その七、「いじめられっこ鎌足さん」
うーむ。
両腕を組んで鬱々とした表情で廊下を歩くのは、神主さんみたいな仕事を任されている中臣鎌足さんです。
鎌足さんには不満がありました。それもこれも、あいつのせいです。
そう、あいつとは……。
「おう、オカマタリ」
来た。鎌足は顔をしかめました。
「オカマタリじゃないです、鎌足です」
「そーかそーかネフェリタリ」
「ちょっと待て、それじゃあエジプトのお妃さまじゃないですか」
「そーかそーかネスカフェ」
「待て、もう『鎌足』の面影がないじゃないですか」
「我儘なやっちゃなぁ、わかったわかった、固まり」
「合ってるかと思ったら微妙に間違ってるよ!」
そう、鎌足はその名前のせいでよくこうやってからかわれるのです。しかも、こうやってからかってくる相手があまりに権力者すぎるので、(ツッコミはまだしも)反論は出来ないのです。
その相手とは、蘇我入鹿、その人です。噂によると、入鹿のお財布が道に落ちていたとしても、泥棒さえ拾わないそうです。それほどの乱暴者なのです。
ニヤニヤとしながら、その怖い人、蘇我入鹿は鎌足の肩を叩きました。
「ってか、変な名前がついている方が悪いんじゃないかなあ、オカマ」
「ちょっと待って、お宅のおじいちゃんなんて馬子でしょうに。うまこ、ってちょっと」
「あん、なんか言ったか?」
すごむ入鹿。
入鹿は乱暴者です。どこぞの某いじめっ子のようにけっこう肉体系のいじめをしかけてきます。しかも、けっこう地獄耳なので、きっと今の言葉も聞こえているに違いありません。
事実、入鹿は肩をいからしました。入鹿だけにね!
「ちくしょう、じいちゃんの悪口は許せねえ! 俺のじいちゃんの悪口なんて百年早いぞ、鎌足のくせに生意気だ!」
そうしてボコボコにされたことは言うまでもありません。
さて、朝廷の内部でも、入鹿の乱暴を恐れて、誰しもが皆鎌足のことを、
「固まり」
「ネフェリタリ」
「ネスカフェ」
などと呼ぶのです。鎌足のハートが深く傷ついたのは言うまでもありません。
ぐむむ。どうしたものか--。てかあいつ、いつかぎゃふんと言わせてやるぞ……!
そんなことを考えながら、道を歩いているときでした。
きゃー、と黄色い悲鳴が上がったかと思うと、鎌足の足もとに何かが飛んできました。なんだ、と思いそれを見やると、そこには沓が転がっていました。誰の沓だろう、そう心の隅でつぶやきながら拾い上げると、少し遠くで蹴鞠をしている一団のうち、若い男の人がケンケン立ちをしているではありませんか。
駆け寄った鎌足はその若い男の人の前に、その沓を差し出しました。
すると、その若い男の人はこう言いました。
「大儀である。名を名乗れ」
せっかく沓を運んでやったのにその言いぶりはなんだ。そんなことを思いながら名を名乗ると、周りの連中が口々に「オカマ」だの「ネスカフェ」だのと言い始めました。
しかし、若い男は違いました。
「そうか、お前が中臣鎌足か」
しっかりと名前を呼ばれたのは随分と久しぶりでした。
そんな当たり前のことに感動していると、その若い男はつづけました。
「ふむ、そういえば鎌足、お主、入鹿にいじめられているらしいな」
「え?」
「そんなお前と知り合えたのは何かの縁。今後、よろしくな」
そういえば。
鎌足は朝廷内の噂を思い出していました。
皇子の中に、子供のころ入鹿を断罪する作文を書いたとかで冷や飯食いになっている人がいる。その人は日がな仲間たちと蹴鞠をして過ごしている--。
「よろしくな」
若い男は鎌足の前で、にっこりとほほ笑みました。見れば、その若い男と一緒に蹴鞠をしている連中は、お世辞にもガラがいいとはいえない顔立ちでした。
その瞬間、冷たいものが背中を走ったのと同時に、入鹿なんかよりよっぽど面倒なお人とお知り合いになってしまったんじゃないか、という予感が、鎌足の脳裏に走りました。