結界の外
月の宮は、その日も穏やかに月の結界に守られてそこにあった。
地の二人が滞在して、月の兄妹を育てるためにここを選んだのも、この絶対的な守りがあって穏やかであることを知っていたからだった。
ここの宮の王、蒼は、元は人であり、前月の二人の子であった。二人が闇と戦って命を落としてからは、たった一人で月の力を使い、役割を果たしていた。
そんな蒼の助けにもなるために、地は再び二人の子をなし、そしてその二人を月にした。
地は、命を落とした二人をそのまま転生させて、真っ白で何も覚えていない二人を一から教育していた。
二人は幼いながらも月の力を使う命として、月の宮で大切にのびのびと育てられていた。
双子でありながら、数分先に生まれた男の子は前世の名を継ぎ十六夜、後に生まれた女の子は同じく前世の名を継ぎ維月と名付けられていた。二人はいつも一緒で離れる事はなかった。対の命として、将来は婚姻を執り行うことになっていた。二人はそれを、何の疑問もなく至極当然の事と思って育っていた。
「お母さま、では、この輪はなに?」
維月は十六夜と共に母の陽蘭の膝にくっついて、首に掛けられた紐の先にある巾着を指して言った。二人は今10歳、だが、神として育っているので、外見はまだ人の5歳ぐらいでしかなかった。しかも、神の世で育ったので、やはりまだ子供だった。陽蘭は微笑んだ。
「それはね、あなたが生まれた時に左手に握り締めていたものよ。」
父の碧黎が頷いた。
「そう、なので主には、生まれた時から決められた夫がもう一人おると言う事だ。初めて会ったのに見覚えのある者がそれよ。十六夜も、共に探してやれば良いぞ。」
小さな二人はじっとその指輪を見た。よくわからないが、きっと分かるときが来るのだろう。
十六夜はまだ何か考えていたが、維月は飽きたようで立ち上がった。
「十六夜、湖にいこう?」
手を掴まれて、十六夜は慌てて立ち上がった。
「また行くのか?オレはもうあきた。川にしよう。」
維月は膨れた。
「イヤ。さっきのお魚また見るの。」
維月はぐいぐい十六夜の手を引いて走り出す。十六夜は引っ張られながら、まだ言う。
「維月!オレはあきたって言ってるのに!」
だが、結局十六夜は維月の行く方向へ共に走って行った。碧黎が苦笑した。
「…ほんにのう、まるで前世そのままの力関係ぞ。十六夜は維月には敵うまい。」
陽蘭がふふと笑った。
「碧黎こそ、維月に振り回されておられるくせに。」
碧黎はばつが悪そうに陽蘭を見た。
「まあ…娘とはあれほどにかわいいものかの。困ったものよな。」
十六夜は、仕方なく維月と共に湖へ来ていた。維月はこうと決めたらそうで、決して変えない。いつも十六夜が維月について来ることになった。しばらく楽しげに湖の上に浮いて魚を追い回していた二人は、岸に降り立った。
夕日が落ちて行こうとしている。十六夜が言った。
「維月、そろそろ帰ろう。父上と母上が心配するぞ。」
維月は名残惜しげに森の方を見た。
「でも…私、ウサギを見てから帰る。十六夜、先に帰って。」
維月は森の方へゆっくり飛んだ。十六夜が慌てて後を追いながら言う。
「だめだって。明日にしろ。もう暗くなるじゃないか。あそこは宮の結界から少し出るからあんまり行っちゃいけないっていわれてるのに。」
維月は首を振った。
「だって、昼間に見た時元気がなかったもの。夜は獣も居るのよ?隠してあげないと。」
十六夜は、維月が喜ぶからとウサギを餌付けしたことを悔いた。
「でも維月…、」
「いいから、十六夜は先に帰ってて。一人で平気よ。」
そうは言っても、十六夜は維月を一人にすることが出来ないたちで、維月がすっと飛んで行くのを、仕方なく追って飛んだ。
思った通り、日は落ちて暗くなる。森の中は月の明かりも届かず、また、今日は闇夜で月は見えなかった。それでも二人は回りが難なく見えるので、暗闇で必死に身を隠そうとしているウサギを見つけることが出来た。
「おいで」維月はウサギに呼びかけた。「こっちよ。」
ウサギは怯えているようだった。いつも維月が来たら、その気配に心なしか嬉しそうな感じで跳ねて来るのに。暗いから見えないとはいえ、気配が読めないことはないだろう。十六夜が怪訝に思って見ると、傍に、野生の蛇が居た。
思えば月の宮には、このような動物は居ない。なぜなら、子どもが怪我をしたりするからだ。結界がそれを中へ入れない。ウサギの居るところは、結界の外だと十六夜は思った。
「維月、あれは結界の外だ。」十六夜が維月の手を握った。「オレ達は結界を感じずに外へ出てしまうから気をつけるように、父上から言われていただろう。こっちへ入って来るのを待とう。」
維月は十六夜を振り返った。
「そんな!十六夜、あれを見て!蛇がいる…確か蛇はウサギも食べるでしょう?」
十六夜はそれを維月に気付かれたことに顔をしかめた。どうしたらいい?維月はウサギを見殺しにするタイプじゃない。
「だが、結界から出たらいけないって言われてるだろうが。」
維月は先に飛び出していた。
「ああ!やめて!」
維月は必死にウサギを抱き締めた。十六夜が飛びついて、飛びかかって来る蛇から維月を避け、横へと宙を舞った。反動で、維月が抱きしめていたウサギが手から滑り落ちて向こう側へ転がって行った。
「十六夜!ウサギが!」
維月がそれを追って十六夜の腕をすり抜けて飛び降りて行く。十六夜は崖のほうへ消えて行く維月を追って急降下した。
「維月!」
ここはもう、結界の外だ。十六夜はそれを感じて焦りながら、維月を探して降りて行った。
かなり降りた所で、維月がウサギを抱いて座り込んでいた。
「ああ、よかった。」十六夜はホッとして維月に歩み寄った。「維月、ほら早く結界の中へ行かないと。」
維月を見ると、維月は涙を流してウサギを見ていた。ウサギは、ぐったりとして動かない。この高さを転がり落ちたのだから、助かるほうが無理があった。十六夜は、維月の前にしゃがみ込んだ。
「維月、こいつは弱ってたじゃねぇか。こんな崖から落ちたんじゃ、助からないだろう。月の宮はこんな所に立っていたんだな。」
維月は十六夜を見た。
「私の月の力じゃ治せないの。」維月は泣いた。「まだ少し息があるのよ。なのに、何もしてあげられないの。」
十六夜はまさかとウサギを見た。確かに、微かに気を感じる。今日は新月だったが、十六夜は自分の月の力を降ろしてウサギに降らせた。
陽の月の力は、ウサギの傷を癒して気を補充した。維月は目を輝かせた。
「すごいわ!十六夜はほんとにたくさんのことが出来るのね!」
まだ涙を流したまま微笑む維月に、十六夜も微笑んだ。
「オレのほうがたくさん責務があると父上が言ってた。だからこれぐらい出来ないと。」と、上を見上げた。「さ、帰ろう。父上と母上が心配してる。」
維月は座り込んだまま動かない。十六夜は維月を見た。「維月?」
維月はじっと考え込んでいるようだった。
「…十六夜、私、飛べないかも。」
十六夜はびっくりした。そんなことは今までなかったのに。
「どうしたんだ?」
維月はその場でぴょんと跳ねた。そして、顔をしかめる。
「わからない。ウサギを治そうとして、一生懸命気を使ったから?どうしよう。」
十六夜はウサギを抱いた維月を、小さい腕で抱き上げた。
「こうして飛んだらいいんじゃないか。父上とか蒼がやってる。」
維月は頷いた。だが十六夜もその場でぴょんと跳ねた程度だった。
「あれ…オレも気が出ない。」
十六夜は月が出ている辺りを見上げた。きっとあの辺り。月に戻って降りてもいいかもしれないが、三歳の時に一度月に帰ったきりで戻ったことがないので、自信がなかった。
「十六夜…。」
維月の目に、また見る見る涙が溜まって来る。十六夜は慌てて維月を抱き締めた。
「大丈夫だ、維月。オレが居るじゃないか。」と、回りをきょろきょろと見回した。「あそこに岩の割れ目がある。悪い気は感じないから、あそこへ行こう。」
維月は頷いた。十六夜は維月と手をつなぐと、そこへ歩いて行った。