その十六、「ほろ苦デビュー:」
うげげー。
野営の端っこで、部下が変な声を上げているのを藤田が見咎めた。大鎧の兜を脱いで目をすがめた。
「どうした、何かあったのか?」
馬の下に控えている郎党の一人が、はあ、と声を上げた。その郎党は頭を掻きながら、困ったことになりました、と声を上げた。
「いや、それが、兵糧が腐ってしまいまして……」
「ま、マジで?」
「ほら、前の宿で煮豆を作ってもらったじゃないですか。でも、この暑さで」
ふむ。藤田は空を睨んだ。太陽がギンギンに輝いている。東北とはいえ夏は暑い。そして兵糧は大抵背中に背負ったり馬の背に乗せたりするものだ。この暑さで腐ってしまったのだろう。よくある話だ。
「しかし、まずいな」
「ええ、まずいですよね」
「これからの戦いは敵地だ。元々兵糧が得にくいことは想像に難くない。――して、腐っていない兵糧はいかほどあったか」
「ほとんど残ってませんでした」
藤田は馬の上で頭を抱えた。遠征の旅の途上、兵糧が腐ったなんてことになれば士気の低下は避けられない。一応この遠征でそれなりの責任を負っている藤田にとっても責任問題だ。
「ど、どうしましょう?」
狼狽を隠さない郎党。
力なく頭を振った藤田はぽつりと言った。
「大殿に説明してみる」
大殿は野営の一番奥、ひときわ大きい篝火が焚かれた広場の前にいた。緋色の大鎧に烏帽子姿で胡坐を組み、篝火を見上げるいかにも武人然とした大男。それがこの遠征軍の親分である源義家である。
義家は藤田に気づいて、ひょいと手を上げた。
「おお、行軍お疲れさん」
「あ、ええ……」
「どうした、浮かない顔をしておるな。そんな顔では勝てる戦も勝てないぞ、がっはっは」
「あいや、それが……」
「む、なんだ、何かよくないことがあったと言わんばかりの顔だな」
豪放なふりをして、鋭いのが義家である。
しかたなく、藤田は仔細を話した。
と、義家は鬼のような表情になり、やおや立ち上がると帳の奥へと消えていった。が、すぐにこの場に戻ってきた。その手には、藁の束が握られていた。全員に配られた煮豆の兵糧だ。
義家はその藁束を開いた。藁の間から顔を出した煮豆は周りに白っぽい粉のようなものが浮かんでいた。さらに鼻が曲がるようなにおいも届く。義家がその豆を一つ取ると、白い糸が長く引いた。どう見ても腐っている。
「こ、この通りすべて腐っておりまして……」
「で、この豆、どうするつもりだ」
「え、腐っておりますので、廃棄の命令を下すつもりに……」
すると、義家は戦仕込みの大音声を張り上げた。
「馬鹿者が! ――これは、前の宿の住人達が丹精込めて作ってくれた煮豆ぞ。それを捨てるとは」
「でも、実際問題腐っておりますが」
「腐った豆くらい食らわずして何が武士か!」
「お、大殿……」
とは言ったものの、どうやら義家も尋常ならざる匂いを上げて糸を引く豆を前に尻込みをしているみたいだった。
「捨てましょう、大殿」
「ならん!」
と、こんなやり取りを繰り返していると――。
辺りが騒がしくなった。郎党達が武器を手に持ち始め、敵襲、敵襲、と声を上げ始めた。
「夜襲か!」
義家がやおら立ち上がろうとしたその瞬間、物陰から抜身を構えた鎧武者が現れた。
「源義家、その首貰った!」
が、近年まれにみる鬼武者の義家が木っ端武者に後れを取るはずもなかった。難なく抜身の唐竹割をかわした。が、いかんせん得物がない。一撃目を躱した刺客が第二撃を繰り出そうとしたその瞬間、義家ははっとして右手に握る藁束を見やった。
そして。
「ええい! この腐った豆を食らえや!」
刺客の口に腐った豆をねじ込んだ。
えー! 結局食わないのかよー! ってか、刺客さん、くわばらくわばらー!
藤田の心のツッコミをよそに、刺客は目をぱちくりとさせた。そして、口の中に入っている腐った豆をもぎゅもぎゅと噛んだ。すると。
「なにこれ、マジ旨いんですけど」
「え、マジで?」
義家も残った豆を口に運んだ。
「マジ旨い!」
ぬっちゃぬっちゃと腐った豆を噛みながら、義家は親指を立てた。
なお、この遠征はほとんど無風で終わった。というのも、あの腐った豆を食べた人は闘争本能が削がれることが分かり、敵にあの豆を食わせまくったからである。後世、痩せるだの血液サラサラだのと万能食品扱いされる食品のほろ苦いデビュー戦であった。




