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その十四、「主なくとも春は忘れず」

 はあー。

 筑紫の海はあくまで綺麗な水面をたたえながら眼前に広がっている。冬は去って早くも温かな季節がやってき始めている。海原を駆け抜けていく風にも温かみが混じり始める。

 でも、その風を受ける官僚くんの心はひどく冷え切っていた。

 なんで、俺はこんなところにいるのだろう。

 そんな自問の答えは分かりきっている。

 遣唐使を事実上の廃止に追い込んだことによって朝廷内で頭角を現した官僚くんは、その後、源近院大臣や時の帝に目をかけられることとなった。そして、近院大臣らと共に出世をしていくことになり、官僚くんの家格ではなることのできない顕官にまで登ることができた。そして気づけば、極冠まであと一歩、右大臣にまで手を掛けたのであった。しかし、それを快く思わない奴がいて、たまたま官僚くんが喫煙禁止ゾーンで煙草を吸っているのを見咎めて大問題に仕立てたのであった。

 その結果、官僚くんは筑紫国・大宰府の副官に格下げされた。本社の専務だった人が地方支社の役員に据えられたようなものだ。絵に描いたような左遷である。

 左遷--。

 その二文字が官僚くんの頭の上にのしかかる。

 やり切れない。

 ため息をついた官僚くんは近くにいた秘書に命じて短冊と筆を持ってこさせた。この秘書はどうにもいつもぼーっとして気が利かないが、命令したことにはそれなりに応える男だ。いかんせん、ぬぼーっとし過ぎのきらいもあるが。

 やり切れない思いを短冊へとぶつけた。

     東風吹けば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 秘書がその短冊を覗き込む。意味が分からない様子だ。

「春風が吹いたならば、匂いを起こしてくれよ、都に残してきてしまった屋敷の梅の花よ。主である俺がいなくとも、春を決して忘れるでないぞ。そんな意味だ」

 そうですか、と曖昧な返事をして、秘書はその場を辞していった。

 ぐむむ、この歌、相当にいい歌ではないか。なのにあの秘書は……。ふつふつと怒りがわく官僚くんだったが、あえて考え直した。そうか、歌は都のたしなみ。昔この筑紫には大伴旅人や山上憶良がいたが、あのような教養の持ち主は稀であろう。

 もとは頭の良さと教養を買われて出世していた官僚くんである。それだけに、この大宰府での生活は何かと張り合いがなかった。


「戻りました」

 そんな秘書の言葉に、官僚くんは頓狂な声を上げた。

「お、おい君、数か月も顔を出さずにどこにいたのだ」

 あの短歌を詠んだ日を最後に、秘書は行方不明になっていた。目撃者の話によると、旅姿に身をやつして東に向かう姿があったらしい。もしかして夜逃げでもしたのか、ああ夜逃げに違いない。ああ、あの嫌味な島流し野郎のパワハラに耐えきれなくなったか、とのことだった。――島流し野郎、という罵詈雑言はとりあえず聞かないことにした。

 見れば、秘書の服はところどころほつれ、土埃に汚れていた。足を見れば無数のあかぎれが痛々しく、そんなあかぎれの上に足の皮が覆いかぶさっているようなありさまだった。

「どこに行っていたのだ」

 日焼け顔の秘書は官僚くんの問いには答えなかった。

「太宰権帥様、ご安心ください」

「は? 何がだ」

「権帥様のご心配は杞憂でした」

「だから、何の心配だ」

「ええ、ほら、権帥様が京の自宅に残してきたという梅です。――しっかり花が咲いていましたよ。主がいなくとも!」

 当たり前だ! 思わず官僚くんは怒鳴りそうになってしまった。

 『主なしとて春な忘れそ』というのは文学的な修辞、詩心だ。ああいうありえないことを盛り込むことによって悲しみを引き立たせようというテクニックであってだな……。――とは強がって見ても、やはりさびしいのは事実だった。俺がいなくとも京は回る。俺がいなくとも、当たり前に日々が過ぎ去っていく。その事実を突き付けられたような気がした。

 と、不意に秘書が、懐から何かを差し出してきた。

 む?

 受け取ると、それは、梅干しだった。

「権帥様の家の梅の実で作った梅干しです。京で頂いたのです。これを植えれば梅の花が」

 阿呆が。官僚くんは笑った。

「梅干しの種が育つか」

 ただこれだけのために、京に向かったというのだろうか。ただ、主の代わりに京にある梅の花を見に行くためだけに。それが何やらうれしくて、目の前の風景が涙でにじんだ。

 しかし――。

「いやあ、京都観光、楽しかったです」

「は?」

「いえね、うちの母が一生で一度でいいから京に上ってみたいって言うものですから。仕方なく同行したんです。権帥様の件はついでです」

 この野郎、俺の涙を返せコンチクショー!

 その瞬間、頭の中で『ぶちっ』という音がした。

 こうして官僚くんはそのまま昏倒、大宰府の露と消えたのであった。


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