歌とギターも混ぜてもらいます。

 今日も、明日も、来週も、来年も、ずっとこんなふうに音楽ができればいいなぁと本気で思いました。

 その時です。

 富永さんが急に演奏を止めました。

 私ははっとして現実に引き戻されました。

「……富永さん?」

「綾倉さん。ダメだよ。この曲はうちでは演奏できない」

 そう言って強い目で私を見つめます。私は何も言えませんでした。

「良い曲なのは分かるけどね。俺は綾倉さんの曲が聴きたいんだ」

 富永さんの目を直視することができませんでした。

 ほとんど無意識のうちに涙が一雫、私の頬を伝っていきました。

 恥ずかしい。泣くなんて卑怯です。そう思いましたが涙は止まりません。

「綾倉さんのせいじゃないですよ。俺達も悪かった。綾倉さん一人に責任を押し付けてしまって」

 石渡君が妙に優しいことを言います。困り顔。彼も薄々これが私の書いた曲じゃないことに気づいていたのでしょう。

「違うんです。私、そんなんじゃないんです」

 私はもうぼろぼろと涙を流していました。

「綾倉さん?」

「ごめんなさい。私……」

 無我夢中でSGを肩から下ろしました。そしてそのまま走ってスタジオを出ました。

 後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた気がします。でも一度も振り返りませんでした。

 最低な気持ちでした。

 行き交う人に肩をぶつけながら、私は必死で走りました。逃げるように走りました。



 名前も知らない鳥が旋回をして、水面のぎりぎりを飛んでいます。その姿は本当にダイナミックで、何だか見惚れてしまいました。

 風が少し強くなってきました。雨が降り出しそうです。

 湖のほとり。一人、足を三角にして座り込みます。私の湖。私の場所なんです。

「おーい。綾倉君」

 名前を呼ばれて振り返るとそこには長岡さんが立っていました。いつの間に髪型を変えたのか、長い髪を頭上で結っていました。

「長岡さん……どうしたんですか、その髪?」

「ん、あぁ。これか。ストレートパーマをあてたんだよ。どうだい?」

「似合う……んじゃないかなと思います」

「なんだ、いやに曖昧な反応だな。まぁ、いいや。な、トマト食べるかい?」

 そう言った長岡さんの両手には大きく真っ赤なトマトが一つずつ握られていました。

「はぁ。どうしたんですか? このトマト」

「そこの角の農家からくすねたんだよ。ほれ」

「またそんなことして。泥棒ですよ、それ。バレたら怒られますよ」

 そう言ってトマトを受け取ります。トマトはきんきんに冷えていて、少し驚きました。

「冷えているだろう?」

「ええ」

「そこの河で十分に冷やしてきたんだ」

「そうですか」

 齧ってみるとトマトはトマトそのものの、甘い、太陽のような味がしました。長岡さんも満足そうに自分の分を食べています。

「美味しいなぁ」

「そうですね」

「トマトを冷やしてる間、退屈でね、笹舟を作って流してたんだよ。そしたら意外と河の流れが早くてね。一瞬で流れていくんだよ。見送る暇もなく。ははは」

 私は何も言わずにトマトを齧っていました。そうすると次第に長岡さんの笑いが乾いていきます。

「すまんかったな」

 長岡さんが珍しく本当にすまなそうな声で言いました。バレンタインの手作りチョコレートを無視しても何も悪びれなかった長岡さんが。

「何がです?」

「曲のことだよ」

「長岡さんが謝ることじゃないですよ」

「君のギターな。今、俺が預かってる」

「長岡さんが?」

 私は少し驚きました。

「この前、君のとこのベースの石橋君? だっけ? 彼が来てね。綾倉君に渡してくれと言うのだよ」

「石渡君ですよ」

「あぁ、そうそう。石渡君。と言うか君、彼に全然連絡を返していないらしいじゃないか」

「だって合わせる顔がありませんもん」

 私がそう言うと長岡さんは少し困ったような顔をしました。

「すごく良い曲でしたよ、あれ」

「ん? あぁ、ありがとう」

「だからバレちゃったんですけどね」

「違うよ。前にも言ったけど、君と僕ではプレイスタイルが違う。結局はそういうとこだよ」

 私は石を一つ拾い、思いっきり湖に向かって投げました。数秒後、遠くでぽちゃん、と情けない音がしました。

 それを合図に、何故だか分かりませんが私は湖に向かって叫びました。まるでステージでのように。ライブの時のように。

 私の声に、長岡さんは少し驚いていました。

「長岡さん。私、負けませんからね。いつか絶対に長岡さんよりも良い曲を書いてみせます」

「うん。そうだな。その時は必ず一番最初に聴かせてくれよ」

「悔しくて、泣いてしまうかもしれませんよ」

「その時は僕もここに来て石でも投げるさ」

「ギター、今日取りに行ってもいいですか?」

「うん。是非とも」

「やり直しです。ここからまた」

 石渡君に連絡を返そう。

 そしてまた歌う。良い歌をひたすら。長岡さんにも湖に石を投げ入れる悔しさを分からせるためにも。

 その時、雨がしとしとと降り出しました。

 小さく、そして確かに水面を打ちます。よく見るとそれは、何だか水滴が踊っているようで可愛らしかったです。良い曲が生まれそうな、そんな雨降りでした。

 長岡さんは濡れるのが嫌みたいで、早く行こうよぉ、なんて言って私を促しますが、私はそれを無視して、ゆっくりと降り注ぐ愛しい雨降りを見つめていました。

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