その三、「馬子さんの憂鬱」
蘇我馬子は宮外れの切り株に腰をかけて、一人悩んでいた。
どうしたものか。ああどうしたものか。
一応朝廷でも右に出る者のいない権力者である馬子が仕事で悩むことなんてまずない。でも、最近頭痛がするほどに悩ましい日々が続いている。というのも……。
「おや馬子さん、こんなところにいたんですか」
馬子は思わず肩をびくつかせた。
恐る恐る振り返ると、そこには馬子が唯一恐れる男が立っていた。一応娘婿だし遠い親戚だししかも年下だからもっとフランクに行きたいんだけれども、どうもそうもいかないらしい。切れ長の目をこれ以上なくきりっとさせて現れたのは、厩で生まれた厩戸王だ。でも、何でか知らないけどこの王、この名前が嫌いらしく、皆に「太子」と呼ばせている。馬子とて例外ではない。冷や汗を浮かべながら、馬子は太子に声をかける。
「お、おや、太子。御機嫌麗しゅう」
何が悲しくて娘婿のご機嫌取りせにゃならんのだ、という馬子の心の呟きは口から飛び出ることはなかった。飛び出たが最後、太子の「世間虚仮タイフーン」という大技を食らうはめになるのである。
しかし、ご機嫌取りをしたにもかかわらず、太子は何やら不機嫌だった。そして、馬子を切り株から蹴り倒してその上に腰かけると、手に携えていた巻物を広げた。
「馬子さん、ちょっとこれを見てくださいよ」
「はあ、なんだね。……む、冠位十二階? え、もしかして、五重塔の豪華バージョン?」
「そんなベッタベタなボケを言っていると、宇宙のかなたに吹き飛ばしますよ」
「かなたに?」
「ええかなたに」
満面の笑みを浮かべる太子。しかし、この笑顔が一番怖い。ガクブルしていると、太子は話を先に進めた。
「人事システムにメスを入れようかと思ってます。このシステム案を大王(天皇のこと)に奏上するつもりです」
「じ、人事!? ま、マジで?」
人事っていうのは組織にあって最重要なものの一つだ。それを、一応大王の次に発言権のある自分に相談せずに進めるとは……。でも、気色ばんで抗議したら後が怖いので口をつぐんでおく。
一方の太子は嬉々とした表情でこの人事システムについて喋りはじめた。
「いや、このシステムは画期的ですよ。ほら、これまでってコネがすごく幅を利かせていたじゃないですか。なんだかそれってめんどうじゃないですか? それに、使えない上司がのさばっているっていうのも息苦しくって駄目ですよ」なぜか馬子を一瞥した太子は続ける。「で、そこでこのシステムです。朝廷の仕事をする人の位を十二個作るんです。それで、その人の実力に応じてその位を授け、その位に相当する冠をあげるんです。そうすることによって、上下関係を明確に……」
「あ、あのう」
そこに至って、ようやく馬子が割って入った。
「はい、なにか」
不機嫌そうな太子。でも、恐怖に負けるわけにはいかない。アラカン代表馬子、ちょっと頑張ってみた(涙目で)。
「あのさ、確かに実力主義って大事だと思うんだけどさ。でもね、ほら、実力がない人だって家族もあるし一族もいるし部下もたくさんいるんだよ。そういう人たちのことも考えてやらないとさ」
「なんで無能者の奥さん子供一族郎党の心配をせにゃならんのですか」
やっぱりなぜか馬子を一瞥しながら、太子は言い放った。
えー。ばっさり。心地いいくらいにばっさり。いっそ気持ちいい。
じゃあ。すこし切り口を変えてみることにした。
「それに、位が目に見えるっていうのもどうなんだろう。だってさ、一目見ただけで位が分かっちゃうってことは、その人の実力が一目で分かるってことじゃん。それって、プライドが傷つくと思うなあ」
「いやいや、僕の求める人材、それは、プライドが傷ついてもなお立ち上がってくる雑草みたいな人ですよ! ってか、『あ、あいつ最下層だ』って後ろ指を差されているのを想像しながらハァハァできる人ですよ! そう、それこそ馬子さんみたいな」
それって変態じゃねえか。ってか太子、そっちの人だったか。しかも、馬子の性癖まで決めつけられてるし。
それはさておき。
「私は反対だよ、正直」びしっと馬子は言った。「ただでさえ人心が安定しない今日この頃、そんなことしたら様々なところから反発が……」
「馬子さん、そもそも朝廷内部がぎくしゃくしてるのはあなたのせいでしょうに。二十年くらい前、ふとした口ゲンカがきっかけで結局モリヤさんを……」
「ストップストップ!」
都合の悪い話を蒸し返してくる。いい加減、目の前の娘婿が怖くなってきた。
すると、ふいにニヤニヤしだした太子は馬子の耳元で囁いた。
「でもこの話、馬子さんにとっても悪い話じゃないですよ」
「へ、どゆこと?」
「この冠を部下に授けるのは形式上大王ですが、実際には、僕と馬子さんが人事権を独占できるんです。ね、悪い話じゃないでしょ?」
すると馬子も黒い笑みを浮かべた。
「きっしっし、いやあ、太子も悪よのう」
「いやいや、ライバルのモリヤさんをなんだかんだで殺した馬子さんには負けますよー」
「それは言わない約束だよ、厩戸の」
「宇宙のかなたに吹き飛ばしますよ」
「調子乗ってマジすいませんでした」
かくして、太子と馬子の二人三脚による政治は、ぎくしゃくしながらもなんとなく続くのであった。