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虚術偽刃(ホーカスポーカス)のレンジュアーリ  作者: クラゲ三太夫
第二部:硝子の楽園には 蝶なんてやっぱり飛ばなかった
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EP.30 旅は憂きものつらきもの 彼女のノック一回目

 なだらかとは言え登りの勾配を進む馬車は、想像以上に揺れた。左右は木々がまばらに立つ森の小道。

 春の昼下がりの陽光に、車輪にひき潰された青草の匂いがわずかに漂った。

 アーチ上に張られた幌の入り口から入り込む外の風景には、森を最近切り開いてできた道がずっと続いている。

 内臓への振動が、吐き気を誘う。俺が加護によって強化された肉体を持っていなければ、既に泣き言を口にしていただろう。

 この世界の旅は、決して快適なものではない。


 現在俺たちは馬車で北上中。標高が少し上がったせいか、春にしてはやや肌寒く感じる。

 手にしたネタアイテムのコンパスは進行方向を向いたまま。マップでも確認した限りでは、地球製なのにちゃんと機能している。

 この世界は地球と共通する方位や地磁気や気候傾向を持っている。理由は謎だ。

 ベベリアスクに来てからというもの、驚いてばっかの俺にすれば、できれば原住民の常識の方を日本と共有して欲しかったが。


 俺がいる荷台に載せられているのは、旅装を除いても面積の半分以上を占める、行商で売る予定の物資。

 中身については一通りしか知らない。ゼトが張り切って準備したため、積み込みくらいしかやっていないのだ。

 俺がした準備は、せいぜいがサリアで金貨を崩して銀貨銅貨を大量に準備したことくらいだ。俺はお釣り係か?

 見える範囲での物資は、ことごとく『純化』した雑貨が埋めている。

 サリアで捨て値で売られていた毛布や服、盗賊団の死体の近くに落ちてた装備その他の雑貨。新品と言えば薬粉、そば粉くらい。

 そして、試験販売用兼、雑貨を買ってくれた相手への試供品としてノミ取り粉。無論、犬に使用済のやつ。

 これは中世世界で科学文明の産物を広める危険度を測るための、テストとしての販売である。

 自分で安全を損なう結果になるかもしれないが、今のうちに試しておかねばならない。

 俺の周りで奇妙な現象が起きている事実を、暇で村意識の発達した中世民にいつまでも隠し通せるとは限らないから。

 発覚したときの言い訳や誤魔化し方を勉強するためだ。


 ……しかし粉多いな。他は俺が純化したとはいえ、中古品ばっか。ベベリアスクでは中古市場も一般的だが。

 ベベリアスクにおける人間は元々、魔物と拮抗する二大勢力の片割れに過ぎない。初めから社会全体の生産力が高くないのだろう。

 食糧を除き、サリアにだって新品を売る店は少なかった。

 庶民からすれば中古であれ一財産なのだし、貧乏人にとって一般的な買い物とは、他人のお古をカネで入手することを意味していた。

 だが、リサイクル品ばかりの中にある新品が粉だけだと、なんか偽装した危ない薬の売人ディーラーご一行みたいだ。

 自由に生きてるが傲慢なつもりはないさ、検挙って言葉が似合う僕たち。今日も牢の中。アホなキャッチコピーが脳裏に響く。


 俺は今、薬粉を詰めた樽に腰掛けるふりをしながら、腕組みをして進行方向へ語りかけているところだ。

 胡麻塩どころでなく、白い部分が多くなりつつある老人の頭に。


「それで、俺は言ってやったのさ、別れが悲しくて行かないでと俺にすがるお嬢にな……」

「その後、燃えたお二人が物置部屋で熱い抱擁とともに、結婚の約束を交わした、とのお話は、もう十分に堪能致しましたので。レンジュアーリ様」

「丁度、示し合わせたかのようにオルゴールから流れた二人の愛を祝うエンディングテーマ。どんな曲かって? もう、しょうがないなあ。ゼトの知りたがり屋さんめ……」

「このゼト、歌って頂かずとも、結構ですので。レンジュアーリ様」


 旅立って二日目。残り、十四日間。ファムファルへの旅は、急な出発だったせいか、やや遅れ気味だ。

 俺は、御者を務めるゼトに、必死のうそっこプレイボーイ武勇伝を聞かせていた。

 生まれてこの方、振られ続きだったこの俺に、初カノができたのである。小さな一歩ではあるが、俺にとっては大躍進。

 少なくとも、一人の女の子が俺を好きになってくれた! 実績。実績である。

 これはもう、お嬢の後に続くハーレム要員が約束されたようなものじゃないですか。

 俺だって配下にくらい自慢したい。見栄を張りたい。


 ゼトはなぜか呆れた声を返してくる。言葉遣いに棘もある。

 まあ馬車を操ってるのに暇つぶしの世間話に付き合わされてるしな。でも分かって欲しい。

 野営生活は、俺の経験したことのあるサバイバル訓練や、親父との野外講習以上にきつく、何より、娯楽に乏しかったのだ。


 俺はアウトドアでのキャンプは嫌いではなかった。だがそれは日本の話。

 そんなものは所詮、道具にも環境にも文明との距離にも恵まれた、ママゴトに過ぎなかったと痛感した。

 旅の初日、昨日の夜。

 森の開けた場所で馬車を停め、焚き火を用意するあたりは楽しかった。

 簡易かまどの余熱で、ゼトが膨らまないパンを器用に焼き上げたところまではよかった。

 だが食事を終えて寝ようとすると、森に虫が多いことに気付いたのだ。サリアで買い込んだテントではかなり侵入される程。

 噛むタイプのタフな虫が多すぎた。不快感は日本の虫の比ではない。

 例えテントが壊れても寝心地が大事。そう考えて買った持ち運び用の簡易ベッドも、背中の肉に食い込むほど、硬かった。

 周囲からは絶えず虫と獣の声。結局眠りは浅くなった。でもここまでは俺もなんとか我慢したのだ。


 火があるのにモリオオカミとゴブリンが普通に集団で襲撃してくるまでは。

 それもオオカミと戦ってるときに背後からの急襲。殺す気もうパンッパンだった。

 俺は敵意に気付いた瞬間、叫びを上げてベッドから飛び起きた。

 ようやく気が抜けて寝られたのは、追加の敵も全部メイスで殴り殺してから。

 これは『察知』スキルなかったら死んでたんじゃないでしょうか。とにかく、精神の磨り減る突発イベントだった。


 寝ておらず淡々とゴブリンを盾で殴り殺していたゼトに詰め寄ると、逆に驚かれた。ベベリアスクの旅なんてこんなもんらしい。

 腕利き揃いだとか、極秘の移動とか事情があるならその限りではないが、基本は、十人以上のそれなりの人数で移動すべし。

 そして夜間警戒を徹底的にしないとすぐ負傷者くらいは出るそうだ。


 ジジイはどうも自分が警戒役まで兼ねるつもりだったらしい。今回も鳴子やゴブリン避けの匂い袋を一人で準備し、使っていたようだ。

 何を考えているのか。まさに年寄りの冷や水、いや死に水。過労死コース一直線だった。

 慌てて、あまり睡眠が要らないと判明したゴレムントが基本、夜警を務めるシフトに変更。

 人間班の警戒は今後、俺と交代でやるよう命じた。

 間抜け極まりないが、このザマは従士団の数がまったく足りてないのが悪い。ついでに改善の見込みは今日も立っていない。

 そして、事前にこの問題に気付いていても、どうしようもなかっただろう。

 出自、能力、目的、来歴。俺に秘匿しなければならないことが多すぎて、下手に案内も雇えないのが根本原因だから。


 やはりアランをモデルに、改造した犬猫を大量生産するしか戦力増強の妙案はないのであろうか。

 いや、あれはどこまでいっても、安全性が確立された方法にはならない。気軽に試すわけにはいかない。

 獣を強くするだけなら簡単だ。だが強くした獣を、確実に制御できるとは限らないのである。

 アランと違い強化こそしなかったものの、俺が実験で治療した野良犬は、実は一匹ではない。

 何匹か同じ手順で治したのに、最初から俺に忠実な態度を取ったのはアランだけだった。

 どいつもこいつも恩知らずにもまずは反抗の姿勢を見せた。


 結局、治療したアラン以外の犬は半死半生になるまで殴り、アランに引き渡して手下として再教育させるという本末転倒な経緯となった。

 下手な強化は味方どころか、人間を襲う危険な禽獣を生み出すだけの結末になるのは見えている。

 気がついたら人間の遺体がキャットフードとしてゴミ捨て場に転がってる港町なんて最悪だ。

 サリアント家の食客の地位を失えばホームレスに近い立場へ転落する俺でさえ、そんな町の住民票は頼まれても要らない。

 特に町長など、いの一番に殺られるだろう。レベルわずか6だからな。猫まっしぐらの晩飯候補だ。


 俺の幻視の中で、凶悪化した犬に、猫に、ネズミに噛み裂かれて町長が何度も絶命する。

 倒れ伏したモヒカンの毛が、モップのようにサリアの路地をさらい、血で文字を書いた。

 ミミズがのたくったような、センチメンタルな字体のさよならを。

 アニメのバンクシーンのように、脳内を百回以上、町長死亡シーン集のラッシュフィルムが駆け抜けていく。

 妄想の映像内ではサリアント殺しの主犯がザリガニに移っている。ホラー映画の殺され役のような安い命がまた散った。

 俺は怒りに燃えた。町長への。

 仲良くもないオッサンが妄想に気安く出演してくるなんて初めて! 脂ぎった死に際の断末魔! 想像させるな夢見が悪い!

 涙目で俺は『百一匹食人ワンワン大行進』作戦による従士団強化を、諦めるしかなかった。


 あのオッサンが貧弱なばかりに方針を変えねばならんとは。俺は悲しみを堪えられなかった。

 別に町長を心配して取りやめたわけではない。ハゲ改めモヒカンなど、何人死んでも構わない。

 だがアレでもローレラの父親である。お嬢も父が死ねば悲しむだろう。それが家族ってものじゃあないか。

 嫁は婚姻の事実自体を否定していたようだが。浮気を超希望してるが。真昼にネグリジエで俺の前に出現しようとする女だが。

 それはまあ置いといて。


 俺からしても身元保証は惜しいし、証拠があろうが無かろうが似非中世社会では疑われたらアウトなのだ。

 サリアに危険が及ぶ真似をすれば瞬く間に容疑者にされ、俺たちの居場所などすぐなくなるだろう。

 動物作戦は最初から無理か。


 最悪、これに頼るしかなくなる。本当にやりたくないが。

 俺はそろそろと、『女王の鞭』と『豚の首輪』をインベントリから取り出した。

 実験の結果、恐ろしい効果を持つと判明した禁断の道具を。俺に逆らった愚かな犬で実験した悪夢の神器を。

 この両者は対を成し、片方だけでは効果が無い。使い方は簡単だ。


 攻撃力は低いものの鈍器枠である『女王の鞭』によって一度でいいからダメージを与えた上で、瀕死の状態まで相手を追い詰める。

 目安は生命が一割を切るくらいだ。そして一応アクセサリである『豚の首輪』を相手の首でもどこでもいいから嵌める。

 するとどうでしょう。あれほど凶暴だった野良犬が、借りてきた猫のように大人しくなり、従順になる。

 俺の実験結果では、嫌らしいことに犬は自動的に仲間に加入していた。

 仲間マーカーとスキル『鑑定』で判別した限りでは、従士団でもエージェントでもなく、奴隷枠でだが。


 つまりこのお洒落な装いは一言で言えば、強制ティムアイテムなのだ。

 ゲームではボスやユニーク、あるいはイベントキャラなどには効かないものの、お手軽に気に入った相手を仲間にできる便利グッズだった。

 しかも大体の相手に有効なだけでなく、効果は永続する。強いて言えば奴隷化する際の、残り『生命』の調整が難しいが。

 強いモンスターや傭兵でも、死ぬ気で挑めば一回くらい相手を追い詰めることは可能だ。

 誰でも比較的少ない苦労で簡単に頼れるお供を作れる人気グッズだった。


 実験した結果、問題点が三つあったが。

 一つ目は、ゲームと同じく一対が仲間にできる対象は一名のみという点。

 ゲームとの相違は、ゲームではティム成功と同時に破損し消失するはずの鞭と首輪が、現実では壊れずに残ることだけ。

 ティム後にインベントリに入れても別に効果は消えたりしない。そして再利用可能なのだ。

 ただし、一度に対象とできるのは一名のみ。一対しか持っていないのだ。奴隷化した相手が死ぬまで、次の奴隷は作れない。


 二つ目は、ゲーム仕様を再現するためか、状態が常時『洗脳』になってしまう点。

 これはゲーム上の『主君たるあなたのもたらした苦痛が、愚かな豚に真の悦びを教え、狂おしい永遠の忠誠を呼び覚ます!』というアバウトかつ男らしい一文のみの設定によるのだろう。

 奴隷化した相手は受け答えがおかしくなり、挙動は常に不審となる。そして異常なまでに忠義のみが溢れるキャラになってしまう。

 ただ一つの衝動を除いて、主人に逆らえる要因の無い狂信者の誕生だ。そしてこの状態異常は解除不能。

 これでは普通に周囲から異常者であると疑われる。当然主人である俺もセットで。


 三つ目は、奴隷に目覚める衝動。これが最悪の問題だ。

 被検体は、この衝動によってほとんどすぐに死んでしまう。

 最低限の恩義も知らない、頭と性格が悪い野良犬がかつてある港町にいた。名を仮にポーと呼ぼう。

 ある日、誠実な少年が路上生活で死に損なっていたポーを、親切にも助けてあげた。

 だがポーは命を助けてくれた美少年にまで噛み付こうとする、最低の糞野郎だった。慈悲深いイケメンもこれには赫怒。

 川原でブレーンバスターを華麗に決めて、ポーの意識を刈り取った。だが馬鹿な犬は懲りず、失神から回復してはまた噛み付こうとした。

 仕方なく、心優しい少年は一日で六回ほど追加を食らわせ、終いには目撃したサリアの子供たちにからかわれた。囃し立てられた。

 ちなみに美少年はソバを売っており、なかなかの営業力を誇っていたが、この日からソバはぱったりと売れなくなった。


 アレ? これソバの販路潰れたの、しょうね……いや、俺の自業自得じゃね?

 少なくとも俺なら、川原で野良犬と毎日プロレスしてる奴が作ったカルボナーラとか、絶対食いたくねえ。

 衛生観念の上でもそいつが茹でた麺とか口が受け付けないが、そもそも野良犬を打ち倒すのが趣味の奴と知り合いになりたくない。

 ……それはまあいい。よくないが。とにかくポーはマジでクソだった。アラン曰く、生まれつき長く生きられないタイプの奴とのこと。

 犬には社会性があり、当然相手との関係はある。誰彼構わず噛み付くような馬鹿は、すぐに淘汰されるらしい。

 このままでもポーが長くないと悟った俺は実験も兼ね、最終手段を使った。首輪による奴隷化である。

 最初は良かった。あれほど存在そのものがゴミだったポーが、良い子になったのである。アイテム探しも調査もやってくれた。

 アランに次ぐ、俺を補佐してくれる犬になると信じられるほどに。


 ポーが、俺に殴って欲しがるようになるまでだったが。

 どうもアイテムの設定のせいか、首輪の装着者は必ず被虐趣味マゾヒズムに目覚めてしまうらしい。

 しかもこの衝動は忠誠心を上回る。

 最初はまだ良かった。俺に罰を加えてもらうため、屋台を襲い食材を奪うなど、わざと問題を起こすレベルだったから。

 だがポーの性癖は半日でエスカレート。

 最後には究極レベルの快楽、すなわち死の苦痛を求め、歓喜の雄叫びとともにサリアの衛兵に突撃していった。

 そして、衛兵に袋叩きにされて多幸感の中で死んだ。……あんな奴でも、凄い死に方にさすがにショックを受けた。


 どうしてこうなったのか。初めて鞭を手にしたとき、有頂天になってたのが悪いのか。

 殴ってやりたい。『この異世界で、美少女メスブタたちを覚醒させるのが俺の使命だったのだ!』とはしゃいでいたあの頃の俺を。

 サリアに大人の社交場を作るべく、ネタアイテムの仮面を被り『夜の騎士サー・ディズム』を名乗って夜の港町を駆けようとし、ゼトに羽交い絞めにされた俺を。


 鞭と首輪は使い捨ての肉壁製造機にしかならない可能性が高い。迂闊に使えない。でも、頼らないと戦力が足りなさそう。

 俺は震えながらインベントリに、おぞましい一対のアイテムを収納した。


「お嬢。犬。油断。サブヒロイン。許すまじ。サブヒロイン。許すまじ」


 俺が馬鹿な犬の末路をはかなんでいたとき、警戒の主力、石のアルマジロが何かをつぶやくのが聞こえた。

 ゴレムントは勤勉にも馬車の後部を警戒。……しているわけではない。

 珍しいのか、さっきから度々馬車に入ろうとしてくる虻を観察しているだけだ。

 飽きたのか、吸血性で俺に害があると聞いたからか、今は魔術で構成された石の針で狙撃して、一匹残らず倒している。


 俺は精霊を無視して恋物語の続きに戻ることにした。


「いやいやここからが盛り上がる。ゼトにもぜひ最後まで聞いて欲しい。サリアにこの純愛物語を語り継いで欲しい」

「レンジュアーリ様が焦られておられることだけは分かりますが、どうか落ち着いて頂けないでしょうか」

「何を言っている。俺は真の愛について誰もが目をふさぎ、耳を閉じたままなのが我慢ならないだけだ。それに万が一、王都で演劇化されて俺が有名になったら、次なる美少女の押し掛けにも期待……」

「……では、その手にお持ちの、ゴブリンの骨を回すのをおやめください。いざというときの余力を浪費しておりますぞ」


 不意を突かれ、俺はコモン魔術『反転』を解除してしまった。手の中でゴブリンの頭蓋骨が回転を停止する。

 丁度そのとき荷台が揺れて、手から骨がこぼれ落ちる。

 昨日殺したゴブリンの死体から、インベントリの『解体』で作ったオブジェクトだ。

 馬車を操り続けながら、一度だけ、老人が振り返った。痛々しいものを見る目だった。


「なによ。俺がいまだ清らかな身だからって哀れまないでよ。ちょっとは実話も混じっているわよ。既婚者だからっていい気にならないでよ、ジジイ」

「……この不肖ゼト、この試練が急ぎということは存じております。レンジュアーリ様が何をそこまで急いでおられるのかまでは分かりませんが。毎日寸暇を惜しんで鍛錬されておられるご様子は、見ております。しかしながら、休むべき時間までも費やし、己を苛めておられるよう。……そこまで思い詰められても、良いことは何もございませんぞ」


 オネエ喋りを無視して顔を前方に戻したゼトに返すべき言葉はなく、俺は無造作に骨を拾い上げた。

 ゼトの理解力や洞察力は、俺の精神安定のためにも、もう少し下げるべきだと思う。

 俺に無駄な言動が増えてる時点で察するとかないわ。

 老人の言葉通り俺は心底、焦っていた。







 それっきり沈黙の落ちる古い馬車。


 俺は揺れの中、自分の体調を確かめた。

 乗り物酔いの吐き気は、五分も経たず去ってしまう。

 先ほど俺は木製の荷台の縁に擦って、指を切った。この馬車は古く、朽ちてできたささくれや溝が多いのだ。

 まだ三十分足らずの時間しか経過していないのに今はもう、俺の指に傷跡はない。

 睡眠不足の体なのに今日もしばらく、頑張れそうだった。

 筋力トレーニングとしてゼトとの会話中から空気イスもやっているが、まだ関節が痛くならない。

 微細すぎるダメージなど、すぐに自己治癒してしまうようだ。異常なほど、強くなった筋骨と回復力。

 悪鬼ロザントに近づいたレベル。そして無理やり伸ばした肉体的な能力値。それが現実に現れているのだろう。

 ベベリアスクの人間の平均的な能力は俺の見るところ、現代日本の人間と大差ない。

 だからどんな原理で高能力値、高レベルの人間が、ロザントのように強くなっているのかは分からない。

 だがこの調子では、俺も免疫力その他まで、既に地球の人間の範疇から外れつつあるようだ。


 次にウィンドウを開き、スキル欄を見た。スキルポイントは残り811。

 俺が生来得意なスキルでもない限り、通りいっぺんの必須スキルを習得するだけで瞬く間に溶けてしまう程度の成長の余地。

 そして、取得しても具体的な技能を学び取るまでは補正しか宿らない壊れた加護。


 最後にインベントリの中のアイテムの数々を確認する。課金アイテムに、現地の道具。

 そして、エリクサーを代表とする宝物庫から持ち出したもの。


 足りていない。致命的なまでに、次の試練に挑むだけの準備が足りていなかった。

 最低限の推奨レベル55。それを満たすのは困難どころの話ではないのだ。

 実はこの半月、サリアでのチュートリアルまでも夜な夜な行ない、俺は自己強化の可能性が残っていないか探求していた。

 それでも届かない。あの戦いから俺のレベルが成長することはもうなかった。

 恐らくは、既に危険のない範囲の格下しかあの界隈にはいないからだ。

 元のロザントでレベル43である。あれ以上の強者がサリア近辺にいるはずがなかった。

 死の危険があれば格下相手でも成長できるのは確認済みだが、狙って己を不利にしての戦闘など実施できない。

 理屈に間違いなくとも、わざと本当に死ぬ危険を引き込むなど愚かしい。

 ましてその苦労が、自作自演ならば実る保証はなく、無に帰す可能性もあるのではなおさらだ。


 楽園とやらで待ち受ける苦難は、魚人四百の軍勢と悪鬼を超えるものである可能性が高い。

 なにせハルミシアは嘘はつかないのだ。このままファムファルにたどり着いたとしても、俺たちの生還の見込みは薄かった。


 加えて調査期間。最短で着いたと仮定しても、その日を入れて残り九日間しかない。

 十日足らずで異変なるものの原因や正体を突き止め、場合によっては倒す。

 それは仮に相手が俺たちよりはるか弱かろうとも、不可能に近いと思われた。

 目に見える問題があるのなら、町民が既に解決しているだろう。

 なら考えられるのは、魔術的な何かであるか、権力者が敵であるか、誰も気付いていないところで異常が発生しているか。

 そんなところだ。流れ者の術士には、解決どころか簡単に事件にタッチできるような話ではない。

 そもそも、『ベベリアスク・オンライン』には解決が遅れると難度が上がるクエストまでもが普通に存在した。

 前回と同じく期限最終日近くまで引っ張って安全とは限らない。

 完全に、死出の旅路にしか思えなかった。


 俺は頭を振った。今確実にできることだけでも、成さねばならない。


 仲間集め。あと十四日間でできるだろうか。首輪と鞭無しで即戦力など都合よく引き込めるはずがない。

 かと言って雇うにしてもベベリアスクの傭兵は、平民以上に信用ならない。武装しているならず者と変わらないのである。

 ゲームでもゼトの話でもそうだった。

 アイテムの使用。もう、『超越の宝玉』でさえ、それほど俺自身を強化できない。

 武器も防具も、宝物庫の中で得たものを除けば、ひとまず最高位のものを身にまとっている。

 レベル上げ。不可能に近い。強敵は道端を歩いていない。歩いているとしても、出会うときは俺も死の淵を歩くとき。

 スキルポイント。スキルにはいまだ謎が残り、どれを取得すべきか読めない。俺の生来の特性外のものは特に。

 また迂闊に向かないスキルを身に付けるのは、無益どころか有害だ。

 特に未知のユニークスキルに頼るなど愚策中の愚策だ。それは人間から遠ざかることを意味する。絶望的な末路しか予想できない。


 ほとんど終わっている。旅立ちの瞬間に破滅がほぼ約束されていた。

 ……いや。初戦に比べれば、遥かに恵まれているはずだ。今の俺には強敵と戦えただけの力と、死の淵を覗き込んで学んだ経験がある。

 足りていないが、確実にあるもの。従士たち。経験。魔術。装備。道具。そしてまだ研鑽中だが、いくつか得た新たな手筋。


 非力だろうが、貧弱だろうが、戦うための武器はある。

 その思いに立ち上がりそうになったとき、優しいが高く大きい声が耳朶を打った。


「待たせたな! 来てやったぞ! さあもてなせ! 歓待しろレンジュアーリ! このボクが、ボクが依頼しに来てやったんだから!」


 いきなり肩を抱かれる感覚とともに、柔らかい感触。首を横へ向けると、黄金の瞳と目が合った。

 ばさばさの金髪に、白い僧服。手足は長く、胸が服を押し上げている。山猫のような印象の少女。

 最強最悪の女神。ランゼッシナが唐突に出現し、荷物の上に俺と隣り合って座っていた。

 この世界の、もう一つの頂点が。


 なぜ。ここで。おまえが。いきなり。まずい。くるな。逃げ。

 俺の焦燥など気にせずに、僧服の袖は優しく触れたまま俺を捕らえたまま。彼女はにこやかに笑いかけてきた。

 微笑には赤子を見守る母のような慈愛。

 なのに瞳の中に、蠢いているもの。溶鉱炉の中の溶けた金属を、山吹色にしたような。

 今日も好意と嘲弄が、踊り狂っていた。光彩のゆらめきは数億匹の黄金の蛇が、一斉に交尾しているかのよう。


「ん? 久しぶりなのに、歓迎してくれないのか? お祝いと依頼に来たボクを? なあレンジュアーリ?」

「いえ、お久しく。いらっしゃいませ、ラゼナ、様……」

「そうだボクだ! そしてラゼナ……お前の口からだと、何度聞いてもいい響きだ!」


 ゼトほどの男が、この来訪者だけは認識できていなかった。今も黙々と馬車を走らせている。認識外なのだ。

 ゴレムントはいつの間にか姿を消していた。合図の土魔術を起動する気にもならない。排除されたに違いない。

 俺は発汗もできないままに硬直した。


「……ボク、会いたかったん、だからな」


 ふんわりとした穏やかな花の香りと、活発な声に、そっと置かれた意外にも遠慮がちな手の軽さ。

 決して回避できない、災いの匂いと音。そして重みだった。

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