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そよ風がサラサラと頬を撫でてゆく。
過ぎ行く風は、オレの肌だけでなく、周辺のすべてをそっと薙いでいる。
サラサラという擬音を使うような印象を持ったのは、きっと風が草を揺らす音のせいだ。
他に音は無い。
少なくとも、ぼやけた頭で認識できるほどの音は。
ぼやけているのは、ついさっきまで気を失っていたからだろう。
まぶたがやけに重い。
手足も上手く動かせない。
サラサラと鳴り続けている音も、若干途切れ途切れに聞こえている。
ちょっとずつ、思い出してきた。
オレは、女神アフルディーヌ様の導きにより、異世界へと転生してきた。
背中の感触から判断するに、今はおそらく、草原かどこかに仰向けで横たわっている状態だと考えられる。
まぶたを上げることができていない状態のため、絶対にそうだとは言い切れないけど。
目が開けられていないのも、耳がまだ完全に音を捉え切れていないのも、起き上がったりできないのも、異世界への転移における副作用に違いない。
とはいえ、思考はそれなりに巡り始めてきている。
もうしばらく、このままそよ風に身を委ねていれば、周囲を確認するくらいの余裕はできるはずだ。
というか、そうでなければ困る。
異世界に転生したけど、動くこともできず、数日後、見事に餓死しました。
そんなことになったら、オレの華麗な転生物語がものの一行で終わってしまう。
まずはポジティブな考えにでも浸ってみよう。
草原で倒れている。
物語のスタートとしては、結構ありふれたシチュエーションだ。
そうだな。きっとこのあと、誰かに声をかけられる。
――大丈夫?
この場合、声をかけてくるのは女の子だろう。
物語のヒロイン。優しくてとても可愛い子に違いない。
その後、少しずつ仲良くなっていって、そして最終的には恋人になるとか……。
妄想に意識を支配され始めた頃。
オレの思っていたとおりの展開が訪れた。
「あの……だいじょうぶ……? ……ところで……たら、風邪をひ……よ?」
まだ耳の状態が不安定なようで、ところどころ聞き取れなかったけど。
何を言われているかはほぼ完全に理解できる。
(あの……大丈夫ですか? こんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ?)
途切れた言葉を補完すると、おそらくこうなるに違いない。
しかも、可愛らしい女の子の声。
ヒロインキターーーー! と叫びたくなる場面と言えよう。
「……ぅ……ぁ……」
口を動かしてみようとするも、まともに声は出ない。
まだダメなのか。
無論、腕を上げて大丈夫だと合図を送るとか、どさくさに紛れてヒロインちゃんを抱き寄せてしまうとか、そんなことができるはずもない。
オレの手足は、いまだにピクリとも動かせていないのだから。
「あ……寝ていたわけ……ない……ね。でも、無理しな……いい……よ?
見たところ、ケガとか……いみたいだし、少し休……きっと動けるようになる……。
私、ここで見守ってる……。だから安心……横になっていていい……よ?」
そう言って、彼女はオレの頭の辺りに手を置き、そっと撫でてくれた。
軽く触れただけだから、温もりまで伝わってきたわけではなかったけど。
彼女の優しい気持ちは充分以上にオレの全身を包み込んだ。
お言葉に甘えて、もう少し休んでおこう。
せめて喋れるようにならないと、ヒロインちゃんとの意志疎通もできやしない。
そよ風と彼女の温もりに守られながら、オレの意識は再び、まどろみの世界へと沈んでいった。
ちょっと眠りすぎたかもしれない。
それならそれで構わないだろう。
その場合、また別のシチュエーションの可能性もある。
女の子が寝坊した主人公を起こしてくれる、お約束イベントだ。
「そろそろ起きて……。このまま……すぐに暗くなっちゃ………よ?」
ヒロインちゃんが起こしてくれている声が聞こえてきた。
声はかなり近い位置から響いている。顔を近づけて、そっと語りかけてくれているのだろう。
朝じゃなくて夜が近づいてきている時間帯だという違いはあるけど、オレが望んだとおりの展開、といったところか
しまった。これならいっそ、膝枕してもらっている状況での目覚めを望めばよかった。
「ん……う~ん……」
声は一応出ているし、指先も動かせている。
まだ仰向けで寝転がっている状態ではあるけど、この感じなら体も動かせそうだ。
そんなオレに、彼女は明るく声をかけてくれる。
「あっ、気がついた……? よかった! 置いていくわけにはいかないし、困ってた……」
まだ耳は微妙に聞こえづらい瞬間があるものの、だいぶ回復している感じがある。
もしくはこの世界の空気に慣れてきた、と表現するべきなのか。
ともかく、まずは状況をしっかりと認識する必要がある。
オレはゆっくりとまぶたを開けてみた。
背景は広大な青空。まだ暗くなり始める前くらいの時間帯だろうか。
それはいい。
ただ、その手前に見える色に問題がある。
それは――。
緑。
正確に言えば、深緑になるだろうか。
そんな色の物体が、オレの眼前に覆いかぶさっていた。
「おはよう! 大丈夫? 痛いところはないゴブ?」
――ゴブ?
目を凝らして、よ~く確認してみる。
緑色の物体。
それはさっきから声をかけてきてくれているヒロインちゃんだった。
緑色の肌で、長い耳を持った、小柄な生物。
というか、モンスター。
ゲームなんかでは、最初の頃にザコ敵として登場することも多い。
記憶を失くしているはずなのに、こういった知識はスラスラと出てくる。
「んん? どうしたゴブ? 私の顔に、なにかついてるゴブ?」
首をかしげる仕草も声も、可愛らしいのに。
姿はゴブリン――。
ヒロインちゃんは、ゴブリンだったのだ。
「ゴブリン~~~~~~っ!?」
思わず叫び声が口から飛び出していく。
目の前のゴブリンは、突然の大声に目を丸くしている。
ならば、今がチャンスか?
このゴブリン、オレを気遣って優しく接してくれているように見せてはいた。
でも実は、生きのいい状態で取って食おうとしているのかもしれない。
そう考えると、大きめの瞳の奥にどす黒いオーラが宿っているとしか思えなくなってしまう。
ゴブリンはザコモンスター。
そんなイメージがあるにはある。
とはいえ、それは強い冒険者たちにとってのこと。
普通の村や町の人からしてみれば脅威となる存在なのは、たいていどんな物語やゲームでも共通認識と言えるだろう。
オレは異世界に転生してきた身だから、こんなゴブリンなんかに負けはしない。
そう思いたいところだけど、現状を総合的に考えれば、『オレは強い』という結論に達することは、どんな計算式を用いたとしても不可能だ。
ついさっきまで気絶していて目を覚ましたばかり。
手足もまだ満足に動かせない。
声は出るようになった。でも、耳は少しおかしいまま。
加えて、武器などがあるはずもない。すなわち、丸腰。
ヒノキの棒と布の服だけで冒険に出た勇者よりも弱っちい状態なのは、火を見るより明らかだ。
……魔法で火でも発生させられれば、勝てないまでも追い払うことくらいはできるのでは。
などと考えてはみたものの、当然ながらそんな能力があるはずもない。
もし仮に潜在能力的な何かがあったとしても、誰かに教えてもらうなどしなければ、その引き出し方だってわからない。
つまり――。
絶体絶命!
最終的に、オレはそう結論づけた。
に……逃げないと!
オレは素早く立ち上が……ろうとしたのだけど。
まだ本調子でない体は、脳の指令どおりには動いてくれなかった。
それどころか、急激に腕や足を動かそうとしたからだろうか、一瞬にして視界が真っ白く塗りつぶされていく。
やばい!
そう思った次の瞬間、オレの意識は凄まじい勢いで遠くなっていった。
消えゆく視界の中、大きく口を開けたゴブリンがさらに近づいてくるのを目撃する。
できればひと思いに食い殺してほしい。
オレはそう願いながら、力なく目を閉じた。