EP.7.5 「彼」到着前の有象無象たち
もっとSIDEを使って攻めるよう監督に怒られたから……俺は悪くねぇ! 一人称交じりの三人称、いわゆる「ラノベ文体」で書くのにチャレンジしたせいで読みにくくても俺の責任じゃねぇ!
このフェンダイル地方にも朝が来た。港町サリアに近い森の中は霧に満ちていた。
「また霧か。いい加減頭の中にもカビが生えそうだ。やはり俺は森に慣れそうもないな」
老人の朝は早い。森の中のあばら家。既になくなった役職である森番の小屋だ。貧しい寝床から出て、着替えを終えて外へ出る。集めた薪を取りに行くためだ。
頑健そうな老人だった。肌は赤銅色に焼けており、背は高くないが手足は太く、弱い印象はない。大分傷んだ服を着ているが、不潔にも見えなかった。
老人、ゼトは朝から疲れていた。もう五十一歳になるのだ。彼の知る限り、自分を老人扱いしない者はいなかった。食事の準備をしなければならないが、億劫でしょうがない。
この歳になってから住み慣れぬ場所へ移住しての一人暮らしは堪えた。
生活程度が落ちてしまったことよりも名誉や役職を失ったことよりも何よりも、見知った顔との別れが堪えた。
三ヶ月前までは、あんなにもにこやかに挨拶し、お互いと交流していたのに。
あの笑顔や信頼はまやかしだったのか。
いや、所詮は利益で繋がっているのが人間だ。
力や金、仕事の能力。権力に法律。身元保証。相互の融通や安全保障。それがなければどの程度仲良くなれるものか。
そうではないと口にする者もいる。
だが、話し相手としての精神的安定や、やすらぎ。昔馴染みであることの安心。そんなものだって突き詰めれば結局、精神的な利益とでもいうべきものではないか。
ゼトはため息をついた。
やはり三ヶ月前までの自分が甘かったのだろう。ここ一番でこそ、命や金のかかる局面でこそ本質が出る。
早い話が今まではみな、多かれ少なかれ余裕があったからなんとかなっていたのだ。
魔王軍の進軍。度重なる侵略に人類の住める場所が奪われ、田畑も家も道も当然商売の余地もじりじりと失われてしまっている以上、いずれこうなるのは目に見えていた。
もう力なき者に配分する余裕はないのだ。
そしてその力なき者に俺は分類されてしまった――ゼトはそう総括する。
年なのは事実だし、最近は自分のやり方も強引なものに変えるしか術がなく、限界が近かったのだろう。
結果がこれ。長らく住み、活躍してきた漁村の集落を追い出されたのだ。
ゼトは古びたパンと野草が多いスープだけの飯を食べながら思い出す。
いつもの夕食のあと、嫌な予感がした。息子に話があると言われ、飯の後にするようにたしなめるとすぐ、連中が家に押し込んできて、囲まれた。そう、昼下がりまでは確かに味方だったはずの隣人たちに。そして、最近の強引なやり口について非難され、これ以上は付いていけない旨を明言され、強制退去の話が出た。
呆気に取られ、言いたいことの半分も言えず、その内叩き出されそうな気配を感じた結果、片手に持てる荷物だけで家を出ることになったのだ。戦う気力など、残ってはいなかった。
嫁は出ていく自分も、追い出そうとする者たちも止めなかった。目を合わせることもなかった。言いくるめられていたのだろうが、寝返りまでがえらく早い。もともとそういう女だったのだろう。
息子は止めないどころの話でなく、追い出しの音頭を取ったのは当の跡取り息子のようだった。急な話でろくなものを持ち出すこともできなかったので、商売の元手もない。それでも、貧乏人がそうするように、積極的に死に追いやられてもいないが。その点だけはだいぶ紳士的だったとも言える。
今思えばあの追放劇は随分手際がよかった。裏にいたものは漁村の有力者たちだろう。下手をすればサリアの町そのものとも繋がっている。今考えれば、下手に逆らっていれば命がなかったのか。
それからは? それからは何とかまだ自分に好意的だったサリアの古馴染みを頼り、漁村とは関係ない利権を回してもらった。まあ、町の予算の対象としては消滅した仕事である森番の小屋のことなのだが。モンスターも出る危ない森に住み着くことと、森の産物を利用することくらいは黙認されている。
厳密に言えば、老人は力なき者ではなかった。逆に、力があり過ぎたため警戒されていたのだ。それも ずっと以前から。
ゼトのおかげで、彼の仲間は毎年、優良な漁場を確保してきた。ゼト以外は大した腕の持ち主もいないのにいつもそれなりの取れ高があった。
元々は最近のサハギン騒ぎで漁獲量を確保できなくなった海での、漁師の漁場の奪い合いが原因だった。
少しずつだが確実に増えてきた、サリア周辺のサハギン。半魚の軍団はサリアの魚や漁場をどんどん独占していった。
最初はまだよかった。サハギンは元々手を出せば厄介なモンスターだ。繁殖力といい集団戦の危険度といい、『海のゴブリン』の呼び名は伊達ではない。群れは避けることで漁師はみな合意していたのだ。
サハギンとて、屈強な海の男たちと戦っては無傷では済まない。仕掛けてくる気配などなかった。
だが増えすぎた群れはすぐに海のリソースを圧迫し始めた。人間とサハギン。互いに関わらずに生きていくのは、無理になるほどに。
そして増えすぎて飢えたサハギンは常のものではない凶暴性を持っていた。
本来それなりに慎重な生き物なのに、漁師みなが銛や網を持っている仕事中に襲撃してくることがこの一年で五回あった。
これでは腕利きを十名集めて仕事をさせても下手な場所は危ない。ならば少しでも自分を安全な位置に、それ以外の者を危ない位置に送りたくなるのは人情だ。
老人は正面切っては誰にも否定できない功績を持っており、発言力が強かった。昔の栄光だけでなく、腕も知恵も人望も持っているゼトがいる限り、彼の一派がいつまでたっても安全地帯に居座るのは明白だった。もっと言えばそれ以外見るべきものはなく、彼さえいなければゼト一派から安全な漁場を奪うのは簡単だったのだ。
それに一人を除けば力のない者ばかりの組に、今まで譲歩してきた歴史も十二分に他の頭目たちには不快なことだった。ましてやこの苦しい状況である。減ってしまった魚を今までどおり譲り続けるのは御免な話だった。頼みの綱は一人だけしかいない一群なのだ、彼さえ追い落とせばあとは簡単。
同時に、老人の息子は三十にもなっていつまでも知勇優れ功績のある老人の息子という以外、何も取り柄のない頼りない男、凡庸な男としてしか見られず、軽んじられているのが嫌だった。そんな浅はかな了見がしばしば感じられ、ゼトは父親として息子へ権限を委譲するのを引き伸ばしていたのだが。
ただでさえ最近の老人は自分たちを守ろうと必死で、周りを見ているとはとは言えなかった。一派はゼトがいたからこそ場所取りも漁も何とかなっていた。彼を失えば転落は必至の仲間が、まさか背中を刺してくるとは思わなかったのだ。
それほど、俺を嫌いになったのはなぜだ。ゼトは悩んだが、何が原因か分からなかった。
これ一つに関しては、ゼトに落ち度があった。かつての英雄の記憶を誰もが意識する時代である今、すぐ気付いて、慎重に動くべきだったのだ。
追放劇の背中を押した最後の一手は、実は嫉妬だった。ゼトと同世代の頭目たちもゼト一派の幼馴染たちも、かつて若き日に自分たちの中で彼一人だけが、英雄の従士に選ばれた事実を無意識では許していなかった。ゼトだけが英雄の知恵となり盾となり、遠い異国を旅し、神話の中の魔物たちとの戦争に関わり、戦争の褒賞を持って帰ってきた。そんな栄誉は村の漁師には許されない。漁師衆の心中ではいまだに、つまらない漁村生まれの男は、みな漁村のつまらない男として生を終えるべきものなのだ。そう、彼ら自身と同じように。
この一人暮らしはゼトには憂鬱かつ苦痛だったが、一つだけいいことがあった。
彼の黄金時代、英雄と歩いた日々のことを、よく思い出すようになったのだ。
あるいはただ単にこの回想も現実逃避、懐古趣味に過ぎず、自分を守ろうと甘い思い出に浸っているだけなのかも知れないと自嘲することもあった。だがそれでも村で区々たる利権、権益を巡って争うことを考える生活よりは、明日の命も危なかったあの時代の方がよっぽど自分は幸せだったと確信できた。
世間知らずの英雄二人を補佐として守り、その無鉄砲な背中を追いかけていた壮年期の記憶は、老人が心折れそうになるといつも誇らしい思いをくれて、失った勇気を取り戻してくれたのだ。
陸に揚がった漁師は苦しい。仕事は慣れず低待遇なものとなるか、さもなくば見つからない。よほど運がなければ生き残れないものだ。
しかし最後の幸運か、ゼトには商売や薬草の知識が残っていた。かつての旅で学んだ手遊びで、こんなところでも英雄が救いをくれた。
最近の老人はポーション作りの真似事をしていた。本物と比べれば、最下級のポーションにさえ品質の及ばない薬ではあるが、それを行商に売り、代金分の食料などと交換することでなんとか生計だけは立てられていた。
朝の霧は深いが、優しい春の日差しがもうすぐこの森を照らし視界を晴らすだろう。
そういえばあの英雄に出会ったのもこんな春の日だった。
「そろそろ行くか。今日取った分を干すところまでやらないとな」
先ほどまでの、陰鬱で苦しい気持ちは消えていた。日没までに今日の仕事をこなすには、早めに薬草の群生地へと籠を持って出かけなければならない。最近は森にもゴブリンが出ることがあり、かなり危なくなって来たが、なに、惜しむ命ではない。
自分の薬もどきが売れるのは、戦況や景気が悪化し、物資が不足しているからだ。今現在なら僅かな効果でも薬効が確実でさえあれば、薬が必要な者には高く売れるのだ。
おかげで生活できるし、こんな自分でも誰かの役に立っているという確信が得られる。かつての幼い英雄が何とかと呼んでいたものを、落ちぶれた自分も手離さなくて済む。
「そうだ、『存在意義』だ。難しい言葉だが、もっと難しく言えば、『天命』とも言うとか。ジュアンカーリ様は理屈屋だったな」
最後のスープを飲み干しながらゼトは汗をかいた。思い出すのはここへ来たばかりのころのこと。一時期は昔のツテを利用し、盗賊にでもなろうとまで思い詰めていたのだ。
落ち込んだ心に流され、捨て鉢にならなくて良かった。最後の己の意義まで失うところだった。
ゼトは久しぶりにかすかに苦笑いをすると、こん棒を背中に背負い、ナイフをベルトに差して、家を出る。そうしてゆっくりと、薬草のありかへ歩き出した。
このフェンダイル地方にも朝が来た。いつもはエメラルド色の海にもまだ白い霧が立ち込めている。
港町サリアで一番大きい屋敷、少女はここに住んでいた。二階にある私室のベットから、少女は静かに起き上がる。テラスからの光が、朝の色になっていたからだ。
窓をほんの少し開け、少女、この屋敷の一人娘であるローレラは少しだけ鼻に皺を寄せた。海風の匂いに炭にした魚を思わせるサハギン臭が混じっている。
今日も憂鬱な一日になりそうだった。
ローレラはその肩まである髪を軽く梳いた。自慢の金髪には先端に緩いが丁寧な巻きが入っており、港町の娘にしては繊細で白い肌を持っている。形は優しげだが、それに反するようにきつい意志の光を宿した垂れ目。まだまだ少女らしいが女性であるのが分かる体つき。育ちの良さがすぐに分かる所作と合わせて、十人いたら十人とも可憐と表現するだろう少女だった。
着替えを終えて、部屋を出る。朝食のためにリビングへ向かわねばならない。
両親は、もう席にいるだろうか。正直、顔を見たくない。もううんざりだった。
物心ついてからずっと父と母はすれ違ってばかり。子供の頃は仲直りするよう何度も呼びかけ、その度に失望の涙を流した。
最近はもう打つ手なしとして、少女は娘の義務、と言えるようなものでもないが、両親の橋渡しは諦めていた。
通じなくなった心を元に戻す方法などない。いや正確に言えば、両親は最初から通じあったことなどないのだろう。ローレラは十五年の人生から、それを徹底的に学んでいた。
政略結婚は一般のイメージと違って意外と夫婦中が良くなることも多いものだ。家柄を考える以上、お互いの出自の階級が釣り合っており、知性のレベルが近いのだから。
そして二人とも結婚が同盟や契約であること、一族の仕事に関する義務などを互いに理解していて、少しづつお互いを知っていける場合が大半のためだ。
しかし両親たちは互いに別々の理由によって義務感など共有していなかったし、また愛情も満足にあるとは言えなかった。
ローレラは憂鬱に顔を落とす。ああ今日も、顔の肌が凍ったような父親から、母に心がないことや母が裏切り者であることを非難する繰り言を聞かされねばならないのか。
今日も、少女のような表情の母の相手をして、十八年前の古い英雄譚のよき聞き手にならねばならないのか。
全てがうんざりだった。
「……カーリ様はあなたとは違います! 千の魔物の軍団を容易に打ち倒したのですからね!」
「まだそんな夢を昼間から見ているのか! いい加減現実を見ろ! 英雄だからといってそんな馬鹿げた力など出せるか! 出せたとして、英雄はここにいない! この私の港町を守れる英雄など……」
「現実? ですからしっかり見ています! 英雄様がすぐに来て助けてくださいます! あの方は無力な、血筋や口ばかりの男ではないの!」
「……それでもお前は妻なのか! 母親なのか! この町は、一族の義務は、家族はどうでもいいのか! あの半魚どもは既に浜を占拠しつつあるのだぞ! このままでは私の町が! 避難と同盟を兼ね、ローレラを……」
「こちらの台詞です! なぜあなたは英雄じゃないの! ローレラを人質紛いに他家へ引き渡すなど、できるわけがないでしょう! あの子は英雄に嫁ぐ子なのよ!」
先方の部屋から聞こえる騒音。全てローレラの予想通りだった。どうやら今日も二人は朝食をともにし、互いに罵り合っていたらしい。それほど嫌い合っているなら、せめて顔を合わせなければいいのに、最低限の体面を失うのは二人とも怖いようだった。
少女の手足は冷たくなった。子供の頃からずっとこうだ。二人が怒鳴り合いを始めると、全身から感覚がなくなる。自分の存在を悟られないように足音を消し、入り口近くで立ち止まる。
怒鳴り声に怯えながら、控えている使用人たちは表情を固くしている。見かねたのか女中長が二人に呼びかけた。
「あの、失礼ながらそろそろお嬢様を呼んで参りませんとお食事が……」
折角、女中長が気を利かせて話を逸らそうとしても、両親ともが聞いておらず、自分の意見だけをがなりたて続けている。二人が話し合っているつもりなのは町と娘のことだったが、よくよく聞けば本質的に二人とも興味があるのも拘っているのも徹頭徹尾自分自身のことだけだ。その点だけはお似合い夫婦と言えた。
この町の町長とも言える父親と、その夫人である母。とてもそうは見えないけれど、とローレラは一人呟く。
本来サリアの町はフェンダイル男爵が治める領土の一部だったが、代官が対魔王軍戦の将校として引き抜かれてからは代行の者がいまだ決まっておらず、上級の平民と言えるサリアの町の上層部が半ば以上自治を任されている状態なのだ。戦争が激化し、貴族が足りなくなったか、さもなくば凶悪なサハギンが出没する土地になど誰も来たくないかのいずれか、あるいは両方だろう。
この危急のときにも、二人は手を取り合わない。
ローレラはリビングからそっと立ち去ることにした。どの道食べられそうもない食事は抜くことにしたのだ。春なのに廊下の空気は冷えていた。
少女は思う。こんな自分でも一般の人から比べれば恵まれてはいるのだろう。明日の食べ物を手にいれることにも、風雨を凌ぐ場所を探すことにも苦労した経験はない。それだけでも、この世に生きる者たちの大半と比べて恵まれている。
例え父が、決して自分に愛を与えない妻への執着と怒りから、一族の義務である町のみを愛するようになり、娘を生まれた日から疎かにしていても。
例え母が、少女時代に自分を助けた英雄のみをいまだに愛し、娘を含めた現実など全て上の空、甘い思い出の中でだけ生きている女でも。
少女は、確かに恵まれていた。
しかし恵まれていることは、苦悩に満ちていることと、立派に両立するのだった。したり顔の道学者なら民衆に我慢を教えるために、民衆よりもっと貧しい者を持ち出すかも知れない。多くの人間も、苦し過ぎる時には自分を守るために、自分よりずっと惨めな者を探して自分の自尊心を救う努力をするだろう。しかし本質的に、他人がもっと苦しければ自分の苦しみが軽くなる、という道理が存在するわけではない。
百の城壁に囲まれ、万の財貨に埋もれながら、不幸になる人間もいる。
ローレラのため息は止まらない。今日も憂鬱な一日になりそうだ。いやこれからもずっと。
いっそ、どこかへ行ってしまいたい。それこそ、英雄に連れて行って欲しかった。
「……母上でもあるまいし。それに私の人生に英雄は現れないだろうから、どうせ、無理なのでしょうけど」
少女の思惑に反し、その日は憂鬱な日にはならなかった。屋敷にその日、一通の書状が届いたからだ。
その一日は憂鬱ではなく、おぞましさと悲しみに満ちていた。
このフェンダイル地方にも朝が来た。サリアの町以上に浜に近い森の朝は霧一色。
森の大きな廃屋の中、ロザントは目を覚ました。流れの中年剣士、といった風貌だが、髪には白いものが混じりはじめている。
ここはかつての森の兵士の詰め所だ。既に危険となった森に人は置かれず、職務は詰め所ごと破棄されてしまっているが。
周囲に、昨日大酒を喰らった部下達が半裸で転がっているのを、ロザントは押しのけた。そうして自分の手足のわずかな軋みを感じ、吐き捨てる。
「我ながら落ちぶれたもんだ」
身に着けているのは薄汚れた、元は質が良かったろうシャツに、しばらく履き替えられてもいない古くて細いズボン。眠るとき脱ぎ忘れた外套だけはややましな品だった。
帽子を掴むと袖に擦りつけて汚れを取りそのまま頭に被る。伸ばし放題の口髭や顎鬚を擦って指の汚れを取ると、酒ビンと食い物のカスが散乱する床から小剣を拾い上げた。
遠く、蹄と車輪の音。行商の馬車が来る気配がしている。いや、聞こえ方が遠くなっている。過ぎ去ってしまったのだ。追いかけても間に合わない。それ以前に準備不足ではどうにもならない。
二十二人もいてなんてザマだ。
見張りをしているはずの部下の怠慢に舌打ちをして、当番だった者には制裁を加えることを決意する。場合によっては全員に。最悪死人が出ても構わない。
ロザントは昨夜の暴飲暴食のツケである吐き気を堪えて立ち上がった。自分の腹はこんなに出ていただろうかと嘆息する。もう四十歳をいくつも過ぎた。都会生まれには辺境暮らしがきつくなる歳だ。
かつて王都で、貧乏とはいえれっきとした騎士の任を務めていた頃の記憶が、遠い。ロザントの左腕が震えた。
貧乏男爵家の三男上がりの騎士としては、かつての自分は立派なものだった。皆、優雅で華麗で実もある剣の腕を、貧乏なりに気の利いた洒落者であることを褒め称えてくれた。女たちも打算なく微笑んでくれた。あの頃とは雲泥の差だ。
思いが募り過ぎたせいか、中年剣士は腕を椅子に打ち付けてしまう。テーブルから空になった酒ビンが転げ落ちかけた。
彼は音もなく左手で小剣を抜刀すると、相手がパンであるかのようにするりと抵抗なく酒ビンに差し込んだ。ビンが床に落ち割れるのは勝手だが、やかましいのは御免だ。そのまま酒ビンをゆっくり持ち上げてテーブルに戻して立てると、音もなく引き抜く。そしてぞんざいに納刀した。一言で言って、超人的な技量だった。
この剣技以外の全てが、あの日裏切ったのだ。十八年ほど前の記憶が甦る。そうしていつものように苦い思いが、ロザントを苦しめた。まだ彼が栄光に包まれていたころ。
あの頃はすべて手に入れられると信じていた。こんな惨めな未来がやってくるとは思ってもいなかったのだ。それもこれも一度の失敗のせいだ。一度のヘマのせいで望みのものを手に入れられず、惨めに力及ばず敗北し、立場もカネも栄光も女も、全てを失った。何よりも、たった一輪の自分のための花を。
世間の連中は噂話どおり、自分が魔王軍と戦って死んだと信じているのだろう。誇り高く戦死したはずの勇士がここにいるとは思うまい。自身でも信じがたいが。
このままで、終わりたくない。
ロザントはそのためなら何でもするつもりだった。指の震えを抑え、胸の手紙を取り出す。三日前に忌み嫌っている古い馴染から渡されたもので、ある依頼が命令調で書きなぐられていた。
勝算の低さから応じるか応じるまいか悩んでいたが、もう決めた。一生この暮らしを続けるくらいなら、破滅の危険くらい冒してやる。
恐らくこれが、最後の機会になるだろう。手紙の主も同じはずだ。落ち目なのは相手も同じなのだから。この日のために自分を生かしておいたに違いない。
「俺が終わってるだなんて、たとえ真実でも俺自身が認めるわけにいくか!」
それはロザントの心の底からの絶叫だった。
いけ好かない奴でも渡りを付ける必要はある。
ロザントは寝こけた部下の顔を蹴り上げ、怒鳴りつけて行商が過ぎ去ってしまったことを教えてやると、全員を集めるように指示した。
このフェンダイル地方にも朝が来た。サリアの浜辺は冷え込むが、洞窟で寒さを凌ぐことは、立場の弱い氏族には許されていない。
上級の変異種であることを示す、灰色の肌を持ったサハギンが、浜で潮風になぶられながらため息をついた。彼、ロンギットは不遇をかこった。
仮にも俺は族長なのに。
この低い待遇も、この無謀な侵攻も十二分に愉快ならざるものだったが、馬鹿な将軍気取りのべラムが、この集団のリーダーであることは別格の不愉快さだ。いや、そもそも別派のサハギンに過ぎないべラムたちが、自分たちの本拠であるレンデルン島に押し掛け、近隣のサリアへ出兵を強要してきたこと自体が。
とはいえ、亜種であるロンギットの灰色氏族は全体でたかだか百二十の戦闘員しか持たず、ここにいる頭数にいたっては七十に足りない。全体の五分の一以下だ。残りがベラムの派閥のサハギンである以上、この会戦ではこちらは使い潰す対象くらいにしか味方にも思われていないだろう。半端な反抗は危険だった。
そもそも本拠に間借りしていたに過ぎなかった連中の、数に物を言わせた脅しに屈しての出陣である。発言力が乏しくなるのは覚悟していたが、ここまでとは。
同じ氏族を出自とする魔将の死、十七年前の彼の死が、ここまで響いていたとは。
ロンギットは己の不幸を呪った。当分自分たちは危険で低劣な扱いのままだ。何一つ得る所のないこの見張りの任なども相応の期間、続けなければならない可能性が高い。
現状のサリア攻略戦の作戦目標にも、ロンギットは反対だった。
なんと海を制するはずのサハギンが、あの町を制圧、統治するとのことだったからだ。なんとしてもやめさせようとしたが、無駄だった。
人間の港町など押さえてどうするのだ。港を潰すのならばいい。人間を殺せるだけ殺して人口を削減し、肉は食糧にでもして即撤退するのならばいい。だが労多く益少ない町の制圧など行ってしまって、どうするつもりなのだ。
他の魔物になら管理できる種族もいよう。だが自分たちサハギンが陸を掌握しきれると思うのか。この烏合の衆では海の中でさえ、独断専行が目立ってきているのに。人間に隙を突かれやすくなるだけだ。
べラム一派は海での漁師相手に偵察や接触まで行なって、一年前から人間の戦意や力を試していたそうだ。連中が本心から魔王軍への参入を望んでおり、制圧した市街を以って本軍での待遇交渉の材料にしたいのはロンギットにも分かる。
しかし今の数だけ増えてしまった魔王軍では、四百ぽっちの兵よりは圧倒的に利用できる拠点一つがありがたい筈だ。勝利したところで、サハギン全員を足したより価値の高い町が崩壊していたならば手柄もになりはしない。本軍はそこまで甘くはない。
この無駄な馬鹿騒ぎ自体、ロンギットには軽挙妄動の類にしか見えなかった。
大体が、この件に関して圧力に抗し切れずに参戦を決めたときから、サリアに対しては搦め手で行くつもりだったのだ。サリア近辺の漁師の圧力は実際に、侮れなかった。近隣の人間から戦力を殺ぐこと自体には異存はない。
だが、無理押しの力攻めをやる理由がどこにある。勝っても無駄に兵を損なうだろう。町の施設などを毀損していれば、それこそ参入予定の本軍から能力を疑われるだけだ。
その程度のことは、十七年前の魔王軍なら常識だった。主流派は前大戦の経験などなきに等しいのだろう。この時点でべラムは体が大きく、彼の氏族の息子であるというだけで立てられている凡愚だと、灰色のサハギンたちは見切っていた。
そこまで考えて、ロンギットはかつて自分の主君筋であり一族の誇りだった、かつての魔将サーゲインを思い出した。サーゲインは灰色をしたサハギンの英雄。魔王軍歴代でただ一人、サハギンから魔王の直参である魔将に選出された男だった。それも並みの魔将ではない。十三魔将次席とまで呼ばれた傑物だった。
恐ろしく強く、狡知に長け、それだけでなく将としての器も優れていた。部下にも別種族に対しても公平で、サハギンだけでなく、魔王軍や海の未来までも見通す先見性を持っていた。彼さえいれば、人間の海軍など恐るるに足りなかったし、灰色サハギンの魔王軍での地位も磐石だった。
栄光全てが色褪せ、終わってしまったのは十七年前の王都戦以後。サーゲインがたった二人の人間に殺されたときだ。いや、たった二人だが、敵は英雄だった。
風とミスリルの英雄、銀風ジュアンカーリ。
女神の使徒の第一位、結界の姫ヨキア。
雑兵の肉と骨を撒き散らしながら、決戦の場に人間の英雄たちは現れた。そしてこちらが首脳部であることを確認すると、無表情のまま即、攻撃を始めたのだ。
幹部相当数を含むその場の全員が本気で応戦したが、とうとう英雄たちを押し返すことすらできなかった。
一番に突貫したサーゲインは英雄の銀風にその鱗と肉を焼かれ、激痛に悶えている内に結界の剣で肉体を縦に断ち割られるという、あっけない最後を迎えた。魔軍で五指に入る実力者を虫ケラのように。……彼の副官として参戦していたロンギットにも、目の前のあまりに一方的な殺戮は冗談にしか思えなかった。上官を制止する暇さえなかったのだ。
当時の魔将筆頭もその数十秒後にすぐ後を追い、最後に魔王でさえ、多少は善戦し反撃を入れたものの特段の手傷も負わせられず、あっさりと一撃をもらい離脱した。その後、魔王も故郷の土を踏むことなく敗走の途上で横死したとの報が流れ、魔軍全員、今までの目算全てが壊れてしまったことを知った。
人類領域の完全制圧どころではない。魔物は、王の死の瞬間に狩られる側に転落したのだ。あれから十七年、ここまで盛り返すのは容易なことではなかった。
ロンギットは今でもときどき夢に見てうなされる。あの力の象徴、あの灰色サハギンの誇り、あの英傑サーゲインが草を刈るように殺された風景を。無感動に殺戮を続ける、黒目黒髪の化物二匹のことを。
灰色のサハギン氏族は英雄の敗死とともに、全ての名誉と、何よりも最高の指導者を失ってしまった。一時期は魔人に次ぐほどの地位にいた自分たちが、今は他の弱小氏族の言いなりで、この体たらくだ。
この苦境を乗り越えるには、忍耐と努力のみでは不可能だと全員が知っていた。
「……取り戻すのだ。すべてを」
ロンギットは、それだけ呟いた。己の覚悟を確かめるにはそれで十分だった。
準備は終わっている。無能者のベラムにいつまでも付き従わなくてよくなる算段も。あとは、旧知の者がどう反応するかだ。
サリア方面からは、強い臭気を感じた。サハギンには耐え難い悪臭は、人間の体臭に違いなかった。
ちなみに時系列上は全部主人公が異世界へ移動前のお話になります(四人?とも違う日のできごとです)。見事に負け犬しか出てこねえ。最初は一人だけミリオネアを混ぜる予定でしたが、その時点でサハギン枠しか空いてませんでした。