第三話〜上田原の風〜
信濃 上州街道 上田原
上田原。武田家にとって苦い思い出がある古戦場の一つである。
天文17年(1548年)に信玄は8000の兵を率いて信濃に侵攻した。信玄による信濃併合を阻止せんと葛尾城より5000の兵を率いて出陣した。
先陣を承った板垣信方は村上義清の先陣と衝突し、これを打ち破ることに成功した。だが、ここで武田家を支え続けた老臣らしからぬ軽挙に出てしまう。
敵前にて陣を敷き、先の戦いで討ち取った者の首実検を始めたのである。この油断を突くべく義清は全軍に総攻撃を命じた。
義清自身も馬上の人となり、率先して兵を叱咤激励しながら板垣勢に襲いかかった。隙を突かれた信方は満足に兵を指揮する間もなく雑兵に討たれた。
また板垣勢を救援せんとして甘利虎泰・才間河内守・初鹿根伝右衛門が村上勢に挑むも返り討ちに遭い落命した。
いよいよ村上勢が本陣へと迫った時、工藤祐長(後の内藤昌豊)・小山田信有・馬場信房らがこれに当たった。
どうにか村上勢を打ち追い払う事に成功したものの信玄自身も二カ所に傷を負った。
信玄を擁立した功臣である甘利・板垣の両名を失ったことは武田軍にとってなによりの損失であった。
そんな因縁のある地を歩く清則一行。兎にも角にも武田領の信濃に入ることが出来た事からかその足取りは軽かった。
「官兵衛殿。ここは何という地ですか?」
清則が槍を片手に歩きながら聞いた。当時の地図は現代ほど精巧では無く曖昧にしか書かれていないことが多かった。
「ここは上田原ですな。北東に向かうと武田随一の知将と名高い真田幸隆殿の戸石城がありまするぞ」
官兵衛はそう説明すると清則は驚いた顔をした。ここはまだ徳川領だとばかり思っていたからである。
それもそのはず、清則は従軍する以外は尾張から一歩も出たことがなかったからなのだ。
「なんと!?既に甲斐に入っていたのか!?」
清則が立ち止まりそう問いかけると官兵衛は苦笑いを浮かべた。織田家では戦国屈指の猛将とまで謳われたこの男の別の側面を見られたからだ。
「違うよ、清則殿。ここはまだ信濃ですよ。甲斐はここから南東に向かった方角ですよ」
小一郎が清則に解りやすく説明した。清則は槍の石突きでトントンと地面を軽く叩くと気持ちの良い笑顔を向けた。
「ほぉー!!これが武田の土か!!なんじゃ、尾張と余り代わりはないな!!」
慶次も嬉しそうに笑いながら叫んだ。今の時代における社会通念とこの時代の社会通念には大きく差があるのだ。
そう暢気に笑っていた清則と慶次だったが、突然二人の顔から笑みが消えた。戦場で培った勘が異変を察知したのだ。
今は夕刻。本来ならここにいるのは5人だけであるが・・・。突然人の気配が増えたのである。
「ざっと・・・20名と言った所かな?」
慶次が槍の覆いを取りながら聞いた。文字通りその矛先は敵が潜んでいる方へと向けられていた。
「そうだな・・・。」
清則が太刀を構えて呟く。その目は慶次が矛を向ける先と同じである。
古戦場を駆け抜ける一陣の風・・・。その風が上田原を再び血で染めようとしていた・・・。