第三話〜清洲評定〜
織田信長は喜怒哀楽の激しい人物で悪逆非道の第六天魔王と後世では伝えられているが、実際は優れた人物であるのは作者の勝手な考えである。
1)優れた人材を発掘し、早くから籐吉郎や滝川一益等の有力な人材を発掘していた、また降将にも寛容な処置を施した(例:松永久秀・磯野和昌等)。
2)自ら政治に深く携わり民と共に祭りと言った行事や灌漑路の建築の指揮を取っていた。
3)旧体制(幕府・朝廷)を否定しそれに代わる組織を考案していた。
4)茶の湯などの文化普及の一役を担い、また狩野永徳などの優れた画家の活躍の場を与えた、それだけでなく夜盗同然の武士達に茶の湯や礼儀作法を教え込んだ。
以上四つの事を考えると決して悪逆非道の第六天魔王では無く乱世の名君であったのでは無いだろうか?
話は下弦の月の宴から二週間後、蝉の鳴き声が止んで代わりに鈴虫などの鳴き虫の心地よい音色が聞こえてくる秋を迎えていた。
だがこの時期は織田家に取って悩みの種の時期でもあった、美濃の斎藤義興や伊勢の北畠晴具・三河の今川義元等の軍勢が略奪目的で尾張に攻め込んでくる時期であったのだ。
この日、籐吉郎は信長に呼び出されて初めて評定の間に入った、そこには柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・滝川一益・林秀貞・佐久間信盛らの織田家重臣が側に控えていた。
「木下籐吉郎、ただいま参上仕りました・・・」
籐吉郎が畏まって参上の口上を述べた、信長は上座から静かに籐吉郎を睨み付けていた、思わず籐吉郎は背中に嫌な汗をかいた。
「猿・・・貴様に鳴海城の守備を申し渡す、先に病死した佐久間大学(信重)に代わり、かの城を守り抜け・・・」
信長が静かにだが良く響き渡る声で籐吉郎に命令を下した、鳴海城は尾張防衛の要であり度々今川勢と小競り合いを起こしていた場所であった。
「はっ!!しかと承りました!!この籐吉郎、身命に代えて御役目をはたします!!」
籐吉郎が頭を下げたまま返答した、その時信長がスクッと立ち上がり籐吉郎に歩み寄った、無論重臣一同が驚いたのは言う間でもない。
「猿、又左(前田利家)・長吉・太田牛一を貴様の与力として使わす・・・存分に働けぃ」
信長が籐吉郎の肩をポンと叩いて言った、前田利家・浅野長吉・太田牛一は共に籐吉郎とは顔見知りで浅野長吉とは妻ねねの兄で義兄弟の間柄であった。
ちなみに太田牛一とは後に『信長公記』等の著作を世に残した人物である、また弓の名手でもありその腕前は家中でも一、二を争う程であった。
「は、はっ!!有り難き幸せ!!では、早々に鳴海に出立します!!御免!!」
籐吉郎が深々と頭を下げて足早に評定の間を出て行った、残った重臣達の内柴田勝家だけはどこか不服そうな顔をしていた。
「なんじゃ権六?何か不服でもあるのか?」
信長が不服そうな顔をしていた勝家を見て聞いた、柴田勝家はかつて林秀貞と共に信長の弟である織田信行(信勝)を擁立して謀反を起こした人物であった。
しかし一度敗れて許されたにも関わらずまたも謀反を企てようとした信行を見放し、信長に密告して殺害する様にし向けたのである、その功績により織田家筆頭家老として信長に仕えていた猛将であった。
「何故に大殿はあの薄汚い猿に目を掛けられているのか・・・拙者には理解しがたいです」
勝家が率直に自分の意見を述べた、勝家は小牧山城の守護に付き長年斎藤家と渡り合った人物で新参者である籐吉郎の台頭を理解出来なかったのである。
「勝家殿・・・大殿には何か考えがあるに違いありませぬ、我らが口出しする事ではないでしょう」
勝家の隣に控えていた長秀が即座に勝家を諫めた、長秀は知略と政治に長けた人物で信行謀反の時も信長に忠義を尽くして反乱軍と戦ったのである、また史実では足軽だった籐吉郎に早くから目を掛けていてそれとなく助言する事もあった。
だが史実では本能寺の変の後に信長の遺児である織田信孝と共に四国征伐に赴いており、信長死すを知った長秀は信孝を連れて山崎の秀吉軍と合流させたのである、しかし道中信孝が従兄弟である津田信澄を攻めるのを反対したがかなわなかったのである。
「五郎左の言う通りじゃ・・・余には余の考えがあるのじゃ」
信長がフンと鼻を鳴らして勝家の意見を一蹴した、もし籐吉郎が鳴海を守り抜けば即座に取り立て守り抜けなければ腹を切らせる・・・それだけであった。
信長にとって勝家も長秀も籐吉郎も所詮は自分の道具に過ぎなかった、使えぬ道具は捨てるのが信長の主義であった。
かつて三国時代の魏の王・曹操が『例え罪人でも不義の者でも才能が有れば取り立てる』(唯才)と言った様に信長も同じ轍を踏んだのである。
つまりは籐吉郎の才覚を問われた一戦であるのだ、無論それは籐吉郎にとっても百も承知であった。
そして、この戦を切っ掛けに清右衛門達も歴史の渦に投げ込まれ、その存在を世に知らしめる事になろうとはこの時信長も彼ら自身も解っていなかった・・・。