梅雨去り
真昼間。珍しく仕事で外出している最中、雨のステイションでスギタニの奴から電話が入る。出ようか否か迷った。
なんせ俺は最近、流れが悪い。ほんまに。非常に悪い。わざわざ足を伸ばして外資系CDショップへ行けばお目当の音源がなかったり、お気に入りのラーメン屋を堪能しようとチャリを飛ばせば臨時休業やったり、仕事が忙しくて何かとバタバタしてるし、それが原因でなんとなく最近彼女の態度も冷たいし、たまに電話をしてもなんだかつれないし。
そんな中、突然の奴からの電話。不吉でしゃあなかった。
そうこうしているうちに着信が切れる。切れると切れるで、まるで俺が人間関係を一方的に遮断したみたいで、無視したみたいで、何だかどうしようもなく悪いことをした気持ちになって、やり切れなくて仕方なく折り返す。
スギタニはすぐに電話に出た。
「もしもし」
「もしもし。ごめん。電話もらってたみたいで」
「あぁ、うん。今、仕事中?」
「お前な。平日、火曜日、午後二時。普通のサラリーマンは仕事中やろ」
「ま、せやな。俺も仕事中や」
奴の後ろからは百貨店のアナウンスみたいな音声が聞こえる。ピンポンパンポーンなんつって。
「どうしたん」
「うん。いや、大したことちゃうんやけど」
「はぁ、何?」
「うん。お前さ、なんも聞いてない?」
「だから何が」
「あ、知らんか。その反応」
「おい。もったいぶんなや」
「あんな、リサが結婚したらしいで」
リサ。
ステイションにはざあざあと雨音。
なんとなく陰鬱な雰囲気で、電車を待つ人たちも皆気だるい顔をしてる。眼前を通過電車が足早に通り過ぎていく。すーっと。雨がホームの床を濡らしていた。俺が立つ場所は屋根のある場所やけど、吹き込みが激しく靴の先端が少し濡れていた。
唐突に聞いたリサの名前、そして結婚という単語はそんな映像をさっとシャープにした。
「何? それ、何情報?」
「SNS。今や同級生の情報はここからしか来ない」
「あ、そうか。SNS。最近全然見てなかったなぁ」
なんせ付き合い出して半年になる彼女の顔もしばらく見ていないのだ。
「お前に報告しといた方がええかなと思って」
「それはご丁寧に」
「付き合ってたんやっけ? お前ら」
「付き合ってへん。超、付き合いたかったけどな。俺は。て、こら。お前知ってるやろ!」
「なんや片思いかぁー」
「だから知ってるやろ」
「断られたんやっけ?」
「いいや、結局何も言ってない」
「チキンやなぁ。ははっ、ビビったんか」
「うるせぇ。そんなんちゃう」
嘘やった。それも情けないくらい浅はかな嘘やった。正直、ビビった。完全にビビった。
「あぁ、そう」
「お前、それが伝えたかったんか?」
「うん、そう」
「ふーん。そうかぁ」
「仕事中に悪かったな。ほなまた」
そう言ってスギタニはさっさと電話を切った。
雨はまだまだ止む気配がなかった。霧ががかった線路の向こうから対の明かりが二つ。電車が来た。不本意ながら各駅停車。俺は雨に濡れないように素早く車内へ入り席へ着く。終着駅まで、うとうともせず外を見てた。雨に濡れる灰色の景色を。
若い頃の恋愛で、想いを告げられない理由など、チキン、つまりはビビったという意外、どんな理由があると言うんやろう? 知っている方がいるなら教えていただきたい。
そりゃ、多少なりともややこしい事情、例えばー、その、なんだ、好きになった相手が友達の彼女やとか、他校のヤンキーの先輩と付き合っているなんて噂やとか、まぁ、あるやろう。でも結局、想いを告げられない理由というのはチキン、つまり勇気がなかった、としか言いようがないのではないか。纏めれば全部そうなる。と、俺は思う。
歳を取ってからの事情、例えば、うーん、憧れの上司には妻子がいる、とか、そんなんはまたちょっとちゃう気がする。勇気と無茶は別物だ。そこはちょっと冷静に足元を見ようや。と、俺は思う。
リサのことが好きやった。
俺の初恋。あれは確か、初めて会った中一から高三くらいの間までずっと。終わりはぼんやりしてるけどなぁ。うん。思えば結構長いなぁ。
リサはどうしようもなく可愛い女の子やった。少なくとも俺にとっては。
小さくて、肩まであるかないかくらいのストレートショート、黒髮。まさに黒髮の乙女、とでも言おうか。大人しい性格で、小さな薄桃のくちびるから可愛い言葉を話す。黒板に書く文字も、美術の時間に作る工作すら可愛かった。派手さはなかったので、万人からモテるわけちゃうかったけど、俺はどうしようもなく惚れていた。
俺とリサは仲が良かった。
何も物陰からひっそり恋心を抱いていたわけではないのだ。
よくメールしたし、学校でも話したし、廊下とかで、バレンタインやってチョコレートをもらった。手作りな。義理かどうかは分からんけど。みんなに配っとったけど。あと、一度だけ、デートしたこともある。
平日、朝「おはよぉ」なんてメールが来てたらその日はもう俺の勝ちやった。他に何があろうと俺の勝ちやった。逆に連絡が返ってこないと、めちゃブルーになった。
つまり俺は彼女の言葉、行動、一つ一つに一喜一憂してたというわけで、つまりそれは恋やった。
でもそれも昔のこと。俺ももう三十やし、それにちゃんと彼女やっておる。生活は寂しくなんてないし、別にもう、リサからの「おはよぉ」が無くても大丈夫。毎日ちゃんと、ブルーにならずに暮らしてる。満員電車で会社に行っている。
それでもやっぱりスギタニからの電話の、何かが引っかかり、数日後、俺は奴を呼び出した。スギタニは中高の同級生で、俺の親友であって、そのへんの事情を熟知しているのである。
土曜日の夕方。また雨が降っていて、梅田のビッグマン前は雨に濡れた人々の往来でどろどろになっていた。阪急の方からエスカレーターでスギタニが降りてくる。久しぶりに会ったが相変わらずで、焼きそばみたいな天然パーマの髪を小さなニット帽で抑えていた。
東通りに移動して素早く安居酒屋に入る。大人になっても北新地になんて行かないところが良くも悪くも俺たちらしい。だから一向に進歩がないのかもしれないが。
「で、今日はなんや」
スギタニがニット帽を外して言う。髪がペタンコで、非常にキショかった。枝豆で空腹を誤魔化しながら、ビールで乾杯する。
「べっつに。何も」
「嘘つけ! どうせこの前の電話のことやろ! SNS見た?」
「見た」
あの後、見たのだ。半ば怖いもの見たさで。久しぶりにSNSにログインした。
件の投稿は結婚式の写真やった。ウエディングドレス姿のリサがいた。
「リサ、昔から全然変わらんね」
「せやな」
「髪もずっと黒髮やし。昔よりちょっと長くなってたけど」
「うん、あと、ちょっと痩せてたなぁ。ま、だいたい女の子って結婚式前はダイエットするもんやしなぁ。ドレス着るし、身体細く見せたいし」
「旦那さんは分からんかったな」
「うん」
そうなのだ。SNSの写真には旦那さんが写っていなかったのだ。そもそも、件の投稿というのも、どうもリサ自身が投稿したものでなく、所謂、タグ付けという奴。誰々と一緒にいます、的な奴で、投稿主は知らない女子なんやけど、察するに、リサの結婚式に参加した友人があげたものらしく、「リサ、おめでとうー!」なんつってる投稿で、内容は自身とリサのツーショットだけ。旦那さんの写真がなかった。で、それがますます俺をヤキモキさせた。
めっちゃ男前でも嫌やけど、めっちゃブサイクも嫌。でもどちらとも分からず、実態が見えないのが一番嫌やった。とりあえず、いいね! しといたけど、内心はあまりいいくなかった。リサの友達よ、どうせやるんならしっかり情報を取ってきてくれ。
「誰やろ?」
スギタニが一杯目のビールを飲み干して言う。俺もほぼ同時に飲み干し、目配せをして店員さんを呼ぶベルを押す。
「誰って、そんなん俺らの知らん人やろ」
「意外と中高の同級生とかかもしれへん」
「まさか」
「いや、分からんでぇ。ナルナールのこともあるし」
ナルナールは中高の同級生で、同じく同級生の女の子と結婚した。それも昔から付き合っていたわけではなく、どうも働き出してから再会して急接近したらしい。
「そんなんレアケースやろ」
「まぁ、せやけどさ。あるやん同窓会とかで再会して急に盛り上がるとか」
「おい。そんな同窓会に俺は呼ばれてないぞ」
「はは、俺も」
てか、そんなケースがあるなら俺と盛り上がってほしい。同窓会で盛り上がってほしい。
「相手、同級生とか嫌やなぁ」
「あ? そう?」
「うん、知らん奴の方がまだいいわ」
「てか、お前さ、やっぱまだ好きなん?」
「うーん」
二杯目のビールを飲み考える。揚げたてのフライドポテトを指でつまむ。ちょい熱い。
「分かんね。好きかも、もしかしたら」
「うわぁ、出たぁ」
スギタニが指さして笑う。
「いい加減あきらめろよ。てかリサ結婚したんやで? 今度こそもう終わりやろ。初恋を引きずる三十歳、男子。会社員。主任。ダサいで。ほんま。くっそダサい」
「うるせぇなー。別にな、本気で言ってるわけちゃう。ただ、ちょっと。なんか、ちょっと、なー、て感じやねん」
「ちょっと、なんやねん?」
「それを上手く言えへんねん」
その後もぐだぐだと飲んだ。
二人ともあまり酒は強くないから足にくる。いわゆる千鳥足で東通りをふらふらと歩き、道中、アダルトDVD屋なんかに寄って陳列されたAVのパッケージを見てああだこうだ議論したりした。
てか、今の時代、AVなんて誰が買うんやろ? 今時、全部ネットで見れるやろ、正味。昔は違ったなぁ。俺が高校生くらいの頃はネットなんて選択肢はなくて、夜な夜な親が床に就いたのを見計らってリビングに忍び込み、再生機をめっちゃ小音にしてAV見てた。丁度、VHSからDVDに移行する頃で、よく分からんけど、なんか円盤、画期的やなぁ、なんて思ってた。思えば必死やったなぁ。それは多分、俺だけちゃうけど。スギタニなんかもアホで、注文したAVを親がいない時間にわざわざ佐川急便の時間指定で受け取ったりしてた。カラクリはよく分からんけど、その綿密な計画を立てれる頭を別のことに使えばええのに、なんて思った。
それが今やDVDなんて遥か古のツール。その後ブルーレイが現れ、いつの間にかどんどんネットへ移行していった。文明は少しずつ、且つ着実に進歩している。で、十五、六やった俺は三十に。それなりの時間なのだ。それなりの時間が経った。いろいろあったし、いろいろ失くした気もする。もちろんちょっとかもしれんけど、手に入れたものもある。
でもふとした瞬間、リサはそこに立っていた。ずっと。昔と変わらず立っていた。
ぼやっとした頭で昔のことを思い出す。
「ほんま中学のときから変わらんなぁ」
休み時間の廊下。スギタニとキャッチボールをしている俺を見てリサは笑った。授業前の移動中ぽい感じ。くすくすの笑顔で。
「そんなことないて。俺の投球は日に日に進化してるで。速くなってる」
そう言って俺はゴムボールを思い切りスギタニに投げた。シュン、とゴムボールが昼休みの風を切る音。
「な?」
「よく分かんないよ。てか、そうじゃなくて、もう高校生やのにいつまでも廊下で野球なんかして」
「だって。廊下野球、楽しいし」
「そうやって中学生みたいなこと言う。こんなとこで野球なんてしてたら、また先生に怒られるで」
なおもくすくす笑う。
「大丈夫。すぐ逃げるから」
「ほんま?」
「うん。な、スギタニ」
「そうそう」
俺がリサの前で変にカッコつけるから、スギタニはにまにましてゴムボールを投げ返してくる。
そんなことを言ってたら、向こう側を本当に生活指導の先生が通った。先生はすぐにこちらに気づき、こらぁ、なんつって、すっごい剣幕で走ってきた。捕まったら本当に殺されそうなくらいの。生活指導の先生はほんまにおっかなかった。
「お前ら、そこ動くなよ!」
「やべっ、逃げろ」
俺とスギタニは慌てて逃げる。無我夢中で校舎の中を走る。
捕まったら終わりや。汗をかいて階段を駆け下りる。すれ違う下級生たちは皆、変な目で俺とスギタニを見てた。そりゃそうや。普通、校舎の中をこんな全速力で走らんもん。
校庭まで飛び出すと生活指導の先生はもう追ってきていなかった。どうやら無事、振り切れたようだ。
校庭はサッカーやバトミントンをしてる奴らで溢れてた。その中に紛れ、俺は肩で息をする。
「上手くまけたな」
「せやな。あー、やばかった。やばかった」
スギタニが額の汗を制服のシャツの袖で拭って言う。
「さ、パン売りでも行こか。ジュース飲みたいし」
「おう」
歩き出した時、振り返り校舎を見ると、教室の窓からリサがこっちを見てた。古くさい校舎の窓にリサの笑顔が咲いてた。手、振ってる。小さく。やから俺も振り返した。前を歩くスギタニに気づかれないように。
あれは高二くらいやろか。
なんかめっちゃ覚えてる。笑ってたなぁ、リサ。校舎の窓から。なんか花みたいやった。手、振って。風に揺れる花みたいやった。
茶屋町の方まで移動してカラオケに入った。年甲斐もなく青春パンクを歌う。いや、叫ぶ。
高校生くらいの時、青春パンクてめっちゃ流行った。いろんなバンドがいた。今も生き残ってるんはほんまに一部やけど。当時、みんな歌ってた。青春パンクのいいところは、嘘が無くて、真っ直ぐなとこ。これぞ、まさに青春。そのものやった。
部屋を少し暗くして、二人で歌いまくった。
靴を脱ぎ、ソファの上に立って、声、がらがらになって、少し歌うたびにお茶飲んで喉を潤したりして。ジュースは口の中がべたべたするから最近は嫌やった。三十。俺たち三十。ウォウ、ウォウ。
青春パンクなんて聴く時は、昔は当然誰かをイメージして聴いてた。俺にとってはそれはリサで、てか、俺、リサ、ほんま好きやったなぁ。めっちゃ好きやったなぁ。歌いながらものすごく思った。ほんまに結婚してもうたんかぁ。絶叫する。
「スギタニ、俺さ。決めたわ」
「え? 何?」
「リサに、ちゃんと想いを伝える」
ちょうど退出十分前の電話が鳴った。でもテレビからまた青春パンクのイントロが流れ出す。
相変わらず雨が続く。梅雨前線は街に降り注ぎ、紫陽花と色とりどりの傘を咲かせていた。
俺はと言うと、ずっとリサのことばかり考えていた。それはいつかの俺みたいに。馬鹿みたいに。あの夜の決心は酔いが冷めても揺るがずに、さぁ、どうしよか。なんて思っていた。
まず思ったのが、想いを伝えるタイミングがないということ。
実際、リサにはもう十年くらい会っていなかった。あ、せやせや、ちょうど十年やな。最後に会ったのは確か成人式の時やから。うーん、もうだいぶ前やなぁ。
それからは一度も連絡を取っていない。これがマズかったなぁ。少なからず連絡を取ってたなら、不自然じゃなく接触できんのに。
会社から早帰りした夜、洗濯物を干しながらスギタニに電話してみた。
「もしもし、何?」
「もしもし。あ、仕事中?」
「うん。まだ仕事中」
「悪い。あのさ、この前のことなんやけど」
「何? この前のことって」
「ほら、リサのこと。想いを伝えるて言うたやん。俺」
「は? あれ冗談ちゃうかったん?」
「アホ。冗談ちゃうわ。マジやマジ」
「お前さぁ。止めとけよそんなん」
「なんで?」
「なんでって、お前、よう考えろよ。リサ結婚したんやで。普通に考えてまずいやろ」
「ちょっと待て。お前さ、なんか勘違いしてる。別に想いを伝えて不倫しようとかそんなんちゃうねん」
「じゃ、何やねん。意味が分からん」
「やからな、正直に想いを伝えたいねん。それだけや」
「なんか意味があるん? それ」
「意味なんて無いけど」
「とにかく言いたい、と?」
「そう」
「うん、まぁ、じゃあ勝手にしとくれ、という感じやな。俺は。で、いつ言うん?」
「それやねんけどな、チャンスが無いねん。会う機会が」
「ま、せやろうな」
「お前さ、同窓会とか開いてくれん?」
「アホ」
そう言ってスギタニは電話を切った。くっそ、何やねんコイツ、と思ったが、ちょっと冷静に考えたら、まぁそうやろな、とも思った。
無駄に夜道を散歩してみる。
梅雨の切れ目で、ぐずぐずした天気やったけど雨は降っていなかった。夜の帳。都島通を歩いた。相変わらず交通量が多くて、光化学スモッグが霧みたいに漂っていた。その空気はなんとなく哀愁。どことなく恋慕。
コンビニで百四十円のコーヒーを買ってなお歩く。気づけばけっこう歩いてる。川を渡ればもう天六だ。
そんなに遠出をする気でもなかったから俺の履物はサンダルで、ぺたぺたと。アスファルトを踏む感触が気持ちが良かった。リサに会いたいなぁ、と思った。漠然と。
でも同窓会はやっぱあかんな。
だいたいにしてまず、スギタニに同窓会でクラスメイトを集客するほどのポテンシャルがない。冷静に考えたら分かることやん。そんなんさぁ。藁をもすがる思いで頼んでみたが、あんな藁、掴んだらすぐ引っこ抜けて転倒、共倒れ、お陀仏や。まぁ、結局藁の方から俺を避けたんやけどな。そしてもちろん俺にもそんなポテンシャルはない。
で、もっとシンプルに考えた。
よく考えれば携帯にまだリサのアドレスが残ってるんちゃうかと。
電話帳を見てみる。えーと、ハ、マ、ヤ、ラ、リ、リ、リ、あっ、あった、あった、これや。ちゃんと「リサ」で登録してある。うへー、まさかまだ残ってるなんて思わんかった。
天六の駅近にあるつけ麺屋に入る。古風なテーブル。その下には週刊誌やゴルフ雑誌なんかが置いてある。冷たい水をゴクリと飲んでつけ麺を待つ。ここのつけ麺は超濃厚魚介系で、どろっとしたスープに太麺が上手に絡み、美味い。たまに来る。
さて。どうしようか。
ポケットから携帯を取り出し、液晶にうつるリサのアドレスを見て思う。とりあえずこの番号にメール、もしくは電話をすれば現実的にリサに繋がることができ、そして何かしらの意思疎通を図ることができるのだ。うーん。かなり久しぶりやからここはメールが無難か? いや、でも想いを伝えるなら電話の方がベターか。
てかそもそも今もこの番号のままなんやろか。変わってへんやろか。変わって俺に連絡してへんとかないやろか。頑張ってメールしてエラーメールから早々のお返事、なんて最悪過ぎる。ほんまに。や、しかしこればかりは連絡してみないと何とも言えない。参ったなぁ。
超濃厚魚介系に麺をしっかり絡めてすする。噛み応えがあり非常に美味。中盛りにしたけど、大盛りでもよかったかなぁ、なんて思う。でもちょっと胸が苦しい。リサよ。て、何やってるんやろ、俺。アホみたいやな、俺。スギタニの言う通りやわ。
外に出たらまた雨が降り出していた。仕方ないから天六駅から谷町線で、地下鉄に乗って帰る。ベランダの洗濯物の無事を祈って。
地下鉄の中でリサにメールを送った。
『結婚おめでとう』
「で、それでなんて返ってきたん?」
数日後、淀屋橋近辺にある立ち飲み屋。俺はまたしてもスギタニを呼び出していた。メールの画面をスギタニに見せる。
『ありがとう。久しぶりやねぇ。今は大阪におるん?』
「えっ、何かええ感じやん。てかエラーメールちゃうかってんなぁ。良かったなぁ」
スギタニは興味津々で、楽しくてしゃあない、という感じに見えた。
「うん、せやねん。それはまぁ、とりあえず良かった」
「で、それで?」
スギタニがビール片手に前のめりになる。
『久しぶり。俺は相変わらず大阪やで! リサは?』
「なんかお前のメール、浮き足立っててキモいな」
「うるせぇ。で、その返事がこれ」
『私も大阪やでー!』
「あぁ、うん。それで?」
「これから返してない」
「え? なんで?」
驚いた顔で俺を見る。
「いや、なんかさぁ、何話せばええんかなって思って。これさ、『大阪やでー!』で一旦話完結してるやん? ほんで、そこから何の話すればええんか分からんくなって」
「なんやそれ。お前全然あかんやないか」
「だって意中の女の子とどきどきしながらメールするなんてもう何年もなかったから」
「うわぁ、気持ち悪いことシレっと言うなぁ」
うん、自分でも内心気持ち悪いと思った。でも事実やからしゃあないやんけ。芋焼酎を水割りでたのむ。
「てか正直、メールは失敗やった」
「そうか?」
「うん、やっぱこれ、会わなあかんわ」
「あー、まぁでもそれはなかなかハードル上がるなぁ」
「せやねんなぁー」
「うーん、まぁ、でもリサもまだ新婚やし、もし会っても間違いは起こらんやろ」
「おい。こら、こら。そんなんちゃう言うたやろ。人を獣みたいに」
「十分獣やわ。今更、なんか頑張ったりして」
「今更か……」
まぁ、スギタニがそう言うのも仕方ない。確かに今更や。でも獣、ではないよなぁ。多分。うん、多分。なんかはっきりケジメをつけたいだけやねんなぁ。極力迷惑はかけへんようにするから。
「とりあえずメール、返してみたら?」
「それしかないよなぁ」
「そりゃそうやろ」
「うーん」
なんて唸ってたらスギタニが俺の背中をばんと叩いた。平手で。突然でびっくりした。
「お前なぁ、どうせやるならしっかりやれよ。もじもじせんとさぁ。俺は一応、応援してやるからさぁ」
「おう」
何やってるんやろ、俺。三十にもなって恋にもじもじして、友人に励ましてもらって。背中押してもらって。情けねぇ。ここは一つ、頑張らな。やるでぇ。友よ、俺はやるでぇ。
そのままの勢いでメールをうつ。
『大阪ならさぁ、一回会わへん?』
で、その晩はしこたま飲んだ。
帰り道、ウォークマンで青春パンクを聴いて帰った。足、千鳥足。手、エアギターチックな動きさせて。薄汚れた野良猫ですら俺と目を合わせようとしなかった。
あまり乗り気ちゃうかったけど、週末は彼女と遊園地に行くことになった。彼女と会うのは三週間ぶりやった。
朝、大阪駅で集合した。久しぶりに会った彼女は少し髪が伸びたみたいで、茶髪の髪を軽く巻いていた。細身の身体にアイボリーの上着を羽織って、その下はユニクロのシンプルなシャツやった。
「髪型変えた?」
道中の環状線の中、横に座る彼女に聞いてみた。
「あ、うん」
「最近?」
「いや、ちょっと前かなぁ」
「あ、そう。良いやん、なんか」
「ありがとう」
どことなくちょっと以前にはなかった壁がある感じ。思えば最近あんまり連絡を取ってなかった。
遊園地の前まで来ると、週末やからかめっちゃ混んでた。入り口から長蛇の列。うへー、すげぇ人、なんて思ったが、俺たちはこの遊園地の年間パスポートを持っていたから、まぁ入れるやろと思ってた。
年間パスポートは付き合ってすぐくらいの時に二人して買ったのだ。やからなんだかんだ混んでてもすんなり入れるやろうなぁ、なんて。しかし、
「お客様、申し訳ございませんが、本日は年間パスポートの対象除外日になっております」
受付のお姉さんは少し気まずそうに言った。
「えっ?」
「あの、パスの裏に除外日が書いておりまして、今日がちょうどその日で……」
裏を見ると確かに除外日一覧の中に今日の日付が。うへへー、これには参った。
「あの、一応聞きますけど、除外日ってことは入れないってことですよね?」
「そうです。申し訳ありませんが」
遊園地を楽しみにしていた彼女はめっちゃ残念そうやった。仕方なく二人、とぼとぼと来た道を引き返す。
「久しぶりやったのになぁ」
「除外日とは参った」
「ちゃんと調べてくれば良かった」
「そうやな」
彼女は少し怒っているようにも見えた。俺やって残念やった。
仕方がないので、遊園地から割と近くにある水族館に行くことにした。
近いって言うても更に環状線と地下鉄を乗り継いでいかないといけないんやけど。また並んで電車に揺られる。何となく二人、黙ってた。
あれ以来、リサからメールの返信はない。やから俺は何年かぶりにあのブルーな気持ちを味わっていた。リサからメールが返って来ない時のあのブルー。普通にしてたら何もないんやけど、ふと油断した瞬間、それは俺の気持ちをぎゅっと握った。痛かった。
リサのことを思い出してしまう。
俺の中にあるリサの像は十年くらい前、高校生の時のものやった。高校の制服を着た黒髪の乙女。小さなくちびる。
大人になった姿を想像してみる。ウエディングドレスじゃない普通の格好で。思い描く。想像の向こうに微かに見えたビジョン。黒髪の乙女、いや乙女というよりもう少し歳は上で、貴女という感じ。めっちゃ可愛いかった。やばかった。
そんなことを考えてると、隣に座る彼女が急にありふれた、なんの変哲もない現実に見えた。
水族館もそれなりに混んでた。人々の隙間からちらちら泳いでる魚を見る。子供連れが前の方を占領するから、全体的にあんまりちゃんと見れんかった。たまに、横を歩く彼女にすごいなぁ、とか、大きいなぁ、とか言ってみたがイマイチ盛り上がらない。
お、ここは空いてるなぁ、と思って近づいた水槽には魚はおらず、ダイバーみたいな格好をした係員がブラシで床を磨いていた。ごしごしと。
これはこれで大変そうやなぁ、と思った。吐き出す空気は透明な塊になって、するすると水中を昇っていく。綺麗やった。新素材のような輝きやった。ついつい見入ってしまう。
「そんなん見たってしゃあないやない」
彼女が不機嫌そうに言った。
「ま、そうやな」
向こうの水槽にはカワウソ。めっちゃ交尾してた。人目も憚らずめっちゃしてた。
なんやか中途半端な一日やった。
メールが返ってこないまま二週間が過ぎた。
俺のブルーは相変わらず続いていて、頻繁にスギタニを呼び出して居酒屋でおいおいと愚痴った。スギタニは半ば呆れていたが、まぁ、一応、ドンマイ、ドンマイなんつって俺を慰めてくれた。周りから見たらどんな二人組に見えたんやろう? 考えたくもない。
天気も相変わらずぐずぐずで、雨降りばかりで、それが更に気持ちをブルーにさせた。彼女とも水族館以来連絡を取っていない。
ほぼ、毎晩散歩した。
都島通を真っ直ぐに歩いた。夜遅くても、雨が降ってても。恋、てのはこんなに辛いもんやったんやなぁ。なんて思いながら。
実際、ほんまに辛かった。
これは過去にも味わったことのある辛さやったけど、当時はまだ若く、希望、未来、少なからずの夢、等々、心にまだいろいろな良薬が効いた。
でも今はもう駄目で、身体が恋をすっかり忘れてしまっているし、無駄に積み重ねてきたプライドもある。それに現実を見ている分今や良薬も効かない。モロにそういうブルーの衝撃を受けてしまうのだ。簡単に恋人を作ってばかりいるとこうなるんやなぁ。あかんなぁ。こういう時、大人なんてほんまに脆くて潰れやすい生き物やわ。
てか、完成しない恋愛て、なんて素晴らしいんやろ。それはもう、ほぼ無敵な気がする。
でも、もしさ、もしやけど俺がリサを手に入れることができてたなら、どうなってたんやろ? どんな今になってたんやろか? 二人で手繋いでデートしたり、ラブホテルに入ったり。或いは途中で別れたりしてまうんかなぁ、そんなんは嫌やけど。でも、もしずっと付き合ってたなら、リサもいつの間にか何の変哲もない現実になるんやろうか? そんなん半ば信じられんけど、まぁ、でも多分そうなるんやろうなぁ。それくらいのことは分かる程度に俺やって恋をしてきた。
熱しやすく冷めやすい。結局そういうことなんやけど、何故こんな熱してしまうんやろ。しかもリサはもう結婚してもうたのに。厄介なもんやな、初恋なんて。燃えちまって。俺。
家を出る時は雨が降ってなかった。でも最近の傾向からいって歩いてる途中で降られることもあると思い、ビニール傘を片手に家を出る。
すると案の定、天六の駅が見えたあたりで雨が降り出した。
俺は傘を開く。が、雨はどんどん強くなり、横殴りの、スコールみたいな感じになって街に打ち付けた。空がごうごう鳴いている。ほんまにものすごい雨。ちゃちなビニール傘で耐えられるレベルではなかった。俺は何とか天六の駅まで駆け込んで、堪らず地下へ降りた。
地下には同じように避難してきたのであろう人々が大勢いた。観光客や学生やら。みんな濡れていた。どどどぉーっと強烈な雨音が地下にまで響いてる。
「参ったわねぇ」
「びっしょ濡れよ」
「最悪、最悪」
なんつってみんな話してる。
それにしてもこの雨足、おそらく通り雨なんやろうけど凄い勢いやなぁ。靴もズボンもめっちゃ濡れてた。これは帰りはまた地下鉄で帰るしかないなぁ。
地下鉄は通勤ラッシュの時間を過ぎて空いていた。人は疎らやった。
俺はシートに座り、雨に濡れた傘を巻く。すると、表面に付着していた雨水が押し出され、雫になって傘の先端からぽたぽたと落ちた。雫はやがて水溜りになりゆっくりと流れ出す。それはするすると向かいの席の方へ流れていった。何気なくそれを目で追う。向かいの席には女の人が一人座っていた。
何気なく顔を見ると、驚くことにそれはリサやった。
いや、正確にいうとリサによく似た女の子。リサかもしれないし、もしかしたらそうではないかもしれない女の子。本当に驚いた。
声をかけるべきか迷った。てか焦った。リサなんか? 君、リサなんか? 大阪にいると言っていたから、別にここにいたとしてもおかしくない。声に出して聞きたかった。でも不思議なことにそれは声にならなかった。気持ちだけが先に走ってるみたいな感じで。行動が、思考が、置いていかれてしまっていた。
そして、なんやろう。リサは、彼女は、すごく神々しかった。もしかしたら彼女は、俺にしか見えない存在なのかもしれない。幻なんかもしれない。彼女は薄汚れた谷町線の列車の中で信じられないくらいの輝きを、熱量を放っていた。
目が合うと、少し微笑んでくれた気がした。
ちょうど十何年か前のリサのように。校舎の窓から俺に見せてくれたあの笑顔みたいに。花みたいに。
いつの間にかみんな消えていた。人々も列車もシートも。俺と彼女、二人きりやった。会いたかった。ほんまに。会いたかった。と言ってみたが、多分声にはなっていなかった。
その時、
「あなた、何なんですか?」
「えっ」
さっきまで微笑んでたリサが、彼女が急にキッとした顔をしてる。あたりは見慣れた谷町線の車両の中やった。疎らだが、人々もちゃんといた。
「さっきからじろじろと人のこと見て」
「あ、いや」
「嫌なんで、やめてください」
「あ、はい。あの……」
なおも俺を睨んでいる。
「ごめんなさい」
傘から流れ出した雨水はにょろっと曲がって排水の方へ落ちていってた。誰にも見られず、静かに消えていった。
気がついたら俺は都島駅に立っていた。
階段を上がり、外に出たらまたいつもの街。いつもの交通量。光化学スモッグ。激しい雨はもう止んでいた。
ふと、振り向いてみたけどリサは、あの子はもういなかった。そこにはまた灰色の雑踏しかなかった。いつもの。現実の。
何にせよ雨は上がっていた。あんな激しい雨も、ちゃんと止むんやなぁ。あ、激しい雨やからこそピタっと止むんかな。なんて思って。
雨上がり。息を大きく吸い込むと、夏の匂いがする。うん。めっちゃする。
明日からまた生きてこう。千鳥足でもええから、現実をちゃんと歩いていこう。普通にそう思った。
見慣れた街灯りが綺麗だった。どうしようもなく、優しく。光ってた。おかえり、てな感じで。