冬来たりなば
「アカツキさん、帰ってこなかったね……」
五十鈴の残念そうな言葉に、ミノリは黙って頷いた。
シロエと直継がアキバを秘密裏に旅立ち、それからアカツキも出かける事が増えていた。早起きの彼女とは顔を合わせない日も少なくない。
〈記録の地平線〉の一時的な人員減少は、元々が少人数なだけにひどく目立つ。
いつも賑やかだった食卓も寂しくなって、トウヤやルンデルハウスの話し声も途切れがちだ。
訓練を繰り返してレベルも上がって。自分だけでなく周りを見る余裕と知識が増えたミノリが実感したのは〈記録の地平線〉の年長組の誰もが、ただレベルが高いだけではない強さを持っているという事だった。
アカツキだって、もちろんの事。
だから、五十鈴も残念そうにはしていたが、それほど心配はしていないだろう。ミノリだってそれはわかっている。だから、これは心配などではないとも思う。
ミノリにとって、アカツキは気になって仕方のない人だった。
高レベルの〈暗殺者〉で、とても強くて、びっくりするくらいキレイな人だ。
最初に彼女の姿を見たのは〈大災害〉のしばらく後だった。
大勢の人がその広場に集まっていたのに、その中にいるシロエの姿はミノリの眼に飛び込んできた。長く白いマント姿で、血と埃に汚れているのにまるで淡い光を纏っているようだった。
アカツキは、静かにその隣に佇んでいた。
シロエとは対照的な黒い装備に身を固めて、長い黒髪を靡かせて。夜の精のようだとミノリは思ったのだ。
天秤祭の夜、テラスにいた二人の間に立ち入れない絆が見えた気がして。
あれほど近くにいられたなら、あんな風に触れ合えたなら、それはどれほど幸せで嬉しい事だろう。それが許される存在にミノリは嫉心を抱かずにいられない。
だから、いっそ、とミノリは思うのだ。アカツキを嫌いになれたら良かったのか、この気持ちも楽になるのだろうか、と。
それでも、〈ハーメルン〉から逃げ出したあの時、助けてくれた姿をミノリは忘れたり出来ない。
花弁のような唇から酷く辛辣な言葉を紡いで、敵の前に立ちはだかってくれた。その背中は自分よりも小さいのに頼もしくて、助かったんだとやっと実感して、トウヤとふたりで安堵した。
かけられた言葉はひどくぶっきらぼうだったけれど、差し出してくれたその手は柔らかで暖かかった。
この世界に来てから、初めてだった。そんな風に労りと優しさを込めてミノリに触れてくれたのは、アカツキが最初だったのだ。
直継が苦笑交じりに教えてくれたのは、ミノリ達がギルドに加入してしばらくした時の事だった。
〈ハーメルン〉のメンバーを密かに調査していたのはアカツキだった事。そして、一人漏らしたのを、ミノリとトウヤに余計な負担をかけたのが申し訳ないと、とても後悔していたと言う事。
思っても見なかった事を言われて、ミノリとトウヤは驚いて顔を見合わせたのだった。
ミノリ達が〈記録の地平線〉に入ってからも、ずっとそうだったように思う。年少組が訓練に行くからと、見えないように護衛をしていてくれるのに気付いたのはいつだっただろう。にゃん太に確認してみれば、アカツキにゃんは過保護ですにゃあと笑っていた。ミノリもそうだと思うけれど、でも、大事にしてくれているのがわかって、くすぐったいような気分になった。
そして、今。
アカツキはアキバに現れた殺人鬼を追っている。はっきりと言葉にされた事はなかったが、気付ける事はあった。
彼女は何かを守れる人だ。シロエに、それを託されるだけの力がある人だ。
危ない事をしているのだろうかと思って、苦く笑う。危険でないわけがない。〈冒険者〉を何人も殺した(生き返ることはできるにせよ、だ)相手なのだ。
今何処にいるのだろうとぼんやりと考え、ミノリはふと思い立ってフレンドリストを開く。登録されたフレンドであれば、どのエリアにいるかはわかる。詳しい場所はわからなくても、念話もかけられなくても、それでも構わない。
ミノリのリストには長くスクロールするほどの人数はいない。リストの一番最初はトウヤ。それから。
ミノリは蒼白になってベッドから跳ね起きた。
どくどくとうるさい鼓動を押さえて再びフレンドリストを開く。
白い文字に挟まれて、馴染んだ名前のいくつかが暗転していた。恐れるようにその文字をなぞっても、震える指には何の反応も返って来はしない。
(ずるい)
最初に浮かんだのは自分でもいやになるような、それでも正直な気持ちだった。
死にたいだなんて、少しも思わない。自分の小ささを思い知って、心が竦んで、蹲りたくなる。
この世界の〈冒険者〉にとって"死"は仮初めかもしれないが、それでもそれはとても辛い事だった。死そのものがではない。それがミノリに思い出させる無力感が、自分がただの子供であることを突きつけられる瞬間が辛いのだ。
だが、それなら今の自分はどうなんだろうとミノリは思う。毛布にくるまってただ嘆くだけのこの時間は、死んでいるのと一体何が違うというのか。
戦いたかった。一緒にいたかった。頼って欲しかった。守られるばかりではなくて、守りたかった。
大事なのに。大事にしたいのに。
ミノリが階下までふらつく足で降りていくと、明かりの点いたキッチンににゃん太の背中が見えた。恐らく明日の為の弁当を準備しているのだろう。
「にゃん太さん」
掠れた声に振り向いたにゃん太が目を見張った。
「ミノリち」
多分ひどい顔をしているのだろうなと、ミノリは人事のように思う。にゃん太は慌てたようにタオルを濡らしてミノリの傍に近づいた。
「にゃん太さん、シロエさんと、直継さんが…っ」
ひっく、と咽喉が鳴る。
その言葉にぴくりと耳を動かすと、にゃん太はメニュー画面を開き、フレンドリストを操作した。
「……そのようですにゃあ」
ミノリの潤んだ視界に、アカツキへと準備した食事が映った。メモも布巾も置いた時のままだったから、彼女もやはりギルドホールには戻らずじまいだったのだろう。
「アカツキさん、も」
夜通し殺人鬼を追っていたのだろうか。
「わたし」
シロエのいない街を、たったひとりで。
「ど、して、なんにも、できないんでしょう」
子供だから。レベルが低いから。理由はひどくシンプルで、その分ミノリ自身にはどうしようもない事だった。
嗚咽混じりに連ねる言葉は、それすらにゃん太には迷惑に違いないとミノリは思う。
「そんな事はありませんにゃあ」
にゃん太の手がミノリの頭を撫でる。それすらも子供扱いのようで、ミノリは強く首を振った。
「だって……っ、だってっ!」
「ミノリちに出来る事はたくさんありますにゃ」
「守られて、ばかり、で」
出来る事があるならしたいと思う。だが、今の自分に出来る事といったら、アキバから離れる事だけだ。
クエストではあるものの、それは低レベルの者をアキバから避難させるのを目的として発布された物だ。
大人しくそうするのが一番いいのだとは理解できている。理解できているだけに焦燥感ばかりが胸の内に募る。
「シロエち直継ちもアカツキにゃんも、もちろん我が輩も。ミノリちのすごい所は知っていますにゃ」
ミノリの瞼に濡れたタオルがそっと当てられる。止まらない涙を拭い、にゃん太は眼を細めた。
「ミノリちは、心配することができますにゃ。自分が辛くても誰かに心傾ける事ができますにゃ。それは、とても難しくて、とてもすごい事ですにゃあ」
「心配、してるだけ、なのに」
「それなら、伝えるといいですにゃ。心配なら心配だと、一緒に居たければそう言えばいいですにゃ」
低レベルの自分が一緒に居たいなどと言えば、皆困るに違いない。ただでさえお荷物なのだ。そんな事は言わないでくれても、ミノリ自身がそう感じてしまう。
「ミノリちが夜も眠れないくらい心配をかけているのだからお互い様ですにゃ」
家族とはそのようなものですにゃと、にゃん太は俯いたミノリの体を支えるように手を回し、あやすようにをその背を叩く。
その優しさに、ミノリの涙はますます溢れた。それでも声を上げて泣く事だけはしたくなくて、ミノリは歯を食いしばった。
強くなりたい。何度も繰り返した思いをもう一度胸に刻み込む。
決意は苦い涙の味がした。