レイニーブルー
「……はぁ」
嫌な雨が、しとしと降っている。
それは、大粒の強い雨でなく、かといって傘がいらないほどの弱い雨でもない、普通の雨だ。大きさがまばらな雨粒が地面に降り注ぎ、そこら中に出来た水溜りは、灰色の雲に囲まれた空を静かに映し出していた。
目の前には、同じ制服を着た二人の女子が相合傘をしながら、楽しそうにお喋りしながら歩いている。今私が歩いている道の反対側では、六人の仲良しグループが傘を片手に、にぎやかに歩いている。色とりどりの傘と笑い声で溢れる通学路の中、私だけ一人で歩いていた。
「はぁ……」
いつもは雨が好きな私でも、この日ばかりは雨を鬱陶しく感じた。
今の私は、まるで今日が地球最後の日であるかのように、絶望的な気分だった。歩けば歩くほど、どんどん悲しさが増してくる。いっそのこと、今差している小さな折りたたみ傘を投げ捨てたいと思ったが、それをしてしまえば、かなりの注目を浴びて、その上色々と詮索されてしまうだろう。そうなったら、対応が面倒臭いし、もっと悲しい気持ちになるので止めた。
「もう無理……イラスト部辞めたい」
口の中で呟いた声は、雨の音と目の前の二人の楽しそうな笑い声で虚しくかき消された。
今所属しているイラスト部で絵を描くのは楽しいが、人間関係は悲惨なものである。イラスト部には女子しかいないので、尚更なのかもしれない。
去年、私は先輩や同学年の子と上手く馴染めず、入部半年で孤立状態に近かった。一番辛かったのは、他の同学年の子達は先輩に「〇〇ちゃん」と名前で呼ばれていたのに、私だけ「佐藤さん」と、苗字で呼ばれていたことだ。先輩に距離を置かれた気がして、初めてそう呼ばれた日は涙が出そうになるくらいショックだった。
そして今年、後輩が何人か入ってきて、今度こそ馴染もうと意気込んだ。そのおかげで何人かの後輩とは仲良くなれたが、同学年の子の間では孤立したままだった。私を除いた他のメンバーは一つの固まりとなって仲良くしており、私はいつもその後ろを歩くだけである。
それだけなら、まだいい。
だけど、私が常にどんくさいからか、同学年の子達から嫌われている。ここでも、私以外の皆はニックネームで呼び合って、私だけ常に「佐藤さん」と呼ばれている。それだけでなく、基本私に対して風当たりが強く、私に寄り添ってくれる子は一人も居なかった。極めつけに、最近、その子達がSNS上に私のことを悪く書いているのを見つけてしまった。しかも、その中に新しく入った後輩も入っていて、それに気づいたときは目の前が真っ暗になった。
今日は、年に三度発行する画集を作る作業があった。
同学年の中で何人の子がドタキャンしてしまい、何故か後輩の指揮を押し付けられ、いつも以上に緊張した。同学年の子は他にも数人いたが、いつものように風当たりが強く、ミスしたり上手く動けなかったりすると冷たい目線を送られた。その度にさらに緊張して、作業時間中は呼吸が出来なくなりそうなくらい息が苦しかった。その一方で、同学年数人は私以外の子には基本優しい感じに接していて、後輩と上手く連携していた。それを見てますます悲しくなり、背中にのしかかるプレッシャーも倍になった。
画集の作業が終わった後、同学年数人と後輩達はそれぞれ学年ごとに固まって帰って行った。勿論私は一人で、教室内の鍵付きロッカーに出来立てほやほやの画集を入れてから、とぼとぼ昇降口に向かった。校舎を出た時には雨が降っており、天気予報を確認していなかった自分自身にうんざりしつつ、鞄の底にしまっていた小さな折り畳み傘を取り出した。中学の頃から使っているせいか、傘布には小さな穴が空いていて、その上骨が折れているという、まさにボロボロ寸前だった。
いつもの駅に向かいながら歩いている最中……そこで冒頭の溜め息である。
「はぁ……」
雨脚はどんどん強くなり、折りたたみ傘からはみ出た鞄やスカートの裾は濡れ、革靴の中はもはや洪水状態だった。雨のせいもあってか、身体全体が沈むように重たい。もはや、このまま地面の中に沈んでしまえたら……なんて思っているうちに、駅に着いてしまった。
私は一人になりたくて、敢えて一番後ろの車両を選んだ。同じ学校の子が集まる中央の車両には、どうしても乗れそうになかった。それには、もしかしたら同級生数人に会ってしまうかもしれない、という恐怖もあった。
電車を待っているうちに今日の部活のことが脳内に流れてきて、それがあまりに重たすぎて、ついにしゃがみこんでしまった。涙は出てこないが、膝にうずめた顔がどんどん歪んでいくのが分かる。
私が描いていたものは、こんなものじゃない。もっと温かいものだと思っていたのに、何でこうなったの。それもこれも、私がどんくさいからいけないんだ。私がまともに動けていたら、きっと楽しく活動出来たに違いない。上手く話せないだけじゃなく、ロクに動けない私は、きっと邪魔なだけなんだろうな。もう、いっそのこと、ここから消えてしまいたい……。
なんて、激しくネガティブ思考になっているうちに、各駅停車の電車がゆっくりやって来た。重い身体にムチを打って、どうにか電車に乗り込み、そのまま空いている座席に座ろうとした時だった。
「……紗綾ちゃん?」
後ろから、不意打ちに名前で呼ばれた。それも、とても懐かしい声で。ビックリして勢いよく振り返ると、そこには、見慣れないオレンジ色のネクタイに紺のブレザーという制服姿の……
「カナ!?」
「久しぶり!」
無邪気な笑顔で話しかけるのは、間違いなく、親友のカナだった。カナとは、中学時代に同じ美術部に入っていて、部活内で一番仲が良かった子である。いつも一緒に活動していて、すごく楽しかった。同じクラスには一度もなれなかったが、部活の他にも、一緒に勉強したりご飯を食べに行ったり、高校受験の時にはお互いに応援メッセージを送ったりもしていた。高校は別々になってしまったが、今もメールのやり取りをしたり、たまに一緒にお出かけしたりと、親友を続けていた。だけど、こうやって電車で会うのは初めてだった。
「合唱部は? いつも忙しくて、帰りは夜遅いんじゃないの?」
「ううん、今日はね、顧問の先生が珍しくお休みで、早く終わったんだ! こんな早く帰れるの、テスト期間以来だよ!」
「カナの高校の合唱部は、信じられないくらい熱心だね……テスト期間もあまりお休み無いなんて、大変じゃない?」
「そりゃ超大変。成績下がると、親もうるさいし。でも、何だかんだ楽しいからいいんだけどね!」
カナの言葉に、胸が焦げるように痛むのを感じた。カナが身体的にも精神的にもハードな合唱部を楽しんでいるのは、仲間の存在があるからだろう。それが無ければ、どんなに楽しい行事が詰まった部活でも、ゆるい部活でも、楽しくやっていくことは難しい。私だって、中学時代の美術部を楽しくやっていけたのは、カナが側にいてくれたおかげなのだ。もしあの時、カナがいなかったら、きっと私は今のイラスト部と同じような状況に陥っていただろう……。
「……紗綾ちゃん!?」
カナに言われて、自分がポロポロと涙を零していたことに気づいた。今日この瞬間まで、何度か泣きそうになっても涙一滴も流れなかったのに。既に手遅れだが、私はそれを見られないように腕で拭い、いつものように振舞おうとした。
「いや、あの、これは……」
「……紗綾ちゃん、頑張るのはいいけど、無理しなくていいんだよ?」
カナが、いつもの笑顔とは違った、心配そうな表情で私を見た。その表情は、中学時代に何度も見てきた、真剣に心配してくれている優しいものだということは、知っていた。カナの顔を見ていたら、拭ったはずの涙がまたどんどん溢れてきて、私はその場で泣き出してしまった。喉がつっかえて言葉が喋れなくなるまで泣くのは何年ぶりだろう。崩れるように泣き出した私を、カナは優しく抱きしめた。プレッシャーで潰れそうになった背中を、カナの温かい手が撫でてくれる。その感覚が心地良くて、また涙が溢れてきて、人がそれなりに乗っている電車の中なのに関わらず、私はずっと泣いていた。
心ゆくまで泣いて、私の涙がようやく止まったのは、最寄り駅に着いてからだった。私達は、改札口に向かわずに、たまたま空いていたホームのベンチに二人で一緒に座った。今は帰宅ラッシュの真っ最中なのか、電車が来るたびに会社・学校帰りの人々で賑わっていた。
「あのね、今、私が入っているイラスト部でね……」
気がついたら、カナにイラスト部で起こっていることを話していた。イラスト部のことは、顧問の先生は勿論、クラスの友達、そしてカナにさえも言えなかった。もしそれが何らかのきっかけで学校に知られたら、きっとこのことは問題になって、部活全体に迷惑かけてしまうだろうと思ったから。また、この問題は自分自身が引き起こした問題だから、自分自身でどうにかしなきゃという使命感があったからかもしれない。
「そっか……それは、かなり辛いよね」
カナは真剣に話を聞いてくれ、また心配そうな表情で私を見た。さっき大いに泣いて、枯れ果てたはずの涙が再び込みあがってきた。
「もう、どうすればいいのか分からない。私には、もうどうしようも出来ない。助けて……」
「紗綾ちゃん……よく頑張ってるね。こんなひどい環境なのに、それでも部活に行っていて。辞められないの?」
「うん……私の学校、絶対部活に入らなきゃだし、今辞めて別の部活に行ったとしても、多分また同じ状況になるかもしれない。それに、きっとすんなり辞めさせてくれない……だから、結局頑張るしかない」
「そっか……大変だね」
カナの優しさが、まるで血が止まらない擦り傷に絆創膏を丁寧に貼るように、胸に染みていく。カナは凍りついた湖に突き落とされて冷え切っていた心に、フワフワの毛布をかけて温めてくれる。それだけでも、私はかなり救われていた。
「紗綾ちゃん、今ものすごく辛いと思うけれど、自分なりのペースで行動してもいいと思うよ。少なくとも、あの子達の目を気にしてたら、壊れちゃうと思う。多分、あの子達を前にしたら、出来ないと思うけれど、軍隊のようにガチガチに活動するよりも、自分のペースで気軽に活動するほうが絶対にいいと思う」
「カナ……」
「要は、気軽になるってことが一番大事ってことだよ。肩の力を抜いて、慌てずに落ち着いて行動する。あの子達に好かれようなんて、考えなくていい。紗綾ちゃんは紗綾ちゃんなんだから、自分のペースを保って、あの子達に惑わされないで。私に出来ることは、これくらいしか無いかもしれないけど、私は紗綾ちゃんの味方だよ」
数十分前までの地球最後の日を迎えたかのような絶望的な気分は何処にも無く、いつの間にか私は平常心を取り戻していた。
「もし、また部活で何かあったら、いつでも連絡して? 絶対にお話聞くから」
「ありがとう、カナ……すごく気持ちが楽になった。ずっと苦しかったんだ」
「紗綾ちゃんは昔からすぐ溜め込むんだから……あまり、無理しちゃだめだよ?」
カナがいてくれて、良かったーー照れくさくて口には出せなかったけれど、心の中で何度もそう呟いた。中学時代でもカナに助けられる度に何度もそう思ってきたが、今日は今まで以上に強く思った。
「さて、そろそろ帰ろうか。もうすぐお夕飯の時間だし」
「そうだね」
ベンチから立ち上がって手足を思いっきり伸ばしてみると、身体もすっかり軽くなっていて、いつもよりも動かしやすさを感じた。それは心でも同じことが言える。雨雲のようにどんより沈み込んだ気分は欠片も無く、むしろ、心の中はカラッと晴れ渡っていた。
実際、カナと一緒にいる間は全く気づかなかったが、鬱陶しく降り注いでいた雨はすっかり止んで、藍色の綺麗な夜空には白く輝く星が沢山散りばめられていた。満天の星空は見慣れていたが、この日は、今まで見てきたものよりも何倍も美しく見えた。
「さっきまで雨降っていたなんて、信じられないね」
「ね。私、もっと気楽に動いてみる。自分のペースで頑張るよ」
煌く星空を見上げながら、呟いてみた。勿論、星達から返事は無いけれど、まるで微笑んでくれたかのように、一層輝きを増した気がした。
「そうそう、それが一番だよ」
カナも、星空を見上げながら言った。
これからイラスト部の部員でいる以上、こういった辛い出来事はきっとまだまだ続く。もしかしたら、これ以上にもっと辛辣なことが起こるかもしれない。そう考えると、心だけでなく身体まで締め付けられるように苦しくなるが、今の私はとても幸せな気分だった。
イラスト部でいる間は勿論、イラスト部を引退してからも、大学で次のサークルに出会ってからも、この日のことは一生忘れたくない。ほんの数時間の出来事だったけれど、私の中に大きく刻まれた、掛け替えの無い時間であった。