その十二、謎の公卿・権少納言藤原幸家の事
権少納言藤原幸家は、平安末期から鎌倉時代初期にかけての人物である。
特段に目立つ人物ではない。それもそのはず、殿上人になった二十五からさしたる出世もなく、ようやく権少納言に昇ったのが五十三のこと。そしてその数年後に病を得て死んでいる。権少納言としての業績にもさしたるものはない。どうやら京の寺社政策を担当していたようだが、僧兵たちの暴走を抑えることは叶わず、存在感を示すことはできなかった。また、詩歌管絃の遊びにも優れるところはなく、幸家の歌は一つとして和歌集に採録されていない。つまるところ、歴史の狭間に消えた、掃いて捨てるほどいる凡庸な公卿である。
よって、彼について知られた逸話も、ただ一つしかない。
時は平家の専横が極まり、木曽義仲が挙兵した、まさにその時のことであった。
治天の君・後白河法皇は深い震慮の中にあった。現在宮中を牛耳っている平家に与力するべきか、それとも乾坤一擲とばかりに木曽から立った源氏に手を貸すべきか――。
どちらが勝ち馬であるか。どちらに乗るべきか。そう法皇は頭を痛めていたに違いない。
と、そこに奏上したのが、権少納言藤原幸家であった。
「謹んで申し上げます」
「申してみよ」
「どちらにも手を貸さぬが一番にございまする」
「なぜそう考える。そちの考えを教えよ」
史書に拠れば、この際の幸家はまさに威風堂々、宮中の妖と陰で呼ばれる後白河法皇を前にしても怯むことなく、堂々と向き合っていたと伝わる。
幸家は笑った、という。
「今はさながら、二つの大渦がぶつかり合っているようなものでございます。斯様な累卵の情勢の中では、大渦の動きを予想することなどできません。なぜならば、二つの大渦がお互いに影響を及ぼし合い、どのような動きを取るか分からないからです。よってここは見に回り、事の次第を見届けるが最上」
が、幸家の奏上に耳を傾けていた後白河法皇は、烈火の如くに怒り出した、という。その震怒は収まるところを知らず、幸家に朝廷への出仕を停止させたほどであった。
ところが、この後の歴史は、幸家の述べたとおりになった。
平家と木曽義仲。どちらも最後には没落してしまった。平家は壇ノ浦に散り、そして、木曽義仲は同族の源義経に追討された。どちらが勝つという戦ではなかった。どちらも、消えた。
すべてが終わり、平家と義仲を討ち取った義経すらも鎌倉の源頼朝に討ち取られ、さらには鎌倉の武士勢力の独立を許してしまった後白河法皇は、幸家の慧眼を悟り、出仕停止を解除した。だが、もうその時には、幸家はこの世の人ではなかった。出仕を停止された幸家は、失意の中、うら寂しい福原の寺で生涯を終えていた。
幸家の死に懊悩したのであろうか、と史書は言う。後白河法皇は、権少納言藤原幸家の言葉を臣下に伝え、「藤原幸家の事を決して忘れるなかれ」と命じたという。
そして、それからというもの、この藤原幸家の諫言は宮中の秘伝とされ、歴史上何度もやってきた宮中の危機の中にあっても守られ続けた不文律となったのであった。
なお、この「藤原幸家」の本来の読みは「ふじわら の ゆきいえ」であるが、有職読みである「ふじわら の こうか」と読み慣わすのを常としている。
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