センスレスデイ センスレスナイト
ぼーっとしていたらいつの間にか冬が終わりそうで、寒暖の差に滅法弱いうちのガキがまた体調を崩し始めた。
俺はというと快調で。ま、少し喉は痛いが、これはおそらく昨日、営業先でぺちゃくちゃと必要な事、不要な事を話し過ぎたのが原因であり、寒暖の差は無実で、年始にバーゲンで買ったばかりの薄手の、春物のコートも着れるし、悪くないな、なんて思ってた。
ガキの鼻水は滝のように。
気づいた時に配偶者が器用にそれを口で吸ってやる。実に器用だ。俺にはよう真似できん。
昨日の東京出張からの帰り、暇だったので高校の同級生ナルナールにメールをした。
ナルナールは就職してから勤務先を転々としていて、今は広島に住んでいる。俺は、今は新幹線の中で、一人でビールを飲んでいる事、最近、新築を購入し引っ越した事、引っ越した先には俺の書斎がある事、二階のバルコニーからは向かいの山に咲く桜がよく見える事、でもまだ咲いていない事を手短に書き綴り、此れを送った。窓の外は雨と闇。水玉が車窓にくっついて震えてる。
しばらくして返信があった。ええなぁ、それ。あ、そうそう、俺は最近車を変えたんよ、とナルナール。丁寧に写真までくっつけてきた。どれどれ、と。
受け取った写真に写るのはビーエムとレクサス。ビーエムは青で、レクサスは白だった。俺は、これさ、どっち? どっちを買ったの? まさか両方? なんて返信。ツマミで買った柿ピーで指があぶらギっていてスマフォの画面が少し汚れた。鞄からハンカチを出して拭いてやる。
普通、ビーエムとレクサスを同時に買うなんてあり得ない。でもナルナールならもしかしたら、あり得る、と思った。奴は大手製薬会社のMRだし、実家も金持ちだし、この前会った時、と言ってももう一年半くらい前になるけど、何だか金のありそうな、羽振りの良さそうな話をしていた。
しばらくしてまた返信・着信。レクサスだよぉーう。なんて奴が言うから、俺、あぁ、レクサス良いじゃん、色も良いね。なんて適当な相槌で返信したら、今度は割と早めに、嘘、ほんとはビーエム買ったの、と返信がきた。
そこで俺は最初の、レクサスだよぉーう、が、奴なりのギャグだった事に初めて気づいた。実に解りにくい。じゃ、なんでビーエムだけの写真を送らないのか、レクサス関係ないじゃん、とも思ったが、ビーエム良いね、実に、色が良い、と返信。
思えばあいつは昔から車には拘っていた。一方で俺は車になんて興味がない。ビーエムでもレクサスでもどっちでも良かった。もちろん白でも青でも。走ってくれればそれで良い。
ナルナールの車。
俺は大学二回生、春の夜の事を思い出した。
その夜、長い試験期間が終わり春休みに入った事もあり、様々な大学に散った高校の同級生達が久しぶりに一同に会した。みんな大学にも慣れつつあり、少し酒も飲めるようになっていた。バイトなんかも始めちゃって、
「あー、ごめん。ごめん。バイトがさぁ、なかなか上がれんくて」
なんて言ってぱらぱらと遅れて居酒屋に集合していた。みんな「バイトが忙しい」=「俺、社会に貢献してる」なんて本気で思ってた。それで学校も休みがちになっていた。そういう時期って、やっぱあると思う。俺にもあった。クソだけど、そういう時期から学ぶ事もあるような気がする、なんて今にしてみれば、三十にもなり、ガキもいるようになったら思えたりもする。
居酒屋には五人の同級生が集まっていた。
みんなまだ酒の経験が浅いから酔いが早い。ほんのり赤、顔に出る。
「うめーなぁ。ビール。俺、何杯でもいけちゃうよ」
と豪語したのはケンチャン。絶賛浪人中。がっしりとした身体つきに硬そうな髪。一部分だけ金髪になってる。チンピラ感マックス。でも悪い奴ではない。部活が一緒で帰りの方向が同じだったから昔はよく一緒に帰った。
「しかし春休みってナゲーな。みんな何すんの?」
と、ユースケ。こいつは高校の時、運動オンチなうちの高校から奇跡的に剣道で国体選手に選ばれた男で、大学もその関係の推薦で進んだ。しかもこれがまたジャニーズ系みたいな顔をしており、高校時代はおそろしくモテた。それは多分、大学に入ってからも(余談だが、三十になった今現在は剣道をやめた事でデップリ太り、何だか漁業組合かなんかにいそうな感じのおっさんになっていた。昨年結婚したらしい。おめでとう)
「俺はバイトー」
やる気がなさそうに答えたのはタケ。こいつはいつもこうやってやる気がなさそうな感じを出す。高校時代はサッカー部のエースだった。あんまり上手くなかったけど。覚えたての煙草をふかしてる。
「Kは? 何すんの?」
と、これは俺。アホだからこん時は髪を真っ茶色にしてた。
「部活。バレーの」
Kは中高とバレー部だった。何を隠そう、俺もバレー部。ケンチャンもバレー部。ナルナールもバレー部だった。もの凄く強いってわけではなかったが、もの凄く弱いってわけでもなかった。普通だったのだ。同級生の中でKだけが大学でも部活でバレーを続けた。長身の寡黙な優男。若い頃の坂本龍一に似ていた。
「うげー、部活なんてよくやるよなぁ」
ケンチャンも煙草に火をつけて言う。
「うちの大学、小ちゃいからサークルとかないねん。でも部活、楽しいで」
「いやー俺はもうやめたいわー」
と、剣道部のユースケ。
「お前はあかんやろ。推薦で大学入ってるんやから」
「せやけど練習キツイもん。全然大学生らしい生活してないわぁ」
「推薦で入っといて部活やめたらどうなんの?」
俺は興味本位で聞いた。
「知らん。つか、怖くて考えたくない」
「最悪、退学ちゃうか?」
「え、まじ? そこまでいっちゃう?」
「いや、知らんよ。お前、でもさ、やめたりしたらお前を推薦した高校の顧問とかにも当然話がいくやろ」
「あぁ、せやね」
「ほな退学じゃ済まんやろ。お前、あの顧問の先生に最悪、殺されるぞ」
タケが笑って言う。
剣道部の顧問の先生は怖かった。この先生は武道の授業の担当でもあった。
今、思い返しても過酷な授業であった。剣道部でもないのにビシビシ指導される。ビシビシ指導される、というのは即ちビシビシ・シバカレルという意味で、冬場なんかは防具の上からでも本当に痛かった。で、ユースケはそんな剣道部から輩出された国体選手だから件の顧問に非常に気に入られていた。タケの言う通り、勝手に部活をやめたりしたら本当に殺されるやもしれん。
「あぁーあ、大学生つっても思ってたほど自由ちゃうなぁ」
「そら、単位取らな卒業できひんしなぁ」
「うちの大学、授業出んくても単位取れる授業あるで」
「うっそ、まじで。すげぇ」
「羨ましいなぁ」
みんなシミジミと出なくても単位が取れる授業の事を考えた。大学生の夢。
と、そこでKが、
「でもさぁ、それってもはや大学の存在意義自体を揺るがす存在よな」
なんて冷めた事をボソッと呟いた。正論過ぎて誰も何も言わなかった。確かに授業に出なくても単位を取れるなら、大学って何なんだ? 何となく白けて近所のボーリング場へ行った。歩きで。
ボーリング場は待ち時間なしで入れた。ぶっ続けで五ゲームも投げる。若かった。Kがやたらと豪速球を投げるから面白かった。皆げらげら笑った。ひとしきり投げた時に、
「おーい。ナルナールはまだけーへんの?」
と、ユースケ。そう言えば誘っていたのに折り返しがない。向こうではタケがカッコつけてカーブボールを投球。
「あ、一回電話してみるわ」
と、俺。電話したら、奴は直ぐに出た。
「何やってんだよ。おせーよ」
「すまん。すまん。バイト長引いてもうてさ」
「またそれかよ」
「今から出る。車で」
「おっ、車? それは助かる」
なんせ俺達は皆ヘベレケ。運転など論外。しかし電車も既に終わった時間。タクシーのような高価な乗り物に乗れる銭もなく、口には出さなかったが誰しもが少なからず帰りの移動手段に不安を持っていたのは明白だった。
「ナルナール、車で来るってぇ」
「おおっー!」
皆酔って正直者。助かった、と顔にしっかり書いてある。んで、もう一、二ゲームしたり、煙草を吸ってジュースを飲んでたりしたらナルナールから着信。
「着いた」
「了解」
「みんなー、あいつ来たよ」
なんて俺が言うとヘーイ、とか言って各々ボールや靴を片付ける。飲み過ぎたね、疲れたね、なんて励まし合い、ぞろぞろとゾンビみたいにボーリング場を出て外に出るとナルナール。まさに救いの神。少し肥えた輪郭が神々しかった。
が、しかし。よう、なんて言い後ろの車を見て一同、絶句した。
真っ黒なスポーツカーだった。二人乗りの。
奴の車への拘りが詰まったマシン。カッコ良かった。ただ、俺等としてはあれだな。もう少し人が乗れた方が良いよね、と思った。正直。言わなかったけど。春、空気が澄んで、非常に冴え渡った夜だった。
結局、その日は朝までボーリングをした。翌日、見事に腕が上がらなかった。
あったなぁ、そんな事。
ガキの症状は悪化の一途。
泣いて暴れて嫌々するもんだから大変なようで、連日夕方になると配偶者から「早く帰ってこい」との連絡が入る。
「うん、分かったよーう」
なんて言いつつ、言われた通り早く帰るのはシャクで、俺は連日飲んで帰った。帰宅したら零時~未明の間。当然、配偶者もガキも寝てる。朝起きたら二人とも機嫌が悪かった。
そんな事を二週間近く続けていたらある日、帰ると家に誰も居ない。真っ暗。手を掛けたドアノブが異常に冷たかった。
「まいったなぁ……」
一人言ってみる。本当にまいったなぁ。
明かりを点けてみたが机の上にも書き置きらしきものは見当たらず、二人の姿が無い以外はいつもと変わらない俺の家だった。
まいったなぁ。なんてもう一度言ってみるが別に俺はそこまで狼狽えてはいなかった。
だって初めてじゃないもん。今までも何回かこういった事があった。こういう時、配偶者達はいつも二、三日したら帰ってくる。何もなかったかのように。実家にでも帰ったんやろ。俺は冷蔵庫からいい感じに冷えたビールを出して、同じく、いい感じに冷えた奴に刻みネギを塗し、醤油をかけ、これを肴に一杯やった。
変わらない部屋。ま、ちょっと寒いってくらいか。
いつも思うのだが、配偶者。あいつは書き置きの一つでも置いてけばいいのに。
「暫く実家に帰らせていただきます」
とか
「お暇をいただきます」
とかさぁ。そしたらちょっとはドラマチックだし、スペシャル感もある。
けっ、と思い煙草を吸いたくなって、仕事行きの鞄からライターを出そうと此れを弄ると、驚いた事に鞄の横っちょに親指大の穴が開いていた。全然気がつかなかった。どこかに引っ掛けたのか? めっちゃヘコむ。俺はシド・ビシャスよろしくそれを安全ピンで留める。カッコ悪いが、まぁいいや、なんて思い煙草に点火。
仕方ないから冷蔵庫のビールとハイボールを同時に開け、これを交互にやってく。景気付けにウインナーを在るだけ全部フライパンに放り込む。火を点けてコロコロ転がすと、少しずつウインナーから油が出て、ちりちりとその身が焼けていった。少し経つとちりちりはじゅうじゅうに、で、最後はばぁーばぁー、だかそんな感じに。だんだん楽しくなってきた。俺は中華料理屋のコックみたいにフライパンを前後に振る。テンションが上がって大声で「アジアの純真」を歌う。
結局、深夜まで一人で狂喜乱舞。暴飲暴食。配偶者とガキは帰って来なかった。メールの一つもしてやらない。はぁ、と溜息をつきリビングの窓から外を見る。暖かくなってきたとは言え、夜はまだ寒い。この分じゃ、桜なんてまだまだ咲かねぇよ。
ステレオでアジアン・カンフー・ジェネレーションを流す。俺は床に寝転がりリビングの天井を見てそれを聴いた。
単位をちゃんと取って大学を出たのに、結局、俺の行き着く場所なんてどこにもなさそうだった。単位の無い世界、卒業、終わりの無い世界。昔はそんなものの事、全く考えなかった。
今俺がいるのはそんな世界だった。
配偶者とガキが出てった数日後、俺は再び東京出張だった。朝早くの東海道新幹線に乗る。
今日は向こうで部長と落ち合う予定だった。最近昇進したばかりのイケイケ部長。「部長」という響きだけでビール三杯くらいはいっちゃいそうなくらいその響きに酔ってた。
ま、でも俺としては上司はそれくらいイケイケの方がありがたかった。がんがん進んでくれるから、俺は一歩後ろでそれを見ていられる。ありがたい。
こんな日に限って季節外れの大雪だった。新幹線は米原で一時停止。窓の外を見ると、子供の頃、日本昔話で見たみたいな雪景色だった。白銀、美しく、とりあえず此れを写メに収める。写メ、配偶者に送ろうか、とも思ったが、思い直し、ナルナールに送った。
意外と早くナルナールから返信。うわぁ、すっげぇ、雪。とのこと。うん、そりゃ見たら分かる。返信はしなかった。
東京についても雪が凄かった。ほとんど吹雪やん、これ。なんて思いコートの襟を立てる。が、無力な春物。RPGで出会う最初の敵みたいにコートはあっさりやられる。春の雪って、三島じゃねぇぞ、この野郎。
降りしきる雪の中、傘も持たずに走るカップルとすれ違った。彼女の方はもふもふのマフラーを首に巻き、男は厚手のピーコートだった。しっかりと二人手を繋いでいた。ええこっちゃ。それにしても寒い。足先から少しずつ身体が凍っていくようだった。もう多分、膝くらいまで凍ってる。あれやな。なんか、青雉みたいやな。ヒエヒエだわ。
目に付いたスターバックスでホットコーヒーを飲んで「雪、止まねえかなぁー」なんて思って外の景色を眺めていたが、一向に降り止む気配はなかった。街は白かった。純白と言ってもいいだろう。白かった。俺、生きて故郷に帰れるのだろうか。
待ち合わせ通りの時間に部長と合流。部長はまずは俺のコートを見て驚いた。
「お前、そのコートはあかんやろ。ペラペラやん」
「これ、春物なんで。失敗しました」
「あかんなぁ、お前。天気予報くらい見な」
と、言う部長は厚手のロングコートにマフラー、手袋。完全武装と言ってもいい格好だった。多分ちゃんと天気予報を見たのだろう。
「じゃ、行きますか?」
「うん、あんな。てかさ、俺、ちょっとニンニク臭くない? 口、大丈夫?」
「はぁ、別に大丈夫やと思いますよ。どうしたんですか?」
「いや、東京着いてラーメン食べてな。ついついニンニクのせてもうたんよー、これがさぁ」
「あ、そういう事ですか。でも全然臭わないですよ。大丈夫ですよ」
「うーん、いや、あんだけのせて臭わんのはおかしい。お前、ちょっと鼻悪ない?」
「いや、言われた事ないですけど……」
「ちょっと今日はあかんわ。俺、なるべく口閉じとくわな」
「はぁ……」
俺の知る限り人間は口を開かないと喋れない。あ、いや。腹話術師ならいけるか。となると今日は俺が腹話術人形て事? 否。部長はきっと腹話術なんて器用な事はできない。
結局、その日はほとんど俺が話した。イケイケ部長は口をつぐみ、途中何度も頷いた。頷きだけはイケイケだった。外に出てもう一度嗅いだが、やはりニンニク臭くなどない。何だかなぁ。
打ち合わせが終わってから一人、雪の中を山手線で池袋まで足を伸ばした。
サンシャインの近くにある大型ブックオフで何冊か本を買い、安居酒屋で酒を二、三杯やって手持ちのアイポッドで音楽を聴いた。
俺は音楽が好きだ。
だって音楽は光だ。光そのものだ。バンプオブチキンの音楽はなぜあんなに輝かしい光を放てるのだろう? キャロル・キングの音楽はなぜあんなに切ないのだろう? クラムボンの音楽はなぜあんなに温かいのだろう? たくさんのなぜ? が頭を過る。
ドゥービー・ブラザーズのホワット・ア・フール・ビリーブスのピ、ピ、ピッ、ピッ、ピだったり、ドナルド・フェイゲンの雨に歩けばのテー、テ、テ、テー、テー、テー、テ、テ、テ、テーだったりが好き。本当に好き。
しかしやたらと女の子のバイトが多い店だな。さっきから入って来る子、入って来る子、みんなバイトの子だ。しかも皆、なかなかの上玉ときている。「おはようございまーす」なんつって言って挨拶してるから間違いない。普通の客ならもう夜だし、そんな事は言わないだろう。黙って何人、てのを指で示したりするだけだ。
ビールより単価の安い、やくざな焼酎に切り替えて酒盛りを続ける。やくざな焼酎はアルコールそのものの味がした。世紀末みたいな味。酔った。
音楽が甘ーく、頭に浸透してくる。酔いのおかげでそれはいつもより深く、深く、俺の中に入ってきた。ちらちらと可愛い女の子達を見る。たまらんね。芸術と女。それ以外に楽しい事なんてこの世にあるのかな? 俺の人生にあるんかいな? なんて思う。
そんな事を考えていたらじゃがバターのバターがすっかり溶けていた。ドロッドロに溶けていた。
お気に入りの屯ちんラーメンで締めた後、さぁ、どうしようかなぁ、なんて考えてたら急にむらむらしてきた。むらむらと。多分、さっきのきゃぴきゃぴ居酒屋バイト女子達のせいだ。急に街中の女子達の突っ張った乳達がやたら目に付く。くうっ。えーい、こうなったら、ソープランドにでも沈んでやろうと、地下を潜り池袋の西側へ移動する。
西池袋の街をうろうろ。ソープの看板をちらちら。その中でも気に入った店に入り待ち時間の確認や値段交渉をしてみるが、どうも俺のニーズと合致しない。またしても、まいったなぁ。なんて呟いてみて、妥協に妥協を重ねて結局リーズナブルな「人妻専門」のソープへ足を踏み入れる(ほんとかよ)ま、ここなら直ぐに入れるだろ、なんて思い。
いかにも胡散臭い階段で地下へ下り、安っぽいぴこぴこ音に迎えられる。受付にはこれまた胡散臭そうな男。タキシード。口元には髭。
「いらっしゃいませ」
「あの、一人なんやけど」
「現在待ち時間が一時間半程度ございますが」
「えっ、一時間半も?」
「ええ、一時間半」
なんてこった。こんな胡散臭そうな「人妻専門」のソープでも一時間半も待ち時間があるのか。どうかしてる。池袋どうかしてるよ。
しょんぼりして再びエロを求め西池袋を闊歩していると、ポケットに配偶者から着信。こんなタイミングで。
「もしもし」
「もしもし、あ、今大丈夫?」
「あぁ、うん。大丈夫」
てめぇ、何日も家を空けていながら大丈夫もクソもないだろ、と思ったが何も言わない。
「なんか騒がしいなぁ。どこにいるの?」
「ん、今、池袋」
「あ、東京に行ってたんや。出張?」
「うん。で、何?」
「さーちゃんが全然泣き止まないのよ。鼻も相変わらずずるずるだし。こんな事今までなかったから心配で……」
さーちゃんとはうちのガキの名だ。思えばさっきから電話の向こうでびー、びーとガキの泣き声が聞こえる。
「そか。どれくらい前からなの?」
「一時間くらい前かな」
「一時間前か」
ちょうど俺がソープ街を闊歩しだした頃じゃねぇか。
「分かった。時間はかかるけど、とりあえず帰るよ」
「そうしてくれる? お願いね」
「うん、じゃまた」
「また」
結局、抜けずのソープ街を後にして俺はJR池袋駅の改札まで戻る。残念、無念。
改札の近くでわらび餅の店があった。わらび餅は配偶者の好物。せっかくだから手土産にしよう、と名案。
「これ、どれくらい日持ちします?」
「んー、あんまり持たないですねぇ」
「あ、そう。今から新幹線に三時間くらい乗るんやけど、大丈夫かな?」
「それくらいは大丈夫だと思いますよ」
「ほな、一パックくださいな」
「あいよっ」
店員さんがわらび餅を包んでくれているのをぼーっと見る。何だか職人気質な店員さんだった。すると急に、
「お客さん、どこまで帰るんですか?」
「大阪だよ」
「大阪かぁ! 僕も昔、大阪で働いてたんですよ。上新庄で」
「あ、そうなの。上新庄、知ってます。知ってます」
「お、お客さん、じゃ、あれだ。トリシマポンプ、知ってます?」
「えー、あ、まぁ。知ってますけど」
「おぉー、嬉しいなぁ」
そう言って満面の笑みでわらび餅を差し出してくる。
トリシマポンプ、酉島製作所は大阪府、高槻市に本社を置く公共用・産業用ポンプを主に取り扱っている企業だ。俺はたまたま昔付き合っていた女がその工場の近くに住んでいたから知っていたが、大阪人なら皆、トリシマポンプを知っていて当たり前なのだろうか? どーなんだろ。なんて思っていたら、また、配偶者から着信。
「もしもし」
「あ、もしもし。さーちゃん、泣き止んだわ。んで、寝た。今。なんか大丈夫みたい」
「あ、そう。なら良かったけど」
「ほいじゃーね」
「うん」
とりあえず良かった。
はぁ。日持ちのしないわらび餅を抱え、JR池袋駅改札。大丈夫なのかぁ、良かった、良かったー、ほな、改めて一発抜きに行きますかぁー、ともいかない。もう、諦めて山手線に乗り込む。故郷へ続く新幹線を目指す。トリシマポンプの待つ故郷へ。
気分が晴れないので新幹線のトイレでエックス・ヴィデオで一発抜いてやった。電波が悪くて、動画がしきりに止まる。非常に見辛かった。
週末のカラッと晴れた天気の中、二階のバルコニーに洗濯物を干す。順番に。かつ、落とさないよう、慎重に。
バルコニーの向こうに一羽の蝶が飛んでいた。俺は年甲斐もなく、捕まえたい、なんて思いバルコニーから身を乗り出して蝶に手を伸ばす。その時、ちょうど、一台の車が軒先きに停まった。車種はビーエム。ナルナールだ。
「よぅ」
「おう。何だよ突然」
「近くまできたからさ。おるかなって思って」
「そうか。今降りる。上がってけよ」
俺は一階まで降りて玄関を開ける。ナルナールをリビングに通し、粗茶を一杯。俺にも一杯。
久しぶりやな、なんて。お互いちょっと老けたみたいだった。それにまたちょっと恰幅もよくなってる。
「よくここが分かったなぁ」
「お前、この前メールで住所言うてたやん」
「あれ、そうやっけ」
「そうだよ。今日、奥さんと子供は?」
「いねぇ。二人で友達の家に遊びに行った」
「そかそか。なんだ、てっきりまた愛想つかして出てったんかと思ったよ」
「馬鹿やろ。そんなんもうないよ」
と、誤魔化す。二人が一時帰って来なかったのは、つい先週の話だ。
「すげぇなぁ。戸建。買ったん?」
「買った。まぁー、俺等もええ歳やからね」
「せやなぁ。俺は転勤族やからなかなか家買うって気にはならんわ」
「あー、それも辛いなぁ」
なんて話して小一時間。ちゃんとした話は最初だけで、後は誰それが最近どうだ、なんて噂話や、先週のサザエさん見た? とか、村上春樹の新作は文庫本になるまで待つ、とか、やっぱ焼酎よりビールやぁーなぁー、なんて話して。だらだら休暇の午前中を浪費した。
唐突に奴は、
「じゃ、俺。そろそろ帰るわ」
「おう」
いったい此奴は何しに来たんだ、なんて思いながらも軒先きまで奴を送る。件のビーエムは近くで見ると写真よりもずっと大きく見えた。
「すげぇ車やね」
「だろ?」
「うん。高かったんやない?」
「そりゃー、お前。ビーエムやで」
「うん」
本当に大きい。七人は乗れるのではないか。と、思い後部座席を覗き込むとチャイルドシートが一つ設置されていた。そう言えばナルナールの家にも去年子供が生まれたんやった。
この車なら、あの大学二回生の春の夜のメンバー、皆んなで酒飲んでボーリングをしたメンバー、みんなナルナールの車に乗れるんじゃないかと思った。でも駄目だ。まず、ナルナールの奥さんと子供、それでもう三人だ。あの夜のメンバーはナルナールを除いて五人だから乗り切れない。それに今ではみんな、それぞれに家族がいる。俺だってそうだ。時が経ち、またも俺達はナルナールの車に乗れ切れない。
みんな、七人乗りの大型車でも乗り切れないものを抱えて生きている。単位のない世界の中で毎日、黙々と。でもそれを恥ずかし気もなく幸せと呼んでしまっても良い気がする、なぁ。
バイバイ、なんつってナルナールを見送った後、洗濯物を干している途中だった事を思い出す。俺はバルコニーに戻り、再び慎重に洗濯物を干した。全部干し終わると不思議と誇らし気な気持ちになった。
バルコニーに揺れる、俺のだるだるのボクサーブリーフ、その横につるりとした配偶者のパンティ、またその横に小さな真っ白いガキのパンツ。ゆらゆらと。向こうには澄み切った青。
俺はそれを眺めて冷蔵庫から取ってきた缶ビールを一杯やる。
桜、まだ咲かねぇかな、なんて思いながら。