春のような日
付き合ってちょうど二年になる日はケーゴの卒業論文の提出締め切り日の一週間前で、私にとっては何でもない普通の火曜日だった。
私はいつもと変わらず地下鉄に揺られて出社して、来月には終わる今年度の数字を見直したり、お客さんのところに出来上がったばかりの製品見本を届けに行ったりしていた。
お昼。喫茶店で注文したランチを待っている時にケーゴから電話がかかってきた。読みかけていた青年誌を置いて電話に出る。
「もしもし、マイか?」
「うん。卒論はどーや?」
「頑張ってる。やっと終わりが見えてきたって感じ。ギリはギリやね」
「ふーん。今日は帰れるん?」
「いやー、それは多分無理」
「あ、そう」
「今から昼飯やねん」
「そう」
「マイはもう昼飯食べたんか?」
「今、注文して待ってるとこ」
「そうか。何食べるん?」
「別に。喫茶店の日替わりランチやで。普通の」
「そうか」
「うん」
「ええな」
「何がええな、よ。他に何か言う事は?」
「分かってるて。今日で二年、おめでとう。これからもよろしく」
おめでとうって何や。でも、ちゃんと覚えていた。絶対忘れてると思ってたのに。ちょっと意外だった。
「こちらこそ」
「卒論が終わったらあらためて飯でも行こうか」
「ありがとう」
「うん」
「あんた、風邪に気をつけや。毎日寒いから。研究室なんて特に寒いやろ」
「たくさん毛布かぶって寝てる。大丈夫や」
「そう」
「うん。じゃあまた連絡する」
「うん。また」
電話を切って再び青年誌を手に取ったが、すぐにウエイターさんが日替わりランチを運んで来てくれた。
ハンバーグと海老フライ、レタスとトマトのサラダ、あとスープとライス。今日の日替わりランチ。私はよくこの喫茶店をランチに利用する。
ケーゴは何を食べてるのだろう? あの様子だとおそらくまた学食だろう。安くてボリュームのある学食のランチ。食いしん坊なケーゴはそういうのが大好きだ。
窓の外を制服姿のままランチに出ていたOL達が足早に通り過ぎる。おそらく寒いのだろう。上着くらい着て出てきたらいいのに。真冬のオフィス街。代わり映えのしない。私の街だった。
私は今年で三十。
社会人八年目になる。一応上場企業のメーカーで営業の仕事をしており、いわゆるOL? もしくはキャリアウーマン? とりあえずそんな感じだった。仕事にもとうに慣れ、肩書きは主任。いつの間にか中間管理職という奴になっていた。
二年前から付き合っているケーゴは二十五歳。大学院生だった。一浪して大学に入り、そのまま同じ大学の大学院へ進学した。来週、卒業論文を書きあげれば春にはめでたく大学院を卒業する予定である。
ケーゴは元々、私の友達の弟だった。
ケーゴのお兄さんとは確か合コンか何かで知り合った。まぁ今思えば友達というほどの関係でもないのだが、少しチャラチャラした人で、知り合った頃、私は彼から結構なアプローチを受けていた。あれはもう三年くらい前だろうか。
当時は私も若かった。
ケーゴのお兄さん、名前はユウキと言う。ユウキは食べ方も汚いし、軽薄な性格。私は好きにはなれなかったのだけど、たまに食事に連れて行ってくれるし、まぁ良しとするかぁーなんて思っていた。今思えば厚かましい話だ。若さって怖い。
これはケーゴには内緒だが、一度だけ寝た事もあった。まぁそれはもう時効という事で、若気の至りという事で、そういう事にしておいてください。
でもそんなどっちつかずの私の態度を彼はどうやら「脈アリ」と捉えていたようだった。だから頻繁に連絡をしてきたし、プライベートな話題を持ち込んできたりもした。例えば、ケーゴの事とか。
「マイちゃんてさぁ。大学は理数系やったんやっけ?」
梅田の東通りにある居酒屋。私とユウキ、二人でお酒を飲んでいた。
「うん。工学部卒やで」
「そっか。大学院まで行ったん?」
「ううん。院へは行かんかってん。やから学部卒。何で?」
「いや、弟がさ」
「弟?」
「弟。今大学生で三回生なんやけど、大学院に進学するかどうか迷っててな。マイちゃん一回相談乗ったってくれへん?」
「私が? なんで私?」
「だって俺、文系やったし大学院何て考えた事も無かったから、弟が何を悩んでるんかよう分からんねん。家族も同じような感じでどうすればいいか分からんくなっててな。で、マイちゃん理数系やったんやろ。同じような道進んできた人なら弟の悩みも分かるかなぁって思って。それにうちの弟も工学部やし」
「でも私? そういうのは大学の就職課とかに相談した方がいいんちゃうん?」
「ま、そうなんかもしれんけどさ。一回話だけでも聞いてやってよ」
「うーん。どーしようかなぁ」
なんてあまり乗り気じゃないリアクションをしていたのだが、内心、断るつもりは無かった。だってちょっと楽しそうだったから。
少ししてユウキが私と弟、ケーゴを会わせる場をセッティングした。
二十四時間オープンのファミレス。私は仕事がなかなか片付かず、約束の時間を大幅に過ぎてしまい、やっと着いた頃には時刻はもう二十二時半を回っていた。店内に人は疎らで、私が入ったらユウキがすぐに気づいた。手を挙げて合図する。
「マイちゃん、こっち」
「すっかり遅くなっちゃって……ごめんなさい」
「いーよ。いーよ。これ、俺の弟」
「ケーゴです。初めまして」
隣に座るケーゴが律儀に頭を下げる。眼鏡をかけて真面目そうな男だな、というのが第一印象。ケーゴは中肉中背の身体に大人びたパリッとした黒のポロシャツを着ていた。あまり似合っていなかった。背伸びしているみたいで何だか少し可愛いかった。
「あ、初めまして。マイです」
「すいません。わざわざ来ていただいて」
「いいえ。全然大丈夫ですよ。大学院、進学するかどうか迷ってるの?」
「あ、はい……就職した方がいいかなとも思ってて」
「そうかぁ。何で迷ってるの?」
「正直に言ってみろよ」
と、ユウキが横から口を挟む。
「何でって言われると……マイさんは何で大学院に行かず就職されたんですか?」
ケーゴは少し話しづらそうだった。
「私は……良いタイミングで今の会社から内定をもらえたからかな。大学院まで行って研究したい事も特別なかったし」
「そうですか」
「でも大抵の友達は大学院に進学してたで。みんな行くから何となく行くって人も多かったと思うけどね」
「行けばええやん。大学院」
ユウキがまた口を挟む。何となくケーゴに進学してほしいと思っているみたいだった。
「何が引っかかってるん?」
「うーん。引っかかっていると言うか……」
「ケーゴ、はっきり話せよ。マイちゃんもせっかく来てくれてるんやから」
その時、テーブルの上に置いてあったユウキの携帯が震えた。ユウキは画面を見ると、露骨にしまった、という顔をした。電話を手に慌てて外に出て行く。
私とケーゴはそうして二人になってしまったのだが、ケーゴは特に何も喋らないし、私も特別話す事もないので、仕方なくドリンクバーで取ってきたコーヒーを飲んでいた。無性にお腹が空いた。よく考えたらもう二十三時近いのに昼から何も食べていないのだ。
「ねぇ、何か食べてもいい?」
「あ、どうぞ」
「あなたは? 夕飯は食べたの?」
「いや、実は僕も食べそこなっちゃって。食べてないんですよ」
そう言ってケーゴが軽く、苦笑いを浮かべる。
「そうなん? じゃ何か軽く食べようや。でもこの時間やからねぇ。あんまり食べると太ってまうなぁー。このポテトなんてどう?」
「いいですね。食べましょ」
ポテトを注文してしばらくするとユウキが戻ってきた。仕事のトラブルか何かだろうか苦い表情をしていた。
「ごめん。ちょっとさ、行かなきゃいけなくなっちゃって。悪いんやけど、後は二人で話してくれる?」
「あ、そう。何よ。大丈夫?」
「んー。まぁ大丈夫、大丈夫。ケーゴ、しっかり話聞いとけよ」
「分かった」
そう言ってユウキは幾らかお金を置いてそそくさと店を出て行った。その入れ替わりでポテトが来る。お腹が空いていた私達はぱくぱくとそれを食べた。
「で、あなた、どうするの? 大学院は」
「本当はね、行きたいんですよ」
「あら、じゃ行けばいいやん」
「でもお金がかかるから」
「ま、それはそうやけど」
「うち、親父が早くに亡くなって。俺、母親と兄貴に何とか大学行かせてもらってるような状況で。理数系やから学費も高いし。そのうえ大学院まで行きたいなんて言うたらバチ当たるかなって思ってて」
「だから進学するか迷ってたのね」
「そう」
「まぁ……家庭の事情やからね、簡単には言えないけど、お兄さんは多分あなたに大学院へ行ってほしいと思ってるよ」
「そうかなぁ」
「そうよ。だからこうして私まで呼んだんじゃない」
「うーん。まぁそれは確かになぁ」
「向こうがその気ならさ、行けばいいじゃない。大学院、行きたいんやろ?」
「行きたい」
「ね、仕事なんてその後の人生で嫌になるほどできるんやから。それに引き換え、青春は今だけよ。青春は」
「青春……」
ケーゴが不思議そうな顔をするので私は恥ずかしくなった。いらん事を言ってしまった。青春て! 何やねん! こら!
「とにかく、自分の思いに正直になれ。と言う事よ。私が言いたいのは」
「そうかぁ」
「そうよ」
と、言って私はまたポテトをつまむ。
「ね、マイさんって兄貴の彼女なん?」
「まさか。ちゃうよ」
「そうやんね。何かそんな気がした」
私があまりにもはっきり言うものだからケーゴは笑った。
「兄貴、ちょっとチャラいもんなぁ」
「そうね。でもあなたの話聞いてたらちょっと見直したかな。弟想いの良いお兄さんじゃない」
「あ、もしかしてちょっと惚れた?」
「いーや。まったく。安心して、あなたのお義姉さんになることはまずないから」
「マイさんって面白いなぁ」
そう言ってケーゴはまた笑う。
結局その日は何だかんだと話をして、気がついたらもう午前二時だった。電車もなくなり、外に出ると夏の夜のむんわりした空気が私達を包んだ。虫の声、車の音。
「あなた、どうやって帰るの?」
「歩いて帰ります。そんなに遠くないんで」
「そう」
「ケーゴです」
「え?」
「あなた、じゃなくてケーゴでいいです」
「あ、そう。うん、分かった」
「マイさんは? どうやって帰るの?」
「私はタクシーかなぁ」
「すいません。遅くまで」
「いいのよ。適当に捕まえて帰るから。気にしないで」
しばらくそこで二人してタクシーを待つ。五分後くらいに一台のタクシーが通りかかり、私は乗り込んだ。ドアを閉め、半分くらい窓を開ける。
「今日は本当にありがとうございます」
「いえ、いえ。こちらこそ大した事も言えないでごめんね」
「あの、マイさん……俺、大学院に行ってみます。兄貴に頼んでみる。頑張ってみます」
「そう。うん、それが良いよ」
タクシーの運転手さんは早く車を出したそうだった。だから私は軽く手を上げさよならな合図をして、窓を閉めようとした。
「あの」
「え?」
ケーゴの声に驚いて閉まりかけた窓が動きを止める。
「また会えます?」
「え、うん。そうやね。会えるよ。多分」
真っ直ぐなケーゴに私は柄にもなくどきどきした。少女みたいに。お酒を飲んだ後みたいに顔が少し赤くなった。ケーゴや運転手さんにそれを気付かれていないか気になった。
ゆっくりと国道をタクシーが走り出す。
そうして私達は別れた。カーステレオからは流行りの新人バンドのヒットソング。ピカピカな音色。あー、あー。こりゃあ、売れるわ。
これからどんどん暑くなる、まだ夏の入り口だった。
その後、ケーゴは大学院に無事合格した。多分、なんて言ったけど私達は当然のようにまた会った。初めて会った日のようにファミレスで話したり、電話で話したり。仕事の合間にメールだってした。
付き合い始めたのはケーゴが大学を卒業する直前。シンプルに「好きやから付き合ってほしい」と言われた。だから私もシンプルに「よろしくお願いします」と言った。
私は当時二十八歳。周りの女の子はだんだん結婚していき、早い子はもう子供も産んでいた。学生の彼氏なんて聞いた事なかった。でも私はそんな事、全然気にならなかった。
ケーゴとの交際は学生時代のようだった。
食事はファミレスだったり、週末には水族館へ行ったり、同い年くらいの男の子がしてくれるデートとは少し違った。新鮮だった。聞かなかったが、あまりお金もなかったのだろう。
プレゼントに指輪をくれた。薬指につけるやつだ。これも新鮮だった。でも会社につけていくのはちょっと恥ずかしかったし、社会人として何か違うな、と思い休日だけつけていた。
するとケーゴが珍しく怒った。
「なんで平日は指輪つけてくれへんの?」
「いやー、会社につけていくのは何となくね、やめとこうと思って」
「あかんの?」
「別にあかんくはないんやろうけど」
「ほな、なんで?」
「なんでと言われると……困るんやけど」
結局ケーゴはその日中、機嫌が悪かった。直接怒鳴ったり、そんなんはなかったけど。ゴロゴロと遠雷を眺めているようにくすぶるものがあった。
私は何も言わなかったが、その時初めてケーゴとの距離を感じた。私は大人でケーゴはまだ子供なのだ。
付き合い始めて半年くらい経った頃、ユウキが急に結婚した。
私はケーゴからその事を聞いて、あぁ、そうなんだー、程度にしか思っていなかったのだけど、ある日営業中に偶然ユウキに会った。
軽く挨拶だけして別れようかとも思ったのだが、久しぶりだったし何となく喫茶店に入った。
「結婚したんやって? おめでとう」
「ありがとう」
「奥さんはどんな人なん?」
「ん、一つ上の人」
「あ、歳上なんや。へー、それはそれは。良かったやん」
「うん、ちょっとおっかないけどな」
「そうなんや」
私は少し笑った。もしかしたらあの日、ケーゴと初めて会った日、電話をかけてきたのはその奥さんなのかもしれないな。私はそう思った。
「てかマイちゃん、今ケーゴの奴と付き合ってるんやってな。驚いたよ」
「あぁ。そうなんよ」
「なんでまたケーゴ? 俺のアプローチには全然応えてくれんかったのにー」
ユウキが自虐的に笑う。
「ふん。ケーゴの方が全然いい男だよ。それにあんたどうせあの頃から別に彼女いたんやろ」
「それにしてもケーゴかー。今付き合ってどれくらいなん?」
「半年かな」
「もうそんな経つんや」
「うん」
「あいつ多分初めてやで」
「どうかな?」
私ももしかしてそうではないかと思ってはいた。
「子供やろ?」
「え?」
「あいつまだまだ子供やろ? 学生やし、マイちゃんもだいぶ待たなあかんなぁ」
ぴしっ、と私の中で稲光が一本。
分かっていた事ではあるが、だからこそ他人に言われると腹が立つ。
ユウキのその言葉は痛かった。冬の霜焼けみたいにずっとヒリヒリ痛かった。
そんなこんなで私達は互いの距離を意識しつつもゆっくりと歩いていた。そして二年。
寒い日が続く。
あの昼の電話から四日経つがケーゴは一度も家に帰って来ない。それどころか連絡すらない。
提出までの追い込みを頑張っているのだろう、と頭では分かっていてもやはりちょっとシャクだ。どーにもフトした時にいらいらしてしまう。大人気なく。メールの一通くらい送ってこいや、なんて。
そんな事を思っているうちに週末が来た。
私は朝から部屋の掃除と洗濯をした。ケーゴと私、二人で住む部屋。半年前から一緒に住みだした。ケーゴの収入は少ないバイト代だけだったが、私の勤め先からの家賃補助もあり贅沢はできないが、何とか生活しているという感じだった。しかしそれで全然不満はなかった。私もケーゴも元々無駄遣いをしないタイプだったし、身軽な生活は楽しかった。
一緒に住みだしてから少しして、ケーゴの卒論制作が本格化してきた。目に見えて帰りが遅くなり、研究室に泊まる事も増えてきた。そして年を越した頃にはもはや家に帰るよりも研究室に泊まる事の方が多くなっていた。
たまりきった洗濯物を振り分けもせず、面倒くさくなって一気に洗濯機に入れてみる。
スイッチを押すと、水が流れて、やがてぐるぐると回りだす。様々な洗濯物達が絡まりあってぐるぐる。全部私の服だった。一人でぐるぐる。私、ぐるぐる。しばらくそれを黙って見ていた。
寒空の下に洗濯物を干したら手が氷みたいに冷たくなった。天気はいいのだが、気温は恐ろしく低い。この分じゃ夕方まで干しても洗濯物はきちんと乾ききらないだろう。寒いと洗濯物は冷たくなって、乾いているのか乾いていないのか判断しにくい。触ってみても冷たいなぁ、くらいしか思わないのだ。
「ケーゴ、まだ帰ってこないのかなぁー」
洗濯物を干し終えて部屋に戻り、誰もいないリビングで一人言ってみる。
「早く会いたいなぁー」
見えない誰かに呼びかけるようになおも言ってみる。もちろん返事はない。あたりは静かで、辛うじて遠くを走るバイクの音が聞こえてくるくらいだった。窓の外に見える何か知らない工場の煙突からも、今日は煙が出ていない。
土曜日の昼、異常なくらい寂しかった。
こりゃーいかんね。なんて思い、出掛けてみようと服を着替える事にした。鏡の前に立って、このコートにこのスカートはないなとか、ジーパンの色が気に入らないなとか、ニット帽からの前髪の出し方とか、いろいろ考えてみる。
そんなこんなで、私という着せ替え人形が完成するまで一時間くらいかかった。やっとこさ玄関まで辿り着き、靴も決めた時、初めて行きたい場所なんてどこもない事に気付いた。靴を履いたまましばらく立ち尽くし、考えてみたがやはりどこも浮かばない。
でもまぁ、外に出たら何とかなるだろう、なんて思い家を出てみたが、外はとにかく寒い。冬真っ盛り。くそう。春はまだか! なんて心の中で叫んでみる。すると、春はまだだよー、なんて北風が冷ややかな返事を律儀に返してくれた。けっきょく私は近所のスーパーでビールを一パックとタイムセールの卵を買って家に帰った。
やがて夕闇が来て、部屋が徐々に暗くなる。私はよそ行きに着飾った格好のままで買って来たばかりのビールを一人飲んだ。土曜日が終わる。私の土曜日が。
今日に限って、ものすごく夜になるのが嫌だった。
特別な理由なんてないけど、いや、実はあるのかもしれないけど。私はそれに気づけない。不安な夜は誰にでもある。何かで読んだ言葉だ。私もそう思う。
やっぱりケーゴのせいだ。
あいつが帰って来ないからこうなったんだ。帰ってきたら思いっきり引っ叩いてやりたい。多分、ケーゴはえ? なんで? 的な顔をするだろう。そして私はそんな顔気付かないフリで反対の頬も打つのだ。
思えば私はずっとケーゴの事を待っている。研究室から帰るケーゴを待っている。そしてケーゴが大人になるのをずっと待っている。まるでただ春を待つ起き抜けの雌熊のように。
ビールをぐびぐび飲んだ。次から次に。買ってきたビールはもうあと一本しか残っていない。お酒はそこまで強くない。思考がぐるぐると回る。洗濯機の中の洗濯物みたいに。ぐるぐると。
ビールを飲みきったら途端に眠たくなった。でもベッドまで行く元気はない。仕方がないから足を折り、脱ぎ散らかしていたコートにすっぽりと包まれた。暖かい。私、本当に熊みたいだ。そして眠る。
迷路みたいな道を歩いてケーゴの名前を呼んでいた。
思考みたいに、洗濯機の中みたいにぐるぐるな迷路の道。ずっとケーゴの名前を呼んでいた。曲がり角を曲がると、偶然、北風に会った。その忌々しい顔を見るとむかっとした。無視しようかとも思ったが癪だから、春はまだか! 私は足を止めて叫んだ。
北風は少し迷惑そうな顔をしたが、何も返事をしなかった。何も言わずに私を避けて通り過ぎて行った。勝った。そう思うと無意識に笑んでいた。なんか、性格悪いな、私。
でもまだ寒かった。コートの襟を立てて、防寒。でも大丈夫。やがて寒いのも終わる。そう思いながら歩みを進めると、不思議と寂しい気持ちが軽くなってきた。こうやって春を待つのも、何だか悪くないな。
「何してんの?」
ケーゴの声で目が覚めた。いつものリビングだった。いつの間にか辺りはもう明るい。しばらくぶりのケーゴが目の前にいた。
「ケーゴ……」
「何やねん。こんなとこで寝て。風邪引くぞ。まったく、人には風邪に気をつけろなんて言っておいて」
私はゆっくりと上半身だけ起き上がった。少し頭が痛かった。むっ、と顔をしかめる。
「まったく。大丈夫かよ? あー、こんなにビール飲んで」
と、言ってケーゴは私が飲み散らかした空き缶を拾い集めた。
「今何時?」
「ん、十時半」
「そう。ケーゴ、卒論は?」
「今朝終わった!」
「うそ、終わったん?」
「うん。最後頑張ったからな。だから思ってたよりちょっと早く終われた」
「良かった」
「うん。これでちゃんと卒業できる」
一仕事終えた後のケーゴは妙に大人びて見えた。対して会いたくてぐるぐるしていた私は子供みたいで恥ずかしかった。
「ほんと。良かった」
「ありがとう」
「卒業かぁ。いよいよやな」
「ほんまに。何だかえらい時間かかった気がするわ」
「頑張ってたもんね」
実際ケーゴは本当に頑張って勉強していた。私の大学時代なんかとは比べ物にならないくらいに。
「卒業したらさ。もう、すぐにでも結婚しようや」
ケーゴがしれっとそんな事を言うから驚いた。
「結婚て! いきなり過ぎるやろ。そんな焦らんでも。ほんま、びっくりするわー」
「えー、そうかな」
「そうや。ゆっくりでええよ。ゆっくりで」
「せやかてマイももう三十やろ? 俺ももう社会人やで」
「大丈夫。ゆっくり行こう。慌てなくてもそのうち春は来るわ」
「そうか」
ケーゴはにっ、と笑った。人が見たら恋人にプロポーズを断られた危機的状況でもあるのに呑気な事だ。そんな事、まるで気付いていない。
「なぁ、マイ。腹減った」
「あぁ、そうね。ごめん、でも冷蔵庫の中何もないねん。ちょっとスーパーまで行ってくるわ」
「あー。じゃ、俺も一緒に行く」
「うん」
そうして二人で外へ出た。驚いた事に昨日とはうって変わって暖かかった。昨日までの寒さが嘘みたいだった。
「何だか今日は暖かいなぁ」
「うん。今日はなんか春並みに暖かいねんて。昨日天気予報で言ってた。でも長くは続かないみたいやで。明後日からはまた寒いらしい。あ、でも来週はまたちょっと暖かくなるらしいなぁ。よく分からんわ」
ケーゴが太陽の陽に顔をちょっとしかめて言う。並んで歩く私達。
「そうやって段々暖かくなっていくのよ」
「そういうもんか」
「そういうもんや。ゆっくり行きましょ」
私はケーゴの指にそっと触れた。
曲がり角を曲がったらすぐにスーパーがある。
遠くに煙突の煙、真っ青な空を少しずつ汚してる。ぽかぽかと暖かい空気。春のような日、雲みたいに流れて。