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BOYごっこ~透明な少年少女の不器用な愛の物語~

作者: ムラカワアオイ

全ての美しきティーンエージャーへ。

「ツトム、許してやれよ。もう、充分だろうが。なぁ、なぁ」

ここにはオレの同級生が幾人かいる。オレはバス停の前で、『彼女』と呼んでいる女の頬を叩いている。 しかし、オレはこの数分の間、「謝れ」以外、一言も言葉を発していない。オレが、暴行を働いている女がオレの瞳を一向に見ようとしないのは、あたりまえの事なのであろう。目を強引に瞑っている。オレを止める声がうるさく鬱陶しい。


 オレが今、暴行を働いている女、千春。彼女とは高校の入学式で知り合い、その次の日には学校前のトイレで性行為を交わしている。右目に紺色の車を一台確認。先程からオレの暴行の妨げをしている彼等の保護者が乗る車だと思うのであるが。確か正月に日の出を見に連れて行ってもらった時に乗った車だ。ハゲに付け加え髭の濃い輩が車のドアを開けた。オレの体は無言の背負い投げを受ける。空地一瞬にひっくり返り後頭部をポストの柱に強打。赤レンガに血溜りが五つ。唾を一度、地に吐き投げ掛け、彼女の姿は視界内から完全に消えた。待てよ。まだ意思を伝達出来ていない。思いに反して、オレの記憶が途絶えた。きっと、お袋がいつまでも眠り刻っている自分の為に行ったお節介であろう。ゆっくりと痛みと共に蛍光灯の白く目障りな光で目が覚める。目覚まし時計には十二時三十二分の表示がある。昼。カレンダーにはオレと千春の写真が多数の押しピンで飾られてある。それはキラキラできれいであって。


推測を止める事が出来ない。しかし、的確な答えが出ない。暴力。自ら喧嘩を売る行為がどれだけ無意味な事なのか。誰の周りにも無意味なモノが多すぎる。親父の話しがいい例である。レスラーを夢見ていた彼のレスリング談話は夜遅くまで続く。中二の時にはもう飽きたと言ったのに、いまだ週に三度は必ず実行される。お袋はワイドショーを眺める事は毎日欠かさないが近所に友達がいない。オレが幼い頃から父母は喧嘩を続け、オレが暴威を止めに入るとどちらかに殴られる。しかし、彼等の仲直りが早いので不満はない。高校生になったオレは自分の尺にあわせて生きるようになった。オレを取り巻く暴力の原因。これは誰のせいなのか。千春ひとりが要因ではない。目に映るかぎりではオレと彼女が異性であり恋愛をしているからなのだ。だけど何故なのだろう。肝心な時に彼女へ本意が伝わらない。混沌がいつも胸の中にあって言葉で彼女に警告をしても完全に伝える事が出来ない。優しさ、温もり、など球体の様にこの体を包んでいるモノをオレは粉々に忘れて暴力で壊してしまう。二人の恋や愛が不器用に形成されているかぎり、オレと彼女の事情は多くの人から特殊に見えるのであろう。頭痛しかない。今掛け布団を用意すると嫌な擬音。部屋のドアが開き親父の小声が耳につく。

「こら。学校から電話があった。今日は日曜日だ。いい加減にしろよ、馬鹿者が」

オレは大きな疲れにより成り立つ心地の悪い溜息を吐き、彼に答える。

「そうか。オレ、寝るわ」

ドアが大きな音と共に閉まる。額の真ん中に刺激が走る。千春が学校側に話したのであろう。三日間の休みが出来る事が予想される。数学の追試が気掛りなるのであるが、また、すぐに元の生活へ戻る事が出来る。本試験後、最初の連休だ。それに私生活でも遣る瀬無い思いを感じた。蛍光灯のスイッチを切って睡眠に勤しむ。


 一日に二度起きる。こんな自分を少しは恥じたほうが良いのだろうか。ビデオの時計はPM五時四十七分。この時計は約三分間、日本時間から遅れており毎度キッカリ合わせようとするのだが面倒臭く実行しない。トイレにて小便を納めて腹が減る。階段をガタガタと下りて、茶の間に座りテレビをつける。3チャンネルでは残念ながらCM。そのままオレは台所のお袋の元へ。「飯は」お袋は黙って晩飯を作っている。いつもなら「もう少し」だとか「すぐに出来るから」と、時間経過で晩飯時を伝えてくれるのであるが、今日は嫌な事でもあったのか沈黙を守る。コンロの炎が赤かった。「何とか言えよ」発言をしないお袋に対して怒りを表している。お袋は何も言わず、味噌汁を作っている。しかし、何故だろう。お袋は口を利かない。オレは大声で喚いた。

「何でなんにも言わないんだよ、いい加減にしろ」

オレに反するお袋は相も変わらずこちらを見ないでいる。すると親父が玄関から走り出し包容力をアピールする。

「ツトム。わかった。わかったから怒らないでくれ」

オレの肩を親父四十八歳の掌が強く押さえるのである。するともう一人の声が玄関から洩れる様に聞こえる。正直に驚くオレ、十六歳。

「あの、お邪魔してよろしいですか」

女の声である。親父は玄関方向に振り返り、

「今、行きますから」

声の主である女を誘導しようとしている。

「どうぞどうぞ、狭い家ですけれども」

印象良く連れてきた。親父の笑顔には偽りが存在していて。

「この人、誰」

 その女は年にして二十代後半。二重瞼に大きな口、鼻が小さく、白く大きな歯。オレは三毛猫を連想した。猫女は勢いを重視してバタバタと鞄の中から名刺を見つけ「ハイ」と笑顔でオレに手渡す。

「はじめまして、私、フリーティーチャーの安原真由美と云います」

右手を猫女が華奢な両手で優しく握る。

「一緒に頑張ろうね。早く社会に復帰しましょうね」

 これは満面の笑みなのであろうか。オレには何がなんだか、全く意味がわからない。安原さんを茶の間に通したのは親父である。例によって母とオレの順でテーブルを囲み三人を着席させた親父は黙々と言うのだ。

「ツトム。実はな、お前はもう、学校へは行けない」

親父のぎこちない話の真相が少しずつ見えて来る。

「お前が来年好きな高校を選んで受験するとしてだな、その間、お前を面倒を見てくれる人がここにいる安原さんだ」

 やはり昨日の事なのであろう。その安原さんが事実を話し始める。 

「君達の起こした暴行事件が学校側に伝わったのね。山本千春さんとその両親が校長先生に君の事を全部話して、職員会議が行われたの。そこで出た結果が無期停学か自主退学の選択なの。それでね、私が国から派遣されたツトム君の担当スタッフなの。ツトム君が、来年の春にもう一度受験をするのであれば勉強を教えるし、もし働く事になるのなら、社会復帰を応援する。こういった形で君を助けたいの」

 嫌な予感は的を獲た。ともかくオレは自主退学。オレは学校をクビになってしまった。


「林檎の木をココに描いてくれるかな」

 猫女、安原さんの持ってきた画用紙に言われたまま林檎の木を描いている。クレパスである。黄土色でもって幹を描くのだが何の為にこの行為をしているのかオレには、よくわからない。実際のところ猫女はオレの右腕辺りをじろじろと見ている。見られているなら仕方がない。クレパスでなるだけ大きく実を描いた。

「これ何の意味があるの」

「ツトム君の心理状態を探っているのね」

「これで何がわかるの」

「林檎の実が大きい人はエゴが強いの」

「オレ、強いじゃん」

「強いね」

「それって良い事なの」

「人それぞれだね」

「何か、林檎の木に意味があるの」

「ちゃんとあるよ」

「じゃあ言ってよ」

「まずは幹が太いよね。これは家族愛の象徴。それと枝が十本もある。これは健康の象徴」

「ちょっと待ってよ。これだけで」

「三食、きちんと食べさせてもらっているでしょ。時間だってある。布団もある。お風呂もある。服もある。贅沢だねえ」

「言われてみたらそうだなあ」

 オレはそう言って缶コーラを飲んだ。そう云えば幸せだな。でも幸せって何だ。学校のデブ川の事を思い出した。本名は知らないけれど肥満児なんだ。登校したら、まず食堂でコーラを三杯飲む。給食を食ったところで物足りないのであろうか、コンビニ弁当をニコニコと微笑みを浮かべて食べている。毎日の様に車関連の本を持参して彼の取り巻き共とスポーツカー会議。付け加え女生徒の多くが彼に寄って来る。彼はきっと幸せなのであろうな。

 俺は三日に一度、約二時間は安原と時を共にする。学校を辞めてから一度も千春と会う事はない。オレは千春の事を意識していない。とっくに忘れてしまっている。むしろどうだっていい。彼女に情けを感じるキャパシティがオレの心の中では消えた。カレンダーに貼ってあった写真は粉々に破ってトイレに流した。


両親と安原さんの加護の下、今のオレは自分だけの時間を過ごす事が出来るのである。そして明日は安原さんと初外出なのだ。ドライブがてら楽しい場所へ行くとの事。楽しみの前振りよりオレは口笛を吹いて床に就く。お気に入りのお笑いタレントが司会するラジオ番組を聴いている。

『ハイチョップスのシングルトップチェック』

と題したコーナーがあるのだが、中身はいたってシンプル。毎週のCD売り上げチャートトップ20にランクインしているアーチストの中で誰の音楽がやっつけ仕事を行っているのか。これをリスナー投票で順位を決める偽悪なものである。彼等の毒舌に笑うが、もう、今、いいところなのによ、うるさい。鬱陶しくも家の黒電話がリンリンと鳴るのである。誰もリンリンに出るわけでなし。仕方なく受話器を取る。

「はい、斎藤です」

声を作り対応するが結果がこれ。

「死ネ」

の一言。オレの額の具合が悪くなる。この行為が二十回以上に及ぶ頃になると番組も終了した。オレは怒る。もう出てやるものかと思いつつ呼び出し音を停めなければ眠れない。右手が受話器を取ってしまう。いい加減にしろ。卑怯者が。

「夜中にうるせえんだよ。 何の用だ」

「オマエダロ、山本千春ヲ犯シタノハ」

窓ガラスにうっすら映る自分の右目を何故だか確認してしまう。

「もう、電話してくんな、オナニー野郎が」

受話器を叩き付けて黙る。自らの事を頭の中で確認してしまう。頭はもっと回転する。狂いそうだ。大声あげて発狂してしまいそうだ。明日、オレは安原と遊びに行く。何とか、自分を制御しなくては。キッチンで蛇口を回す手が震えている。薬箱から頭痛薬を取り出す手も震えている。自分を冷やさなければ眠れない。


「いいとこに連れて行ってあげる」

「いいとこってどこ」

「ツトムが喜ぶところ」

何時からだろう。オレは彼女を、「ヤスハラ」と呼び、彼女はオレを「ツトム」と呼ぶようになった。車が走り出すのは良いのだが彼女は昨年末取得したばかりの免許証を自慢する身分であり、心地の良い助手席ではないのが事実。国道を西へと向かう初心者とオレは弾む会話もないのであるが、一個人としては段々と不思議な気分になって行く。

「で、どこ行くの」

「いいところ。絶対、ツトムが喜ぶ場所」

「ふうん」

この会話から大きな交差点を三つ過ぎると日常から異なる建物の前に車が停まったのである。助手席の扉を開ける。弱った。立眩みである。三階建ての高い屋根。建物すべてが黄色。建物の一番上には時計台があり、その下には「I。M。Free!」黒と赤のスプレーで刻まれている。圧倒してしまう。自らの口が自然にぱっくりと開いてしまう事に驚き。

「ここだよ」

「これなに」

彼女は、オレが産まれて来てから初めて知る単語を言った。

「フリースクール」

 玄関。安原が黄色いドアを開けて見えたモノはボロイ。景色は殺風景なのである。穴だらけのソファーが目立つ。テレビが3台。自分と同世代だと思われる男女が6人いて会話を弾ませていた。安原が「おはよう」と言うと若者の中で一番体格の大きな男が飼い犬の様に寄って来る。その男は言う。

「ねぇねぇ、き、きの、きのうのデビルデンジャーマン。知ってる」

「あーごめん、観てなかった」

先程からおかしいと思う事が一つ、男は瞬きをしない。ここは、何処なのだ。

「きのうね、あくのせんたいがね、に、日本中のニンゲンを、クローンにね、しちゃってね、そのあとね、デビルデンジャーがね、かっ、かつやくしてね、日本はね、元にもどったの。ねぇねぇ、ほんとおにク、クローンているらしいね。安原さんのクローンももも」

「いるかどうかわからないけどまた後で話を聞くからね。お客さんがいるから、ちょっとだけ待ってね」

その男はオレに一度目をやり、「うん。それだぁでぇー」まさに言葉を持った犬の様な日本語でニコニコと笑っている。一歩二歩、殺風景の中へと歩き出す二人。少年少女達にじろじろと見られる。それは他人に注目される快感に似ているのではあるが、彼の事が気になるので聞いてみる。

「あの人、ちょっと変な人」

「ちょっとね。現実が嫌になっちゃって架空の世界に憧れを持っているの。昔は頭も良くてあんな事を一言も言わなかったのに。ツトムより年上なんだよ、二十歳」

オレより年上、現実逃避、成人、現実が嫌。

「ある意味幸せなのかもね」彼女に軽く言ってみると、「そうかもね」

フリースクールの短い廊下でオレ達の会話が行われている事が不思議な空間をもっと不思議に仕立ててしまう。みしみしと音が鳴る階段には落書きが一段一段スプレーで刻まれている。次に出会った男もこれまた大柄な男であった。しかし、こちらの中年男性には気品が見受けられるのだ。

「紹介しておくわ。この人、ここの校長の大八木さん」

鏡に向かいネクタイを締めている男は紳士である。これまで見てきた校長と呼ばれる人間と違うところがある。「はじめまして」象のように誰もが注目してしまうような瞳を持つ彼は、オレの両目を見て挨拶をくれた。オレもオレなりに挨拶というものをしなくてはいけないと思いつつも不可能なのである。何も言葉が出てこない。彼の温かい振る舞いにはすまぬが会釈だけで済ませてしまった。

 安原はフリースクールの全室を案内してくれた。少しずつここの黄色に染まるオレの脳裏が嬉しかった。オレの価値観。それを揺るがしたのが「バンド部屋」であった。生のバンド演奏を聞いてしまったのである。曲名が如何せん出てこないが、何処かで聞いた事のある曲を四人の男達が演奏している光景を、見てしまったのだ。彼等は皆、どこかオレと同じ様。特にギターの男は瞳一つにしても危なく今にも殴られそうな勢いで演奏をしている。この事がオレを決心させた。バンド演奏の中で安原は、

「ツトム、ココに来る」

瞳を見て言った。オレの生き方が変わってしまうのかもしれない。素直に答える。

「うん」

オレはフリースクール「S・S・C」のメンバーとなる。オレが心から囲まれたいと思うものを初めて自分の気持ちを重視して選択する事が出来た。


「きょうしたばしーきょうしたばしです」

 自宅がある京下橋から、S・S・Cのある京道まで電車に揺られる夏。S・S・Cに通いはじめて約一ヶ月。黄色い環境と雰囲気には慣れてきた。オレを縛るものは退屈以外に何もない。この一ヶ月で仲良くなったのはデビルデンジャーマンの森下、アッチャン、瞳が狂い咲き状態のギターリスト高橋、それと二十三歳パチプロの川本さん、の四人である。

特に川本さんとは仲良くしてもらい、オレの家にもよく遊びに来てくれて、夜中、小音にて彼のロックンロール講座を楽しむのである。

彼と初めて会話をしたのは入学三日目。オレが暇そうにソファーに座っていると、

「お茶でも飲みに行こうよ」

外へと誘ってくれた。オレは他に何もする事がないので彼についていく事にしたんだ。徒歩三十秒。S・S・Cの裏側。黄色い玄関から隠れた格好になっている喫茶店に彼はオレを連れ出した。

「君、いくつなの」

「十六です」

「若いっていいね」

「川本さんも若いんでしょう」

「はは、オレはもう二十三だもん」

 こんな具合に話がお互い心の奥へと進むのである。彼がここに来た理由はオレと大きく違い、どういう訳か「日本」という国を否定しているらしい。しかし、「反抗」を始めるのにはどうすればいい。けど仲間がいない。人と話すのは苦手だ。世の中は恐い。地球には嘘しかない。この様に考えているうちにノイローゼを患ってしまい彼の両親がここに連れてきたところ、すっかりこの空気にはまってしまった今年で六年目のベテランであるとの事。オレは女に暴行を働いて学校をクビになった事実を彼には素直に説明出来なかった。

「何故、S・S・Cに来たの」

嘘で答えた。

「本当に学校が嫌になっちゃってね。登校拒否をしてたんですよ。それで中退」

喫茶店のクーラーは効き過ぎていて寒い初夏だった。それからの俺は毎日のようにS・S・Cに通っている。まあ、ここの皆とそこそこ上手くやっているのは確かな事だ。

「きょうみちーきょうみちでーす」

 改札を出て徒歩する事十五分。黄色い扉を開ける。登校はいつも昼過ぎ。黄色い扉を開けると黒い長髪を美しく保つ黒い服を着ている青い目の女が一人。「見学」と聞いてみる。女は「見学」と答えた。ガムを噛む、女の顔は、見る角度より形を変えている。多面性を持つ顔。女はこちらに一度目を合わせてすぐさま背を向ける。二階からスタッフ、『新衛門香山健一郎』が現れた。この男、失言による失速が多くロングヘアーをポニーテールで結んでいる事から新衛門とミドルネームがついた。彼は広告求人公募でスタッフに応募し見事、大八木さんの太刀持ちとして活躍している三十二歳元本職家庭教師独身男性なのだ。新衛門は、

「ツトム君、おはようございます。江川さん、面接を始めましょうか」

黒い女を二階へと即座に連れ去ったのであった。思い出す事、一つ。『単三電池を買って来い』親父に頼まれていたのだ。靴を履き、コンビニへと歩く。

帰って来るといつものソファーの前に大八木さんが立っている。いつ見ても大きな人だ。

「ツトム、おはよう。ちょっと話すか」

 週に一度、『スタッフ面談』と呼ばれる、自分にとっては心地の悪い三十分間がある。「はい、わかりました」オレは校長についていくのだ。二階には狭い部屋が三部屋あり、その一部屋の中には、学校机が静かに二つ、置かれてある。大八木さんが押入れから学校椅子を二つ用意した。

「まぁ、ちょっと座ってくれよ」

彼はぎこちない笑顔で言って、二人は椅子に座る。

「ツトム。 これからもここに居てくれるか」

え。何。どういう事だ。いつもと何かが違う。

「はい」

彼はネクタイを解き。それをズボンのポケットにクシャクシャとしまった。

「お前に話しておく事がある。冷静に聞いてくれ」

そう、言うと彼は机の上で右手と左手を組む。

「例の山本千春さんとのトラブルについての事だ」

背筋が震える音で心が壊れはじめる事を確認してしまう。

「実は山本さんの両親がここに電話を掛けてきた」

オレは頷く事も出来ないでいる馬鹿なガキであり最低な男である。

「お前の両親と話をするよりも、お前本人と話しがしたいと言ってきた」

自分勝手。心臓が狭くなっていく。目の前の机ごと窓の外に放り投げてこの流れを壊してしまいたい。逃げたいのだ。この臆病者が。オレは卑怯だ。

「それでだ。オレからはツトム本人がまだ落ち着いていないので会話を避けて欲しい。そう言ったんだ」

少しではあるが震えが落ち着く。でもブルブルと、手足が言う。


「事実を話す。彼女の体に赤ちゃんは出来ない」


 頭がモヤモヤとし一瞬、気を失う。部屋のドアを開けて出て行こうとするオレの身体の全てが止まらない。出て行く。もうここから出て行きたい。たくさんだ。 大八木さんは強い。逃げるオレの腕を掴んで丁寧に言葉をくれる。

「ツトム、もう山本さんとは会わないな」

だらだらと落ちる涙をぼろぼろと拭きながら頷く事が、唯一の選択肢。

「説明しなくてもわかるよな」

涙が落ち続ける事に変わりはない。「はい」と発音出来たかどうかはわからない。

「後の事はオレに任せろ。いいな」

彼の優しさというもので包容される。彼の大きな掌で背中をぽんと押され京下橋方面の電車に乗った。一番前の車両へと歩く間、何人の人々に涙を見られただろう。 窓の外を見ず窓に映った自分を見ている。電車を降り、途方に暮れた虚しさの中で生まれ育った街を歩く感覚。

その後は、自分の部屋を閉めきり、真っ暗の中で、酷い頭痛を造っていた。消えてしまいたい。オレの存在を現在も過去もなく消してしまいたい。布団を被り自分の指を痛みが走るまで噛んだ。血も出やしない。千春はあんなに傷だらけになっていたのに。逃げるオレは臆病者。


「ツトム。安原さんから電話だよ」

 お袋の声で夜になって起こされたのだ。彼女が電話をかけてくる事は時折ある。しかし今日の今日だ。「いないと言ってくれ」そう答える。お袋が部屋に入ってくる。いつものようにお袋は低く大きな声で「安原さんが今から来るって」またまたデカイ音を立てドアを強引に閉める。

 チャイムが鳴る。「お邪魔します」「はーい。いらっしゃい」小さな安原が上って来る。

「おっす。何か食べに行こうよ。今日はおごるよ。パチンコで勝っちゃった。二時間で五万だよ。五万円。川本君みたいにパチプロになろうかしら」

「行かない」

「それじゃあ、海へ行こうよ。今ね、京道港に外国船が来てるんだ。きれいだよ」

「行かない」

「ツトム、過去は過去でしょ。悩んだって、仕方ないじゃない。ね。後は大八木さんに任せて、今日は気分転換しようよ。ね」

混沌としている夜。オレは安原の目を見ず頷いた。電柱の横にいつもの車。その彼女の車には森下が大きく座っている。

「おぉーツトム君。今日ネ、カイ、カイジュウ戦隊ガーヂップ見てたんだ。そしたらネ、ツトム君がでていたよ。すごいネー、ツトム君。イエローヂップに会わせてよ」

 しかし、鬱陶しい奴。だけど、森下は色々と世話をしてくれる。S・S・Cでの人間関係であるとか、例の戦隊から学んだ教訓であるとか。応用を必要としない彼は基本的に優しい青年である。

「今度な」

ごまかして、助手席に身を置いた。オレは複雑な夜を見ていた。光るもの、動くもの。人間。

「もしもし、あっ、アッチャン、今、ツトムと一緒」

 アッチャンか。彼女はちょっとした事で不安になる繊細な心を持っていて、何かあると安原へと電話をかけてくる。その間もオレは夜をずっと見ていた。電話を終えた安原は少し、疲れた表情を見せた。

「アッチャンに何かあったの」

「あ、ちょっとね」

京道港に着くまでの安原の切り替えしは上手い。「そうだ、しりとりしようよ」なんて言い出して、「アリ」と言った。オレは頭の中で、リ、リ、リ、と探すのだがやはり「リンゴ」と答えてしまう。すると「ゴ、ゴンヂュラキック」と意味不明の森下。オレがすかさず、「それ、何なんだよ」と振り向き様に言うと後部座席の彼は、「エー、ツトム君だめだよぉ、空間いどう戦士ゴーンヂュラーン」と言って助手席を蹴った。安原は、「クでしょ、ク、ク、ク、車が傷むでしょ、森下君。駄目だよ」と冷静に言ってオレは更に「安原、それ面白くない」冷静に言い返すと「私は教育者です」そう言った彼女が滑稽でオレは助手席で笑いが止まらなくなった。安原の優しさと愛嬌が嬉しかった。 

「きれいでしょ。この船、イギリスから来たんだよ」

「イギリスか。日本からは遠いね」

「そうだね」

オレと彼女はきらきら光る船を見ている。夜と灯りが洗い流してくれた。悲しみ。暴力。記憶。黒い泥。洗い流して行く。


曖昧な関係。同じ年のアブナイギターリスト高橋は近頃オレによく愚痴を言う。

「何でバンドしてんだか、わけわかんなくなるよ。前田の奴よ、あいつ、またベース買ったんだよ。そんな金あるんだったら、ライブハウスに行く金にまわせよ」

毎度こんな調子である。前田という男はどこかの食品会社社長の次男で大金持ちの御子息である。高橋が率いるパンクバンド、『ポラロイドクラッカーズ』は曖昧な関係。

「皆、楽器なんぞに金かけてないでライブやったらどうよ。なぁ。とにかく家ん中で上手くてもお山の大将ってなもんだろ。だからライブがしてえんだよ」

 高橋のギターは確かに上手い。その他のメンバーもそこそこ、上手いと思うのだが、音楽素人のオレから見ても一番重要なもの、ノリがないのである。練習をチョコチョ拝見させてもらう事があるのだが残念ながら高橋しか目立っていない。

「お前にはまだ音楽っていう楽しみがあるからいいよ。オレを見てみろよ。朝から夕方までゲームと会話だよ。好きな事、出来んだから幸せ者だよ。お前は」

「そうだな。そりゃそうだ。でもな、でもだよ。うちの奴等だめだろ。見たらわかるだろ。恥ずかしそうに楽器をいじりやがって。だから、ライブをして場数を踏んでだなあ、オレはそういう音楽をしたい訳よ」

と、くる。高橋は病的に狂っている。その彼の爆発の行く先がボーカルをしている藤原だった。

「止めちまえ。この音痴が。お前が中途半端だから全体的にだなあ。音がダメになっちまうんだよ」

「この馬鹿。本気で悩め」

藤原を責める。彼は高橋の音楽に対する哲学に感動を憶えたらしく、看板ギターリストを心の師と仰いでいる。

「すみません。頑張ります。上手くなります」

同じ年の高橋を尊敬、崇拝している身なのである。高橋、曰く、その眼差しが曖昧であるらしい。


 江川、高橋、オレ、は三人で過ごす事が多くなった。江川の顔は所謂、美人である。目が大きく、鼻が高く、口も大きく、ついたあだ名がエリザベス。手振り身振りが多い彼女といると高橋もオレも手振り身振りを用いて会話をする事が多くなったのだ。この三人で食事をするのは牛丼屋「牛朗」毎度の様に三人は牛朗定食470円を食すのである。

「新衛門てさ、何であんなにえこひいきをするんだろう」

江川は指摘。答える高橋。食べるオレ。

「あいつ、いつも睨んでくるんだよ。それで何も言わないんだぜ。ただの欲求不満だよ」

オレも言ってみる事にした。

「この前さあ、二人でテレビ見てたんだよ。それでさ、いきなり言うんだよ。『ツトム君、僕っておかしい』それはおかしいと思ったんだけど『いや、そんな事、無いですよ、ごく普通です普通』そしたらいきなり怒り出して、『普通じゃ困るんだよ、僕は教育者なんだ。何が正しくて何が間違っているのかずっと考えているんだよ』いきなり出て行って二階にこもってさ。六法全書片手に下りてきて『ああすっきりした、ツトム君、僕は間違ってないね。正しい』って。困っちゃってさ、明らかにおかしいのに『そうですね』って言う事しか出来なくて」

 江川も言った。

「アッチャン達と喋っている時にいつもじろじろ見られるの、知ってる。アッチャンにさあ、必要以上なの」

高橋はやはり危ない目で言うのだ。

「スタッフであるという事を武器にして口説きたいんだろ」

「そうそう口説きたいの」

「そうか口説きたいのか」

 二杯目のお茶が来て、オレ達はS・S・Cへと徒歩で帰宅する。



 その出来事は起こってしまう。藤原が京道駅で倒れたというのだ。大八木さん達、S・S・Cのスタッフが、国立病院に呼ばれた。生徒達は、

「絶対に病院へは行くな」

大八木さんと約束を交わし昼時から静まり返ったムードの中にいた。オレは藤原よりも高橋の方が心配で、時折、爪を噛み動揺を隠し切れない彼の方が不安に見えてしまう。夏の暑さでより一層、この出来事が悪い方向へ向かっているような錯覚を覚える。夕方五時を過ぎた頃だ。大八木さんだけが帰ってきた。ボロボロソファーに座っている高橋を呼んだ彼は、そのまま二階へと彼を連れて行った。おかしい。しかし、時計が刻々と進む事に変わりはない。やがて、階段を降りてきた、高橋の瞳に元気はない。

「ツトム。帰るわ」

ぽつり、一言だけ残して外へと静かに消えていった。二階から大八木さんが茶色い封筒を三つ右手に持って降りてきた。そして彼は生徒全員をボロボロソファーのある定位置へと呼ぶ。生徒の数は、まばら。十五人ぐらいだろうか。森下だけは安原に連れられて外へといった。

「今日、藤原が駅で倒れた。もう知っている人もいると思うけど」

全員全部が静まり返っている。続く話し。

「藤原から話を聞いた。本人が病気であるとか、怪我をしたという事ではない。だけど彼が悩んでいたのは本当だ。高橋から相当の悪いプレッシャーを受けていたのは本当の事なんだ。高橋には少しの間、休んでもらう事にした。今後、皆の中で悩みがあったら、話しやすいスタッフに相談してくれ。悪い。今日は皆も帰ってくれ。悪い」

 彼は一度、頭を下げ、また二階へと消えていった。川本さんが追いかけるように二階へと行く。

仕方なくアッチャンに前田を含めた五人で京下橋方面の電車に乗る事にした。前田はどこか嬉しそうにも見える。オレがこの時点で思う事。悪を高橋とするなら目で見えない偽物の正義が勝ち、目で見える偽物の悪が倒れた。その何とも偽善な雰囲気が彼の表情から伝わってきたのだ。高橋の偽者にしか過ぎない前田は二駅目で電車を降りて行った。三番ホームでの彼は、

「考え過ぎるなよ」

前向きな表情で言った。「うん」と答える事は可能である。彼は大きく手を振った。


 その後はアッチャンに今の気持ちを伝える事にした。高橋は一人で今頃、何を思っているのだろう。あいつを思うと悲しくなって。

「高橋の気持ちがわかる気がするんだ。これが良い事なのか悪い事なのか、わからないけど。何か、虚しいんだ」

彼女は揺れる電車の中、頷いてくれて高橋を想うオレの気持ちを否定する事は一度もなかった。彼女の真剣な眼差しが頼りになった。家が近い二人は京下橋で電車を降りる。

「あんまり悩んじゃ駄目よ」

そういう彼女に頷き、手を振り、家路へとつく事しか出来ない。高橋とは、もう会えないのだろうか。寂しさと不安を感じながら玄関で靴を脱いだ。大きな溜め息が辺りを包む。


晩飯時にチャイムが鳴った。お袋が玄関へと行くと、彼の声が聞こえてオレも玄関へと赴く。川本さんの苦笑いがそこにはあった。

「徹夜になると思うけど、いいかな」

「いいですよ。何せ、暇なもんですから」

飯が先だ。彼と二人でテーブルを囲む。会話は昼の出来事へと自然に移り変わる。

「それで、藤原はどうなんですか」

「ちょっとした栄養失調だな。この何日か飯が食えなかったらしい」

「やっぱり、高橋のせいなの」

彼はオレから目をそらして言葉を選んだ。

「そうかもしれないな。かなりのストレスがあったらしい」

助手席に座る。軽四。小さいがまだ新しくきれいな車。川本さんの車は三日月が光る下、北へと進む。

「来週の火曜にライブがあるんだよ。良かったら観においでよ」

「はい。時間が合えば連絡します」

彼はベーシストである。彼のバンドは人気があって、ライブでは毎度の如く、客は満員である。この前のライブは凄かった。客は、男女年齢関係なしで裸になって踊りだす。しかし、彼は冷静にリズムを淡々と刻むベーシストなのであり、客の調子を見て選曲を行う、プロデューサー業をも兼ねている。彼がいないと彼等のバンドが成立しない。バンドのベースは彼、一人なのだ。

「川本さんは、あの、その、デビューとかしないんですか」

「話しが来たら考えるよ。でも今は無理。オレ不器用だしさ。皆が思う程、上手くないし」

即答。こんな川本さんがオレは好きだ。その後も彼との会話は続き、峠を二つ越えて静かな田舎町へと車は入って行った。小さな商店街での信号待ち。

「オレね、高橋の事をやっぱり」

「ツトムさ」

彼の響く声でオレの体は大きく揺れた。

「高橋の事で悩むのはわかるけど、もういいだろ。結果が出たんだから。それより自分の事を考えろよ。オレも来年にはS・S・C辞めようと思ってんだ。お前もお前でそろそろ何か考えたらどうだ」

信号は青に変わる。この数時間、オレは高橋の話をああでもない、こうでもない、と喋り続けている。

「そうですね」

 臆病に答える自分が嫌であった。その後は車の中ではFMの音しか聞こえない。彼は黙って運転を続ける。オレも何一つ言葉を発することなく、静かに外を見ているだけであって。

 二つの峠を帰っていく途中『大人の秘宝館』看板を見つけた。二人は赤青紫のネオンに対して、

「気分直しに入ってみるか」

「あっ、はい」

秘宝館を覗いてみる。駐車場から本物の大人のおもちゃが露出している。「いらっしゃいませ」センター分けの眼鏡の男がレジに座っている。奥には女性の姿がちらほらとあって髭面の中年男と手を繋いで品定めをしている。自分等二人も本能が宿っている限り、彼等と同じ様な行動をとるのである。

しかし、気付いてしまった。このペニスの働きが、あの日以来、ずっと止まっている事に。千春を殴り続けた、あの日からだ。これだけ多くの女の体を見てもそれが、反応しない。それどころか気分が悪くなり外へと走り出す。レジの男の「ありがとうございました」と同時に嘔吐した。フラフラと目が揺れる。「死ネ死ネ死ネ」の声が頭の中で渦を巻く。重い目眩。駐車場の自販機の前で仰向けに倒れた。そして、また嘔吐。何とかしなくては。ジーンズのポケットに小銭を見つけ冷えた烏龍茶を購入。一口だけ飲んで残りは地面に流した。体操座りになり、自販機のランプの前にオレがいる。立ち上がって、ふらふらと歩いては店内へとまた戻っていく。

「ちょっと眠いんで、車の中にいていいですか」

「あ、そう。もうちょっと、見てるから」

 そう言って彼はキーをオレの右手に手渡した。また、嘘を吐いた。助手席。一人。この何分かの間に起こった出来事について考える。体。裸。女。「死ネ死ネ死ネ」の声。千春。順々に思い出し倒れた。何処かがおかしい。窓の外を見ながら思った。暴れたいのだ。聞こえる。雑音のような、人の声のような。恐い。全てが恐い。混乱。運転席ドアの向こうからオレの支えが帰ってきてくれた。

「帰るか」

 彼の声で我に帰っていく脳裏。その後もオレは助手席で寝たふりをして、脳が考える事を言葉にして自分なりの答えを出したいのだがそういう訳にもいかない。我が家の前に車は停まる。

「起きろ。着いたぞ」

寝てもいないのに起きた振りをする自分。

「はい」

言葉と同時に嘘の欠伸と嘘の背伸びをした。車のドアを開け外に出る。

「今日は、ありがとうございました」

何事もなかった様に彼に笑顔で告げた。玄関のドアを開け、茶の間の時計は午前6時。そのまま階段を上り狭いトイレで再び嘔吐した。


 熟睡が色々な思いを埋めてくれる。暑い。早々に布団から出る。茶の間に向かい、お袋が出掛けて行った事を知る。誰もいない。そうだ。思い立った自分。世の中の仕組みを知っておく事も大事であろう。玄関の郵便受けに目をやる。あった。新聞である。それと同時に一枚の封筒を見つけた。親父宛に銀行からの書類。これも社会勉強の一つ。後で拝見するとしよう。新聞と一緒に家の中へ持ち込んだ。  茶の間に座る。新聞には訳の分からぬ政治の話や事件事故、有名歌舞伎役者が八十九歳で亡くなった。など色々な事が書かれてある。だけど残念。オレは十六歳の男である。定番になるのはテレビ欄だ。最近テレビはおろか、レコード屋、レンタルビデオ屋にも行っていない。テレビ欄には知らない名前が多くしらけてしまう。正直に飽きた。社会勉強を望んでしまう自分が手にした物は、

『京道信託銀行京道本店』

封筒であった。乱暴ではあるが指で封筒を切った。出てきた書類には親父の名前と山本治という名前が記されてあった。文章を読んでみる。

『いつも京道信託銀行京道本店を御利用して頂き有り難うございます。申し訳ございませんが、山本治様名義の口座振り込みにつきまして、五〇〇〇〇円の不足がございます。取り急ぎの入金よろしく御願い致します』

山本治。千春の親父だ。何故、オレの親父が何で五万も千春の親父に振り込んでいるんだ。おい、ちょっと待て。損害賠償。おい。本当に待て。オレの知らぬ間に。とにかく事実を知りたい。オレのせいで親父が入金しているのか。明細。七月、十五万円。八月、十八万八千円。これは何。確かに、山本治へと親父は入金している。オレは千春の体を駄目にした。その代償なのか。親父の携帯電話をダイヤルする。

「お客様の電話は、只今電波の届かない…」

待てって。本当の事を知りたい。大八木さんは知っているのか。しかし、聞けない。安原とて同じ。どういう事だ。わからない。しかし、完全に物事を理解したいオレはジーンズを履き、黒い靴下を履く。親父の会社に直接、本当の事を聞きに行こうとしている。玄関のドアを開け財布が右後ろのポケットに落ち着いている事を何故だか常に確認しながら駅へと走った。不安。金で解決。果たしてそういう事なのだろうか。千春。金。暴行。赤子の出来ない身体。改札口を潜り、西京道方面行き停車中の電車に乗った。扉が閉り西へと向かう。外の景色を見続けるように仕向けた。色んなものが見える。皆、動いている。やはり、全てのものは動作を止めない。自分もその中の一部である。いつまでも大八木さん達に依存は出来ない。

「にしきょうみちー、にしきょうみちです」

 扉が開くと同時に、多種多様な人達に紛れ、中央口へと走り出した。改札を過ぎ、駅前の横断歩道を過ぎ、親父の会社の前に着いた。受付嬢との問答。

「すみません。斉藤一の息子の斉藤ツトムというものです。父をお願いしたいのですが」受付嬢に目線を合わせて言った。

「どういった御用件でしょうか」

「身内の事で、母が父を呼んで来いと」

「少々お待ちください」

電話をかける受付嬢を確認して時計の針は二時五分。オレは茶色の革張りソファーに座って息を切らしている。嘘吐き。嘘を並べないと動けない自分自身に腹が立つ。親父はロビーへと息を切らし走って来た。

「何かあったのか」

「それはこっちのセリフだ。山本治」

オレは親父を睨む。その彼の表情は一変。眉毛の動きでよくわかる。

「外に出よう。本当の事を話すから」

真夏のオフィス街が親子を迎える。親父は駅前のファミリーレストランへ行こうと連れ出す。約二メートルの隙間は親父と息子の距離。

何も話せなかった。それが金の事であれ、他であれ、結局、原因は他の誰でもない、オレにあるのだから。千春を殴った事。消えない事実にオレは目付きを鋭くするばかりなのである。着席すると同時に会話がスタートする。

「山本治って、千春の親父だよな」

「そうだ」

「何であんなにデカイ金を毎月、支払ってる」

「治療費だ。千春さんの」

「馬鹿野郎。何であんなにデカイ金を。お前、騙されてんじゃないの」

コップの水を右肩中心にぶっかけられ、胸倉を掴まれ、顔を殴られた。

「お前こそ、バカヤローだ。何だその態度は。彼女の体に赤ちゃんが宿るようにと治療を続けてもらう金だ。かなり難しい手術に千春さんは挑戦するんだ。その為の金だ。結局、お前がまいた種だろうが。金の価値もわからないお前に、高いだ安いだが分かるか。コラ」

辺りの客はオレと親父の席に注目するのであるがそれも一時でありやがて元に戻る。壁に掛けてあるテレビにはオレと同世代のアイドルが歌っている。

「帰るわ」

 オレの暴力で傷ついた人。心と身体。皆の疲労の限界。親父、お袋、千春、千春の家族。多くの人達。オレは睡眠薬を買う。やっている事はわかっている。自慰。京道港で気付いた。ただ自慰。十二粒の睡眠薬を京道港で一気に飲んだ。頭の中で言葉が止め処なく流れ、結局この三文字に辿り着く。

「ちはる」

千春がこのオレの目の前に現れる事はもう、ないのであろう。暴力の代償。何もしたくない。オレが存在しなければ皆の笑顔はもっと増えたはずだ。皆の苦しみはもっと減ったはずだ。


ベンチで朝に気付き自動販売機で缶コーヒーを買って、よろよろと歩き出す。昼過ぎまで京道の街を何所へ行く訳でもなく歩き続けた。素直にS・S・Cに行けばいいものをオレは一人で歩き続け、電車に乗った。

 その声が耳に届いたのは数えて四駅目の事だった。聞き覚えのある数人の声。声の方に視線をやると高校でクラスは違っていたけど、はっきりと知っている何人かの顔がそこにはあった。オレは彼等から顔を隠し違う車両に移ろうとする。

「おい、あれツトムじゃねぇのか」

「あっ、そうだ。ツトムだ」

 名前も忘れた、その男が近づいて来て、ざらざらとした皮膚感でオレの胸倉を掴み、言う。

「おい、ツトム。お前、殺されたいのか」

「離せ」

オレはごつごつとした拳に少しの恐怖を覚え、それを下ろした。彼の口臭が鼻につく。

「もう、終わった事だ」

 その男から目線を反らした。男はオレの顔を強く睨んでいる。オレは彼の拳を胸倉から強引に外し、この車両を出て行った。

 後二駅。彼等はこっちの車両にはやって来ない。電車は進む事を止めない。

「きょうぐち、きょうぐちです」

後一駅。顔を隠すような格好で窓を眺めていると彼等の内の三人がホームへと消えて行くのを知る。一先ず気が抜け溜息を洩らし安堵する。

「きょうしたばしーきょうしたばしです」

 電車を降りる。二歩三歩と歩く中、突然、背中に痛みが走った。さっきの男だ。その後もオレは蹴り続けられホームの注目の的となる。男は言い続ける。

「千春はな、お前のせいで学校を辞めたんだ。オレはお前に恨みがある。死ね、こら、死ね、死ね」

 千春が学校を辞めた。

そして駅員がオレ達を止めに入る。その男は駅員をも殴り、線路を跨ぎ走り逃げて行く。

「大丈夫ですか」

駅員はオレを起き上がらせると「今、救急車を呼びますから」声の出ないオレを抱えて駅長室と書かれたドアを潜る。そしてカーテンを開け黒く硬いベッドにオレを寝かせた。

「救急車をお願いします。京下橋駅です。若い男性が喧嘩により負傷しています。喧嘩です。はい、はい。では、よろしくお願いします」


 千春の痛みというものはこれ以上のものなのだろうな。当たり前の事だけどオレの体は男の体で千春の体は女の体。痛い。体中が熱く腫れていく。首を振るこの頭の中は冷たくて。目の前には電車の音。『大丈夫です』言おうとするも声が出せない。悪戯電話の犯人を突き止めた。さっきの男だ。「死ネ死ネ死ネ」もういい。もう息の仕方なんて忘れてしまって結構だ。しかしここは社会である。救急車のサイレンが聞こえてきた。ベッドから担架に移される。不様に運ばれて行く身体。白と赤の救急車の中へ。呼吸器を口にはめられ、体の隅から隅を白衣の男にチェックされる。もう、どうでもいい。オレに生きる資格なんてない。

「京道国立病院救急室へ。血液型はRHプラスO型。出血がひどく、意識が途切れ途切れであります。外科、内科、どちらも至急、お願いします。どうぞ」


オレの目の前で繰り広げられている劣等的な出来事はどうしても、どうあがいても事実なのだ。疑問を抱いてみる。人間は、何かを得るために、誰かに優しく接し、何かに躊躇はするものの結局、自分に都合よく欲しいものを手に入れようとする。瞳の前の光景はオレの行き過ぎた行為により選んでしまった景色。これだけは理解出来ている。オレが目を覚ましたのは救急車で病院に運ばれた次の日の朝。起き上がってみると身体に痛みは無いのだが、キリキリと頭痛がする。見渡す。どうやら個室のようだ。ベッドの横には着替えとペットボトルのオレンジジュース。それとお袋。鼾を掻いて寝てやがる。

「動物という物は母体を見ると安堵感が沸き、リラックスする」

保健の授業で習った事を一通り思い出す。歩く音が聞こえてくる。ドアが開いた。安原がいる。彼女は小声で「歩ける」と言った。オレが頷くと彼女は手招きをしてオレを病室の外へと連れ出した。早朝の病院だ。二人は音を立てないようにと注意をはらいつつ階段を下りる。その途中に気付いた事二つ。オレの右腕と左腕そして腹にはそれぞれ包帯が捲かれている事。もう一つは前歯が一本無くなっている事。これらの違和感の中で安原の後ろを付いていった。病院の裏口を二人は小さく抜け出して駐車場へ出る。二人はそのまま車の座席へと移った。

「大丈夫。本当に心配したんだから」

「大袈裟に言うなよ。もう平気だって。まだ朝早いよ。何であんたがここにいるの」

「お父さんに呼ばれたの」

「何で」

ここで会話が途切れた。彼女はドリンクホルダーの烏龍茶をオレに手渡す。

「何で、安原が呼ばれたの」

「今、一番、信頼してる人って、誰」

二口飲んだ烏龍茶をドリンクホルダーに戻すだけで全身に痛みが走る。そして言った。

「いない」

何故。笑みを浮かべる彼女の顔は美しい。

「知らないでしょう」

「何を」

「昨日。ツトムが魘されている時ね、ずっと私の名前呼んでたんだよ。『ヤスハラ、ヤスハラ』って」

「嘘だろ」

「だって、本当だもん」

自然と顔が赤く熱くなってくる。切り返し、照れを隠してしまう。

「それがなんなの」

沈黙の間に欠伸と溜め息を一つずつの彼女。

「私に助けを求めても、いいんだよ。私の仕事は、ツトムを助ける事なんだから」

彼女の存在を隣に感じているのだが、外のごみ箱に集る猫を見てしまう。本当ならば彼女にありがとうだとか、いつもすまないだとか、労いの言葉を贈りたいのだが、どうも照れ臭くて出来ない。オレは相変わらず窓の外を見ている。それに今は前歯が無い。顔を見せるのにも抵抗がある。

「お父さんから大体の事は聞いたよ。墜ちるとこまで墜ちたね。これ以上ダメな事は起きないよ。全部、素直に話してくれるかな」

 やっと安原の瞳を見る事が出来た。そして銀行の書類の事、悪戯電話の事、電車の学生達の事、オレの身体の事、何もかもを話したんだ。安原は具体的にその時は、どう感じたの、どんな頭痛がするの、身体の反応は。メモを取りながら話を聞いてくれた。

「一つ聞いておきたい事があるの、いい」

「いいよ」

「あの日、何故、千春さんに暴力を振るったの」

犯した過ちを素直に話す事にした。

「千春に謝って欲しかったんだ」

安原の反応はいつもの通り柔らかく予想通り次の質問へと移る。

「喧嘩。それともツトムの気に障る様な事を彼女がしたの」

「あの日、クラスの仲間でサッカーを観に行ったんだ。千春と隣同士に座ってずっとサッカーを観てた。オレがトイレに行って帰って来た時…」

 言葉が止まった。ごみ箱に猫が集う。安原がオレの手を二度に分けて握って肌で感じられる優しい重圧をくれる。

「千春は、クラスメートの男とキスをしてた。そしてオレは男と千春を強引にサッカー場から連れ出して…。その後の記憶がなくて…。気が付けば、京下橋の駅前だった。それでオレは訳分かんなくなって。千春を殴り続けたんだ」

「今は何を感じているの」

「悪かったって、ただ、悪かったって」

「なぜ、千春さんがそんな行動にでたかわかる」

「オレから逃げたかったんだ」

いずれ、来るであろう悲しみに今、暮れている。悲しみを認める事を自分は、やっと、憶えたのである。

千春は別にオレの事を必要としていた訳ではない。安原に話して気が付いた。男であれば誰でも良かったのだろう。それにオレだってそうだ。入学式でたまたま見つけた女の顔と身体をたまたま好きになってしまっただけの事。二人のセックスごっこの代償は大きい。安原には言えなかったが、千春はセックスの時にオレを見ない。いつも、これで喧嘩になり、オレが暴力を使う。それに彼女が中年の男とも例のキスの男とも身体を合わせている事は承知していた。結局、彼女はオレより彼等を求めていたんだ。これらの背景を受け止められる包容力がオレにあれば事は変化していただろう。


九月のS・S・Cはまだ暑い。クーラーは水漏れで故障。オレは日陰で缶コーラ。オレが退院してから何日だ。いち、に、さん、よん、ご、五日だ。指折り数えて五日。今日がS・S・C復帰一日目、三週間も入院した。季節は何時の間にやら九月。八月はベッドで本格的マッサージと三食、昼寝付きの生活。嗚呼、暇だ。こう頭の中に数字ばかり出てくると数学の出来ない脳が頭痛を起こす。他に行く所も無いのであって、結局S・S・Cの黄色い扉を開けてしまう事しか出来ない。

「ねぇ、外の方が涼しいって。この中、すごく、暑いよ」

「そうだよね。暑いよね。新しいクーラーまだなんですか」

アッチャンが尋ねると安原は答えた。

「すぐに涼しくなるから、ねっ。我慢してよ。最近S・S・C赤字なんだからね。ガマン、ガマン」

 病院での三週間、安原は土日も含めて毎日、見舞いに来てくれた。時には朝から夜まで傍にいてくれる事もあった。彼女からはたくさんのものを貰った。それは目に見えるものであったり目に見えないものであったり。しかし、オレは機械ではない。脳は千春の記憶を完全に忘れてはくれない。親父に問い詰めて彼女が学校を辞めた事は本当だと聞いた。それと同時に彼女と会って喋ってみたいと思う様になったのだ。幾度か電話をしようと受話器を持った。しかし、ダイヤルが出来ない。このまま彼女に会わずに日々を送って行く事だけはしたくない。

エリザベス江川が笑っている。ビデオを観ているのだ。

「おう、久しぶり」

「退院、退院、良かったね」

「お前、何、観てんの」

「去年の運動会のビデオ」

「何で」

「一応ね」

「何の一応だ」

「私も、ここの生徒だし観る権利があるのよ」

「あ、そうですか」

画面の中を注意よく伺ってみると新衛門。胸元にOUJIHIGHSCHOOLと印字されている野球のユニホームを着ている。何やら100メートルかな50メートルかな、短距離走のようだ。

「何が面白いの」

「この後だよ」

彼女は早送りを始め、笑いが止まらない。そして、画面はゆっくり、再生となり、やはり、彼女は笑いを止めない。そして確実にオレも笑った。新衛門が酒に酔っているのだろうな。水溜りにてパンツ一枚で泳いでいる。笑いというものは恐ろしい。二人は彼の不幸に対してバンバンと目の前のティッシュペーパーを叩き笑いが止まらない。

「お前、何回、見てるの」

「ちょっと待って、ここからが面白いんだって」

画面に大八木さんが出てきて新衛門への罵声と共に内股がり。その後ろで高橋が『一本、一本です』と両手を挙げてカメラ目線。大八木さんは新衛門に対して公然カメラの前で叱り倒している。パンツ一枚の新衛門は落武者のように土下座をして高橋の満面の笑い声がオレと江川の笑い声にかぶさり、より一層面白い。画面の中の大八木さんがビデオカメラを取り上げたと同時に画面がブルーへ消えた。

「ツトム、元気になったろう」

「うん、元気になった」

「何で、入院してたの」

「色々とあったんだよ」

「あ、そうそう。新衛門、結婚するんだよ」

「そんな金が何処にあるんだよ。デマだよデマ」

「だって昨日、奥さんを連れて来てたよ」

「オレには関係無いだろう」

「そういえば私にも関係無いよね」

「そうだよ」

「そうだよね」

やっている事は退院してからも同じ。電車、遊ぶ、休息、食事、遊ぶ、休息、ゲーム、電車、帰宅。家での晩飯。カレーライスを食らう。今日も一日、進展なし。復帰初日だというのに森下に川本さん、その他、多数の生徒は遠方へ釣りに行った。そうだ。思い立った、気分転換は、レンタルビデオ。家の裏からチャリンコを引っ張り出し、跨る。ダッシュ。久々のチャリンコ。ついつい曲がり角で大回りになってしまう。コンビニ前交差点で信号待ちをした。舌を動かし在ってはならぬ空間をいじる。信号が青。同時にママチャリツトムRX発進。直に風を感じるのも結構いいものだ。ビデオ屋まで精一杯、飛ばした。愛車を置き場にしまい、自動ドアを潜り新作コーナーへと歩く。とりあえずビデオ、DVDを品定め。そうこうしていると棚の間から見える向かい側のコーナーに、どこかで見た男の姿を確認する。

高橋だ。オレは咄嗟に彼の元へと移動した。

「おー、久し振りじゃねぇか。元気だったか」

「おー、びっくりした。お前も相変わらずだな。元気か」

二人で挨拶を交わす。嬉しいとはこの事である。再度二人で自動ドアを潜り外へと出た。再会した二人はお互い近況を話す。

「前歯どうしたんだ」

いきなり訊かれてしまった。ごまかす。

「ちょっとな。ヤンキーにいきなり殴られたんだ」

「そうか、ヤンキーか。この辺、多いからな、そういうヤンキー」

「それより、お前は最近、何してるんだ」

彼は鞄の中から何やら手帳の様な物を取り出し、誇らしげに笑うのだ。

「教習所へ行ってるんだ。もうすぐオレもバイク乗りってわけよ。いいぞバイクは。なんせ自転車にエンジンが付いてんだぜ。この世で一番の発明品って具合だよ」

羨ましい。オレがS・S・Cで暇を持て余している間に高橋は教習所。オレは一体何をやっているのだ。そう、思いつつ、話は続く。

「ギターの方はやってんのか」

「おう。西京道のライブハウスによ、メンバー募集の張り紙貼ったんだ。次の日には五人から電話がかかってきてな。でも、何か、物足りないんだよな。オレとしては」

 心底、羨ましい。高橋はどんどん前へ進んでいるというのにオレはS・S・Cで暇だらけだ。高橋とは、またカラオケでも行こうや、と、電話番号の交換をして別れた。家に着く。チャリンコをしまう。所詮、オレは毎日毎日、同じ事を繰り返している。それは、国を動かしている政治家もダンボールの家に住んでいるオッサンも、日々を繰り返すと言う点ではオレと何ら変わりはしない。しかし、オレの周りには、悪い刺激しかない。自由と暇を穿き違えている。だから、千春の事を早く何とかしたいと思うのだ。矛盾。それが出来ればもっと楽に呼吸をする事が出来るだろうな。しかしだ。今日は高橋から良い刺激を貰った。進展一だ。

明日、安原に話そう。千春に会って最後の伝言をしたいと。



「何度、言ったらわかるの」

「そりゃ、安原の言いたい事もわかるけどオレの気持ちもわかってくれよ、な、お願いだよ、オレは千春に会いたいんだよ」

昼時前のS・S・Cの二階で思い切って安原に話してみた。しかし彼女は言うのだ。

「ツトムが千春さんに会っても、何もスッキリしない。それどころか、また二人が重く悩んじゃうんだよ」

彼女の青いTシャツに、多少の汗を見る事が出来る。

「それでもいいから千春に会いたいんだよ。言うべき事があるんだよ」

机を挟んだ二人。至近距離の安原とオレ。

「わかったから私に言わないで。大八木さんに言って。一応、私は許可したって事にしてあげるから。ね、早く、大八木さんの所に行ってきなさい」

「安原が何で怒るんだよ。とにかくわかった。大八木さんに話してくるよ」

オレは大急ぎで階段を下りた。安原の奴、何でオレの気持ちがわからないんだよ。これからの二人の為に、千春に会いたいのに。もういい。次は大八木さんだ。アッチャンに聞く。

「大八木さん知らない」

「ああ、そういえば、ご飯、食べに行くって言ってた。多分、そば屋じゃないかな。どうしたの。急用なの」

「ちょっと」

オレはそば屋へと走った。全力疾走。パチンコスコラランド、パチンコ六軒屋、Sマート、中田電気、あとは田んぼしか無い京道田舎地区を通り過ぎ、ただ待っていればいいものを走っているのである。息切れ。かなり走ったな。オレのTシャツは汗だく。酒屋がポツリと一軒あってその東横。あった、あった。そば屋だ。戸を開ける。

「いらっしゃい、何名様ですか」

「連れがいるんで」

すぐに見つかる。一番奥の座敷に座っている、その背中はやはり大きい。

「大八木さん、ちょっとだけ御一緒していいですか」

彼は常に沈着で尚且つ冷静な校長である。

「走って来たのか」

「あっ、はい」

「元気だな。車でも結構あるぞ。マラソンとは確かにいい事だ」

体で笑う彼は瓶入りオレんジジュースをコップに注ぎ一気に飲んだ。

「それで、話って何だ」

「あの、山本千春さんの事です」

きっと、これは殺風景な景色なのだろうな。オレは許されないであろうわがままを必死に話す。

「つまりは千春さんに会って謝りたいって事なんだな。それが出来ないとツトムの頭ん中では区切りが付かない。そういう事だな」

「はい」

大八木さんは煙草に火を点けて言った。

「分かった。近いうちに彼女の両親に話しをしとくよ。ツトム自身が辛いとは思うけどそれはそれで覚悟しとけよ。まぁいいじゃないか。お前が変わったって事なんだから。今日はオレがそば、おごるから、ほら、食ってけ」

「いい顔になったな」

大八木さんの言っている言葉の真意がわからない。

「初めて会った時は、ただの胡散臭いナルシストだったのにな」

やはり、わからない。

「そんな事言わないで下さいよ。オレ、そんなんじゃないですよ」

彼は笑うのだ。それも声をあげて。

「何がおかしいんですか」

オレは苦笑いだ。彼の言っている事が分からなかった。

「本当のところ、お前は、彼女の事がまだ好きなのか」

心に聞いてみる。煙草の煙を開いていない窓方向に吹かす彼。空のコップを置いてオレは言った。

「いえ、今はもう。だから、会いたいんです。次に好きになる人の為にもちゃんと千春と切りたいんです」

大八木さんは笑い口調を止めて箸を置いた。

「わかってるとは思うけど、彼女に会うのはこの次で最後だと思え」

オレの返事を待たずに彼は強く、付け加えた。

「もう一度、聞くけどお前は彼女の事をもう、好きじゃないんだろう」

「オレは今、満足はしていません。だけど、彼女の事を好きだった自分にはさよならしたい。そう思っています」

結局、帰りは彼の車に乗った。自分の心臓が大きく揺れる音を感じとる事が出来る。千春はオレと会って何と言うのだろうか。どういう顔をするのだろうか。安原の言う様にお互いが傷つくだけなのかもしれない。


親父が何時もの様に居間でビールを飲んでいる。もう、包み隠す必要はない親父と息子の会話。

「千春に会うんだけど」

「知ってるよ。会社に電話があった。大八木さんって人も現場主義者だな。思い立ったらすぐに実行か」

「何だ。知ってたのか」

「で、お前は千春さんに会ったところで何と言うんだ」

「わからん、まだ決めてない。とにかく謝るだけだ」

「お前はすっきりしていいかもしれんが、彼女はどうなんだろうな」

考えて、沈黙しか選べないの今の現実である。

千春に会う計画は進んで行くのであるが、少しの混沌が存在するのは確かだ。彼女は何と言うのだろうか。千春。彼女は何と言うのだろうか。しかし。の文字が天井にて繰り返されるまま眠った。


金曜日に前歯を入れた。肩まであった髪も切った。鏡を見る。注意深く顔を見る。来るべき時は来た。昨日は一つも寝ていない。一晩中、泣いていた。


今日は日曜日。千春と再会する日。親父の車に乗る。彼女は自宅にはいない。北京道の児童相談所にいる。この話を聞いたのは昨日。ショックだった。相談所と病院の往復を彼女は繰り返している。オレは助手席に身を納める。

道路標識に「北京道5km」の文字。瞬時に帰りたいと気持ちが膨れたが彼女に会わなくては何も始まらない。心に言い聞かせた。トンネル。ウインドウに映るオレの顔。思わず瞳が力んでしまう。車は京道駅を過ぎ、住宅街に入った。坂道を下る途中に「北京道児童相談所 ココ右ニ曲ガル」の看板。従う車は右へと進路を変えた。建物が視界に入る。目に見えたもの。それは、刑務所の様な冷たいイメージ。高いフェンス。あちらこちらに、「関係者以外立ち入り禁止」と記されている、鉄の扉。そして門の前に車が止まった。親父を前に息子は門を潜る。鉄の玄関。そして彼はインターフォンを押した。 「おはようございます。斎藤です」

「はい。お待ち、下さい」

 S・S・Cとの違い。壁が恐く、固く、冷たく、それらを見上げる。千春はここにいるんだな。扉が音をたて、開いた。そこにはスーツの男。その後ろに小柄な男が一人。その男は言った。

「お久しぶりです」

「お元気でしたか」

「はい。今日は約束通りに息子を連れて参りました」

「はじめまして。山本治です」

 彼はオレの目を見て離さない。オレは目をそむける事に必死だった。スーツの男に連れられ、千春の親父、親父、オレの順で階段を上っていった。

「すみません、面会はご家族でない場合、お一人ずつとなっているのですが、どちらが先になさいますか」

 一人、躊躇うオレをみかねた親父が「私が先に」コツコツと音がする床を行き、ここから数えて六番目の部屋へ消えていった。

「ツトム君だね」

 オレが頷くと同時に鼻を殴られた。スーツの男が、

「山本さん、やめましょう」

彼のじたばたを押さえるのだが彼はオレを壊す事を止めない。

「お前の事をオレは一生恨む。いつでもお前を殺す気でいる。お前はそれを忘れるな。今、殺してやろうか。このませがきが。なあ、こら、お前、喧嘩、強いんだろう。オレが教えてやるよ。お前が弱いんだって。こら、ここまで言ってんだぞ。かかってこいよ。この暴力男。なあ、こら」

「山本さん、落ち着いてください。辛いのは、皆、同じです。頼みます。貴方が暴力を振るうと、また、同じ事の繰り返しです。こうやって、貴方にも千春さんにも彼は会いに来てくれました。もう、よしましょう」

 中年男の涙。彼は泣きながら階段を下りて行った。全ての行為はオレの自分勝手から起こる悲劇なのである。オレは間違っている。それなのにオレは偽者の自由に身を委ねて息をしてきた。全てを何かのせいにして、全てを不器用だからと片付けて、全てを少年だからと着飾って。自分にだけ都合よく、悲しい時だけ、消えたいと思い、嬉しい時だけ産まれてきて良かった。と感じて。

「君はどうして千春ちゃんに会いにきたの」

 スーツの男は聞いてくるがオレは答えないと決めた。この男に何を話せばいい。千春の体も治らない。何も動かない。長椅子に座り、涙目になりながら親父の帰りを待つ。スーツの男は、オレに対して言葉を投げる。

「今の君にとってはどうでも、いい話しかもしれない。だけど、君と会うのが最初で最後だとしたら、僕は君に話しておきたい事があるんだ」

 瞳を指先でこすり、その涙をジーンズで拭いた。

「僕はここの所長。すなわち代表者だ。六月の終わりに千春ちゃんがここに来てから彼女とは毎日のように会話をしている。あの事件以来ずっとだ。ここには三歳にして身寄りのない子供、十七歳で罪を犯し服役後も保護しておかなければならないような少年、そして千春ちゃんの様な少女、様々な問題を抱えている人間がやって来る」

 オレの横に座る彼。小さく座っているオレの顔を覗き込み、

「君も傷を受けた。君も千春ちゃんから大きな傷を受けたよね。頑張ったよね。僕は君を歓迎するよ。このままずっと、事件の事を引きずって生きていくよりも彼女に会いたいと思った君の方が勝ちだ。彼女は、良くなった。身体も心も。どうか彼女を特別扱いする事無く会って欲しい。今の僕は千春ちゃんの親代わりでもある。彼女のとった行動を今は責めないでくれ。わかってくれるよね。今の君なら」

 彼はそうゆっくり言って時計を見た。特別扱いする事無く。今の君なら。

「今、一時二十五分だから、一時四十分にはお父さんが戻られる。次は、君の番だ。きっと、好きな事を話せると思うよ」

 時計を見つめる。二十五分が三十分になり、三十分が三十五分になる。六月が七月になり、七月が八月になり、八月が九月になる。そして、その九月もそろそろ終わろうとしている。彼女に会うのに今日まで約四ヵ月。ここまで色んな人に出会い、言葉を交わし、反論もし、同調もした。ここまで来た。二人はここにいるのだ。

 六番目の部屋のドアが擬音をたてて、開いた。親父がこっちへと歩き始める。オレはドアの前へと歩いて行く。あと三歩、二歩、そして一歩。薄暗い廊下の中、『面接中』の表示が赤く浮かび上がっているドアの前に立った。黒いインターフォンを押す。

「はい」

 千春の声。ドアは開いた。そこには以前と別人のような彼女がいた。瞳と表情が違う。四ヶ月前の彼女とは別人。妙に色気を重視した女臭さが今の彼女には無いのだ。美しくなった彼女。何を話そう。彼女の顔に目をやるが、見つめられない。彼女の視線を顔中に感じる。

「久し振り。ツトム、座りなよ。変に緊張しないで」

「ああ、久し振り」

 新しい彼女の素顔に惹かれる。彼女の声に安心して椅子に座った。同時に彼女は二人の中で一番引っかかっている事をそのままそっくり優しく撫でるように触れた。

「報告します」

「えっ」

「私、八月の終わりの検査で妊娠出来る事がわかったの。子供だって産める。異常なし。心配はいいよ」

 彼女の表情に安心すると同時に、あの日のオレと彼女の行為が心に蘇る。この笑顔は何を意味しているのか。思い切って言ってみた。

「千春、本当にごめん。オレ、悪かった。ごめん」

初めてだ。初めて人に心から謝った。

「ツトムが謝ったって、仕方がないよ。もう終わった事じゃない。ほら、私の身体も心も治った事だし」

一度、咳き込む自分を、穏やかな瞳で見る彼女は再び話し出した。

「確かにツトムの事は憎かったよ。本気で殺したいほど」

鼻を触り、ゆっくりと大雨の外を見てしまう。一つ一つ、ゆっくり言葉を吐き出す彼女。

「でもね、でもね、仕方ないでしょ。何も進展しないものね」

彼女の曇った顔は一転。天井を見て、再び笑顔に変わる。

「あ、そうそう、田中君の事は、覚えてる」

たなか、タナカ、田中、ピタリ。顔と名前が一致した。オレの前歯を潰し、悪戯電話の声の持ち主はその男。田中だ。

「ああ、覚えてるよ」

「田中君ね、週に一度会いに来てくれるの。この前なんかね、『ツトムの事は忘れろ。怖くなったら、オレに電話して来い』って優しく言ってくれた。でもね、ツトムの事を忘れられる訳ないじゃない。だから私、割り切ったの。もしも、これから先ね、ツトムに会う日が来たとしても、ツトムの事を怖がらないって。笑顔でいようって。だから、今も全然、怖くないよ。本当よ。だから楽しく話そうよ」

 それからあの頃には互いに触れず、オレはS・S・Cでの出来事を話した。彼女は児童相談所での事、田中がしつこく会いに来る事に嫌気が差している事、病院で山本千春という、同姓同名の看護婦さんと一緒だった事、弟が産まれて来る事。空白の四ヶ月をオレに打ち明けてくれた。

「S・S・Cってなんだか楽しそうだね」

「まあな。ルールとか、規則とかが、ほとんど無いからな。楽だぜ。だけど暇。本当に暇」

 部屋のインターフォンが音を知らせた。彼女が返事をしてドアを開けると所長が立っている。

「もうすぐ時間だから話しておきたい事を話しておいて。千春ちゃん、言い残した事はないね」

千春が再び椅子に腰掛け、ゆっくりと口を開ける。

「正直に言うわ。もうここへは来ないで。私の前にあなたの顔を出さないって約束して。街ですれ違っても、声なんて掛けないで。私の存在を忘れて、お願い」

 一度、深く目を瞑ったオレは現実を飲み下した。答える。

「うん。わかった。千春も元気でな」

 部屋を出る前に握手を交わした。彼女との最後の十五分が終わる。いつも千春はオレより体温が高い。この手の温もりには、もう二度と出会えないんだ。手が離れた。ゆっくりと笑顔の二人は手を振った。所長は雨露の大きな音がする廊下で最後にこう言った。

「もう二度とここに来てはいけません。君はまだ若い。それに、とても良い瞳をしている。好きな場所で、好きな事を始めなさい。僕の言いたいことはわかるよね」

 頷く自分を見て彼は微笑んだ。階段を下りる途中に千春へと一度は振り返ったが、オレは素直に笑顔になれた。明日もS・S・C。強い雨の中、面接室をもう一度確かめて、助手席に身を沈めた。


いつものS・S・Cである。昨日の雨は夜には止み、今日の空はとても明るくまだ涼しくなってはくれず。オレは一つの計画を立てた。バイクの免許を取る事。それも合宿に行くのだ。前から小さな望みのように旅が出来て免許も取れるこの企画に憧れはあった。今は時間もある。安原にもこの事を話した。

「いいんじゃない。ホネ休メ、ホネ休メ」

笑顔であり、喜んでいた。黄色い扉を開けると同時にアッチャンが、

「免許を取ったら後ろに乗せてね」

「えっ、何で知ってんの」

「安原さんが言ってたよ。ツトム君が合宿へ行くって」

安原の事だ。人に出会う度にこの話を転がしているのだろう。まあいいか。今日の夕方にでも詳しい資料を貰ってくるとしよう。ソファーに座ると大八木さんがオレを呼んだ。

「ツトム、少し話があるんだが」

「あ、いいですよ」

いつもの部屋。オレは学校椅子に座り、学校机を挟んで彼もそれに座った。

「で、どうだった、千春さん」

「はい。会えて良かったです」

「そうか」

大八木さんが机の上で右手と左手をゆっくりと組み言った。

「そうだ。お前、身体の方はどうなんだ」

恥ずかしいが本当のところを話す。

「全然ですね。それに相手もいないし」

「一人では」

「無いです。する気にもならないです」

「そうか」

 彼が一度、背伸びをして言うのである。

「なんだ、合宿免許に行くらしいな。大丈夫か。かなり合宿っていうのはストレスが溜まるらしいぞ」

「いえ、まあとにかく一度、頭を休めたいですし、ここから離れたいですし、もう大丈夫ですよ」

「本当か」

「はい、本当に」

「そうか。バイクはいいぞ。この世で一番の発明品だ。楽しんでこいよ」

「はい、行って来ます」

これで話は終わりかなと椅子から立ち上がろうとした時、大八木さんは言った。

「帰ってきたらな、身体の方は治そうか。今、治しておいた方がいいぞ。友達に精神科医がいるんだ。お前はまだ若いからすぐにでも治ると思うし」

「あ、はい」

適当に答えた。まあ、いいか、まだ先の事だ。


この会話から五日後の事。京道駅から特急電車で四時間北へ登った場所にオレはいた。


朝からの入学式と適性検査を済まし、合宿所である『民宿ひまわり』の二階に身を置いた。世間が忙しい時期だ。合宿生はオレとおばちゃん二人組のみ。暇だ。ガムを噛んで青い茶碗で麦茶をすする。


 民宿の周りを散歩してみた。田んぼ、カラス、たまに車が通るだけ。バイクに乗れたらこの場所まで一人で来れるんだものな。そう考えると人間特有の冒険心にカチッと火が点いてしまう。


 千春、元気かな。彼女の名前が頭に過ぎるが、駄目だ。忘れなきゃ。そうこう歩いているうちに国道29号線の表示。もう少し歩くと、パーキングステーションが見えてきた。

その横には楽器屋。流動的に自動ドアを開けた。ギター、ベース、ドラム、アンプ、楽譜。髭の店員が近付いてくる。

「いらっしゃいませ。何かお探し物ですか」

「いえ、ちょっと…」

「ごゆっくり、どうぞ」

『ベースセール!全品半額!』

と大きく表示。貧乏人はベースの前に立つ。財布には二万円。

「すみませーん」

「はーい」

「これ、いくらなんですか」

「今、安いよ。税込みで九千八百円。これ、かなりの値打ち物なんだけどね。今、不景気でしょ。特にベースは出にくいし。うちらも、儲からなくてさ。お兄ちゃん、バンドか何かしてるの」

「いえ。あの、すみません。ちょっと、弾かせてもらえませんか」

「いいよ」

店員は黒いアンプと黒いベースを繋げ、チューニングをしながらオレに訊く。

「君、この辺じゃ、見ない顔だな。どこの人なの」

「あ、京道の方です」

「へえ、あの辺、音楽、さかんだもんな。今は旅行か何かなの」

「いえ、合宿で免許を取りに来たんです」

 産まれて初めて手にするベース。しまった、こんな時に限ってオレは小便をしたくなり店員さんに頭を下げてトイレの場所を聞く。小便を済ます。手を洗い、鏡を見る。確かにオレは良い顔になっている。全てが吹っ切れた良い顔になっている。これを誰かに伝えたい気がしたんだ。

そして、店の中にはベースの弦を弾くオレがいた。そのうち、一人の男の名前が浮かび、またまた店員さんに頭を下げて店の電話を借りる事にした。店員さんは、「忙しいね」と苦笑い。

「もしもし」

「何だ、ツトムかよ。お前、合宿、行ってんだろう。アッチャンから聞いたぜ」

「お前、今のバンド、何か物足りないって」

「おう、それがどうした」

「お前が独りよがりだから、どのバンドも駄目になっちゃうんだよな。オレ個人の意見としては」

「はあ、お前、音楽、知っんのか」

「お前の事はよく知ってるよ」

「また、わけわからん事、言いやがる」

「お前の事がほっとけないんだよ」

「そりゃ、こっちの台詞だろうが」

「だろ。オレ達は良い関係なんだよ。実はさ、ベース、買っちゃったんだよ。頼むよ。ベース、やらしてくれないか」

「お前って本当に馬鹿だな」

「馬鹿は生まれつきです。はい」

「それはよく、知っております」

「合宿中に曲をおぼえてくるからよ、テープか何かこっちに、送ってくれないか」

「はあ」

「さっきも言ったろ。オレ達は良い関係だって」

「もう、いいよ。分かったよ。だけど、ちゃんと練習するんだぞ。じゃないと、すぐに、クビにするぞ」

「クビになるのはお前の方かもしれないぞ」

「全く、こりない奴だな」

「その通りです」

「はい、はい、住所、言え」


ライブをやった。ベースをやった。高橋は笑った。安原も大八木さんもアッチャンも森下も川本さんも、皆、喜んでくれた。この低音がオレを見た事もない何所かへと連れて行ってくれる。この音が欲しかった、この感覚が欲しかった。オレは今、ただの十六歳である。だけど、分かった事が、たった一つだけある。


オレは斎藤ツトム。ベーシストである。


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